イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

TV『ベネチア 夏編』と映画『Beautiful Islands』

昨年、BSで放映されたヴェネツィア歩きのTV『ベネチア 夏編』が先日7月9日、NHK 総合で再放映されました(再放送は7月16日)。毎年のようにこの地を訪れた者にとっては、このシリーズは懐かしい限りの場面の連続です。この街歩きシリーズの第一回にはヴェネツィアが選ばれ、冬のヴェネツィアが前・後篇と二度に渡って放映されました(先日7月27日には、ヴェネツィアがベスト・ワンに選ばれた『あなたが選ぶイタリア絶景50』の再放映もありました)。

私にとってこの『ベネチア 夏編』で感銘的だったのは、その後半で登場するサン・マルティーノ教会の場面です。画面右の教会からカメラは教会前広場から左へパンし、運河沿いの建物を舐めていきます。橋手前のゴシック式窓の館をカメラは捉え、再びカメラは教会に戻っていきます。このゴシック式の館はこの近辺では珍しく、2階、3階はオジーブ式の三連窓の両脇に monofora が設置され五連窓風であり、屋上にはアルターナがあります。

大聖年2000年末冬、私は二度目の語学留学で、語学学校のマッシモ先生の家を借りることになっていました。そのゴシック式の館は彼の母堂の持物で、その、ある階を借りることになっていたのですが、突然市の方針でここが修復されることになり、館全体がテントを被ることになったのです。急遽マッシモ先生は直ぐ近くの自分の住宅を私達に明け渡し、自分は母親とテントを被った館に移り住むことにしたのでした。

到着時は取り敢えず、この館の2階に荷物を置かせて頂き、後で彼の部屋へ案内して貰いました。ソルボンヌ大学を優秀な成績で卒業したという彼の応接間の壁面は、壁一杯に大変な量の仏語の書籍が占めていました。

そのアパートはアルセナーレ脇のド・ポッツィ(Do Pozzi)広場から北へ入るマーニョ(Magno)通りにありました(この広場については2007.10.28日に書きましたCampo Do Pozziで触れており、映画『ベニスで恋して』の後半で、その一場面が登場します)が、このアパートで体験した初めての事があります。朝5時ぐらいだったでしょうか、サイレンが3度鳴り、その後ぷっつりと鳴り止みました。最初思ったのは、すわ、火事!ということでした。

朝起きて学校へ行こうとすると、橋など運河近くは全て水で覆われ靴では歩けません。帰宅し、靴を長めのビニールで包み、学校近くのサン・バルナバ広場までは何とか辿り付けましたが、サンタ・マルゲリータ広場の学校前のカナール埋立通り(rio tera` Canal)は水が深く、水が引くまで拳骨橋で待ちました。その日帰校時、アックァ・アルタ用の長靴を買いました。朝のサイレンはこの高潮の予告と商店に商品を高みに移すように警告するサイレンだったようです。

ヴェネツィアの映画をやっているというので、恵比寿ガーデンシネマに見に行ってきました。海南友子監督のこの映画は、題して『Beautiful Islands』。この映画は地球上から消えようとしている島、南太平洋のツヴァル、ヴェネツィア、アラスカのシシマレフ島の3島を消滅寸前としてドキュメントしたフィルムです。
Beautiful Islandsツヴァルの現状は恐ろしいばかりです。南太平洋の孤島です。ヴェネツィアはすぐ傍にテッラフェルマがありますから、ツヴァルよりは深刻ではないでしょう。ヴェネツィア人の言わば楽天的なところは、ツヴァルやシシマレフと違って、ヴェネツィア島を作り上げた一千年も前の建国の初期から、高潮 acqua alta を何とかクリアーしようという努力を毎年繰り返してきて、高潮を凌いできたことにあると思われます。

しかし毎年確実に数度やって来る高潮を何とかしようと、何年か前から、モーゼ計画という防潮壁の建設工事が始まっていますが、ヴェーネタ潟の自然を壊すとしてモーゼ計画に反対する派と工事推進派の対立が激しく、工事はスムーズに機能していないようです。2008.10.26日に書いたアックァ・アルタ(高潮)も参考までに。

