イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――カミッロ・ボーイト

《ボーイト》という名を読めば、アッリーゴ・ボーイトの名を思い出されることでしょう。1868年彼は自作自演(指揮)したオペラ『メフィストーフェレ(Mefistofere―メフィストフェレス)』で大失敗し、その後その台本の改訂を続け、75、76、81年と上演を続けたそうです。また『シモン・ボッカネグラ』の台本の改訂でヴェルディに認められ、『オテッロ』と『ファルスタッフ』で台本作家として、ヴェルディに協力しました。

彼の父シルヴェーストロはヴェーネト州のベッルーノの生まれで、ヴェネツィアで学んだ画家・装飾家でした。母はポーランドの伯爵令嬢ジュゼッピーナ・ラドリンスカ。彼の兄カミッロ(1842.2.24パードヴァ~1918.6.10ミラーノ)は建築家で、ミラーノのブレーラ美術館の修復で名を知られているそうで、また作家でもありました。1883年に『Senso, nuove storielle vane』を発表しています。

この『Senso(感覚、官能)』を基に、ルキーノ・ヴィスコンティ監督が、ヴェネツィアを舞台にした映画『夏の嵐(Senso)』を1954年に公開したことで、カミッロの作家としての面が脚光を浴びました。

Matilde Dillon Wanke編の『Senso e altri racconti』(Oscar Classici Mondadoriシリーズ、Arnoldo Mondadori Editore、1994)では、小説、映画の女主人公は Livia 伯爵夫人で共通ですが、小説の tenente Remigio はフランツ中尉に変わり、映画は物語が大きく膨らんでいったようです。映画の脚本には、監督自身をはじめ、スーゴ・チェッキ・ダミーコ(Sugo Cecchi d'Amico)、カルロ・アリアネッロ(Carlo Arianello)、ジョルジョ・プロースペリ(Giorgio Prosperi)そして2009.2.21日の《文学に表れたヴェネツィア》で取り上げたジョルジョ・バッサーニ(Giorgio Bassani)も参加しています。
『Senso』この『Senso――伯爵夫人リーヴィアの秘密の雑記帳より』の一部を拙劣ですが訳してみました。トレントの若い伯爵夫人リーヴィアは親オーストリア派の60歳の夫と、当時オーストリアの支配下にあったヴェネツィアにやって来て、その美貌に更なる磨きがかかります。

「ヴェネツィアという街にそれまで訪れたことはなく、とても行って見たいと思っていた。この街は心によりも官能に訴え掛ける街だった。街の記念建造物などについて、その歴史的謂れも美しさも理解していなかった。それより大切に思えたのは、青緑色の水や星が一杯に溢れる空、皓々たる銀色の月、黄金色の黄昏時、とりわけそこに身を横たえて、官能的な想像を羽ばたくままにすることの出来る黒いゴンドラは、記念物等の比ではなかった。

灼熱の白昼も既に沈んでしまった7月の重苦しい熱気の中で、ピアッツェッタ[サン・マルコ小広場]からサンテーレナ島まで、あるいはもっと遠くのリード島のサンタ・[マリーア・]エリザベッタかサン・ニコロ辺りまでゴンドラで行く時、爽やかな一陣の風が私の額を優しく撫でた。塩の香りの強い、この西からのそよ風は私の四肢と心に再び活力を呼び戻してくれて、耳に霊妙な本物の恋というものを焼き付けるように囁き掛ける、かのようだった。

腕を剝き出しにして肘まで水の中に差し入れて、短い袖のレース飾りまで濡らしてしまった。私の爪から水の滴りが、清らかに透けた宝玉のように一滴一滴落ちていくのを見ていた。

ある晩、大きく輝いているダイヤモンドの指輪を指から外した。それは夫からの贈物だった。それを舟からラグーナ遠くへ投げやった。これこそ、私のための《海との結婚》と思われた。

ある日、副王夫人が私にアッカデーミア美術館に一緒に行こうと誘ったことがあった。私はこの美術館について殆ど何も知らなかった。行く道すがら、画家についてのお喋りで何かを教えられた(ラッファエッロ・サンツィオのような素晴らしい画家のことをどうしても私に教えたがった)。しかしその時何も分かっていなかったが、あの楽しく会話するような色遣い、あの躍動するように響き合う赤と黄、緑、紺青、白の色合い、あの官能的な恋の激しさを込めて描かれた音楽的諧調は、芸術というよりヴェネツィアの自然のある一つの相貌と思われた。

