イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ダ・ポンテの回想録(5)

「……私の両親と友人達、とりわけジュスティニアーニ家の人々――トレヴィーゾの司教はこの名門一家の出であった――は私に、自分を守護するにはヴェネツィアに赴くのが良かろうと慫慂した。
ダ・ポンテ『回想録』アンドレーア・メンモの肖像[右、ベルナルド・メンモの兄、アンドレーア] この都市に参着した数日後、ベルナルド・メンモの知己を得た。彼はこの共和国で最も著名であり、具眼の士として知られた一人だった。私の茶話を聞き、佑助を約束してくれた。この時代最も傑出した文学者であったガースパロ・ゴッズィ[1713~86、『Gazzetta veneta』『Osservatore veneto』紙等の発刊者。『トゥランドット』『三つのオレンジへの恋』等の作家カルロ・ゴッズィの兄]が私の後ろ盾になってくれるようにと、直ちに動いてくれた。

彼はその年、改革派の味方であり、実際に相談役であった。私の不運な作品を彼に送付し、世間の常識でもあることだが、彼に尺牘を認め送るように口添えをしてくれたのはこのメンモだった。

  ゴッズィさま、寛容なるお心をお持ちでいらっしゃるならば……

大文学者の寛容な心に、これらの詩句が最良に功を奏することを願って書いた。その事について熱意を込めて語ったのだが、他人に向けて発する彼の舌鋒は私の評判を貶めるに、新たな言質を与えるに益するのみだった。

≪この若者には≫とゴッズィは言った。≪穎才がある。それ故彼を鼓舞しなければ、と思う≫。また一方≪彼は全く性悪である≫と改革派の連中が付言した。≪彼から危険な要素を除去する必要がある≫と。彼らのそうした文言の中には、憎悪や敵愾心が渦巻いていたが、その悪感情はジュスティニアーニ家に対して抱いていたもので、それについては既述したが、トレヴィーゾの司教が一家の一員であり、彼らが私を面目失墜の底に陥れようとしたのであった。

彼の兄がパードヴァの教授職に対して、公表した教皇攻撃のある文書で、何年か前元老院で大変実効的な弁護をしたことがある。彼らはかつて彼らのお気に入りのパードヴァの教授職を失ってしまったが、その腹癒せにトレヴィーゾ神学校の文学教授の教壇から私を引き摺り降ろそうと謀ったのだ。

こうしてあの瀕死の際にあった共和国の不幸な時期に、ある時は復讐劇として、またある時は奇想劇として、才鋒と天真爛漫が重く圧し掛かり、このように少人数の誘惑的なペテンの雄弁に誑かし込まれて、数多の人が判断を誤り、臆病に迎合するか、無識蒙昧に対して甘い顔をして見せ、それらは独裁者の爆弾や弾け飛ぶバネに成り果したのだ。

その間に元老院の議論が固まる夕べがやって来た。メンモやザーグリは他の数人の議員と、公正を愛するが故に私を庇護出来ればと思ったか、あるいは私の敵対者の言葉や信じ切っている事に恐れをなしたのか、はたまた私の告訴の性質からして私を弁護するに値せざるを得ないと信じてか、剰え慎重であり過ぎたということもあってか、口にすべき必要な判断を過った。

二人の国家審問官、殊に能弁のモロジーニが私を同じように告発した。この人物は《元の軍人省》(ex officio)に属していたが、私の提案の公刊を禁じたり、許可したりするのである。宗教審問官は神父のバルバリーゴで、カプチン派の我武者羅な擁護者であり、《祭壇まで更にもっとその先まで(極度に更にそれ以上に――usque ad aras et ulterius)》気に入り、好んでいる人物だった。彼は自分達を弁護し、モロジーニに賛同し、私を責譲した。

そして、それを気に入らせたいという意図からしてなのか、あるいはそれを認める顔を見たと信じてか、途轍もない大音声でラテン語の悲歌を読み上げた。その哀歌をこの令名高きパンタローネ閣下殿ら[旧弊なヴェネツィア商人貴族]は、殆ど理解していないに違いなく、しかし、罵詈讒謗と厭味皮肉の真っ只中で朗誦し、私に癇癪を起させる旧套墨守の分からず屋共を指嗾するのに大いに裨益した。『ヨーロッパのアメリカ人』がその悲歌の題名だった。」
  ――Da Ponte『Memorie/I libretti mozartiani』(i grandi libri Garzanti、1976)のp.42~43より