高潮は次の5条件が相乗的に重なると引き起こされると言います。①10~12月にアフリカからシロッコという季節風が北上してきます。特に気圧が低くなるとアドリア海の海面を押し上げます。②ヴェネツィアでは1日の干・満潮の差が120㎝あるそうです。③新月満月の時もアドリア海の最深部の潮が高くなります。そして④地球のユースタシー(eustacy)現象、即ち地球上の海面上昇。ツヴァルはこの現象の影響をもろに受けています。ヴェネツィアの場合かつては年、数度だった高潮現象が度々になったことです。今では対岸本土側の地下水の汲み上げは禁止され、⑤地面沈下は冶まったものの、地面は確実にかつてより沈下したままなのです。これらが重なって高潮が島を沈めそうな時は、3時間前には市はサイレンを鳴らし、商人達に注意をアピールしていました。現在では携帯電話等でも注意を喚起しているそうです。
  1. 2010/07/31(土) 00:02:28|
  2. ヴェネツィアの街
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伝説「マステッリ・デル・カンメッロ館と4人のムーア人」(2)

(続き)
「……当時のヴェネツィアではアントーニオ・リオーバとその兄弟に謀られたペテンの事を語れる家族が何百といた。確かに有能な商人だったが、利益のためには良心の呵責というものはなかった。
ヴェネツィアの神話と伝説ある夜彼らの家の玄関口で、清楚な身なりの優しそうな夫人が戸を叩いた。確かに特別裕福そうではなかったが、彼の小間物屋で布地を買いたいと言った。主人は用向きを直ぐに理解し、夫人を店に連れていくと言った。≪私は可哀想な寡婦で小さな子供を抱えています≫と女が言った。≪夫は数ヶ月前死にました。私は稼いで子供を養うために、店をもう一度開かないと駄目なんです。トーニさん(アントーニオ)、私はあまり自由になるお金がありません。でも買わせて下さい。そうして頂ければ有り難いです。毎日お祈りをしながらあなたの事を思い出します≫。


レヴァントの狡猾な商人は一瞬の内に決めていた。寡婦の店は自分の物になる! リオーバは答えた。≪ご夫人、あなたの境遇はよく分かります。あなたの物入りに付け込むつもりなど毛頭ありませんから。あなたの力になれますよう、このフランドルの素晴らしい、高価な布地を捨値で提供致しましょう≫。

女はリオーバの言葉をうっとりと聞きながら、事実は全くありふれた粗悪品の、プリントの木綿地の巻物を注意深く見詰めた。≪ご覧下さい。この店に入ったご婦人方皆、ドゥカート金貨や銀貨をちらつかせてその布地を奪い合いますよ。そりゃ、確かですとも。一瞬の内に売切れになりますよ。うまい商売です≫と付け加えた。

彼は腹黒い調子のいい話を大いに強調するために、≪我らが父、主は、私が嘘を言っており、私の考えと一致しないとなれば、私を石に変えてしまうでしょう。兄弟よ、さあ、お前らも誓うがいい。このご夫人が、我々が誠実であることを納得して下さるように≫。そして弟達も同じように誓った。

≪分かりましたわ≫。女が言った。≪この布地、頂きます。皆さん有り難うございます。神様に、あなた方を栄光と健康に導くあの誓約の証人になって下さるよう、お願いしますわ。あなた方の事、あなた方の優しさは決して忘れませんわ≫。

こう言って、小さな袋からお金を取り出し、店の大きなテーブルの上に置いた。金が落ちるとチリリンと寂しそうな音をたてた。アントーニオ・リオーバが手を伸ばして、摑もうとして触るや、それは石に変わってしまい、手も腕も、更に全身が石に化けてしまった。同時に兄弟も恐怖の余り身動きならず、彼らも石化してしまったのである。

≪あなた方には当然の報いよ。あなた方の今まではインチキと不正直そのもの。今日だって貧しい女の前で、騙すのはヘッチャラだったわ≫。実はこの女はマグダラのマリアだった。神が、彼らに当然のその神聖な罰を厳しく下す前に救ってやろうと、極端な事をやったのだった。

この時から兄弟の像は、彼らの所有する館の外の壁面に据えられることになった。商売で不正をすれば、いかに不幸をもたらすかという記憶を永遠に残すために。」
 ――『Miti e leggende di Venezia(ヴェネツィアの神話と伝説)』(Marcello Brusegan著、Newton Compton editori、2007.10)より

