イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: マイネッラ館、ロレダーン・デッランバッシャトーレ館、モーロ館

コンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館の右の、サン・トロヴァーゾ運河(rio de S.Trovaso―ジュデッカ運河に速くアクセスしたい時はこの運河が利用されるそうです)を越すとマイネッラ館(casa Mainella)です。『大運河』(1993)の記述は以下のようです。
ロレダーン・デッランバッシャトーレ館他[マイネッラ館とロレダーン・デッランバッシャトーレ館、モーロ館] 「前面に小庭園、脇に小テラスのある低い建物で、ロドヴィーコ・カドリーンによって1858年に建てられた。彼はロンバルド派の初期ルネサンス様式にインスピレーションを得て、テラコッタ装飾で縁取られたアーチの窓を実現している。」

更に右にはロレダーン・デッランバッシャトーレ館(P.Loredan dell'Ambasciatore)が控えています。『ヴェネツィアと入江』(1926)の叙述は次のようです。

「現在はジュゼッペ・ガッジャの所有。15世紀ゴシック様式の建物。建築的全体として均整の取れていること、また典型的なオジーブ式の窓、あるいはまた2ヶ所の壁龕の中で、15世紀末ルネサンスのロンバルド風の盾を支える気品ある2人のプット(子供)の彫像で知られている――1891年の火事の後、館は大幅な修復が施された――この共和国に1700年代ウィーンの皇帝大使が駐在していたので≪dell'Ambasciatore(大使の)≫と呼称された。」

『大運河』(1993)では表現は次のようになっています。

「1470年頃の後期ゴシック様式の建物で、極めて厳格な建築的規範とその美しいバランスに特徴がある。ピアーノ・ノービレの四連窓のアーチは複雑に入り組み、四弁模様となっている。脇のモノーフォラ(一面式窓)の間の二つの壁龕には初期ルネサンスを予告する盾を支える小姓像が納まっている。館がこう呼称されるのは、1700年代神聖ローマ皇帝大使がここを邸宅としたからであった。火事のため損傷を受け、1891年修復された。」

チェルキエーリ(Cerchieri)通りを隔ててその右隣りは、モーロ館です。『大運河』(1993)から訳出してみます。

「16世紀初頭の簡素で飾らない建物、1800年代に手が加えられた。石造りの滑らかな壁面は、上の階では中央に二つの四連窓が集まるような単純な開口部(窓)が壁面の連続を断つ。10世紀まで著名な一家であったモーロ家は、1297年の serrata[大評議会の議員資格を限定して、新たな家系の参入を制限し、法的身分の貴族階級が規定された]で貴族として登録され、未だに繁栄を見ている。

モーロ家はヴェネツィアで有名な行政官や司令官を輩出した。総督クリストーフォロ(1462~71在位)は正にこの建物に生まれた。モーロ家に対する中傷文書は、一家のメンバーの一人に降り掛かった夫婦の悲劇について語っている。その事からシェイクスピアが『オテッロ(オセロ)』のヒントを得て、名前から類推してムーア人を考え出した。

モーロ家の館の一つが《オテッロの家》と呼ばれていることを強調しようと、大運河に顔を見せる盛期ゴシックの華麗な建物は《デズデーモナ(英語式デズデモーナ)の家》[サルーテ教会の正面にある]と呼ばれる。正にオテッロの“オリジン”は若きクリストーフォロであり、デズデーモナは彼の最初の妻だったと思われている。

総督はサン・ジョッベ教会の主祭壇前に埋葬されている。そして懐疑論者が単なる伝説に過ぎないと主張しても、墓石の上に彫られた一家の紋章の上に、一人のムーア人の女を見出せるのは興味深いことである。シェイクスピアは薄い、黒苺の実の模様を刺繍したハンカチをオテッロのデズデーモナに対する愛の印として表現した。

この総督について知られる確かな事は、彼が自分の選挙の時に非常に慈悲深くなり、聖ベルナルディーノ・ダ・シエーナの友人になったことである。そしてトルコとの戦争が再発したので、彼の職務が厳しく困難になってきたということである。更に我々が知っていることは、教皇ピウス2世(Pio Ⅱ)が十字軍を派遣したことである。しかしクリストーフォロはそれに参加したくなく、これに関する決定は延期しようとした。

ヴェットール・カペッロは――将来敗北を目の当たりにし、悲嘆の余りに死ぬことになる――そんな総督を叱責し、マリーン・サヌードが現代に伝えるところによれば、「Serenissimo principe, se la serenita` vostra no vora` andar co le bone, la faremo andar per forza, perche` gavemo piu` caro el onor de sta terra che no xe la persona vostra.(かくも晴朗なる我が君よ、もし殿が懇篤に説き伏せたくないと仰せられるならば、殿の臣下でもあり、この地の名誉を重んずるが故に、我らが必ずや参加させましょう)」と言って、元老院が満場一致を見たのはその時のことであった。

