イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェニエール・デイ・レオーニ館

大運河左岸、ダーリオ館から更に下っていきますと右脇のトッレゼッレ運河(rio de le Toresele)の次に19世紀の住居(Wake Forrest 大学)があり、更に右隣りにはその低さで目を引く、白亜のヴェニエール・デイ・レオーニ館(Palazzo Venier dei Leoni――Peggy Guggenheim Collection、土地の人はグッゲナイム美術館と言っているようです)があります。
ヴェニエール・デイ・レオーニ館前にも引用しました『大運河』(1993刊)は次のように述べています。
「1749年にロレンツォ・ボスケッティによって設計され、巨大な建造物になる筈であったが、持ち主一家の経済事情の急変のために、中断されるに至った。コッレール美術館に保存されている木製のモデルが、どのような建物になる予定であったかのヒントを与えてくれる。

力強い浮き出し飾りのある切り石の壁面を持つ1階部分だけが建造され、そこには中央部に三重構造のアーチを持つポルティコが設えられ、船の上陸用の広い接岸部分が前置されている。名前の由来は、ある人に寄ればヴェニエール家の誰かが庭でライオンを飼う習慣があったのだと言い、またある人は基礎部分を飾るロマネスク様式のライオンの頭部故としている。

1949年米人美術品収集家ペギー・グッゲンハイムに購入され、彼女は欧州や米国の沢山のアヴァンギャルドの芸術家の貴重な収集品をここに移した。直ぐに拡張されたが、1979年の彼女の死で、コレクションはニューヨークのソロモン・P.グッゲンハイム財団の所有に移った。1983~85年建物は建築家 Thomas M.Messer の手でコレクションを収容する展示場として改装され、現在開場されている。
 
左隣には《デッレ・トッレゼッレ》と呼ばれたゴシック様式の別のヴェニエール家の館があったが、1800年代に現在ある、特徴の丸でない建物に取って代わった。現在はアメリカ領事館の所在地である。

ヴェニエール家は、1000年代にまで遡れれる著名な《新しい》家系である。この一家の分家の一つは、カンディア(クレタ島の港イラクリオンの伊名)に移り住み、14世紀には共和国に楯突いた。3人の総督、大使や行政官を輩出した。最初の総督は親友達からアントニアッツォと愛称されたアントーニオ(1382~1400)であった。自分の選出のお祝いに、1年間に渡って町に楽しみを提供したのだが、本人は頑固一徹、狷介な人物だった。彼にはアルヴィーゼという腕白盛りの息子があり、他の青年達と同じように他人の陰口を叩く癖があった。

それは余りにも酷い悪巫山戯だった。ある朝、貴族のジョヴァンニ・デッレ・ボッコレが家の玄関の戸を開けた時、素晴らしく立派な2本の角を生やした雄羊の頭部が、そこにぶら下げられていたのである。家人の女達へ向けた卑猥な文章が添えられていた。

侮辱された人の訴えに従って捜査が開始され、総督の息子のアルヴィーゼの仕業であることが判明した。その悪戯が同じ貴族に向けてなされたものであったので、もし庶民が犯していればあり得たかもしれない程には、判決は厳しいものとはならなかった。彼は100ドゥカートの罰金、2ヶ月間の投獄と10年間の追放刑を申し渡された。

しかし井戸に閉じ込められて数日後、彼は重い病に罹ってしまい、家族や友人達が病気の回復するまで刑の中止を総督に願い出た。しかし総督はネポティズモ(縁者贔屓)の謗りを危惧して断り、アルヴィーゼは身罷った。

一家に高い名声をもたらしたヴェニエール家出身者は、令名高いセバスティアーノ(総督任期1577-78)であった。著名な弁護士で、政治上の要職を引き受け、カンディアに赴き、1548年から3年間その地の総督として統治した。しかし船上での勤務は若い貴族達をこき使うようにはうまくいかず、いつの日か艦長になるなど夢だにしなかった。