ダ・ポンテの『回想録』を読みながら、私の語学力ではとても訳せないと思いました(この国語としてこなれていない訳例には誤訳が多いことと思います。せめて雰囲気だけでも伝わりますように)。彼の伊語は、古い伊語(avevo→avea、con me→meco[←羅語 mecum]等)のようであり、詩人として古い文学用語や詩語、雅語を多用しているのでしょう。ヴェネツィア語のスペルも頻出します。当然のようにラテン語やヘブライ語の引用もあります。その上彼一流の雅文調とでも言うのでしょうか素直でない、佶屈聱牙な表現[詩のように倒置(esser doveva)もあります]で、構文を理解するのが至難でした。

機略縦横の諧謔に満ち、手前勝手なでっち上げ(?)等を散りばめた盛り沢山の内容を、彼の文体に合った日本語で読める、そんな訳本が発刊されないものでしょうか。例えば、鷗外の『卽興詩人』のような、軽い、判り易い現代語訳では面白味がありません。

追記(2010.08.14日)=私が待っていたダ・ポンテについての本が出版されました。田之倉稔先生の『モーツァルトの台本作者――ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯』(平凡社新書、2010年8月10日発行)です。少なくともダ・ポンテについて纏まって書かれた嚆矢だと思われます。早速書店に走ります。
  1. 2010/05/29(土) 00:06:44|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ロレンツォ・ダ・ポンテ(4)

Shinkaiさんに頂いた Giampaolo Zagonel 編『ダ・ポンテからカザノーヴァへの手紙 Lettere di Lorenzo Da Ponte a Giacomo Casanova 1791-1795』(Dario De Bastiani Editore、1988)に納められた14編の書簡の中からヴェネツィア関連の手紙を訳してみます。
ダ・ポンテからカザノーヴァへの手紙ジャーコモ・カザノーヴァ[ピエートロ・ロンギの描いたカザノーヴァ]  「尊名高きジャーコモ様へ
私は彼女の、ローマかマドリッドに行くようにと言う助言に従うことが出来ませんでした。というのは、彼女が私の前に現れた、その日にウィーンに戻り、自分の弁護は書面でするようにと言われたのです。私がこの町に戻ると、我が敵を恐れさすことになりました。事ほど左様に、皆は私が皇帝の命のため、公式的にはそこから距離を置いた所にいると話していました。どうなる事か様子を見ましょう。

いずれにしても私の目線はヴェネツィアに向いています。沢山の希望が私に呼び掛けていますが、とりわけこの悲惨な状態から立ち直りたいという望みが第一です。私の家族達は、我々が何度も話しましたように揉め事には勝っています(1)。その事についてはザーグリ(2)にもメンモ(3)にもダ・レッゼ(4)にも書きました。彼らは総督閣下に弟(5)が提出した嘆願書の後押しをしてくれました。

十人委員会では2票が足らず、結果は駄目でした。再度挑戦するように勧告されました。フェッラレーゼ(6)は亭主とヴェネツィアに既に発ちましたが、私に興味をもって、よく考えて行動してくれるでしょう。

リッポマーノ(7)は、他のパトロン達と一緒になりました。彼にここの大使(8)が私の事を推薦してくれましたが、我がカザノーヴァ師以上の事は、私の願いや仕事に貢献するやも知れませんが、それは殆どないと思われます。御家来衆に手紙を繰り返し読み、そのいくつかを彼のパトロンに送付すれば、困難さが減じるやも知れません。彼女が直ぐにそれを実行に移し、彼女の性格に特徴的なあの情熱をもってすれば。

今日は少なくとも12通書かねばならなかったので、彼女に長々とは書けませんでした。しかし出来るだけ早く2枚ほど追加します、この手紙には欠けていますが。彼女が同じ十人委員会の誰か委員に書いてくれれば、それは最高です。結局彼女はカザノーヴァ師のように行動することでしょう、私を愛し、信じている筈です。
 ウィーン、1791年6月18日付   忠実なる友、ダ・ポンテ
65歳のジャーコモ・カザノーヴァカザノーヴァの碑[左、63歳(1788)のカザノーヴァ。右、カザノーヴァの生家の碑――カザノーヴァの両親は、Gaetano Casanova と la Branella と愛称された Zanetta Farussi の役者夫婦ですが、実の父は貴族の Michele Grimani ではないかと言われています。ミケーレ・グリマーニはサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場やサン・サムエーレ劇場を建てた人物です。サン・サムエーレ劇場(父も母もここの舞台にも立っています)傍のマリピエーロ通りでカザノーヴァは生まれ、将来この劇場で楽師として働きます。]