こうして嫌々ながら総督は、軍隊の出発を認めざるを得なかった。1464年最終的に海に乗り出したが、教皇の死でヴェネツィア艦隊が故郷に静々と帰還した時、十字軍は失敗に帰した。」

サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会前広場から見ると、対岸正面にコンタリーニ・ファザーン館(P.Contarini Fasan――次回紹介)という瀟洒な建物があります。これが《デズデーモナの家》と呼称されているもので、『大運河』(1993)は次のように述べています。
コンタリーニ・ファザーン館「1475年頃に建てられた、大運河では最小の建物の一つだが、その潤沢な装飾のため、人の目に付からざるを得ない。2階は三連窓、3階は肌理の細かい透かし入りのバルコニーが付いており、モノーフォラ(一面式窓)のアーチ状に曲がったオジーブの突端には大きな花形模様が付いている。その枠の大理石の稜線は、柱から頂上まで流れていく。

《デズデーモナの家》としても知られている(上記《モーロ館》参照)。コンタリーニ家のこの分家に与えられたファザーンという渾名は、この家の代表的な人物の一人が雉猟の情熱があったことから来ているらしい。」
  1. 2010/06/26(土) 00:03:59|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: コンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館他

アッカデーミア停留所の右隣には、かつてのカリタ運河の一部が顔を見せており、その奥はカリタ埋立通り(rio` tera` de la Carita`)となっています。その右には目立たない2階建ての低い19世紀の住宅、更にクェリーニ・ヴィアネッロ(Querini Vianello)館と続きます。E.&W.Eleodori の『大運河』(1993)は次のように述べています。

「カリタ広場に面した一角に立つ、単純な線模様の建築(1700年代)。ゴシック式建築物のエリアに建てられたので、ピアーノ・ノービレ[貴族の館の主要階で通常は2、3階にある]の中央に、テラス付きの単純なアーチ状の三連窓があり、その両側にそれぞれ窓を併設している。現在はイギリス領事館の所在地である。」

その右隣りにはモチェニーゴ・ガンバラ(Mocenigo Gambara)館があります。『大運河』(1993)は次のような話を載せています。
モチェニーゴ・ガンバラ館他[中央がモチェニーゴ・ガンバラ館] 「17世紀後半の建設。この倹しい建物の特徴は右側に寄った三角形のペディメントに接するセルリアーナ[16世紀の建築家セバスティアーノ・セルリオが紹介した中央アーチと左右の水平材から成る三連開口部。彼はパッラーディオ等に影響を与えたという]式の、入口玄関が中心軸となる窓である。左側はアーチ状の小型のペディメントの窓が規則的に続いていく。

中庭に面した内部の正面は、その後ポルデノーネのフレスコ画で飾られた。現在はヴェネツィア工業連盟の所在地となっている。

ブレッシャ出身でヴェネツィアに越してきた貴族のガンバラ家は、特に1550年に亡くなった詩人のコッレッジョ侯爵夫人ヴェローニカで知られている。一家はカンディア戦争中、共和国の10万ドゥカートの要求に応じただけでなく、他にも夥しい財政援助をしたことにより、1653年貴族を名乗ることが許された。

[カンディア(Candia伊語)=クレタ島のイラクリオン。ヴェネツィアは1645~69年の長きに渡って、トルコ軍のクレタ包囲戦を闘い、その闘いは una vera guerra di Candia(“妥協なき抵抗”を意味する)と言われましたが、1669年9月6日海軍司令長官フランチェスコ・モロジーニは権限を超えて、カンディアのトルコへの譲渡と引き換えに、オスマン帝国宰相アフメット・キョプリュリュと平和条約を結びました。包囲戦に要した費用は425万3000ドゥカート。]

この戦争はかくも長き長期戦であり、精も根も尽き果てるものだったので、《andare in Candia(カンディアに行く)》というヴェネツィア独特の言い回しは《一文無しになる》という意になった。

この邸宅は著名な艦隊司令長官ラッザロ・モチェニーゴが生まれた家であり、1678年エレオノーラ・ガンバラがフランチェスコ・モチェニーゴと結婚すると、ガンバラ家の所有に帰した。」

