イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

アッカデーミア美術館(元サンタ・マリーア・デッラ・カリタ教会・修道院・大同信会館)

サンタ・マリーア・デッラ・カリタ教会について『大運河』(1993年)は次のように述べています。
カリタ教会とカリタ大同信会館「サンタ・マリーア・デッラ・カリタ教会は1441~52年、恐らくバルトロメーオ・ボーンの案に基づき、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ司教座聖堂参事会員達により建て直された。脇の壁面の煉瓦製の仕上げは大運河に面している。尖頭と中空の込み入った特徴的アーチのある三弁模様の高いファサードは広場に面している。

ファサードに垂直にオジーブ式の美しい大門が、13世紀の大理石の浮彫で飾られ、修道院への入口となっていた。総体に1400年代の chiostro(中庭)の部分を保っていたが、1561年古代ローマ人の家の考古学的再生を意図したアンドレーア・パッラーディオ案に基づいた改装案が採用された。その具体化は柱廊玄関(アトリウム)と食堂と卵形階段に接した中庭のオリエント風側廊に限られた。

柱廊玄関は1630年の火事で壊れてしまった。そして全体は19世紀初頭、ナポレオンの教会排除命令で美術学校の所在地に選ばれ、ジャンアントーニオ・セルヴァの手で修復された時、次々と変更が施された。現在はアッカデーミア美術館(Galleria dell'Accademia)の一部となっている。

1177年修道院の中に、ロランド・バンディネッリ(Rolando Bandinelli)、即ち教皇アレクサンデル3世(AlessandroⅢ――1159~81在位)が避難していた。彼は敵である神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(Federico Barbarossa――1155~90在位、通称赤鬚王)の怒りを避けようとして、密かにローマを離れ、身分を隠してコックの下働きとしてこの修道院で6ヶ月間生活していたようである。

偶々訪れたフランス人に見つかり、政庁にその身元を漏らされてしまったのである。時の総督セバスティアーノ・ズィアーニ(Sebastiano Ziani)がもし皇帝と教皇を短期間でも和解させることが出来れば、セレニッシマ共和国にとって大変な功績となるに違いなかった。結果として1177年7月23日、強力なドイツの皇帝はヴェネツィアにやって来て、教皇庁の最高牧者の面前のサン・マルコの床に跪いた。

アレクサンデル3世が感謝の印として、ヴェネツィアの海上での至上権のシンボルとしての有名な指輪を総督に授けたのは、正にこの時のことだった。その1177年から≪ヴェネツィアの海との結婚式(Sposalizio di Venezia col Mare)≫という毎年の盛大な儀式が、リード島の公海上への出口で挙行されている。」

[追記=『ヴェネツィア歴史図鑑』(アルヴィーゼ・ゾルジ著、金原由紀子・松下真記・米倉立子訳、東洋書林、2005.04.22発行)によれば、1000年に総督ピエートロ・オルセーオロ2世がダルマツィア遠征に出発した時の儀式《海の祝福》が起源なのだそうですが、この儀式にこの教皇からの指輪の授与は権威を与えたようです。]

現在美術館入口となっている所が、元カリタ大同信会館の入口だった所です。この大同信会館は六つある大同信会館の中で最古(1260年)のものだそうです。因みに6大同信会館とはここ以外に、ザニポーロ(Zanipolo=伊語Ss.Giovanni e Paolo)広場のサン・マルコ、サン・スティン(S.Stin=伊語S.Stefanino)広場近くのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ、アッバツィーア(Abazia)広場のミゼリコルディア、サン・ロッコ(S.Rocco)広場のサン・ロッコ、サン・サルヴァトーレ(S.Salvador)広場の一番新しいサン・テオドーロの、6大同信会館です(これ以外にも Scuola grande dei Carmini がサンタ・マルゲリータ広場の一角にあります)。