そして私が聞いた、手前勝手に住民達が歌っている唄が、ティツィアーノの輝く『被昇天の聖母マリア』やパーオロ・ヴェロネーゼの壮麗な『晩餐』、ボニファーチョの豊満な肉体の輝くような絵の前で、私の思い出の中に蘇ってきたのだ。

夫はしきりに煙草をふかし、しょっちゅう鼾をかき、ピエモンテの悪口を言い、化粧品を買っていた。一方私には恋が必要だった。 ……」
  1. 2010/03/27(土) 00:02:12|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの劇場: サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会(ヴェネツィア語ではサン・ザニポーロ教会とも――Giovanni=Zani、Paolo=Polo)正面前のカヴァッロ(Cavallo)橋を渡り、直ぐの狭い十字路を右に折れると、メンディカンティ(Mendicanti)運河に並行して、ヌオーヴェ海岸通り(Fondamenta Nove)まで長いテースタ(Testa)通りが続いています。

この通りの中程のパルード小広場(Corte del Paludo)に語学学校通学のためにアパートを借りたことがありました。テースタ通りドン詰まりにあるヌオーヴェ海岸通り直前に、現在は無人の廃墟と化したラルガ・ベルレンディス(Larga Berlendis)通りが左右に広がっていますが、かつてこの場所にサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場があったのだそうです。

Aldo Bova の『Venezia――I luoghi della Musica』はその歴史を次のように述べています。

「サンタ・マリーア・フォルモーザのグリマーニ家が、1635年頃建造し、39年にちょっと離れた場所に建て直した。開場公演はパーオロ・サクラーティの『デーリア祭(La Delia)』[Delia はデロス(Delo)島で5年ごとに催されたアポロン祭のこと]で始まった。

[劇場経営者としての貴族のグリマーニ家の名はしばしば登場しますが、そのグリマーニ館は、サンタ・マリーア・フォルモーザ(Campo S.Maria Formosa)広場に直接面してはいません。ジュッファ通り橋(P.de Ruga Giuffa)を渡り、直ぐの横町を左へ、グリマーニ通り(Rm.Grimani)のドン詰まり、サンタ・マリーア・フォルモーザ運河(Rio de S.M.Formosa)とサン・セヴェーロ(S.Severo)運河の交差した角地に位置します。1984年から25年程の修復の時を経て、ヴェネツィアには非常に珍しい貴族の建物内部の例として、現在電話等で予約すれば見学が可能です。一見に値する壮麗な物です。]
グリマーニ館天井を飾る天井画邸館内部のパースペクティヴ壁面装飾(1)室内の建築的佇まい天井装飾(1){正面玄関。天井を飾る絵画。部屋を結ぶパースペクティヴな流れ。壁面の装飾。部屋を結ぶ建築的佇まい。天井画。}

グリマーニ家はクラウディオ・モンテヴェルディ(M)、フランチェスコ・カヴァッリ(C)、アントーニオ・サルドーリオやジョヴァンニ・レグレンツィ等の協力を得た。(M)の作品は1639年と41年に、『アドーネ(Adone)』[アプロディーテーに愛された美青年アドーニス]と『エネーアとラヴィーニアの婚礼(Le Nozze d'Enea con Lavinia)』[アイネイアースにラティーヌス王は娘ラウィーニアを与える](これらの曲の楽譜は何も残っていない)、更に42年に『ポッペーアの戴冠(L'incoronazione di Popea)』[ネロ皇帝の妃となったポッペア](自筆譜がマルチャーナ図書館に保存されている)が上演された。

(M)の弟子だった(C)の作品としては1642~56年の間に12のオペラ作品が上演された。1654年にはヴェットール・グリマーニ師が無頼の仲間達とともに劇場を占拠したかどで告訴されている。

1658年1月11日フランチェスコ・ルーチョの『メドーロ(Medoro)』[ルドヴィーコ・アリオストの『狂乱のオルランド』の登場人物]が板に乗った。彼は頭に一撃を受けて、30歳の若さで同年の9月1日に死亡。

1663年町で最上の劇場と評価された。≪サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場ではカーニヴァル時に素晴らしい場面転換、威厳に満ちた目もあやな主人公達の登場、機械仕掛けの目も眩む飛行などを備えた音楽劇が演じられた≫。

≪通常光り輝く空、神聖なるもの、海、王宮、邸館、鬱蒼とした立木、森林、その他雅で楽しげなる外観を備えたものが観覧された。音楽はいつも洗練されており、町でも最上の声の持ち主が選ばれたし、ローマやドイツ、その他の地方から招かれて、衣装が豪華で愛らしい声の美人の歌唱は驚きと称賛をもたらすので、役になりきれる演技の出来る女性達が呼ばれた。≫