追記=2010.07.31日。ヴェネツィア・ニュースを見ると、リオーバの頭部はようやく本来の住処に帰ることが出来たようです。《Sior Rioba torna a casa!》(10月初め、お披露目の式があったそうです)
  1. 2010/07/24(土) 00:03:24|
  2. ヴェネツィアの伝説
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伝説「マステッリ・デル・カンメッロ館と4人のムーア人」(1)

2010年4月末、カンナレージョ区のモーリ広場(C.dei Mori)角のムーア人リオーバの石像の頭部が何者かに盗まれました。その鼻に触れると幸運をもたらすという言い伝えがあり、今ではその鼻が欠けて金属で接骨された像です。幸いなことに何日か後、新たな骨折もなく近所に放置されているのが見つかったそうです。そのムーア人に関して次のような伝説があるようです。
リオーバ像頭部を盗まれた Sior Rioba 像[左、『Venezia Nascosta』より借用したリオーバ像、右、顔無しリオーバ像] 「マステッリ・デル・カンメッロ館はモーリ広場に面して建っている。マドンナ・デッロルト教会の斜め前である。ごちゃ混ぜスタイルではあるがピクチャレスクなこの住居の一風変わった命名は、運河に面した主要ファサードに彫られた浮彫による。それは駱駝を引くオリエント風の装いの男を現している。恐らくその姿は1112年ヴェネツィアにやって来た貴族階級、というよりは裕福な商人階級に属していた館の主人が中近東出身であることに関連している。

将来ここから直ぐの所、即ちマドンナ・デッロルト広場に信心会の在所、サン・クリストーフォロ・メルカンティ同信会館が生まれる。

マステッリ家は大評議会に認められ、続いて何故かよく分からないが受入が拒否された。彼らは武装した船で香辛料を商った。この自慢の駱駝の看板で直接に取引をし、積荷が重荷になることはなく、堂々と商売を進める中、それを強化していった。

この像は沢山の問題を投げ掛けてきたし、今でもそうである。モーリ広場にある直ぐ近くの建物の基礎部分に嵌め込まれた4人のオリエント人のミステリアスな像。4人の人物の事は未だに知られておらず、その特定は未解決である。マステッリ家の始祖の姿として示されているのは、マルチャーナ図書館保存の、ある家族の17世紀年代記の中に記されている。

正確に言うと、この年代記には3人の兄弟リオーバとサンディ、アファーニがモレーア(Morea――ペロポンネソス半島)から夥しい財産を携えて、逃れてヴェネツィアに辿り着き、自分達の家を建て、そこに彫像を造らせたことが読み取れる。事実多くの研究者が理路整然と語っているように、リオーバという名前は広場角に立つ彫像が持つ荷物の上に読み取れる(1800年代大きな金属の鼻が取り付けられた)が、他の事を意味しているのかも知れない。

13世紀末~14世紀初めに彫られたこれらの彫像は、マステッリ家がここに定住する前、14世紀に館を再建して、アラブやエジプトの商人と活発な取引活動に勤しんでいたということを指し示しているのかも知れない。

リオーバという名前はポピュラーな人物を思い付かせたりした。アントーニオ・リオーバ像は、言わばヴェネツィア人のパスクィーノ[ローマのブラースキ宮殿傍に置かれたメネラオスとパトロクロス像を模した大理石像に、毎年反教皇的な詩文や風刺詩が張り付けられた]である。機知に富んだ風刺詩や風刺文が張り付けられた。

しかし一家は市民生活によく溶け込んだ。そしてエンリーコ・ダンドロ総督の率いた第4次十字軍への参軍まで思い出されている。彼らの所有物はその住宅だけでなく、マドンナ・デッロルト運河(Rio de la Madona de l'Orto)とセンサ運河(R.de la Sensa)に挟まれたモーリ広場に面した全ての建造物がそうである。
マステッリ館[ニュース記事から借用したマステッリ・デル・カンメッロ館] 本当に驚くのは、横方向と縦方向に伝統的な三つの部分に分けられ、建てられた美しい建物の景観である。後期1400年代の要素がルネサンスの要素と見事に調和して全面を飾っている。3階は歯型模様の美しく縁取りされた四葉飾りのあるオジーブ式の素晴らしい六連窓が開けており、また2階の低いアーチのルネサンス式の多連窓と水から立ち上がるエレガントな玄関門が、ゴシック式の素晴らしい両隣の窓とルネサンス式の要素で結び付けられ、調和し合っている。」 (続く)
  ――『Miti e leggende di Venezia(ヴェネツィアの神話と伝説)』(Marcello Brusegan著、Newton Compton editori、2007.10)より。
  1. 2010/07/17(土) 00:01:12|
  2. ヴェネツィアの伝説
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文学に表れたヴェネツィア――シェイクスピア