天正の四使節が、ヨハンネス・ベッサリオン(Giovanni Bessarione)枢機卿の残された聖遺物の拝観に訪れたカリタ大同信会館はここで、その時の記念の碑盤は今はこの大同信会館にはなく、近くのサルーテ教会左隣のセミナーリオに保管されています。それはここが美術館になった時、セミナーリオのモスキーニ司祭が碑や遺物等セミナーリオの記念物を集めていた時で、そちらに引き取られて行ったようです。2009.06.20日の総大司教のセミナーリオと2009.10.31日のヴェネツィアと日本との関係を参考までに。

アッカデーミア美術館について『大運河』(1993)の記述は次のようです。
「ゴシック時代の古いカリタ大同信会館は、広場に面したファサードは屋階(attico)を支えるコンポジットの大きな柱で三つの部分に分けられており、ジョルジョ・マッサーリとベルナルド・マッカルッツィの1700年代の作品である。
『アッカデーミア美術館』カタログ[左、アッカデーミア美術館図録] 1820年からアッカデーミア美術館の入口の役を果たしており、個人から遺贈された物や廃止になった教会や修道院から集められた夥しい数の傑作が収められた、ヴェネツィアの最も重要なコレクションである。」
  1. 2010/04/24(土) 00:02:36|
  2. ヴェネツィアの街
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アッカデーミア橋

ブランドリーン・ロータ館の右隣のアントーニオ・フォスカリーニ埋立通り(rio tera` Antonio Foscarini)[かつては大運河とジュデッカ運河は直線的に繋がっていたようです] を過ぎるともうアッカデーミア橋で、かつてのサンタ・マリーア・デッラ・カリタ教会の後陣が見える筈ですが、現在は工事中で網テントを被っています。アッカデーミア美術学校の本拠地がここから旧インクラービリ慈善院に引っ越しましたから、その跡地は美術館に衣替えされるのでしょうか。

アッカデーミア橋について『大運河』(1993)は次のように述べています。

「現実的な判断が出来て、先見の明のある人が、自分のプロジェクトを実現出来ないことがある、あるいはまた、その人が狭い了見の人に時に嘲笑される様を見たりする、という状況に遭遇するととても興味深い思いに捉われる。

『Cronaca Magna』によると1488年8月10日、市の施政官だったルーカ・トローンの要望で、大運河に橋を、一つはサンタ・ソフィーア広場から、もう一つはカリタ広場から二つの橋を架けようという提案が出されたことがあった。しかし全ての会議で笑い物にされ、投票に掛けられることもなかった。そのため何度も架け直されたリアルト橋は、ヴェネツィアで唯一の橋であり続けた。」
《サンタ・ソフィーア広場とリアルト市場を結ぶ橋は出来ませんでしたが、現在渡し舟(traghetto)があります。大運河に幾つかある渡しの中で、一番利用者の多いトラゲットだと思われます。カンナレージョ(Canaregio)にアパートを借りた時は、リアルト市場への買物時、必ず乗船しました。
魚屋のジャンニ知り合って10年以上になるリアルトの魚市場の角に位置する魚屋に勤めるジャンニ。魚の注文をすると、お勧めではない時は、よそ見して周りを窺いながら首を振り、よりおいしい魚があったりして、お勧めがある時はその魚を他人に気づかれないように指差して呉れました。魚や貝等の買物はよく彼の勧めに従ったものです。
ルンゴ貝[ジャンニに勧められて購入し、大変美味しかったルンゴ(長い貝の意)] そんな訳で定年で引退してしまった彼の先輩が、現役中NHKテレビ伊語講座の会話のシーンで登場し、彼の写真がテキストに掲載されたのを見付け、リアルト市場に「渡して」と持って行くと、「必ず渡すよ」と大変喜んでくれました。蛸のイボが2列あるのは polpo、1列のものは folpo と言う等、教わりました。