更に大運河を下ると、コンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館(Palazzi Contarini degli Scrigni e Corfu`)という2棟が繋がった館となります。『大運河』(1993)の記述は以下の通りです。
コンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館[中央は2棟が繋がった白いコンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館] 「異なる時代の二つの建物が隣接しているもの。右側は後期ゴシックの物で、近くにあるロレダーン・デッランバッシャトーレ(Loredan dell'Ambasciatore)館に非常に近似しており、前面は中央に華麗な四連窓があり、三つの部分に分かれている。17世紀にサン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂のファサードを完成させたパッラーディオの弟子フランチェスコ・ズメラルディの手(?)によって内部が改装された。

左側は1609年のヴィンチェンツォ・スカモッツィ[パッラーディオの弟子]の作品である。ゴシック建築の階の高さを保つ必要性ということ、また恩師の存在というものが彼に及ぼした強い絆というものを感じさせる。

1階は浮出し飾りのある切り石積みの壁面となっており、上の階は付け柱でアクセントが付けられ、その間に柱で支えられた窓が開かれている。屋根の上には屋根裏部屋の他に、内部の美しい螺旋階段がそこまで続く小塔が見える。

この非常に古い建物に付けられたコルフという名前が、コンタリーニ家がこの島コルフ[Corfu'――現ケルキラ島]で行っていた商業活動を指しているのは明白である。またスカモッツィが建てた建物の《degli Scrigni》という渾名は、この一家の分家の途方もない富、即ちピアッツォーラ・スル・ブレンタ[パードヴァ北]の豪奢なヴィッラに所有する夥しい宝石に関連している。

1838年ジローラモ・コンタリーニはヴェネツィア市に貴重な絵画コレクションを残し、アッカデーミア美術館に収められた。」
  ――E.&W.Eleodori 『大運河』(1993)より

この建物について『ヴェネツィアの邸館(Palazzi di Venezia)』(Raffaella Russo, Arsenale editore, 1998)は次のような情報を与えてくれます。

「この館もまたバルバロ館のように、時代の異なる二つの隣接し合った建物の合体の所産である。《コルフ》と呼ばれるオジーブ式の館は、1300年代末頃《金のペンチ》と渾名されたピエートロ・コンタリーニが建築を依頼し、もう一つは1609年ヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計で始まり、1630年完成した。

17世紀の建物をゴシックの建物と統合するという案は、沢山の宴会場を利用したいという理由があった。新しい方の館の名前《degli Scrigni》はピアッツォーラ・スル・ブレンタにコンタリーニ家が所有するヴィッラに保管される宝石を収めた宝石箱に由来する。

コルフ館での記録さるべきレセプションは、パーオロ・コンタリーニがアンドレーア・グリッティ[総督、1523~39在位]の孫娘ヴィエンナと1525年結婚した時のものである。ティツィアーノはこの有名な総督を度々描いている。
ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』[ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティの肖像』、ウィキペディアから借用] 盛大な宴会が何日も続いた。宗教儀式と総督宮殿での大舞踏会の後、花嫁は宝石で飾り立てた130人の貴婦人達に付き添われ、ブチントーロ船に乗り、昼間のように明るく照らされた大運河を花婿の館まで航行した。

コンタリーニ家の最後の子孫ジローラモ伯が1800年代前半に亡くなった時、館はヴェニエール家に生まれた2人の姪に遺贈された。続いて建物はマティルデ・ベルトルド伯夫人の手に渡り、今ではロッカ伯爵家の所有となっている。絵画、書籍、写本の類の貴重なコレクションは、アッカデーミア美術館とサン・マルコ図書館(Biblioteca marciana)で各々保管されている。」
 ――R.Russo『ヴェネツィアの邸館』(1998)より
  1. 2010/06/19(土) 00:01:38|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――ジャン=フィリップ・トゥーサン

ジョン・ルヴォフ監督のモノクロ仏映画『浴室』(1988)を見たことがあります。まるでイータロ・カルヴィーノの小説『木のぼり男爵』のようにバスタブに住みついた青年が、Chi non risica, non rosica とばかりに、突如浴槽から出、ヴェネツィアに行く不思議な映画でした。

この『浴槽』には原作があり、それはフランスの現代作家ジャン=フィリップ・トゥーサン(1957.11.29ブリュッセル~ )のデビュー作『浴室』で、彼の作品はその他にも集英社から『ムッシュー』『カメラ』『ためらい』等が翻訳出版されています。
ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』 [ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』(野崎歓訳、集英社文庫、1994年11月25日発行)] 「(51)教会は――サン・マルコ寺院だ――薄暗かった。両手をコートのポケットに突っ込んで、ゴンドラのようにそり返った大理石張りの床に沿って足を滑らせながら、しぶしぶエドモンドソンについていった。床のあちこちにモザイクが施されている。金塗りの宝物めがけてどんどん進むエドモンドソンを先に行かせて、彼女を待つあいだ、円柱に寄りかかって頭上のアーチを眺めていた。

