イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ゲーテ(1)

ブレンネロ峠(独語風にはブレンナー峠)を下って、イタリア最大の湖ガルダ湖の船旅をしたりしながら、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749.08.28フランクフルト・アム・マイン~1832.03.22ヴァイマール)はヴェローナに着。そして馬車で道を左に取り、東のヴィチェンツァに向かいます。この町は彼が敬愛して止まなかったアンドレーア・パッラーディオ[1508パードヴァ~1580トレヴィーゾ県マゼール]が生活の本拠を置き、活躍した町です。

1786年9月19~25日この町に滞在する間、彼はテアートロ・オリンピコを始め、ヴィッラ・ロトンダ等パッラーディオの建物を見て回っています。9月22日の夜は≪オリンピア翰林院の催した会合に出席≫しています。私が天正の四少年使節の痕跡を探しに初めてテアートロ・オリンピコに行った時、少年達のフレスコ画とともにゲーテを記念したフレスコ画も残されていました。
オリンピコ劇場舞台天遣歐使節左はテアートロ・オリンピコの舞台、右は劇場前室の天正の四少年使節のフレスコ画(IAPONENSIVM LEGATISと額下にあり)、その左下に"WOLFGANG GOETHE"の文字が見えます。

ラジョーネ館の裏の方に彼が宿泊した館が残っており、その壁面に彼が留泊したことを示す碑盤が嵌め込んでありました。その直ぐ近くにはマゼラン[英式呼称―葡語フェルナン・デ・マガリャンイス]の世界一周に随行し、その記録を残したアントーニオ・ピガフェッタ(彼はビクトリア号で生還した18人の一人であり、彼の記録がなければマゼランの初世界一周の偉業の栄誉は生きて帰還した副官のものとなるところでした)の家もありました。この町は忘れられない町です。
ゲーテが宿泊した館 ピガフェッタの生家の通りピガフェッタの瀟洒な館左の館がゲーテが泊った館、次はピガフェッタの生家のある通り、そして彼の館。

隣町のパードヴァには9月26、27日と滞在していますが、『イタリア紀行』の中ではパッラーディオの事については何も触れていませんから、彼がこの町で生まれた(via dei Rogatiで)ことは興味を引かなかった(或いは知らなかった)のでしょうか。この町からヴェネツィアへは、彼は天正遣欧使節やモーツァルト等と同じようにブレンタ運河の船旅をしています。

ヴェネツィアには9月28日~10月14日滞在しています。『イタリア紀行』《ヴェネチア 1786年9月28日》の文頭で
「……――私は恐らく二十年来思い出したことのない、あの昔の玩具を心に浮べた。私の父はイタリアから携えてきた美しいゴンゴラの模型を持っていた。父はそれをひどく珍重していたが、いつか私がそれを弄ぶことを許された時などは、非常に喜んだものだ。今、ぴかぴか光る鉄板の船首や、黒いゴンドラの船体や、すべてのものが昔馴染のように私に挨拶をした。私は久方ぶりになつかしい少年時代の印象を味わうことができた。……」
と書いているように、彼はこの町に少年時代から興味を抱いていたようです。

「……大運河とそれに懸っているリアルトー大橋は容易にそれとわかった。この橋は白い大理石でできている一個の弓形のものである。橋の上から眺めおろした光景はすばらしい。運河は、各種の必需品を大陸から運んできて、大抵はここに碇泊して積荷をおろしてしまう船舶で一杯である。そしてその間をゴンドラが蠢動している。別して今日はミカエル祭であるから、えも言わず活気の横溢した眺めである。しかしこの光景をいくらかでも描き出そうとするには、私はもうすこし前置きをしなければならない。

大運河によって分たれているヴェネチアの二つの主要な部分は、たった一つのリアルトー橋によって互いに連絡されている。しかしまた一定の渡し場には渡船の備えがあって、諸所の交通に事欠くこともない。今日は着飾って黒い面被(ヴェール)をつけた婦人が、お祭のある首天使の寺院へ行こうとして、たくさん群をなして渡してもらっているので見事な風情であった。私は橋を去って、船からあがってくる人々をよく見るために、そうした渡し場の一つへ出かけて行った。その中には実に美しい顔や姿の人がまじっていた。