須賀敦子さんの『地図のない道』(新潮社、1999年10月30日発行)の中の《橋》の章で、「……あとは、五ヵ所から渡し舟が出ていて、たしか無料で客を対岸に運んでくれる。」と書かれています(ミラネーゼはこんな事を書きます。無賃乗船はいけません)が、私が初めて乗った時は300リラ、その後乗船時450リラ、更に700リラに値上がりし、現在(2008)は0.5ユーロで乗れます。いずれにしても、リラの時代は安過ぎるという感想を持ちました。数年前のNHKラジオ伊語講座のヴェネツィア編テキストには、150~200円と書かれていましたが、1ユーロが170円近くになっていた時のことでしょうか?》

「ルーカ・トローンの夢が実現するには4世紀以上の時を要した。事実、カリタ広場にアルフレード・ネヴァッレ(Alfredo Nevalle)技師がオーストリアのために英国の工場で造られた鉄の橋を架設した。それはヴェネツィアにナポレオンが課した仕事であり、1854年11月20日開通した。
旧、鉄製アッカデーミア橋現在のアッカデーミア橋 新しいスカルツィ橋[左は、旧鉄製アッカデーミア橋。中央は現在の姿。右は、排除される前の鉄製スカルツィ橋と現在の橋が並列している] しかしながら、1592年の昔に造られたリアルト橋はあらゆる必要を考慮して、かつ大運河通行の船舶の必要に則って計画されたものだったが、アッカデーミアのこの鉄橋とスカルツィ橋は、ひとえにオーストリア占領軍の移動の迅速さのためのものであって、公共の至便さ等は一切斟酌されていなかった。それ故かつての平坦で低い橋は大運河通航の障害になることが直ぐに判明した。

増加していくヴァポレットの自由な通行が可能なように、1900年その取替え工事が、エウジェニオ・ミオッツィ(Eugenio Miozzi)に与えられた。スカルツィ橋は1934年に完成した。アッカデーミア橋はある意味でその双子である筈であったが、資金不足に陥っていた。ミオッツィは諦めなかった。

ヴェネツィアの古い工法を復活させ、材木にタールで防水加工を施し、足に優しいのが特徴である木の橋を発表したのだった。それは当時は単なる一時しのぎの解決法と考えられていたが、ヴェネツィア人にとってこれ程までに親密で、大切な物となったので、石のアーチ橋に変えるなどとは考えられなくなっている。」
  1. 2010/04/17(土) 00:01:41|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの建物: モリーン・バルビ・ヴァリエール・デッラ・トレッツァ館他

大運河を下っていくと更に右岸には、ロレダーン・チーニ館の右にモリーン・バルビ・ヴァリエール・デッラ・トレッツァ館(P.Molin Balbi Valier della Trezza)があります。『ヴェネツィアと入江』(1926)の記述は次のようです。
モリーン・バルビ・ヴァリエール館他「色々な時代の建築的痕跡が見られる1600年代の建物。ダルマツィアの施政官だったジェローラモ・マリーア・バルビの航海の回想録、つづれ織や一家の記念品などが、コッレール美術館に最後の相続人の手で引き渡された。現在はマルティーニの所有である。」

以前に取り上げた『大運河』(1993)は次のように書いています。

「四連窓が中央にあり、1階正面玄関は三つのアーチで構成された1600年代の建物で、1750年以後に両側にテラスが追加された。崩れたゴシック式の建物《パラディーゾ》の跡地が小庭園となり、右に隣接している。

古い貴族のヴァリエール家は、1297年の Serrata[大評議会の議員資格を限定して、新たな家系の参入を制限し、法的身分の貴族階級が規定された]に含まれており、その後引き続き存続した。2人の総督、多くの有名人を輩出した。

他の貴族同様に、庶民との間に人的社会関係を築く要がある時に、一家の一人ガースパレの死刑判決を受け入れねばならなかった。彼は裕福でイケメンの二枚目だったが、落ち着きのない青年だった。1511年ある税関吏に密輸を咎められ、殺してしまったのである。