しかしながら1571年、彼が既に75歳にもなっていた時、優秀なアゴスティーノ・バルバリーゴの協力の元、レーパント[ギリシア中西部コリントス湾ナフパクトス港]の海戦で強力なトルコ軍を破り、同盟軍の船団に輝かしい勝利を与え、半世紀以上にも渡ってヴェネツィアに平和をもたらしたのは、正に彼だったのである。

その戦いではスペイン軍の中で『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスも闘っており、彼は戦闘中、片腕を失くしたのであった。

栄光を引っ提げてヴェネツィアに帰還すると、セバスティーノはその功績により総督に選ばれた。」
――E.&W.Eleodori『大運河』(1993)より。
  1. 2010/02/27(土) 00:02:38|
  2. ヴェネツィアの街
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文学に表れたヴェネツィア――プラーテン

トーマス・マンの『ヴェネツィアに死す』の最初の方で、ヴェネツィアに向かう船上でアッシェンバッハが思い出す《憂鬱で熱狂的な詩人》とは、アウグスト・フォン・プラーテン(1796.10.24アンバッハ~1835.12.05シラクーザ、39歳没)のことだそうです(英国の詩人バイロン卿だとする訳注本もありましたが、誤解のようです)。《文学に表れたヴェネツィア――トーマス・マン(1)》も参照して下さい。

プラーテンというと私は思い出す詩があります。堀田善衛氏がアントワーヌ・ワトー(1684~1721、36歳没)について書かれたエッセーの中に次の詩が載せられていました。
「 トリスタン(生田春月訳)

美はしきもの見し人は
はや死の手にぞわたされつ
世のいそしみにかなはねば
されど死を見てふるふべし
美はしきもの見し人は

愛の痛みは果てもなし
この世におもひをかなへんと
望むはひとり痴者ぞかし
美の矢にあたりしその人に
愛の痛みは果てもなし

げに泉のごとも涸れはてん
ひと息ごとに毒を吸ひ
ひと花ごとに死を嗅がむ
美はしきもの見し人は
げに泉のごとも涸れはてん」

生田春月(1892~1930、38歳没)が誕生した(鳥取県米子市道笑町)のと同じ市に生を享けた私は、春月のこの訳詩が気に入っています。プラーテンは40歳前にシチーリアで熱病のために世を去ったそうですが、春月も奇しくも40歳前に瀬戸内海に投身自殺をしました。

プラーテンは1824年イタリア旅行を行い、そのために生まれたのが秀作《ヴェネチアのソネット》だそうです。

「 ヴェネチアのソネット 1
  
おんみの愛が私の胸を引き裂く と
ついもだしもあえず 私が口にするとしても
いぶかしみの心をおこしたもうな
美の領するところ 愛もまたやどるものゆえ

私は知る この思いの衰える期(とき)もないのを
ヴェネチアへの思いとそれは 分かちがたくもつれあい
たえ間なくわが胸から吐息(といき)は立ちのぼる
なかばしか花ほころびぬ 春へむかって

どうして一人の外国(とつくに)びとが おんみに感謝したらよいだろう
よしやおんみが 心やさしく彼を迎えて
豊かな幸福へ 彼をいざなわれたところで?

おんみに近づく手だてが どこにある?
ああ夜ごと サン・マルコの広場の上を
わが足は ひとりさびしくよろめいて行くのだ」

「 ヴェネチアのソネット 2

おんみを愛す ヴェネチアが我らに示す
もろもろの画像の一つのように
我らいかに画像に執着しようとも
その前を立ち去れば すべては我らの所有(もの)でないのだ

おんみは 美しい石のすがたのように
基台からたえて身をおこすこともなく
ピグマリオンの願いにも 頑なに口とざしている
さもあらばあれ 私は変らずおんみを思う

けれどもおんみはヴェネチアにはぐくまれ
ジャン・ベルリニの天使らにかこまれて
この天つ御国を おんみの立ち出でる時もない

ひそやかな歩みを運ぶ 我が心のうちでは
もとめた栄光の世界が 今音もなくついえさる
とある夜の はかなく消える夢をさながら」

「 ヴェネチアのソネット 3

生(いのち)のみちの いやはての獲物は何であろう
そのくさぐさの財宝の いずれが我らの手にとどまろう?
黄金なす幸(さち) 胸とろめかす心地よさ
すべては疾()く消え失せて 悲しみばかりが残される