戻ってくると彼女は(ぼくはベンチを見つめて坐って待っていた)、宝物殿を見にいこうと言ってぼくを立たせ、手を引っ張って身廊を進んだ。二人分の入場料を払ってから、電灯で照らされた狭い礼拝堂の中に入る時、ぼくは頭をかがめなければならなかった。四方の壁にはガラス張りの陳列棚が並び、武具や聖器類が展示されている。礼拝堂中央の、ガラス・ケースの中にも、その他の宝物が収められていた。

ぼくらは二人の老紳士の後について陳列物を眺めたが、紳士たちが、何か珍しいものがあるたびに、立ち止まってはそれを指差し合うので、ぼくらもその都度足を止めなければならない。彼らが身を完全に乗り出し、眼鏡を額に持ち上げて、中世の弓の前で動かなくなった時(まるで弓というものを初めて見たかのような様子だ)、ぼくは彼らの横をすり抜けて追い越すのに成功した。ひとめぐりしてから部屋を出、洗礼室の壁柱に寄りかかってエドモンドソンを待った。
……
(53)午後遅くになって、エドモンドソンが部屋に戻ってきた時に、ぼくは窓から外を見ていた。彼女はベッドに腰を下ろし、靴を脱いだ。身を乗り出すと、アカデミア美術館で、セバスチアーノ・デル・ピオンボの、とても暗い色の、うっとりするような絵を三枚見たわ、と言って、足をマッサージしながら、ぼくに、この画家をどう思うかと尋ねた。言葉で説明するのは難しい。

少し待ってから、彼女が質問を繰り返したので、正直言って、絵についてどうこう言うのはもううんざりなのだ、と答えた。エドモンドソンはそれ以上何も言わずに立ち上がった。服を脱ぐと、スーツケースを開けてスコートを探そうとした。もうテニスをやる気もなくなったよ、とぼくが付け加える。

エドモンドソンは仕方なくまた服を着ると、つまんない人ね、と言った(第一、ショートパンツがないんだよ、とぼく)。」
  ――『浴室』《直角三角形の斜辺》篇(野崎歓訳、集英社文庫、1994年11月25日発行)より
  1. 2010/06/12(土) 00:01:21|
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サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ(マーリブラン)劇場

「貴族のグリマーニ家がトンマーゾ・ベッズィの案で1677年に建てた劇場[グリマーニ家としては、サン・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場、サン・サムエーレ劇場に次ぐ3つ目の物]。その場所にはかつてマルコ・ポーロ家の建物が建っていたが、それは1500年代末に火事で焼失していた。
マリブラン劇場[マーリブラン劇場、Wikipedia から借用] 1678年のカーニヴァル時、カルロ・パッラヴィチーノのオペラ『ヴェスパジアーノ(Il Vespasiano)』[ネロ没直後のローマ皇帝ウェスパシアヌス]で開場した。1600~1700年代を通じて、主に歴史に取材した音楽劇を上演した、その中にはカルロ・フランチェスコ・ポッラローロ、アントーニオ・ロッティ、アントーニオ・カルダーラらがいる。

ヨーロッパで最も美麗、最も有名、最大の大きさ(舞台は26mX20m)、そしてヴェネツィアでも最も豪奢な飾り付けの劇場であった。巨大なシャンデリアが天井からぶら下がり、開幕すると天井に引き上げられた。桟敷席の全ての柱は彫刻と装飾が施された。舞台装置は同時代人の驚きと称賛をもって迎えられた。それ故ヴェネツィア全劇場が入場料を半額に下げた時、ここだけは華麗な装飾と観客の社会的レベルの高さで、料金不変で済ますことが出来た。

1679年オーケストラは40人という規模で構成され、その数字は当時としては破格のものだった。1707年アレッサンドロ・スカルラッティの二つのオペラが板に上った。ある伝記作者は、若いゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(ジョージ・フレデリック・ハンデル)が1707年1月14日に、ここでクラヴィーチェンバロを演奏し、皆を驚嘆させたと語っている(全伝記作者が認めている訳ではないが)。
[アレッサンドロ・スカルラッティの『ミトリダーテ・エウパトーレ(Mitridate Eupatore)』[反ローマの姿勢を貫いたポントス王ミトリダテス6世]の初演は1707年]