1665年にクラヴィチェンバロ奏者として雇われた一女性の記録がある(ヴェネツィアの劇場で演奏した女性音楽家についての情報は実に微々たるものである)。

1665年ピエートロ・アントーニオ・チェスティの『オロンテーア(L'Orontea)』[エジプトの女王オロンテーアは画家アリドーロを愛して結婚する]が上演される。

{他の資料では、ヴェネツィアで人気の高かったチェスティのヴェネツィアでの作品に、1649年『オロンテーア』、51年『恋するエルコレ(Ercole amante)』[エルコレはヘラクレスのこと]、66年『ティート(Tito)』[ローマ皇帝ティトゥス]、69年『ジェンセーリコ(Genserico)』[ヴァンダル王ガイセリック]等があったとあります。

一方、やはりモンテヴェルディに師事したと思われるフランチェスコ・カヴァッリも、他の資料では、1639年からサン・カッスィアーノ劇場を中心にオペラを発表し、この劇場では53年から上演していたとされます。

1655年『セルセ(Serse)』[BC.480年のペルシア王クセルクセス1世(ダレイオス1世の息子)]、56年『スタティーラ(Statira)』[ペルシア王ダリウス(ダレイオスとも呼称)の娘スタティーラ]、57年『アルテミージア(Artemisia)』[アルテミシアはアケメネス朝ペルシア支配下にあったカリア(古アナトリア地方)の太守だったマウソロス(Maussollos=伊語Mausolo―マーウゾロ or マウゾーロ)の妹であり妻でしたが、夫没後首都ハリカルナッソスに壮麗な廟(マウソレウム)を建てます。それが古代七不思議の一つになったと言われています]。その後はまたサン・カッスィアーノ劇場に戻ったそうです。}

1678年ジョヴァンニ・フランチェスコ・グロッシはカヴァッリの『シピオーネ・ラフリカーノ(Scipione l'Africano)』[アフリカでハンニバルを破り、勲功があったため大スキピオはアフリカヌスの尊称を得る]のシファーチェ役を歌い、成功を得た(97年エレオノーラ・フォルニ伯夫人の兄弟達に、嫉妬と復讐のために殺された)。

1699年劇場は活動を停止した(1714年短期間再開)。48年屋根が崩れ落ち、誰も修復しようとはせず、1800年代半ば、その壁面だけは見ることが出来た。」
  ――Aldo Bova 著『Venezia――I luoghi della Musica』(1995)より
  1. 2010/03/20(土) 00:01:26|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ヴェネツィアの劇場のこと

ヴェネツィアにおける公開オペラ劇場の嚆矢は、新サン・カッスィアーノ劇場で、1637年2月フランチェスコ・マネッリの『アンドローメダ』が、ヴェネツィア初の興行師となったベネデット・フェッラーリ・デッラ・ティオルバの手で、世界初の有料公開オペラとして上演された話は以前にも書きましたが、歌手達は全てサン・マルコ寺院の礼拝堂聖歌隊員で、その中には大聖堂楽長のクラウディオ・モンテヴェルディの息子のフランチェスコも含まれていたそうです。
新カッスィアーノ劇場前元新カッシアーノ劇場劇所への地図左、新サン・カッスィアーノ劇場前小広場。中央、サン・ポーロ地区のサン・ボルド(S.Boldo)運河に架かるフォルネール橋(Forner)から見える、中央に見える劇場通り(cl.del Teatro)最奥にその劇場小広場(Ct.del Teatro)があります。写真に見える運河前の門はゴンドラでアクセスする貴族達用の入場口だったかも知れません。劇場跡は現在、サン・カッスィアーノ(S.Cassan)運河を挟んで隣のアルブリッツィ館(Pal.Albrizzi)の庭園になっています。
[2011.02.22日地図追加――右の地図の中、右上隅近く緑の地帯左の1932番地の直ぐ下に、x印右にCt.de Ca' Bollani(ボッラーニ館小広場)があり、ここを中心にかつて遊郭がありました。すぐ前の運河に架かる橋P.de le Tette(乳房橋)を渡り、前方左上方に向かうCl.de l'Agnella(現在は伊語風にアニェッロ通りとも)を直進、直ぐ左折するCl.de la Comedia(コンメーディア通り)の突き当たりが世界初の公開オペラ劇場《新サン・カッスィアーノ劇場》(緑の2302番地)があった所です。] 