残された時が空(くう)へと消える前に
もう一度 私は巡歴のあゆみを運ぼう
ヴェネチアの海を ヴェネチアの大理石(なめし)の宮を
あくがれまさる胸騒ぎもて 眺めよう

後の世には眺めるすべもないものを
なおこの鏡にとどめておこうとするように
休む間もなく 眼(まなこ)はさまよう

けれどついに これを限りの欲求(もとめ)も果てて
あわれ短い生のみちの 後の思いにと
愛のまなざしは落ちかかる かの人の面輪(おもわ)の上に」

「 ヴェネチアのソネット 4

深い憂愁が私の心をゆするとき
リアルトのほとり 殷賑(いんしん)は眼を奪うとも
そのとりどりのきらめきに 惑わされぬよう
白昼(ひる)にうち勝つ夕べのしじまを 私はもとめる

橋に身を寄せて 眺めれば
さびしい波は ひそかにささやきかわし
なかば崩れた囲壁(いへき)の上で
しげりにしげる桂の 枝がゆれる

石の支柱の上に立ち
暗黒の海に眼を放てば
この海と契(ちぎ)りを結ぶ総督(ドージェ)も 今はむかしの語り草

ああ今は わが沈黙の夢想をみだすものもなく
はるかかなたの運河から
ゴンドラの船頭(かこ)の叫びが おりふしひびいて来るばかり」
  ――『詩集』(川村二郎訳、『世界名詩集大成6巻ドイツ1』、平凡社、昭和35年6月10日発行)
『世界名詩集大成 6巻 ドイツⅠ』詩の訳者は、前に掲げた彼の《トリスタン》を《ドン・キホーテ》と名付けたトーマス・マンの小説『ヴェネツィアに死す』は、ある意味でプラーテンのパロディックな頌歌であるとしています。
  1. 2010/02/20(土) 00:01:40|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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イタリアと日本の関わり(2)――アドルフォ・ファルサーリ

アドルフォ・ファルサーリ(1841~98)が日本に姿を見せたのは、フェリーチェ・ベアートから10年後の1873年のことで、それもやはり横浜でした。彼は勉強家で写真の技術を書物に学び、来日10年後の1883年に横浜で写真館を開きました。

その場所は、フェリーチェ・ベアートの写場を引き継いだオーストリア人写真家ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(英語風にレイモンド・フォン・スティルフリートとも)、そして彼とヘルマン・アンデルセンの共同経営の後、ライムントの弟フランツのスタジオになっていた場所を譲り受けたものでした。
アドルフォ・ファルサーリ[《アドルフォ・ファルサーリ写真展》が2013.02.23~03.23日、イタリア文化会館で開催。彼の写真は写真展資料から。2013.02.11日追記] 在日イタリア商工会議所発行機関誌『Viste dalla Camera』の“Marzo/Aprile 2000”の“Anno 2 Numero 2”にリーア・ベレッタさんが《明治時代にレンズを向けて(2)――アドルフォ・ファルサーリ(Adolfo Farsari)》と題して、前回の続編を執筆しておられますので参考にさせて頂き、アドルフォの事を書いてみます。

アドルフォはヴェネツィアの北西、ミラーノに向かって60km 程の所にあるヴェーネト州のヴィチェンツァの町に生を享けました。この町は隣のパードヴァ生まれのルネサンス時代の大建築家アンドレーア・パッラーディオが定住し、彼の設計の建物が著名で、かつ旧ヴェネツィア共和国領(現ヴェーネト州)には、彼の手になるものが数多く残存しているため、以前イタリア語の先生にヴェーネトを旅すると言った時、「あなたは“パッラーディオの旅 gita palladiana”をするのか」と言われたことがありました。

アドルフはモーデナ陸軍士官学校に通った後、ナーポリでイタリア陸軍に入隊しましたが、借金が出来たため、家族に無断でアメリカへ渡航しました。米国では北軍に入隊し、南北戦争終了まで闘いました。その後ニューヨークの小金持ちの未亡人と結婚し、子供も生まれ、父親にはアメリカ生活は順調だと手紙に書いたりしているそうです。