やがて疲れてきたので、私は狭い小路を捨てて、ゴンドラに乗った。こんどは今までとは反対に水上からの景色を眺めようと思って、大運河の北の部分を通りぬけ、聖クララ島をめぐって、潟の中に船をのり入れ、ジュデッカの運河にはいりこんで、聖マルコ広場の方まで漕ぎまわした。すると私にはたちまち、すべてのヴェネチア人がゴンドラに乗るとき感ずるように、アドリア海の支配者の一人であるかのように思えてきた。その際私は、何よりも好んでこれらの風物を物語った父のことを懐しく思い起した。私もまた彼と同じようになるのではあるまいか。……」
 ――『イタリア紀行』(上巻、相良守峯訳、岩波文庫、1942年6月1日発行)
  1. 2010/08/28(土) 00:05:14|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: ジュスティニアーン館他

モーロ館を過ぎるとマルパーガ運河(Rio del Malpaga)を挟んで、ステルン館(Palazzetto Stern)があります。この館はごく最近ホテル・ステルンとして開業を始めたようです。晴れた朝、前庭で大運河を眺めながら朝食を摂るのは快適そうでした。『大運河』(1993)は次のように書いています。
ステルン館ホテル・ステルンの前庭 「館前に庭を備えた楽しい雰囲気のネオ・ゴシック様式の建物。18世紀末~19世紀初頭、ステルン夫人のためにジュゼッペ・ペルティが建てた。この地区には1400年代の建物ミキエール・マルパーガが建っていた[この館は崩れ落ちた]」。
ステルン館、レッツォーニコ館等すぐ脇にレッツォーニコ停留所とトラゲットの乗場があり、コンタリーニ・ミキエール館(P.Contarini Michiel)があります。『大運河』(1993)の記述は次のようです。

「1500年代の隣合う二つの建物で、次の世紀には改装された。高さがそれぞれ異なっており、両者とも内部に向けて改築されたピアーノ・ノービレの部屋に多連窓が設置されている。」

右側のサン・バルナバ運河(rio de S.Barnaba)を挟んで、最近修復なった、現在では《18世紀美術館》となっている壮大なレッツォーニコ館(Ca' Rezzonico)があります。この館については、2007.12.25日に書きましたCa' Rezzonico, Museo del Settecento venezianoを参考までに。その先は1500年代のバルコニー付きの三連窓の建物、ベルナルド・ナーニ館(P.Bernardo Nani)です。ベルナルド通り(Cl.Bernardo)を挟んで、右隣はジュスティニアーン・ベルナルド館(P.Giustinian Bernardo)です。『大運河』(1993)は次のように述べています。
ジュスティニアーン館他「3階の部分が未完のまま現在に至った1600年代の建物。入口玄関が二つあり、アーチの高い二連窓が続くのが特徴である。現在は大学が入っている。」

更に進むとジュスティニアーン館(P.Giustinian)が人目を引きます。同じく『大運河』(1993)の縷述は以下のようです。

「15世紀後半のゴシック建築。事実、舞台装飾的効果で二つの類似した建物が隣合っている。中央の玄関はあたかも建物を二つに分ける通路でもあるかのようである。1474年頃の建設で、多分バルトロメーオ・ボーンの工房が参加したと思われる。

入り組んだアーチ模様は四弁装飾のモチーフで作られたその高度な多連窓で、実際、布告門[ボーンの建造した総督宮殿の正門]を思い起こさせる。双子の館を結び付ける中央部分は透かし細工のある、それ以外の窓より一回り大きい、素晴らしい一面窓(monofora)に特徴がある。その稜線に鋸歯模様の浮出し飾りのあるイストラ(Istria)半島石が際立つように嵌め込まれている。

内側の中庭をL字型に包み込むように、サロンの周りにすっかり植木が繁茂し、その後方までも同じように沢山の立木が生い茂っている。右側には今でも外階段が残っている。フォースカリ館(Ca' Foscari)とともにヴェネツィア大学の所在地である。

大変古い家系であるジュスティニアーン家の重要度は、ヴェネツィアにある数多い邸館で証明されるが、有名な四“福音主義者”の一つである。1171年には戦争やペストで全男性が亡くなり、家系断絶の危機に遭遇した。しかし修道士になっていた者が一人残っていた。

ヴェネツィア人は、最大家系の一つが存続の可能性がありながら継続しないことには我慢ならなかった。そのため教皇に請願書を送り、ニコロ・ジュスティニアーンの宗教上の誓約を解いてもらった。そしてこの人物はアンナ・ミキエールと結婚し、彼女はこの一家に9人の男子と3人の女子をもたらした。子供達が成人し、世帯を持つや、彼は修道院に戻った。