≪注(1)≫……ウィーン宮廷での不運は通称ラ・フェッラレーゼ、歌手アドリアーナ・ガブリエーリ・デル・ベーネのウィーン到着に遡る。彼女は1788年半ば頃、ブルク劇場と1791年のカーニヴァルまでの契約を結んだのだった。ダ・ポンテは彼女にすっかりのぼせ上がり、彼女に全てのオペラで重要な役を割り振り、出来るだけ役を目立たせようとあまりにも軽率な行動をとったために、他の芸術家に危機感を抱かせ、演劇的謀略戦争に引き込まれ、芸術家や作家と対立することになった。
……
フェッラレーゼがフィオルディリージ役を演じた『コジ・ファン・トゥッテ』の上演から数日して、皇帝ヨーゼフ2世が亡くなり(1790.02.19)、ダ・ポンテは自分の幸運は皇帝の好意のお陰であることを直ぐに悟った。その後丸1年彼は新皇帝レオポルト2世の下、彼を葬ろうとする敵の攻撃から身を守るのに大童だった。

≪注(2)≫ピエートロ・アントーニオ・ザーグリ(1733~1806)は共和国最後のヴェーネト貴族の興味深い特徴を示している。政治上の職務を沢山帯びていたが、嫌々ながら甘受していた。中でも裁判所と元老院の施政官である。ダ・ポンテの最初のパトロンの1人であった。ダ・ポンテが1776年共和国のヴェーネト神学校での教育活動を差し止められた時、スキャンダルに満ちた彼の生活態度のために直ぐ様解雇した。それにも拘らず、ダ・ポンテはいつも彼の事を愛情深く思い出し、1788年ウィーンから彼に八つ折判の書簡を送っている。

ザーグリの弟ピエートロ・マルコ(1738~1810)は、同時代の、敬虔で寛容、教養ある人物として記述されている。1777~85年チェーネダ司教だった。多分ダ・ポンテがヴェネツィアの彼の兄の秘書として招かれたのは、この人の推薦だっただろう。
マルコ・ザーグリの肖像[マルコ・ザーグリの肖像――ザーグリの邸館は、サン・マウリーツィオ教会を背にして広場左手の大きな館がそれのようです。脇道はザーグリ通りで、裏はコルネール・ザーグリ運河通りです]

≪注(3)≫メンモは3人兄弟で、特にアンドレーアとベルナルドはダ・ポンテの『回想録』とダ・ポンテからカザノーヴァへの書簡に引き続き登場する。アンドレーア(1729~93)はジャーコモ・カザノーヴァが始めた、ヴェネツィアの最初の Franchi Muratori(フリーメーソン)の一員だった(そのため3人の兄弟の母がカザノーヴァを裁判所に訴えた。彼はピオンビ監獄に囚われ、脱獄をすることになる)。

アンドレーアは政治家として非常に優秀で、崩れゆく共和国の文化の担い手だった。元老院議員、ローマ大使、コンスタンティノープルの Bailo(トルコ大使)、総督職に次ぐサン・マルコ財務官だった。パードヴァのプラート・デッラ・ヴァッレ広場の整備は彼のお陰である。芸術家や文学者のパトロン(彼と弟のベルナルドにカルロ・ゴルドーニは喜劇『世界の男』を捧げた)で、一生を通じてジャーコモ・カザノーヴァとは親友だった。
サン・マルクオーラ教会他[サン・マルクオーラ教会左隣の、アンドレーアが生まれた《メンモ・マルティネンゴ》館] ベルナルド(1730~1815)も元老院議員(十人委員会の一員)で、芸術家や文学者の友人であり、1777年秘書の肩書でダ・ポンテを家に呼んだ。彼に書いた手紙がある。