ウィリアム・シェイクスピア(1564.4.26ストラトフォード・アポン・エイボン~1616.4.23同)は、当時の大国であったヴェネツィア共和国に取材した戯曲を数編書いています。『ヴェニスの商人』『オセロ』『ロミオとジュリエット』『ヴェローナの二紳士』『じゃじゃ馬馴らし』です。

『オセロ』(三神勲訳、角川文庫、昭和47年8月30日発行)では、第一幕はヴェネツィアの出来事としてト書きに「ヴェニス、街上」「ヴェニス、他の街上」「会議室」とあり、ヴェネツィアで劇は進行しますが、科白の中にはヴェネツィアであることの文言は登場しません。
『オセロ』と『ヴェニスの商人』また『ヴェニスの商人』(福田恒存訳、新潮文庫、昭和42年10月30日発行)を読んでも、科白の中にヴェネツィアの地名は一切登場しませんでした。それはシェイクスピアが一度としてヴェネツィアに赴いたことがない故と思っていました。

「第一幕第三場
ヴェニスの町中、シャイロックの家の前
バサーニオーとシャイロックが出てくる。

シャイロック  三千ダカットか――ふむ。
バサーニオー  そうだ、期間は三月。
シャイロック  三月か――ふむ。
バサーニオー  その責任は、さっき言ったように、アントーニオーが負ってくれる。
シャイロック  責任はアントーニオーが負ってくれる――ふむ。
バサーニオー  おれを助けてくれるのか? おれの望みをかなえてくれるのか? さあ、返事を聞かせてもらいたい。
シャイロック  三千ダカットを三箇月――で、アントーニオーが責任を負ってくれるとな。
バサーニオー  さあ、その返事を。
シャイロック  アントーニオーはいい人だ。
バサーニオー  そうでないという噂を一つでも耳にしたことがあるかね?
シャイロック  ほい、なんの、いや、とんでもない……いい人だと言ったのは、つまり、あの人の支払能力は認めるという、その私の気もちは解ってもらいたかったまでの話さ。だが、その財産は目下のところ仮定の状態にある……トリポリスに一艘、西インドに一艘、それに取引所で聞いた話では、三艘目をメキシコに、四艘目はイングランドに出しているとか、いや、そのほかにも、やたらにあちこちばらまいているらしい。しかしな、船はただの板ですぜ、船乗りはただの人間だ――おまけに陸の鼠に海の鼠、陸の盗人に海の盗人――海賊のことさ――危険はまだある、波、風、暗礁というやつだ……いや、それはそれ、あの男なら間違いはありますまい。三千ダカットか――どうやら証文頂戴しておいてもよさそうだな。
バサーニオー  太鼓判をおすよ。
シャイロック  おすときは、自分でおしますさ。それがおせるように、よく考えてみようというわけだ――アントーニオーと話ができますかな?
バサーニオー  よかったら、一緒に食事しようじゃないか。
シャイロック  (傍白)ふん、豚のにおいを嗅ぎに出かけるのか。お前さんたちの預言者、例のナザレ人が悪魔を閉じこめたという、その豚の肉を食いにな……なるほどお前さんたちと売り買いもしよう、話もしよう、連れだって歩きもしよう、そのほかなんでも一緒にやろう、が、飲み食いはごめんだ、並んでお祈りが出来るものか……(声高く)何かあったのかな、取引所に? 誰だ、あそこにやってくるのは?」
 ――『ヴェニスの商人』(福田恒存訳、新潮文庫、昭和42年10月30日発行)より

事ほど左様に、ヴェネツィアの地名は出てこないのですが、そこにはある秘密がありました。というのは鳥越輝昭著『ヴェネツィア詩文繚乱――文学者を魅了した都市』 (三和書籍、2003年6月30日発行)を読んでその謎が解けたのです。