セレニッシマ政庁に秀抜有能な人材を送り込んだが、この一家は特別な栄誉を求めなかった。その証拠に1311年、ステーファノは総督に選出されることを辞退した。代々騎士の称号を許された5家の一つでもあった。しかし残念な事に、カルパッソ伯爵家はこれほど名誉ある特別の分家であったが、悲惨な状態に零落したために、庶民達は悪びれることもなく囁き合った、この家は騎士の黄金章を失い、二度と着章することはないだろう、と。

他の分家の経済状態は全く違っていた。オルサートには嫁にやりたい愛する娘が一人いたが、非嫡出のため、選ばれた貴族の家柄としては家系に汚点を残すと躊躇われていた。話し合いは続いたが、結論は出なかった。彼は憤慨して、娘の最高の晴着を取って来ると、その上に油を一瓶振り掛けた。そして山ほどの金貨でその染みを覆うと言った。≪お前達、もっと見たいか!≫。そして娘は受け入れられることになったのである。

この同じオルサートは、その気難しさで名を知られていたらしいが、大使としてナーポリ宮廷に赴任した。ナーポリ王は彼を困らせ、恥をかかせてやろうと、彼を引見する部屋に椅子を一脚だけ置くように命じた。オルサートは入室すると王が自分の前に跪かせるつもりであることが直ぐ分かった。多分、この見事なヴェネツィア人はきっと内心せせ笑ったことだろう。

彼は毛の密生した皮革の裏地を付けた、重くて硬い金のラメの、たっぷりしたマントを着ていた。王と話しながら、留め金が外れ、マントがずり落ちて、床にうず高く重なるのに平然としていた。それからゆっくりとその上に腰を下ろした。

拝謁が終わると彼は暇乞いをし、部屋の出口に来た時、召使いに呼び止められた。王の指示でマントを拾い、彼にそれを差し出したのである。オルサートは振り向くと尊大な態度で声高に冷やかな調子で言った。

≪ヴェネツィア大使は、床几如き物を持ち運びはしません≫。そして去った。」
  ――E.&W.Eleodori『大運河』(1993)より

追記: このジュスティニアーン館を舞台にした小説があります。『歌姫コンシュエロ』(ジョルジュ・サンド・コレクション3、4巻(上下巻)、持田明子・大野一道監訳、藤原書店、2008年5/6月30日発行)です。ジュスティニアーニ伯爵に才能を見出され、この館でデビューし、世界に羽ばたく歌手コンシュエロの物語です。この1300頁に及ぶ長編小説は、ヴェネツィア好きだったサンドの傑作と言われているそうです。次のブログも参考までにサンドとミュッセ歌姫コンシュエロ
  1. 2010/08/21(土) 00:05:23|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――パウンド(2)とサン・ミケーレ島(墓地)

前回最後に掲げたヴェネツィア市の碑文は、「詩歌の巨人エズラ・パウンドは、決して消えることのない、ヴェネツィアへの愛の中で、この家に半世紀に渡って住んだ。ヴェネツィア市」といった内容です。

2009.11.07日のブログでもパウンドの恋人オルガ・ラッジについてブロツキーが書いていることに触れています。最近出版されたジョン・ベレントン著『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日発行)が、パウンドやオルガの事に大変詳しく言及しています。
ヴェネツィアが燃えた日セント・エリザベス病院に収監中の1949年に、第一回のボーリンゲン賞を受けた『ピサ詩章』(1948、『カントーズ(Cantos)』第七十四~八十四篇)は傑作の誉れが高いそうです。『ユリイカ 1972年11月号』(vol.4-13)《エズラ・パウンド特集》の中でイタリアのノーベル賞詩人エウジェーニオ・モンターレが《エズ叔父さん》と題して親しみを込めて書いています。その『ピサ詞章』の中にヴェネツィアを歌ったものがありました。その一部の伊語訳を次に掲げてみました。
「……
   sotto le due ali della nuvola
come di meno e di piu` di un giorno
accanto alle colonne di pietra lisce come sapone dove San Vio incontra il Canal Grande
fra Salviati e la casa che fu di Don Carlos
dovrei buttare tutto in acqua ?
le bozze “A Lume Spento”
e accanto alla colonna del Todaro
dovrei traghettare dall'altra parte
o aspettare 24 ore,