同家の族長、貴族達の代表、3人の司法官、遂には全ヴェネツィアが十人委員会に彼の命乞いをした。しかし裁判所は耳を貸さなかった。ガースパレ・ヴェリエールは貴族であったが、縛り首になった。そして彼のために労を取った者全てが、相応しくない行動をとったとして、厳しく咎められ、3人の気の毒な司法官は公務員として解任され、生涯公務に就けないことになった。」

庭園の右はコンタリーニ・ダル・ザッフォ館(P.Contarini dal Zaffo)と呼ばれています。『ヴェネツィアと入江』(1926)は次のように述べています。
「後にマンゾーニ=アンガラーン館となったが、現在はデカゼス公爵の邸館である。全体的に構造はバランスが取れ、系統だったルネサンス建築の最も重要な作例の一つとなっている。
ブランドリーン・ロータ館他ダーリオ館よりは大分質素で控え目な建物であるが、それはむしろマーウロ・コドゥッシの手法に近い建築的特徴を示している。この建物で彼は当時の多くの石工達の一人ジョヴァンニ・ディ・アントーニオ・ブオーラの作品を利用したのだが、ロンバルド派の装飾家の手法に非常に受けのいい、その多色ポリクラミーの絵画タイプを採用したかったのであろう。

1783年(1758年が正しいようです)には裕福な絹商人マンゾーニに購入され、1800年代にはモンテクッコリ伯爵の所有に帰した。邸館内部にはドメーニコ・ティエーポロのフリーズ[帯状装飾]が保存されている。その一部をなす天井の『寓意画』も含めて、全体を装飾的に構成していたが、それはケルンに運ばれ、第一次大戦中に破壊されてしまった。」

一方『大運河』(1993)の記述は以下のようです。

「その設計案がマーウロ・コドゥッシ、ピエートロ・ロンバルド、ジョヴァンニ・アントーニオ・ブオーラの名前でなされたので、初期ヴェネツィア・ルネサンス(15世紀終り)の興味深い建築の一例となっている。美しいファサードは大理石で覆われ、各種の色の円形模様で飾られ、付け柱が三つの部分に分けているその中央部分は、長々続くアーチ形の五連窓により際立っている。

注文主の名前は知られていない。1562~82年の間、パレスティナのヤッファ(Jaffa=Giaffa、ヴェ語Zaffa)と交易関係にあり、ヤッファの伯爵称号を名乗っていた、コンタリーニ・ダル・ザッフォが館を獲得した。

1758年裕福な絹商人マンゾーニ、その後モンテクッコリ伯爵、更にデカゼス公爵の手に渡った。18世紀には内部はジャンドメーニコ・ティエーポロの絵画で飾られ、幾つかのフリーズ[帯状装飾]が現存する。」

コンタリーニ・ダル・ザッフォ館の右隣はブランドリーン・ロータ館(P.Brandolin Rota)です。『大運河』(1993)は次のように書いています。

「少々古い建物の改築による1600年代の物で、中央にアーチ状の五連窓のある開かれたファサードを持ち、その下にセルリアーナ式の正面玄関が構えている。ミラーノ出身のロータ家の所有となり、彼は1685年大評議会入りを許された。

1750年当家のマリーアがジローラモ・ブランドリーンと結婚、館の所有はその一家に移行した。1800年代ホテル・ウニヴェルソとなり、とりわけ英詩人ロバート・ブラウニングがレッツォーニコ館を手に入れる前のヴェネツィア滞在中、彼はここの客として迎えられた。この世紀、有名なソプラノ、トーティ・ダル・モンテ(Toti Dal Monte[本名Antonietta Meneghel] 、1893.06.27モッリャーノ・ヴェーネト~1975.01.26ピエーヴェ・ディ・ソリーゴ[コネッリャーノ近郊]、来日したこともある)の所有にもなった。」
  1. 2010/04/10(土) 00:01:49|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの、ヴィヴァルディとアンナ・ジロの家