その後1867年から音信不通になり、両親は死んだものと諦めていたようです。73年に所在が判明した場所は横浜でした。そして上記のフランツ・フォン・シュティルフリート男爵の写真館を全て譲り受け、写真家としての活動が始まります。

二度の火災で落胆のどん底に沈みましたが、商売は順調に進展し、80年代には写真に手彩色で描く技術を個人的に教えた職人を40人も抱える程の写真館に発展したのでした。

彼の写真の色には現在でも輝きがあり、その写真は着色の質の高さで直ぐそれと分かるものだと言われているそうです。彼自身は外国人旅行者に売る日本の土産写真を増やそうと、日本中を旅して回ったと言います。約100枚の感光板の在庫を抱え、受注で仕事をし、彼のために働く職人が作った漆の表紙のアルバムとして写真を製本したのです。

1887年ヴィチェンツァ時代に親交のあったイタリア海軍将校が横浜港に上陸しての出会いが切っ掛けとなり、ヴィチェンツァの家族との書簡のやり取りが再開し、姉のエンマとの密な連絡が続くことになりました。日本での仕事の事、日本の事、日本人の事、横浜での生活の事等が事細かに書き送られたのでした。

仕事はうまく行っていましたが、横浜での日本人写真家との競争は熾烈で、80年代、横浜に残留した外国人写真家は彼が唯一になるという状況でした。彼の成功は自らが発展させた手描きの着彩技術、誰も真似の出来ない技術のお陰でした。

1889年横浜を通り掛かった Rudyard Kipling という人はインドの新聞にファルサーリの事を書いているそうです。「最高の写真はサイゴンからアメリカに至るまで有名なファルサーリ商会で見付かる。ファルサーリは感じのいい、風変わりな、芸術家魂を持った人で、その作品の質のためにお金を払わねばならないのだが、彼の商品は払うだけの価値がある。通常彩色された写真は大抵の場合、酷いものだが、ファルサーリの彩色はその仕上がりがとてもよく、この素晴らしい国の光のトーンを蘇らせている。……」

彼は姉に帰国すると書きましたが、娘の《きく》だけを連れて帰ることは黙していたので、家族は彼の娘を見た時大変喫驚したと言います。再度日本に帰国するつもりはあったのかどうか、健康状態不調のまま、1898年57歳でヴィチェンツァ郊外で亡くなったということです。

アドルフォ・ファルサーリの写真については次のサイトでどうぞ: アドルフォ・ファルサーリ

話は変わりますが、1915(大正4)年ナーポリの国立東洋語学校(後のナーポリ東洋語大学)の日本語教師となった下位春吉という先生がいました。在伊中、第一次世界大戦に日本人としてイタリア軍に義勇兵として従軍し、最前線の勇猛突撃隊[グラッパでの塹壕戦は『戦場の一年』(エミリオ・ルッス著、柴野均訳、白水社、2001年7月22日発行)が詳しい]でガブリエーレ・ダンヌンツィオと知り合い、《塹壕の友》となったそうです。

戦後春吉は、ダンヌンツィオに日本への飛行を持ち掛けました。ダンヌンツィオはその気になり、準備万端が整い、1919(大正8)年7月先発隊のフェラインとアティエッロが飛び立ち、東京に無事着地、ヨーロッパと日本間の空路を初めて開拓したのですが、ダンヌンツィオとの飛行は、出発間際に中止されてしまいました(irredentismo の後遺症があったようです)。

そのお返しの意味があったのでしょうか、1925(大正14)年7月25日、朝日新聞社の初の訪欧飛行機《初風》《東風》の2機が日本を飛び立ち、同年10月27日、初めてヨーロッパの目的地ローマに着陸しました。

[追記=フェラインとアティエッロの記事について、名前や年代、その他に誤りがあるかもしれません。次のサイトもご参考までに第4回「神風号」までの航空史]