≪注(4)≫ジョヴァンニ・ダ・レッゼはヴェネツィア貴族で、手紙に登場した時点では十人委員会メンバーだった。『回想録』にも書かれているが、1752年生まれの司祭で詩人であったジャーコモの弟ジローラモは秘書として、彼の家に呼ばれたが、1783年8月肺病で若くして亡くなってしまった。

≪注(5)≫1764年生まれの弟アゴスティーノは父の再婚での長子。ウィーンにもトリエステにも彼に同行した。手紙時代はヴェネツィアにいたらしく、フェッラレーゼの恋人でもあった。ヴェネツィアで生活し、1828年には、歌の修業をしヴェネツィアでも評判を得ていた娘のジューリアを連れて、彼に会いにアメリカへ行った。この弟に彼は十人委員会に嘆願書を提出させた。1779年彼に科せられた15年の追放刑を撤回してもらうためである。受理されなかった嘆願書は、ザーグリからカザノーヴァに宛てた手紙で我々は知ることが出来る。

≪注(6)≫ラ・フェッラレーゼと通称されたアドリアーナ・ガブリエーリ・デル・ベーネは1755年フェッラーラに生まれた。孤児となり、ヴェネツィアのメンディカンティ慈善院[当時は音楽学校]に収容され、少女達と典礼聖歌を教えられた。1783年ヴェネツィアのローマ領事の息子であったルイージ・デル・ベーネとそこから逃亡し、結婚した。

ウィーンに来る前はロンドン、ミラーノ、トリエステで歌っていた。夫婦は妻の恋の放縦さ、夫の人の良さで、行く先何処でも有名になった。

ダ・ポンテがフェッラレーゼ(その夫も)は自分の利害を守るに足る人物で、成功間違いなしと踏んだのは、とんだ喜劇である。事実自分の不運がこの歌手への熱い思い入れから来たことは自覚するに至っており、『回想録』の中でも明言しているが、ウィーン出発後「……1ヶ月も経たない内に、唾棄すべき熱狂の呪縛が解け、3年間も続いたこの女の奴隷状態から解放された」と。

この歌手にダ・ポンテが狂乱したその反響はよく知られており、確認のため一例を挙げておく。1790年1月4日付のコッラルト伯爵への手紙で彼は書いている。「私はフェッラレーゼの事を笑いました、それもいつもの詩人の歯に衣着せぬ物言いで。詩人は舞台に自分自身を表現出来ないと大変悩んでいたと思います」と。他の書簡も、何年もダ・ポンテが当時の《芸能欄》で物笑いの種にされていたと記している。

≪注(7)≫ガースパレ・リッポマーノはヴェーネト貴族で、昔気質の元老院議員だったが、あまりにも貴族というものを擁護し、自らの名誉のために死さえ称賛した。

≪注(8)≫ダニエーレ・アンドレーア・ドルフィーン(1748~98)。初めパリ大使(1780~86)であった。ウィーン大使セバスティアーノ・フォスカリーニの死(1785)を受けて、1786~92年ウィーン大使。彼の邸宅にダ・ポンテやカザノーヴァがしばしば招かれた。」
  ――『ロレンツォ・ダ・ポンテからジャーコモ・カザノーヴァへの手紙』(Giampaolo Zagonel 編、Dario De Bastiani Editore、1988)より

[次回は彼の『回想録』の一部の試訳、私には難解な翻訳への無謀と言える挑戦です。]
  1. 2010/05/22(土) 00:05:06|
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ロレンツォ・ダ・ポンテ(3)、ウィーン以後、死までの生涯

ダ・ポンテのゴリッツィアの滞在期間は短かったようです。ザクセン選帝侯のお抱え詩人 Caterino Mazzola` の紹介状を持ってウィーンに行き、アントーニオ・サリエーリに会いますが、その時は相手にされず、一年後サリエーリがヨーゼフ2世に拝謁させ、その結果年俸1200フィオリーノの《皇室劇場の詩人》の職務を与えられたのでした。
ロレンツォ・ダ・ポンテ像[当時の書籍からの、ダ・ポンテ像]  ウィーン到着直後、彼はピエートロ・メタスタージオに会ったようですが、当時のウィーンには詩人や音楽家が沢山蝟集したようです。ウィーン宮廷付き詩人 Poeta cesareo としても1700年代にはピエートロ・アントーニオ・ベルナルドーニ、スィルヴィオ・スタンピッリャ、ピエートロ・パリアーティ、続いてヴェネツィア出身のアポーストロ・ゼーノ、メタスタージオと続いたそうです。彼もそうした人達に類した仲間になった訳です。