大抵の人が知っているクラシックの曲名と言えば、先ずはヴィヴァルディ(1678.3.4ヴェネツィア~1471.7.28ウィーン)の『四季』ではないでしょうか。かつては作曲者自身の名前は忘れられて、曲だけが演奏されていた時期もあったと言います。この作曲家が生まれた町ヴェネツィアでは、彼の過ごした家のことが分かっているようです。Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』は次のように書いています。
アントーニオ・ヴィヴァルディ(左、ウィキペディアから借用) 「生家=Castello 区 Campo Bandiera e Moro o de la Bragora(バンディエーラ・エ・モーロ、あるいはブラーゴラ広場)  アントーニオ・ヴィヴァルディの両親ジョヴァン・バッティスタ・ヴィヴァルディとカミッラ・カリッキオは、結婚直後1676年、サラモーン(Salamon)家所有のアパートに越してきた(カステッロ区3805~3809番地のどの建物か正確には分かっていない)。ここでアントーニオは1678年3月4日に誕生し、27歳まで暮らした。」
ブラーゴラ教会と3805~09番地3805~09番地の建物はブラーゴラ教会右の4棟です。 [彼の誕生の模様を書いた古文書の写しがブラーゴラ教会の壁面に貼付してあります。2008.7.15日のブログインテルプレティ・ヴェネツィアーニもご参考までに。
ヴィヴァルディの出生証明書の写し古文書の写しの訳「アントーニオ・ヴィヴァルディの洗礼記録  故アゴスティーノ・ヴィヴァルディの息子、演奏家のジャンバッティスタと、故カミッロ・カリッキオの娘、ジャンバッティスタの妻カミッラとの息子であるアントーニオ・ヴィヴァルディは、去る3月4日に誕生し、死の危険もある中、自宅で産婆のマルゲリータ・ヴェロネーゼ氏に洗礼名を授けられた。本日この教会に連れてこられ、私こと教区司祭ジャーコモ・フォルナチェーリにより、祓魔式と聖油を受けた。……」]

「第2、第3の家=Castello 区 Campo Ss.Filippo e Giacomo(サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ広場)の4358番地   1705~11年彼は家族とともに4358/a 番地の2階に、1711~22年は4358番地に住んだ。1階の広い敷地も借りており、そこで家族の何人かが理髪店を営んでいたようである(ヴェネツィアでは理髪師が店で音楽のレッスンをしていたという話が伝わっている)。」
サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ広場の家 [この広場の名前は、同名の教会がかつてこの広場にあったことに由来し、崇拝の対象としての信仰が薄れ、教会は19世紀に民間施設に転用され、姿を消したと言われています。]

「第4の家=Castello 区 Fondamenta del Dose(ドーゼ運河通り)5878/79番地  1722~30年彼は家族とともに5879番地のこの邸宅の多分中2階に住んだ。≪アントーニオ・ヴィヴァルディ師は橋の下に顔を出し、床屋でヴァイオリンを演奏する≫。この家で母カミッラが没した。この家で『四季』が書かれた。」
パラディーゾ橋前の建物 [『四季』の含まれる『和声と創意の試み』作品8は、1725年アムステルダムのル・セーヌから出版されました。それまで『調和の幻想』(1711)や『ラ・ストラヴァガンツァ』(ca.1714)等はアムステルダムのロジェから出版されていました。家の前のパラディーゾ橋(P.del Paradiso)の先にはパラディーゾ通りがあり、通りの中ほどにヴェネツィア関連の古書等の覆刻本を出すフィリッピ書店があり、Giuseppe Tassini『Curiosita` veneziane』やGiuseppe Boerio『Dizionario del dialetto veneziano』等お世話になりました。]