福田恒存は日本の読者には理解不能として《リアルト》という言葉を《取引所》と意訳したのだそうです。当時のイギリスではヴェネツィア共和国のリアルトは世界に冠たる取引所として名を馳せていたのでしょう。1900年代の日本では、世界に数多ある観光地の一つでしかなかったということでしょうか。

他の訳本も調べてみますと、筑摩書房『世界文学全集』の菅泰男訳は《取引所》、岩波文庫・中野好夫訳(1973年3月16日改訳)は《取引所》に《リアルトー》とルビ付き、角川文庫・河合祥一郎新訳では《取引所》で脚注に次の文言があります。「《取引所》と訳したが、原文は《リアルトー》。イタリア、ヴェニスリアルトーとその周辺の地域からなる商業地域を指す。取引所があった。リアルトー島とサン・マルコ島を結ぶ大理石のアーチ橋であるリアルトー橋は1590年に造られた。」と。

また近年マイケル・ラドフォード監督、アル・パチーノ主演の映画『ベニスの商人』でも、アル・パチーノが《リアルトー》と発音しても、字幕スーパーには《取引所》とありました。この演劇はシェイクスピアのユダヤ人に対する偏見が強く、転んでも只では起きないヴェネツィア商人としては少々愚かな人物としてヴェネツィア商人が描かれ(ヴェネツィア共和国が世界に冠たる経済大国に成長したのは、こんな軽率なアントニオー等いなかったからではないでしょうか)、私にはもの足りないのですが、アル・パチーノがシャイロックの『ベニスの商人は』大変楽しめました。

経済至上主義のヴェネツィア共和国政府[この国でこの演劇のインチキ裁判が通用すると作者は思ったのでしょうか]は、地中海世界でのユダヤ人の経済的パイプを利用したいと思ったのか、1516年世界で初めて彼らに公式に定住を許します。ヴェネツィアを形成する島の数には限りがありますが、まだ造成されていない島ではなく、キリスト教徒との軋轢のないよう押し込めるような形にして、一つの島をユダヤ人に提供しました。本土と違い、ヴェネツィア人がやったように住むために島を造成するのは、定住しないユダヤ人には難しい事だったでしょう。

その島では鋳造(gettare)が行われており、その地はジェット(getto)と呼ばれていたそうですが、ユダヤ人はそれをユダヤ語式にゲットと発音し、ヴェネツィア人の方がそれに合わせてgheto(伊語はghetto)と綴られるようになったようです。他のヴェネツィア人の島との交流は制限が厳しかったと思われますが、自分達で住めるように整備したゲット内では、教会を作ったり自由だったように想像されます。

噂を聞いてかユダヤ人が蝟集してきて、vecio、novo、novissimo と彼らの居住区域は増え、地盤の関係で3~4階が普通のヴェネツィアで最高9階まで高くなった建物が残っています。サンタ・フォスカ広場(C.S.Fosca)のサンタ・フォスカ橋の拳骨戦争にも、ニコロッティの一員としてカステッラーニとの殴り合いに参加するようになるまでヴェネツィアに溶け込んでいったようです。
ヤーコポ・デ・バルバリの地図(1500)バルバリの地図からゲットの拡大[左、ヤーコポ・デ・バルバリのヴェネツィア図(1500年刊)、右、ゲット部分の拡大図(ウィキペディアから借用)] ヴェネツィア共和国がユダヤ人の定住を正式に許したのが、1516年。このバルバリの地図では1500年には既に高い建物でゲットが囲まれています。この年代の違いの意味とは? ―2013.09.03日追記。
  1. 2010/07/10(土) 00:00:34|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: コンタリーニ・ファザーン館

前回書きましたコンタリーニ・ファザーン館について、『ヴェネツィアの邸館(Palazzi di Venezia)』(Raffaella Russo著、Alsenale Editrice, 1998)は、『大運河』(1993)とは異なった事を記述しています。
コンタリーニ・ファザーン館[中央、三連窓の狭い建物がコンタリーニ・ファザーン館]  「1450年頃に建てられた、この小さなゴシック様式の邸宅は、デズデーモナの家として人口に膾炙した伝説でよく人々の口に上る。一方オテッロの家はカルミニ広場(C.dei Carmini)[サンタ・マルゲリータ広場の傍]のグオーロ館(P.Guoro)[2615番地]と同定されている。多分グオーロという姓がその音の類似性からモーロという姓と混同された。