彼が演劇台本を書いたのはゴリッツィアで、ルアルプ(Leharpe)『Il conto di Warwick』を喜劇一座のために脚色したのが初めてのようですが、サリエーリの音楽『Il ricco di un giorno』(1784)でウィーン・デビューを果たしました。それ以後ビセンテ・マルティン・イ・ソレルの『Il Burbero di buon cuore』(1786)、ジュゼッペ・ガッザニーガの『Il Finto cieco』(1786)と続きます。

彼は1783年、ユダヤ人男爵ライムント・フォン・ヴェッツラーのサロンでモーツァルトと知り合います。彼がモーツァルトのために初めて書いたとされる台本は、伝記作家アルフレート・アインシュタインによれば『騙された花婿(Lo sposo deluso, o sia La rivalita` di tre donne per un solo amante)』(1783――未完)だそうです。

その後ダ・ポンテのモーツァルトのためのイタリア三部作『フィガロの結婚』(1786)、『罰せられた放蕩者あるいはドン・ジョヴァンニ』(1787)、『コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの、あるいは恋人たちの学校)』(1790)が成功裏に終わります。『ドン・ジョヴァンニ』は1787年10月29日プラハ国民劇場で、モーツァルトの指揮で初演されました。

彼がヴェネツィアであれほど放蕩の限りを尽くしたことからすれば、ドン・ジョヴァンニを地獄へ送る結末まで書かざるを得なかった気持も分かる気がします。彼がドン・ファン伝説の系譜に目を通し、ティルソ・ダ・モリーナの最初の劇作品、モリエール『ドン・ジュアンまたは石造の客』(1665)、ゴルドーニ劇作品『ドン・ジョヴァンニ・テノーリョまたは放蕩者』(1736)、リギーニ『石の客人または放蕩者』、ベルターティがガッザニーガのために書いた、大成功のオペラ台本『ドン・ジョヴァンニ・テノーリョあるいは石の客人』(1787)等を目にしていたことは当然のことと思われます。

これらの作品と同時進行で、彼はマルティン・イ・ソレル『Una cosa rara, o sia Bellezza ed onesta`』(1786)と『L'Arbore di Diana』(1787)、サリエーリ『Axur, re d'Ormus』(1788)の台本を書いています。

彼がウィーンを後にした後トリエステからこの地に帰ってみると、演劇界は再び任命された宮廷詩人ジョヴァンニ・バッティスタ・カスティに支配されており、彼はなすすべもなくウィーンを去るしかありませんでした。サリエーリのオペラ『音楽が第一、言葉は次に(Prima la musica e poi le parole)』(1786)のカスティの台本は彼を揶揄したもののようです。

彼はトリエステで結婚していたイギリス人アンナ・セレスティーナ・グラールとパリに向かいました。ドイツのドゥックスでカザノーヴァと再会しますが、彼からは革命後のパリではなくロンドンに行くように薦められたようです。

ロンドンでもオペラ興行や出版活動等、色々模索したようですがうまくいかず(劇場支配人テイラーに大変切り詰めた費用と期間で歌手をスカウトして来るように頼まれ、イタリアに帰り、ヴェネツィア、トレヴィーゾ、パードヴァ、ボローニャ、フィレンツェと回った時、チェーネダの父に再会したのは1798年10月~99年3月のこと。また借金のため投獄されたことも何回かあったようです)、アメリカに渡っていた妻の実母の薦めに従って、結局債権者の手から逃れるために1805年新天地に向けて乗船しました。

アメリカでの生活も楽ではありませんでしたが、イタリア語を教えたりする内に、1825年コロンビア大学の伊語教授職を引き受けます。その頃マヌエル・ガルシア一座のニューヨーク公演(1825年5月23日)があり、『ドン・ジョヴァンニ』他ロッスィーニ作品等イタリア・オペラが彼の前で演じられました。この頃『回想録』を執筆しているようです。
[資料によりますと『ドン・ジョヴァンニ』のアメリカ初演は1817年11月27日ニューヨーク・パーク劇場とあります]