   libero allora, in cio` la differenza
nel gran ghetto, lasciato in piedi
col nuovo ponte dell'Era nel luogo del vecchio brutto edificio
Vendramin, Contarini, Fonda, Fondecho
e Tullio Romano scolpi` le sirene
come spiega il vecchio custode: cosi` che da
allora nessuno e` stato capace di effigiarle
per lo scrigno di gioielli, Santa Maria Dei Miracoli,
Dei Greci, San Giorgio, il luogo coi teschi
nel Carpaccio
e sulla fronte a destra entrando [fronte(前)ではなく、fonte(洗礼盤)では?―英文より]
vi sono tutte le cupole d'oro di San Marco
Arachne, che mi porta fortuna, tessi la tela su quella corda
della tenda
zio George nella abbazia Brassitalo
voi che passate per questa via:
“D'Annunzio abita qui ?”
disse la signora americana, K.H.
“Io non lo so” disse la vecchia veneziana,
“questa lampada e` per la vergine”
……」
  ――『Canti pisani(Canto LXXVI)』(Alfredo Rizzardi訳、Guanda、1948発行)より(彼がヴェネツィアで処女出版した詩集『A Lume Spento』の名前も登場します)
サン・ミケーレ・イン・イーゾラ教会 サン・ミケーレ島墓地案内図墓地地図サン・ミケーレ島(Isola di S.Michele)の墓地事務所で頂いたこの案内図を見ますと、色々の人の墓に辿り付けそうです。上記のヨシフ・ブロツキーの墓は、前掲の『ヴェネツィアが燃えた日』によりますと、ヴェネツィア第2代総督マルチェッロ・テガッリアーノから続く家系の現ジローラモ・マルチェッロ伯爵(ブロツキーはヴェネツィアに到来の度、マルチェッロ家のやっかいになっていたそうです)が画策し、ニューヨークに死んだ彼をヴェネツィアで眠るように計らったそうです(私の長い間の疑問が解けました。文学に表れたヴェネツィア―ブロツキー(1)も参考までに)。

2009.10.31日に書きました緒方惟直の墓は左上隅の2°(第2チェゼーナ)と記された区画内の右下隅の壁面にあります(ヴェネツィアと日本との関係(2)墓参を参照して下さい)。ヴェネツィアに生まれヴェネツィアで死んだ音楽家エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリ(1948.01.21)とルイージ・ノーノ(1990.05.08)の墓もあります。2009.06.06日に書いたイギリス人作家フレデリック・ウィリアム・ロルフの名前も見えます。

ジューリオ・ロレンツェッティはヴェネツィア生まれの高名な美術史家で、このブログで度々引用している『ヴェネツィアと入江(Venezia e il suo estuario)』(1926)の著者です。左上の第2チェゼーナ(2°)には、ヴェネツィア生まれの喜劇作家ジャチント・ガッリーナと喜劇役者チェースコ・バゼッジョの名も見えています。(Sir Henry)Ashley Clarke は駐伊イギリス大使で、1966年の大洪水のニュースを受けてヴェネツィア救助の《ヴェニス救難基金 The Venice in Peril Fund)》の創設者だとか。Helenio Herrera はアルゼンティン出身のサッカー選手で、ヴェネツィアで人気のあったサッカー監督だったそうです。

ナポレオンの命で、サン・ミケーレ島とサン・クリストーフォロ・デッラ・パーチェ島の間の運河を埋め立てて最終的に一つの墓地島とする前、先ずサン・ミケーレ修道院は彼の命令で1810年廃止され、その後オーストリア占領時代、政治犯の監獄に作り替えられました。そして最初総督宮殿のピオンビの獄に繋がれていたシルヴィオ・ペッリコはピエートロ・マロンチェッリとともにこの牢獄に移し変えられ幽閉されました(墓地入口にその事を示すプレートがあるそうです)。カルボナーリ(炭焼き党)としてイタリア独立のために奮闘した彼の『我が獄中記(Le mie Prigioni)』は、独立期のイタリアを大変鼓舞したと言います。

この島は元々は Cavana de Muran と呼ばれ、悪天候時、船を避難させる係留場として機能していたようですが、1212年、カマルドリ会[1012年聖ロムアルドゥスがアレッツォ山中カマルドリに創設したベネディクト会の一会派]修道僧達がここでの生活を始めたそうです。