事実キプロス島の副王だった貴族のクリストーフォロ・モーロとオテッロの身元確認が提示された。彼は1408年ヴェネツィアへの帰還途中、妻を亡くし、数年後《白い悪魔》と渾名されたドナート・ダ・レッゼ(Donato da Lezze)の娘と再婚した。その渾名からジャンバッティスタ・ジラルディ・チンツィオ(Giambattista Giraldi Cinthio[Cinzioとも])が、彼の小説集『Gli Hectatommithi[1565――Ecatommitiとも]』の中で、デズデーモナというヒロインの名前を作り出し、そこからシェイクスピアが1602年の彼の悲劇のインスピレーションを得た。

こうしてキプロスの司令長官として出陣した雄々しき勇士、オテッロと呼ばれた1ムーア人が嫉妬からヴェネツィア貴族の娘、妻のデズデーモナを殺害するに至るという伝説が形作られていった。しかしダ・レッゼ夫人は首を絞められたのではなかった。

オテッロとデズデーモナは後に、この2人のように13歳の年齢差がある、1535年に結婚したニコーラとパルマ・クェリーニと同定された。ニコーラは兵士であり、肌が黒かったとまことしやかに言われている。と言うのは当時ヴェネツィア人にムーア人の血統の者が沢山おり、1902年にもクェリーニ家に肌の黒い者が生存していた。

幸福な夫婦生活の数年後、ニコーラはトルコとの戦争に駆り出され、長期に渡って家を留守にしていたため、、激しい嫉妬に苛まれ、妻を虐待し始め、挙句の果て、妻が実家に逃げ帰ってしまった。直ぐに両親は、ニコーラが妻の首を絞めようとしたとして訴えた。しかし罪は軽く、ヴェネツィアに呼び戻された。20年後人手に掛かって死んだ。

ファザーンという渾名が古い名前に付けられているのは、雉狩りに大変な情熱を持っていた館の持主に由来するのは大いにあり得ることである。」
  ――R.Russo『ヴェネツィアの邸館』(1998)より

山下史路著『フィレンツェの高校生』(新潮社、1994年1月20日発行)を読んだことがあります。著者はこの本の《(21)トティはオテッロの末裔だった》の章で、ヴェネツィアで友人になったダル・モーロ夫妻のことにふれています。「妻のトティの先祖はヴェネツィアのドージェ(国家元首)を勤め、シェイクスピアのオリジナル『オテッロ』のモデルになった家系だったらしい」という言葉を聞いて、著者のオテッロとデズデーモナの調査が始まります。

この夫妻の夫の姓は《ダ・モーロ》、夫人の姓は《モーロ》で、この《モーロ》が第67代総督[1462~71在位――モーロ家唯一の総督]クリストーフォロ・モーロに繋がり、このモーロがシェイクスピアのオテッロになった、と。

英国作家ジェイムズ・モリスが書いているそうですが、モーロ家の家紋の黒苺の実は伊語で mora[桑の実の意もある]で、これが訛ってモーロになったのではないか、この家紋の黒苺はサン・ジョッベ教会の総督の墓の周囲にも彫られているそうです。

『オセロ』(三神勲訳、角川文庫、昭和47年8月30日発行)の第3幕第3場の終りの方で、イアーゴの科白に、「いや、いや、どこまでも慎重になさいまし。まだなにも見たわけではございません。奥さまはまだ潔白かもしれませんのであります。ただちょっと伺いたいことがございますが、ときおり奥さまが苺(いちご)の模様のハンカチをお持ちになっていたのをごらんになりませんでしたか?」と。

アルヴィーゼ・ゾルジ著『大運河』の中に、ロードン・ブラウンの説で、同じモーロ一族のロレンツォ・モーロの息子クリストーフォロがあり、彼は1505年ヴェネツィア副官としてキプロス[伊語Cipro]島に派遣され、3年後キプロスから帰国途中、妻を亡くした。鰥夫となった彼は1515年、デモーニオ・ビアンコ(悪魔的に白い)と呼称されたドナート・ダ・レッゼの娘と再婚した、という。

山下さんはこのロードン・ブラウン説を取っておられます。上記したカルミニ広場の《グオーロ館》の説ではなくロードン・ブラウン説が、現在では専門家の間で定説になっていると著者は力説されています。
  1. 2010/07/03(土) 00:03:07|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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