弟アゴスティーノと歌の勉強をしているその娘のジューリアが彼が80歳の時にアメリカを訪れ、彼女のために新しい音楽の企画をしました。上記の事が切っ掛けになったのか、イタリア・オペラ・シーズンを企画し、ニューヨークとフィラデルフィアでロッスィーニ、ベッリーニ、メルカダンテの35曲を上演します。1833年には『泥棒鵲(La Gazza ladra)』、続いて『シンデレラ(La Cenerentola)』『秘密の結婚(Il Matrimonio segreto)』『セビリャの理髪師(Il Barbiere di Siviglia)』、これがダ・ポンテ最後の企画でした。

1838年8月17日、90歳前で亡くなり、大勢の人に見送られたそうですが、1850年にはその墓は失われてしまったそうです。
[彼が生涯に書いた台本の数は、36本。『回想録』の巻頭の評伝から、概略彼の後半生を纏めてみました。]
  1. 2010/05/15(土) 00:03:32|
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ロレンツォ・ダ・ポンテ(2)、ヴェネツィア時代の評伝

「ロレンツォ・ダ・ポンテは1749年3月10日、チェーネダ(現、ヴィットーリオ・ヴェーネト)で、倹しい生活ではあるが、教育のあるジェレミーア・コネリャーノとラケーレ・ピンケルレの間に生まれた。出生時はエマヌエーレと呼ばれた。

父(イズラエル・ダ・コネリャーノの子孫の出で、この一家はチェーネダに、高利貸し業をやりに来て、ユダヤ人社会を形成した)が、鰥夫となり、あるクリスチャン女性と再婚したいと望んだ時、カトリックに改宗しなければならなかった。1763年8月29日、父と3人の子供は洗礼を受けた。この事は彼らに、信仰をそんな風に変えることの励みとなり、更に価値を見出すことになったのだが、当時、秘跡を与えた司教の姓名を貰うという慣習があった。エマヌエーレがその司教の名も貰ったのである。[『回想録』の中で、司教の名を貰ったのは家族の中で自分が優秀だったからだと書いています]。
ダ・ポンテ『回想録』弟ジローラモと共にチェーネダ神学校に直ぐ受け入れられ、1764~67年そこで学び、その後ポルトグルアーロの神学校に移り、そこで1770年下級叙階を受け、修辞学教師、副司祭となった。1773年3月27日司祭に任じられた。同年秋ヴェネツィアに移り住んで、貴族の家庭教師をしながら、放蕩生活に耽溺した。1774年後半の数ヶ月、トレヴィーゾの神学校にイタリア文学と修辞学の教授として移動した。

トレヴィーゾでは詩人として頭角を現し、アカデミー活動に従事した。1775-76年の学年終りに当たって、生徒に暗誦させた詩作品のテーマは、≪人間が市民社会の法律と配分のために、人類の幸福に向かって、狭くても平坦な道を持つことが出来るだろうか、あるいは人間は原初の状態の中にあって、この同じ法律のために、人類の幸福に関わっていられるだろうか?≫と。

それは彼が、必要な時にはいつでも発表出来るように予め用意していた、明らかにジャン=ジャック・ルソーにインスピレーションを得た着想[当時の進歩的啓蒙思想]の小論文であった。その事がトレヴィーゾのヴェーネト元老院の通達で、現地の査問官長の下、ヴェネツィア共和国全域で彼の公の教育活動が全面禁止(1776年12月14日)されることになったのだった。

そこでヴェネツィアに帰り、ベルナルド・メンモの客人、ピエートロ・ザーグリの秘書官、ジョルジョ・ピザーニの友人となり、上流貴族と改革派のスポークスマンとなった。ヴェネツィアではガースパロ・ゴッズィ[1713~86、『Gazzetta veneta』『Osservatore veneto』紙などの発行者。『トゥランドット』『三つのオレンジへの恋』等の作家カルロ・ゴッズィの兄]と知り合い、カザノーヴァと友情を温めた。

(≪貴族の鬘を付け、総督帽を被った皮肉屋≫と彼に渾名を付けようかと世間で囁かれ、≪金曜日に肉を食べ、日曜日は教会に行かなかった≫と告発されたことを仄めかし、それが彼の不幸の原因となったと『回想録』で言及している)そのカトリック信仰の掟を守らないことと、政治的に危険を冒した上に、刑を宣告され、逃亡を余儀なくされる事態を引き起こすことになるというような、そんな彼のヴェネツィアでの放蕩生活だった。