14世紀半ば、偉大な地図製作者マウロ修道僧(Fra' Mauro)がここで平面球形図を製作し(マルチャーナ図書館に現存しているそうです)、この事に関してオーストラリアの作家ジェイムズ・カウアンが『修道士マウロの地図』(小笠原豊樹訳、草思社、1998年4月1日発行)と、彼の事をフィクションの形で発表しています(2010.08.14日に文学に表れたヴェネツィア―ジェイムズ・カウアンを書きました)。またここの修道僧だったマウロ・カッペッラーリは1831年、教皇グレゴリウス16世に選ばれたそうです。

サン・ミケーレ島墓地(Cimitero)を訪ねるには、電車駅サンタ・ルチーア駅前広場の左前方、スカルツィ橋傍の停留所から42番(41番は逆方向)のヴァポレットに乗船します。Guglie、Tre Archi、S.Alvise、Orto、Fondamente Nove、Cimitero と30分弱で到着です。一番安く墓地に行くには、フォンダメンテ・ヌオーヴェ駅まで歩き、そこから次のチミテーロ駅と指定し、往復を買うと格安の筈です。一時間(?)程の往復であれば、片道券でOKかもしれません(高いヴァポレット乗車券が最近また更に0.5ユーロ値上がりしたそうですから)。

墓地では気軽に尋ねると質問に応じてくれますし、事務所の人が時間さえあれば、目指す墓に案内してくれるかもしれません。ガラスの島ムラーノに行くのも、フォンダメンテ・ヌオーヴェから二つ目のムラーノの Colonna 駅までチケットを買うのが格安のようです。

追記=墓地案内の中にある Tramontin 家は多分今でもドルソドゥーロ区でゴンドラを作り続けている、1884年以来のsquero(ゴンドラ造船所)の家系ではないでしょうか。
  1. 2010/08/14(土) 00:01:37|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――エズラ・パウンド(1)

ピエール・パーオロ・パゾリーニの最後の映画となった『ソドムの市(Salo` o le 120 giornate di Sodoma)』(1976年日本公開)は、マルキ・ド・サドの小説『ソドムの120日』を元に、第二次世界大戦末期(1944年)ムッソリーニがナチス・ドイツに助けられ、ガルダ湖畔のサロに作った通称サロ共和国に舞台を設定して制作された映画でした。

4人のファシストの恐るべき暴虐の数々は、見ていて気分の悪くなるものでしたが、この映画の中でパゾリーニは詩人として尊敬していたエズラ・ウェストン・ルーミス・パウンド(1885.10.30アイダホ州ヘイリー~1972.11.01ヴェネツィア)の詩集『カントーズ(Cantos)』(最初の3篇の発表は1917年)の第九十九歌の朗読を流したのだそうです。この文を書くに当たって再度映画をビデオで見てみました。日本公開の科白は英語版でしたが、後半にそれと思しき場面がありました(詩の訳の字幕はありません)。

本人はグラムシの影響を受け、また反ファシストのパルチザン活動をしていた弟グイードを持つパゾリーニが、ムッソリーニの思想を是とし、反米宣伝のラジオ放送まで流し、ファシストに協力したパウンドの詩に夢中になったのは何故だったのか私にはよく分かりませんが、《ダンテ・ジョイス》流のアヴァンギャルドな詩編に彼が、政治とは別の次元で取り込まれたに違いないのは、雑誌『ユリイカ』1972年11月号(vol.4-13)の《エズラ・パウンド特集》を読むと納得出来そうでした。
『ユリイカ』『現代詩手帳』平成10年7月1日発行の雑誌『現代詩手帖 1998年7月号』(第41巻第7号)は、《パゾリーニ特集》を組んでいました。1967年イタリアのRAIの制作した番組のテープから起こされた対談『パウンドとパゾリーニ』が翻訳掲載されています。YouTube にその録画の一部があります: パゾリーニ・インタヴューをどうぞ。

当時パゾリーニは45歳、ヴェネツィアに隠棲していたパウンドは82歳。敬愛する先輩詩人に発するパゾリーニのインタビューは初々しく、新鮮な感じでした。彼のパウンドに対する思い入れが理解され、私は伊語仲間達と訳し合った、彼が育ったカザルサのあるフリウーリ地方を歌った詩やTVで見たフィルム『パゾリーニ・ファイル』を思い出し、感動が蘇る思いでした。
エズラ・パウンド世界名詩集大成第11巻 アメリカ年表によりますと、パウンドは1908年22歳の時ヨーロッパに渡り、ヴェネツィアには数ヶ月淹泊したとあります。この時彼の処女詩集『A Lume Spento(消えた光に)』をヴェネツィアで初出版したのでした。その結果が『キャントゥズ(Cantos――canto(カント)は伊語で歌の意)』第三歌でヴェネツィアを歌うことになったのでしょうか。