その当時の劇場の事情を、Aldo Bova 著『Venezia――I luoghi della musica』(1995)は概略以下のように述べています。

「セレニッシマは、演劇的出し物に何度となく反対表明をした(1508.12.29のラテン語による文言)。1581年には≪公共の場でコンメーディアを演ずる≫者へ度々出された禁令の一つに、違反者には≪鉄の足枷を嵌め、10ヶ月間ガレー船を漕がせる≫という罰則が定められた。

オペラ誕生以前にも、演劇的出し物には唄や楽器演奏、バレー等が挟まれたもので、時にはその上演が延々と演じられたこともあった。≪コンメーディアが8時間続いた≫(1555.02.20)。

オペラ・シーズンは三つあった。《カルネヴァーレ(謝肉祭)》は12月26日に始まり、カーニヴァル最終日(martedi` grasso)まで。《アッシェンスィオーネ(ヴェネツィア語Sensa――キリスト昇天祭)》は祭日当日から15日間(2週間)。《アウトゥンノ(秋)》は9~11月の間。これらの期間以外の日は公演の設営は固く禁じられていた。

1500年代末~1600年代半ばは、10軒ほどの劇場が開場していたが、1600年代末には20軒弱に増えていた。入場券は劇場外の《Malagon(ヴェネツィア語で大工・建具師の意)》で販売された。オーケストラは今日のように深く掘られたオーケストラ・ピットではなく、平土間席と同じレベルに置かれ、観客は楽器で舞台を見るのを妨げられ、文句が絶えなかった。≪オーケストラのティオルボ(大型リュート)群の棹がいつも場面を遮っている≫。

1600年代、オーケストラは通常5挺の弦楽器、2本のティオルボ、2台のクラヴィチェンバロから成っていた。1683年パリの新聞『Le Mercure galant』の特派員は書き送っている。オーケストラは≪幾つかのクラヴィチェンバロやスピネッタ、ティオルバ、ヴァイオリンから成り、完璧に調和したピッチで歌の伴奏をした≫と。

上演中と言えども、桟敷席は夕食やお楽しみのために使用された(結婚披露宴や大切な客のためには、1階席に大きなテーブルが用意された)。桟敷席の裏では賭場が開帳されていた。

上演中は舞台よりは格段に暗かったが、劇場内はずっと照明が施されていた(桟敷は蝋燭、舞台は灯油ランプ)。そして何者かが桟敷内部の親密さを悪用しないように、桟敷席の所有者にドアは開け放っておくように言ってあった。

娼婦は≪慎みのある上品な装い≫と仮面を外さないことが強制された。ゴンドリエーレは1階席の出入りは自由だった。総督は劇場に行くことは厳しく禁じられた。貴族はタバッロ(ヴェネツィア語tabaro――厚手の男用マント)とバウッタ(ヴェネツィア語bauta――黒マント付き仮面)の仮面装束での入場義務があった。この事はあらゆる誤解やいかがわしい事の原因になったに違いない。

1678年サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場で2人の貴族が、互いのことは何も知らずに喧嘩を始めた。1691年にはトッリズモンド・デッラ・トッレ伯爵は守衛に知られていなかったので、サン・ルーカ劇場への入場を厳しく阻止された。1785年、N.H.ゼーンとかいう人は、サン・モイゼ劇場の桟敷にタバッロとバウッタを外して入り、告訴された、ということもあった。

時には今日我々が慣れている完全な静寂が訪れることもあった。1667年サン・モイゼ劇場でズアーネ・カルドーンとかいう人が国家査問官に告発された。その理由は≪fue veduo con altri in quantita` gitare su la scena e contro li palchi le careghe et la robba che se vende al boteghin.(仲間と舞台に色々な物を投げたり、桟敷に椅子や売店で売っているような物を投げ付けるのを見られた)≫からであった。

1680年あるフランスの旅行者が、若い貴族の習慣に驚いて書いている。桟敷席から1階席の観客に唾を吐いたり、蝋燭の燃え止しを投げたりして面白がっている、と。また他の人は桟敷席裏側の廊下は≪蝋燭の燃え止しと小便の悪臭が非常に鼻に付いたと伝えている。

17~19世紀は歌手達芸術家に支払わない倒産した興行師と、桟敷席の代金を何年も払わないと告訴された貴族、劇場経営はしたいが破産した一家の間で、裁判所での係争がひっきりなしに生じている。≪オペラは楽しみであるというより、単なる商売道具と化していた≫(1650)。