メンモ家に滞在していた時、既に彼の友達のテレーザと多分親密な関係にあり、後々まで軽率な行動が多く、ザーグリに仕え、仕事を始めるようになった時、羽毛加工職人のカルロ・ベッラーウディの家の傍に住み始めた。判決書から読み取れるように、ベッラーウディの若い妻アンジェラと知り合って数日後には、≪彼女のcotola[古くはゆったりした短い白衣、当時はスカートの意?]の下に手を差し入れていた≫のを目撃されていた。直ぐに不信を招き、彼女に髪を梳かさせながら、≪彼女の前を触っていた≫、また少し後にも自分の部屋で素裸になり、窓からそれを女に見せているところを見られている。

1777年8月30日、愛人に亭主を捨てさせ、彼の元に走らせることが出来たが、女に逃亡を決意させるために、ベッラーウディに手切金を与えるなどと嘘を言っている間に、女は陣痛を迎えて女子を出産したので、エスポースティに連れていった。

従弟の家に投宿し、アンジェラと自由に会うことが出来るようになった。アンジェラは女友達に見られていても、彼と連れだってサン・ルーカ教会へ行き、ダ・ポンテが執り行うミサに参加して、刺激するような目線を投げ掛け、教区の女連中とも暗黙の了解といった目付きを交わすのだった。

不安定な状態でベッラーウディの妻と同棲しながら、ベッカーリとかいう浮気女の家に彼女を連れていき、そこで全く不用心に彼女と抱き合っている姿を見られたこともある。≪驚いたので、立ったまま、直ぐに身を隠そうとした。彼女はcotola(スカート)を下げたままであり、彼はいつも纏っているtabaro(男用マント)で身を隠した≫。

同じ家でダ・ポンテは、収入を得ようと舞踏会を開催した。彼はスータン(神父服)のまま登場し、楽団を指揮し、ヴァイオリンを弾いた。

今や住んでいるサン・バルトラミーオ[バルトロメーオ]地区の激しい非難の的になっており、更にアンジェラが三度目の妊娠をし、≪司祭の情婦≫と広く知れ渡るに及んで、1779年5月28日彼に対する匿名の告訴状が投函された(多分ベッラーウディの書いたものだったに違いない)。

宗教上の尊厳に対する冒瀆罪の刑執行人は、誠実な女の略奪、不倫、同棲の罪で裁判を開始した。記録によれば、裁判所は彼を15年の追放刑に処した、もし違反すれば≪暗黒の牢獄≫に7年間幽閉する(1779年12月17日)、と。しかし、同年9月13日、彼の逮捕命令が出た時には、ダ・ポンテは既に逃亡を謀り、ゴリッツィアに居た。」
  ――Da Ponte『Memorie /I libretti mozartiani』(I grandi libri Garzanti、1976)の巻頭の《生涯》より

[彼がヴェネツィアから逃亡したのは、満29歳の時でした]
  1. 2010/05/08(土) 00:06:08|
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ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte)(1)

モーツァルトのイタリア語三大オペラ『フィガロの結婚』『罰せられた放蕩者あるいはドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの、あるいは恋人達の学校)』(未完の『騙された花婿』もダ・ポンテの台本ではないかと言われています)の台本作家であったロレンツォ・ダ・ポンテ(1749.03.10チェーネダ~1838.08.17ニューヨーク)が主人公の映画、スペインのカルロス・サウラ監督の『ドン・ジョヴァンニ――天才劇作家とモーツァルトの出会い(Io, Don Giovanni)』を Bunkamura の Le Cine`ma で上映しているというので、見に行ってきました。
映画『ドン・ジョヴァンニ』ヴェネツィアでは、司祭であったのに女漁りに耽溺し、放蕩生活に沈湎した挙句、ヴェネツィアから15年の追放刑を言い渡され、捕まる前に逃げ出した彼を、美男のロレンツォ・バルドゥッチが演じ、女にもてたダ・ポンテはかくも美男であったに違いないと、映画は大変楽しめました。