「第5の家=San Marco 区 Calle Bembo(ベンボ通り)4644番地  1730年5月4日ヴィヴァルディ一家は窓が大運河に面しているが、入口がベンボ通り(当時はサンタントーニオ通りと称した)の角地の中2階に引っ越した。ここで有名な出会いがあった。カルロ・ゴルドーニが回想録の中でその事を書いているが、その回想録には二つのバージョン、仏語版と伊語版があり、違いがある[仏語で書いた版の伊語翻訳版の事を指すのでしょうか? 意味がよく分かりません。全てを信じると痛い目に遭います]。
大運河に面した最後の家 [彼はサン・サムエーレ劇場の所有者、貴族のグリマーニにオペラ『グリゼルダ(Griselda)』[古代ギリシアのテッサリアの王グァルティエーロの妻グリゼルダ妃](アポストロ・ゼーノ、ピエートロ・パリアーティ共作)の台本改作を要請され、作曲者ヴィヴァルディの家を訪問したのでした。Carlo Goldoni『Memorie』(Introduzione di Luigi Lunari,Classici della Burシリーズ、Biblioteca universale Rizzoli、P.181~183)より、2009.10.17日のブログ文学に表れたヴェネツィアで触れています。]

この家で父ジョヴァン・バッティスタが亡くなった。アントーニオはウィーンに向けて旅立つまでここに住んだ。1740年5月12~24日のいずれかの日である。近所のオーヴォ通り(Calle dell'Ovo)には写譜家をしていた兄弟のマーウロの店があった。」
[彼の生誕地と日付が明確になったのは、Emil Paul が1963年に洗礼証明書を発見して以来であり、死亡年月が分明になったのも、1938年 Rodolfo Gallo がウィーンで埋葬証明書を発見してからのことでした。]

ヴィヴァルディの恋人と目されていましたアンナ・ジロの家について Aldo Bova は次のように記しています。

「Anna Giro`(o Giraud)=S.Marco 区 Campiello del Teatro(テアートロ小広場)  マントヴァ生まれ[Goldoniはヴェネツィア生まれと勘違いしています。更に Giraud というスペルは『回想録』を仏語で書いた所為のようです]の有名なソプラノ、アントーニオ・ヴィヴァルディのお気に入りの弟子で、《赤毛の司祭のアンナちゃん(Annina)》として知られるアンナ・ジロがヴェネツィア・デビューしたのは、1724年サン・モイゼ劇場でアルビノーニの『ラオディケ(ラオディーチェLaodice)』[ミトリダテス・エウパトルは父王没後全権を握った母王ラオディケをその後軟禁し、ポントス国の発展に努める―1707年ヴェネツィアで初演されたA.スカルラッティにオペラ『ミトリダーテ・エウパトーレ』があります]であり、ヴェネツィア・ラスト・ステージは、1747年サン・サムエーレ劇場でのG.B.ルンケルの『シーロのアキッレ(Achille in Sciro)』[スキーロス島のアキレウス]だったとか。
サンタンジェロ停留所前のアンナの家(左)、右は同名の劇場 [ヴァポレットのサンタンジェロ停留所直前、左のテアートロ小広場の正面が彼女の家だったとか言われている建物。真中の通りを挟んで右の建物はサンタンジェロ劇場があった所と言われています。]

彼女のために、ヴィヴァルディはカルロ・ゴルドーニを試したことがある(前記の2人の出会い)。自分のお気に入りの歌手の表現やテクニックを最高に表現出来るアリアを彼に書くように求めたのである。彼女のために、取り巻きのある貴族が提供したドメーニコ・ダ・チェーザレのチェンバロを彼が仲介したことがあった(売主は、値段を倍にして差額を自分の物にしてしまったとして、彼を裁判所に訴えた)。

彼女と14年間ヨーロッパを旅して回ったが、それはあらぬ疑いと陰口の元になった。ある伝記作家はヴィヴァルディはしばしば彼女の家に泊ったとしているが、皮肉なことに、その家は彼の敵であったベネデット・マルチェッロの持ち物だったのである。」
  ――Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(1995)より

アンナ・ジロは1748年には、ピアチェンツァのアントーニオ・マリーア・ザナルディ・ランディ伯爵と結婚し、舞台を去ったそうです。
  1. 2010/04/03(土) 00:09:15|
  2. 音楽
  3. | コメント:4

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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