1756年裁判所は、謝礼や給料を請求しても払って貰えない原作者、歌手、演奏家、バレリーナや使用人達が激しく非難し、涙ながらに嘆きを上げる、その多さに悲鳴を上げている。」
  ――アルド・ボーヴァ『ヴェネツィア――音楽の町』(1995)より
  1. 2010/03/13(土) 00:02:45|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ヴェネツィアの建物: ビオンディ館からロレダーン・チーニ館まで

未完成のヴェニエール・デイ・レオーニ館の右隣の地味な建物。ビオンデッティ館(Ca` Biondetti)は17世紀の物で、後に改築されたのだそうですが、閨秀画家ロザルバ・カッリエーラの誕生した家として知られています。前にも引用した『大運河』(1993刊)は次のように述べています。
カーザ・ビオンデッティ他「右側に位置する、堂々として見事な邸館に比べ、ひどく冴えない住宅である。しかし近所の建物のようにヴェネツィアの壮麗な名声を反映していないとしても、芸術的栄光ということに関して言えば、多大なものがあった。それはこの館で1675年に生まれたロザルバ・カッリエーラがここで生活し、作品を発表したからであった。

イタリアだけでなく異国でも流行の肖像画家となり、彼女は精神的聡明さ、色彩の明るい透明感、パステル画法のデリケートなタッチといったことで、ヨーロッパ中の宮廷で評判を取ったのだった。1720年はパリで、23年はモーデナで、30年はウィーンで描いた。晩年は盲目となり、ボケの症状の中で1757年この館で亡くなった。」

ビオンデッティ館の右隣は1700年代の建築家不明の狭隘な建物で、左右非対称に建てられています。チェンターニ・モロジーニ館(Palazzo Centani Morosini)と呼ばれ、その右隣のダ・ムーラ・モロジーニ館(Palazzo Da Mura Morosini)と一見一体化して見えますが、こちらはオジーヴ式の窓があることから別の建物です。こちらの建物については『大運河』(1993刊)に次のようにあります。

「玄関が2門あり、中央部に四連窓を備えた1500年代に典型的なオジーヴ(尖頭)式の窓の建物である。2階の窓は低くてずんぐりしており、古風な仕上げとなっている。最上階の窓はより細身となっている。

非常に古い家系の著名な一家ダ・ムーラ家の建物である。マルカントーニオという人物は、1561年ピウス4世の宮廷の大使を勤めた。ヴェネツィアがヴァティカンとの険悪で難しい関係に直面している時に選ばれたということは、彼には恐らく皆に知られた確かな手腕があったものと思われる。

自分の所に呼び寄せるつもりで、教皇は彼を枢機卿に任命したが、駐在している宮廷からの職務を引き受けることは、ヴェネツィアは駐在使節に禁じていたが、共和国はその法律以上に厳格に彼をヴェネツィアから追放した。」

ダ・ムーラ・モロジーニ館の右隣は、ファサードの2階部分に2枚のモザイク画があることで、大運河でも目立つバルバリーゴ館(Palazzo Barbarigo)です。やはり『大運河』(1993刊)の知恵を借ります。
バルバリーゴ館他バルバリーゴ館「1500年代の典型的な古典様式の建物で、四連窓を形造るべく上の階のアーチ状の単純な窓は中央寄りに並べられ、大理石の飾りの層は水平にアーチ部分と結び付く構成となっている。

1800年代末、ガラスとモザイクの製造会社ヴェネツィア・ムラーノ社の所在地となり、改築され、画家ジューリオ・カルリーニの下絵のカルトンに基づいて描かれたモザイク画でファサードが覆われている。両脇の四角の区画に、皇帝カール5世がティツィアーノの工房を訪れた時の2人(左)と、フランス王アンリ3世がムラーノ島のあるガラス工場を訪問した時の模様(右)が描かれている。」

バルバリーゴ館右のサン・ヴィーオ(San Vio)広場とサン・ヴィーオ運河を挟んで、ロレダーン・チーニ館(Palazzo Loredan Cini)が大運河に横顔を見せています。『ヴェネツィアと入江』(1926刊)の記述は次のようです。

「16世紀半ばの建設。当初はジュゼッペ・サルヴィアーティの手によるとされたフレスコ画でファサードが覆われていたが、現在は消えてしまった。19世紀末から20世紀にかけて、スペイン王位の復権を求めるブルボン家のドン・カルロスの住まいであった。」
現在はヴィットーリオ・チーニ・コレクションに収集された美術品が置かれているそうです。
  1. 2010/03/06(土) 00:01:20|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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