かつてヴェネツィアの語学学校通学時のある冬の日曜日、ロレンツォの痕跡を探しにヴィットーリオ・ヴェーネトに電車で行ったことがあります。この町は北のセッラヴァッレ(Serravalle)と南のチェーネダ(Ceneda)が、1866年ヴェーネト州がイタリア王国に併合された時、時の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名前に因み、この名前で合併したのだそうです(第一次世界大戦末、イタリアが最終的にこの地でオーストリア・ドイツ軍に勝利して、この名になったとばかり思っていました)。

ヴィットーリオ・ヴェーネト駅は、セッラヴァッレとチェーネダの各中心地から丁度中間に位置しています。先ずセッラヴァッレの博物館になっているロッジャ(開廊)に行ってみました。趣のある、1462年の美しい建物です。展示品の中で特に気になったのは3枚の肖像画でした。1枚はロレンツォの本で見たことのある彼の肖像画です。後で係の人にロレンツォの事を聞くと、彼についての評伝など3冊を出して見せてくれて、是非チェーネダの大聖堂広場に行き、図書館前の公園のロレンツォの銅像を見て行って欲しいと助言を貰い、チェーネダに向かいました。

チェーネダ大聖堂広場にはヨハネス・パウルス1世像が大聖堂前にあります。例の3枚の肖像画の1枚が彼の物だと合点しました。帰国してから、この教皇が大変在位期間が短かった(33日間、1978.08.26~1978.09.28)ことを知りました(亡くなった直後ヴァティカンの取った矢継ぎ早の証拠湮滅としか思われないおかしな行動のため、暗殺されたとする説が根強く、教皇の目指したヴァティカン改革の芽も摘まれたそうです――改革反対派の中心人物マルチンクス大司教の疑惑の行動)。それよりずっと前にも、ウルバヌス7世は1590.09.15~09.27(13日間)と短かったそうです。

図書館はお昼には閉館しますが開くのを待って午後入館し、ロレンツォの事を尋ねてみました。9冊ほど彼に付いての本を出してくれました。その内の数冊を列記してみますと、Aleramo Lanapoppi『ロレンツォ・ダ・ポンテ――モーツァルトの台本作者の生涯における真実と伝説』(Saggi Marsilio)、Giampaolo Zagonel 編『ロレンツォ・ダ・ポンテからジャーコモ・カザノーヴァへの手紙 1791~1795』(Dario De Bastiani Editore)、有名なモーツァルト学者H.C.ラビンズ・ランドンの序言のある英語本、Sheila Hodges『ロレンツォ・ダ・ポンテ――モーツアルトの台本作者の一生とその時代』(Universe Books、Park Avenue South New York)、Istituto Poligrafico e Zecca dello Stato『イタリアの書籍・雑誌についてのノート――ロレンツォ・ダ・ポンテへのオマージュ』(Libreria dello stato)、Lorenzo Da Ponte『Il Ricco d'un giorno』([1784年アントーニオ・サリエーリ音楽のウィーン・デビュー版の覆刻本]Citta` di Vittorio Veneto、1989)等。

図書館前の公園の中央には、青年時代の詩作に励むロレンツォの姿が銅像に刻まれ(図書館の司書の方の話では1999年作)、セッラヴァッレの博物館の少し老いたロレンツォ像とは異なり、新鮮なイメージを受けました。生まれ育った生家等何も発見出来なかったものの、彼に会えたような満足感がありました。
ロレンツォ・ダ・ポンテ銅像の走書き詩作するロレンツォ・ダ・ポンテ[追記、ウィキペディアから写真を借用] [ヴィットーリオ・ヴェーネトに着き、シャッターを押した時、フィルムの終了が分かるという不注意(日曜は商店休み)のため、写真が取れませんでした。連れ合いの走書きで代用です]

山の崖の上に遠くからでも目に付く十字架があり、町の人に訊いてみると第一次世界大戦の戦没者の慰霊碑だそうで、駅に帰ってきてホームから見上げると目の当たりにあり、戦死者は相当な数だったのでしょうから、いつまでもその事が風化せず、この地が激戦地だった記憶を新たにすべく、遠くからでも見えるように掲げられているのではないでしょうか。

そんな事を思い出しながらの映画鑑賞でした。次回は彼の『回想録』の巻頭の評伝の一部、ヴェネツィア時代の彼の事を訳出してみます。
  1. 2010/05/01(土) 00:02:24|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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