1709年12月26日、ヘンデルの『アグリッピーナ』[ネロ皇帝の母]が、作者出席の下での上演で、大成功を収め、27回続演された。1730年にはアードルフ・ハッセの『アルタセルセ』[アケメネス朝ペルシア帝国の王アルタクセルクセス]は大成功であった。1734年にはあらゆる時代を通じて最も有名な2人のカストラート歌手カルロ・ブロースキの《ファリネッロ》とガエターノ・マイヨラーノの《カッファリエッロ》が同じシーンで登場し比較された。

1756年にはアントーニオ・コドニャートにより修復された。1747年まで劇場は音楽劇のみを上演していた(ヴェネツィアでは唯一)。しかし経済的要因のため、喜劇団も呼ばざるを得なくなった(ガースパロ・ゴッズィとカルロ・ゴルドーニの協力を得た)。次第に観客のタイプ(好み)が変質していったのである。1700年代末、上演中でも栗と煮洋梨売りの屋台が1階平土間席に置かれるようになったのはそんな時期だった。

徹底した修復が施され、新しい所有者ジョヴァンニ・ガッロの希望で、1819年10月31日ジョアッキーノ・ロッスィーニの『泥棒鵲(La Gazza ladra)』が上演された。1834年全面改装され、エメロニッティオ(Emeronittio)劇場と改名された。それは昼も夜も利用可能なように、大きな窓を設置しての開場だったからである。

1835年4月8日有名な歌手エルヴィーラ・マリブラン[著者は Elvira と書いていますが、ロッスィーニの『オテッロ』歌手マヌエル・ガルシアの娘マリア・フェリシアのことで、後にウジェーヌ・マリブラン(仏人)と結婚し、この世紀、一世を風靡したマリア・マリブランのことのようです]が、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの『夢遊病の女』を歌って大成功を収め、劇場主は彼女に敬意を表し、《マーリブラン劇場》と再び劇場名を変えた。

[彼女が『夢遊病の女』を歌った時、第一幕の最後で舞台に花束が投げ入れられ、天井桟敷の席からは鳥籠の鳥が放たれました。彼女は報酬の4,000オーストリア・リラを劇場のために役立てて欲しいと、劇場主ガッロに差し出しました。その事を受け、彼は劇場名を《マーリブラン劇場》と変更し、敬意を表明します。翌1836年6月落馬の怪我が原因で、彼女は28歳の若さで亡くなりました。その歌唱は当時の多くの偉大な作家や芸術家達に大いに称賛されたそうです。因みにその名前を列挙してみますと、ハンス・アンデルセン、アルフレッド・ド・ヴィニ、ジョルジュ・サンド、ショパン、ドニゼッティ、パガニーニ、ベッリーニ、ミュッセ、モシェレス、ラファイエット、リスト等。]

1849年のオーストリア占領中、劇場は砲撃を受けた。≪大砲の弾の一つは平土間席のほぼ真ん中に落ちた≫。1875年7月10日ジュゼッペ・ヴェルディの『レクイエム(Messa da requiem)』が、演劇形式で演奏され、大成功を収めた。1800年代末レパートリーがオペレッタに限られた。1890年建物は新エジプト・スタイルで修復された。

1900年代初頭、あらゆる催物が板に乗せられた: 映画、曲馬団の出し物、レスリング、前座ショー、散文劇、オペラ、オペレッタ。1919年再び改装され、以来劇場としてまた映画館として使用される。1979年9月26日サルヴァトーレ・シャッリーノの『石棺の鶉(Cailles en sarcophage――中に詰め物をした鶉料理の事のようです)』が上演された。

1980~83年講座や実験工房となり、バレリーナで振付師の Carolyn Carlson が『Undici onde』(1981.02)、『Underwood』(1982.02)、『Chalk Work』(1983.03)の上演準備をした。」
  ――Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola di musica antica Venezia、1995)より

何年か前から市の再利用[市の所有になったのは1992年]の決定を待ちながら閉鎖されていたようですが、1996年1月29日のフェニーチェ劇場の焼失[その再開場は2003年12月14日]を受けて、2001年修復がなり、再度音楽堂(la seconda sede della Fenice)として蘇りました。次の市のサイトもどうぞ。teatro Malibran
炎上するフェニーチェ劇場(1)炎上するフェニーチェ劇場(2)[炎上するフェニーチェ劇場] ジョン・ベレント『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日発行)を読みました。推理小説を読むように楽しく読みました。フェニーチェ劇場の火災の事だけでなく、ヴェネツィアの現状がとても身近に感じられました。大分前ですが、逃亡した放火犯のエンリーコ・カレッラがメキシコに潜伏していることが判明したとPC上で言っているのを聞いたことがあります。
  1. 2010/06/05(土) 00:01:35|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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