キャントゥ Ⅲ
私は税関(ドガナ)の階段に座(すわ)った、
ゴンドラが余りに高価だったので、あの年は、
それに「あの娘達」もいなかった、一つの顔だけがあった、
二十ヤード先の櫓櫂船俱樂部(ブッチェントロ)で流行歌「ストレッティ」をわめいていた。
それからモロシニ宮殿では、あの年、照らし出された横梁があった、
それからコレの家には孔雀(くじゃく)がいた、恐らくいたであろう。
    神々が淡青の空中に漂う、
晴やかな神々とタスカニー人は露が下りる前に戻る
光は、しかも最初の光はいつも露が落ちる前に。
半人半羊(バニスコス)の神々、それから槲(かしわ)からは木の精(ドリュアス)、
又林檎の木からは果樹の精(マリッド)、
森中を木々の葉は樣々な声で充()たしている、
囁きながら、又雲は湖上に低くたれ、
そして雲の上には神々がいる。
そして水中には白い巴旦杏(はたんきょう)色の泳ぐ人達、
銀のような水は上向きの乳首に光沢をつける、
   ポッジョが言ったように。
トルコ玉の中の緑の靜脈(じょうみゃく)、
或は杉の木の下を登る灰色の階段。 ……」
  ――『世界名詩集大成 第11巻 アメリカ』の中のエズラ・パウンド『キャントゥズ(Cantos)』(岩崎良三訳、平凡社、昭和34年5月20日発行)より。

第二次世界大戦後、アメリカのセント・エリザベス病院に精神異常者として13年間収監された後、釈放されたパウンドは再びイタリアへ戻り、娘のいる南チロルのブルンネンブルクをはじめ、ローマ、ジェーノヴァ東のリヴィエーラ東海岸のゾアッリやラパッロ、そしてヴェネツィアと渡り住みました。

彼は精神的に衰弱し、妻と別れ、恋人だったヴァイオリン奏者でヴィヴァルディ研究者のオルガ・ラッジとの生活の道を選びます。彼女は1961年から彼が死に至る(ヴェネツィアの病院での死)までの11年間、ヴェネツィアや時にラパッロで彼の面倒を見たそうです。オルガ・ラッジについては次のブログヨシフ・ブロツキーも参考までに。

彼らのヴェネツィアの家は、ドルソドゥーロ区のフォルナーチェ運河(Rio de la Fornace)に架かるメッゾ橋(P.de Mezo)傍のカ・バラ運河通り(Fond.Ca' Bala`)から入ったクェリーニ通り(Cl.Querini)の奥の252番地で、彼がそこに住んでいたことを示す次のような碑が掲げられています。
エズラ・パウンドの碑サン・ミケーレ島墓地案内図左、ドアには現在でも《オルガ・ラッジ》の名刺が貼り付けてあります。右、墓地地図[2012.08.10追記] 彼の墓はサン・ミケーレ島墓地の福音派の区域(Recinto evangelico)にあります。彼より26年長生きした恋人オルガ・ラッジも彼の傍に埋葬されたそうです。彼の墓の案内は次のサン・ミケーレ島の墓地事務所で頂いた右の地図をご参考までに。哲学者・前ヴェネツィア市長マッシモ・カッチャーリさんが墓地で語るエズラ・パウンド: YouTubeMassimo Cacciariもどうぞ。

[追記=2011.06月ボローニャに行ってきました。マッジョーレ大通りのサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会からサント・ステーファノ通りのサント・ステーファノ教会に向かう途中の脇道ボルゴヌオーヴォ通りで下のプレートを見付けました。
ピエール・パーオロ・パゾリーニの生家『生命ある若者』「この家で、1922年3月5日、詩人・作家・映画監督であったピエール・パーオロ・パゾリーニが生まれた」ボローニャ市2004年6月――Due Torri のこの街が、ヴェネツィアのように大変親しいものに感じられるようになりました。] 写真右はパゾリーニ映画に夢中になっていた頃、買った本『生命ある若者』(米川良夫訳、冬樹社、昭和四一年八月五日)です。
  1. 2010/08/07(土) 00:03:41|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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