次のブログも参考までに。ヴェネツィアと日本との関係(1)(2)
2013.02.26日にアドルフォ・ファルサーリも書きました。
  1. 2010/02/13(土) 00:02:57|
  2. ヴェネツィアの写真
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イタリアと日本との関わり(1)――フェリーチェ・ベアート

日本の土を踏んだ最初のイタリア人は、やはり天正時代ローマに伊東マンショら四少年使節を送り出したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539.02.15~1606.01.20)でしょうか。彼はキエーティに生まれ、パードヴァの《ボー》で学び、東インド巡察師として1579(天正7)年7月25日に来日しました[彼については『巡察師ヴァリニャーノと日本』(ヴィットリオ・ヴォルピ著、原田和夫訳、一藝社、2008年7月10日発行)が詳しいです]。
巡察師ヴァリニャーノと日本続いて、伊達政宗の命でスペインに向かった支倉常長のお付きの者として、グレゴーリオ・マティーアスは彼のお供で渡欧(スペインからイタリアへ)し、ローマに行った帰途時、体の調子を崩してジェーノヴァで待つ彼の代理で、ヴェネツィア共和国への贈答品を持参し、敬意の表明に行きました。ヴェネツィア出身の宣教師だったそうです。
Da Sendai a Roma[『仙台からローマへ』(Office Move刊、支倉常長の資料本)] 1643年に来日したパレルモ出身の宣教師ジュゼッペ・キアーラ(1602~1685.08.24)は捕らえられ、江戸に送られキリスト教を棄教しました。転伴天連(ころびバテレン)として宗門改役の監視の下、岡本三右衛門の名前と妻を貰い、十人扶持を給され、小石川の切支丹屋敷を出ることは許されず、83歳まで天寿を全う(?)したそうです(遠藤周作の『沈黙』のモデルの一人、ロドリゴ神父)。

1708年禁教令下の日本に渡来した最後の宣教師、シチーリア生まれのジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(1668~1715.11.27)は直ぐに拘束されて江戸へ送られ、小石川切支丹屋敷に幽閉されました。彼の尋問から新井白石が『西洋紀聞』や『采覧異言』を書いたことは歴史に知られています。
切支丹屋敷跡の説明書[地下鉄茗荷谷駅近くの文京区小日向一丁目24番地の切支丹屋敷跡の記念碑傍に左の説明書が置いてありました]
明治時代、日本政府がイタリアに文化・芸術面で教えを仰ぎ、ヴィンチェンツォ・ラグーザ、エドアルド・キオッソーネ、アントーニオ・フォンタネージ、ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティ等を《御雇外国人》として招聘したことはよく知られています。

この時代、イタリアでは蚕の病気のためイタリア養蚕業が大問題でした。来日し、内陸まで入り込んで日本の養蚕業の中心地を探し出し、健康な蚕卵紙を購入してイタリアに持ち帰り、最初の経済関係を築いたのはロンバルディーア州の蚕卵業者だったそうです。以来多くの蚕卵業者が日本の土を踏んだと言います。そんな歴史的背景を元に、アレッサンドロ・バリッコが『絹』(鈴木昭裕訳、白水社、1997年5月発行)という小説を書いています。

その明治時代、岩倉具視らが米欧を回覧した時、アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ駐日イタリア全権公使がイタリアでは彼らに付き添ったそうですが、その後継公使となったラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニが1877~81年の公使の任務を終えて帰国した時に、日本のお土産として持ち帰った、日本全国に及ぶ名所旧跡等を当時の写真技術で写した写真集がイタリアに残されていました。それが『大日本全国名所一覧――イタリア公使秘蔵の明治写真帖』(監修マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章、平凡社、2001年6月25日発行)として刊行されています。
大日本全国名所一覧これは明治初期の北海道から小笠原諸島までを、1268枚の各地の景観や建物等の写真で日本全国を網羅したもので、大変貴重なものが数多く含まれているようです。この写真集は単なるスーヴニールの領域を超え、バルボラーニ公使がどういう理由でこれを手にし、持ち帰ったのか判然とはしないようです。私はこの本のディ・ルッソ氏の解説で、当時来日していた2人のイタリア人写真家、フェリーチェ・ベアートとアドルフォ・ファルサーリの名前を知りました(この写真集にはこの2人の写真は含まれていないそうです)。

フェリーチェ・ベアート(1834~1908?)は1863年に来日した写真家で、横浜を栄えある写真の町(下岡蓮杖らも活動していました)に活気付けた功労者の一人だそうです。また長崎にも何度か訪れ、現在NHKテレビの大河ドラマ『竜馬伝』が放映中ですが、その主人公坂本竜馬や高杉晋作らの写真を残した上野彦馬とも交流があり、日本の写真界を牽引した人物でした。

ベアートが誕生したのは、ヴェネツィア共和国時代はヴェネツィア領だったコルフ島(現ギリシアのケルキラ島)で、彼が生まれた1834年当時は、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814-15年――映画『会議は踊る』の舞台)の結果、イギリスの統治下に置かれることになり、イギリス領だったので、彼の両親はヴェネツィア人だったのですが、日本では英語式にフェリックス・ベアトと呼称されることが多いようです。

在日イタリア商工会議所発行機関誌『Viste dalla Camera』の「Gennaio/Febbraio 2000」の「Anno 2 Numero 1」にリーア・ベレッタ(Lia Beretta)氏が『Obiettivo sul Giappone Meiji: Felice Beato(日本の明治時代にレンズを向けて――フェリーチェ・ベアート)』と題したエッセーを書いていらっしゃいますのを参考にさせて頂き、彼について記して見ます。
『フェリーチェ・ベアート』(フェデリーコ・モッタ出版刊)[イタリア刊『フェリーチェ・ベアート』の写真集] 1970年代末、ニューヨークで『日本の写真1854~1905』という写真展が開かれ、その図録と共にフェリックス・ベアトの写真が出現し、また一方で《フェリーチェ・アントーニオ・ベアート》の写真とされる物も出回っていたそうです。

次第に判明してきたことは、フェリーチェにはアントーニオという兄がおり、2人とも写真家で、片やアジアで、片やエジプトでの同時期の写真が発表され、当時の交通手段では無理なことから謎であったようです。ようやく忘れ去られていた写真家の姿にフォーカスが絞り込まれるようになり、現在では彼は19世紀のアジアで活躍した最も偉大な写真家と考えられているそうです。

彼の写真家としてのキャリアは、妹マリーアの夫で写真家のジェイムズ・ロバートソンと共に赴いた1855年のクリミア戦争に始まるのだそうです。

1858年はセポイの乱のドキュメント、60年にはイギリス軍の後を追い、中国に移動、第二次アヘン戦争の英仏軍の公式カメラマンとなります。

アヘン戦争が終結すると、一緒に仕事をしていたジャーナリスト、チャールズ・ワーグマンが日本に渡ったその後を追い、横浜に到着、ワーグマンとの横浜でのコラボレーションが始まります。

絵心のあるワーグマンや日本の職人達の助けで、彼は手彩色のカラー写真を日本に導入しました。それはヨーロッパでは知られていた技法でしたが、普及はしていませんでした。日本では浮世絵の技術に長けた職人達の能力のお陰もあって、大成功を収めたそうです。

1866年、横浜大火で倉庫を全焼し、一からの出直しとなりました。1877年自分はビジネスの才ありと誤解し、写真館をオ-ストリア人ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(日本では英語風にスチルフリートと書かれたりします)に譲ってしまいます。そして84年にはビジネスは立ち行かなくなり、無一文で日本を後にしたようです。

1910年以前、ビルマ(現ミャンマー)で亡くなったのではないかと言われています。彼の写真は次のサイトでどうぞ。《フェリックス・ベアト。次のブログヴェネツィアと日本との関係(1)(2)、そして天正のローマ使節(1)~(2)天正のローマ使節(3)~(5)も参考までに。

追記: 2012.03.24日、フェリーチェ・ベアト展を見に行ったことを書きましたが、その図録によればこの時のデータが相当、更新されていることが分かりました[ヴェネツィア生まれ等]。フェリーチェ・ベアートもご覧下さい。
  1. 2010/02/06(土) 00:00:36|
  2. ヴェネツィアの写真
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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