イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコ(2)

彼女は詩だけでなく夥しい数の手紙を書き、1580年には書簡集も刊行したのでした。

「≪突然あなたは、娘さんの髪を金髪に染め化粧させるというばかなことを考えつきました。また藪から棒に、髪をくるくる巻きにし、胸を大きく開けて乳房をあらわにし、額を上げ、ほかにも売り込むためによかれとありとあらゆる格好をさせ、飾り立てて人前に出したのです。あなたが別人のようになった彼女を初めて私の所に連れてきた時は、誰なのかさっぱり分かりませんでした。その時友情と慈悲からあのようにご忠告申し上げたのだということを信じてくださいませ。≫
……
自分自身と自分の携わる職業に関するこのきわめて明晰な認識は、ヴェロニカが率直さと道徳心を持ち続けていた確かな証拠である。しかし、ヴェロニカ・フランコにとって生計の支えとなっていた商売の汚れを贖っていたのは、何よりも彼女の繊細な感情と趣味であり、また芸術と文学への純粋な愛であった。

手紙にはしばしば学問への純粋な愛や学者や芸術家への深い称賛の念が語られている。肖像画を描いてくれたティントレットに熱い感謝の気持ちを伝える礼状で、ヴェロニカは、古代の作品ばかり後生大事にして現代の芸術を軽蔑する人たちに対して、断固として異議を唱えている。その文面は特に教養に富んでいるとは言えないにせよ、彼女が本物の芸術的感受性を持っていたことをうかがわせる。」
ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』[ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』、米国マサチューセッツ州ウースター美術館蔵(この『ルネサンスの高級娼婦』(平凡社刊)には残念ながらこのティントレットの肖像画は掲載されていません――編集者が知らなかった?)]
  ――ポール・ラリヴァイユ『ルネサンスの高級娼婦』(森田義之、白崎容子、豊田雅子訳、平凡社、1993年8月25日発行)

こうしたヴェローニカの同業者への篤厚な思いは、自らの信仰の篤さと善行の意思を証明するために、1580年頃彼女は総督宛てに請願書を提出し、
「自分たちの行いを改め、子供たちに同じ運命をたどらせたくないと望んでいる子連れの娼婦たちを収容するために、営利を目的としない慈善施設を設立したいと申し出たのである」(『ルネサンスの高級娼婦』)。年額500ドゥカートというささやかな援助を付帯条件として。

しかし彼女の私欲のない願いが総督に届いたかどうかは明確ではないそうですが、3人の貴族婦人の手で娼婦のための救護院(casa del soccorso)が出来たのは確かなことです。

それはドルソドゥーロ区サンタ・マルゲリータ広場外れにある、サンタ・マリーア・カルミニ教会前広場のカルミニ運河(Rio dei Carmini)に沿ったソッコルソ運河通り(Fdm.del Soccorso)中程のソッコルソ橋前の建物(現在の Ospizio e Oratorio S.M.Assunta、2585番地)だったそうです。『Calli, Campielli e Canali』は次のように書いています。

「救急救護院(Ospizio del Soccorso)は、有名な高級娼婦で詩人のヴェローニカ・フランコの希望があって1593年設立され、自ら罪を贖うつもりのある正道を外れた女達を収容した。この運河通りに面してファサードを持つ Oratorio(祈祷所)の建設は1609年に遡る。内部全体は、1700年代末頃に徹底的に修復された。」

最初サンタ・クローチェ区のサン・ニコロ・デイ・トレンティーニに設立され、その後この地に移ってくるまでの転々とした経緯は2007.11.03日に書きましたVeronica Francoを参考までに。
  1. 2010/09/25(土) 00:03:40|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコ(1)

マーガレット・ローゼンタール(Margaret Rosenthal)の小説『The Honest Courtesan』をマーシャル・ハースコヴィッツ(Marshall Herskovits)監督が映画化して『Dangerous Beauty/A Destiny of her own』として公開した映画『娼婦ベロニカ(伊語題名 Padrona del suo destino)』(1998)は、女主人公のベロニカ・フランコと対立する男達との会話の絡みが大変面白い映画でした。
ベロニカ―1ベロニカ―2彼女はヴェネツィアに生まれ、詩も書く高級娼婦(cortigiana onesta)となり、後世に名を残した女性でした。映画はチネチッタで撮られたそうで、現実のヴェネツィア風景は登場しません。
ルネサンスの高級娼婦ポール・ラリヴァイユ『ルネサンスの高級娼婦』(森田義之・白崎容子・豊田雅子共訳、平凡社、1993年8月25日発行)によれば、ルネサンス時代、詩を書いた高級娼婦と言われた女性達には、先ずローマで活躍した(詩作は行った{当時の文学者の証言}が詩そのものは残っていない)インペリアがあり、ローマに生まれ、各地を渡り歩いたトゥーリア・ダラゴーナは、ヴェネツィアでは最も人気の高いサロンの一つの女主人となったとあります。

そのヴェネツィアでは2009.05.02日のブログ《文学に表れたヴェネツィア――ガースパラ・スタンパ(1)》でも書きましたが、彼女がサロンを構えています。そして今回の主人公ヴェローニカ・フランコ(1546ヴェネツィア~1591.07.初旬、ヴェネツィアで熱病のための死)が一方にいます。

この本によれば、彼女の出自は「《上流市民》という特権的な階級に属しており、この階級はしばしば貴族と庶民の中間の一種の官服貴族と同等に扱われた」という階級でしたが、母親も娼婦だったそうです。
アルヴィーゼ・ゾルズィ『ヴェネツィアの高級娼婦』Alvise Zorzi『Cortigiana veneziana――Veronica Franco e i suoi poeti 1546-1591』(Camunia editrice srl, 1986)によれば、「『全ヴェネツィアの主だった光栄ある花魁達のカタログ。その名前、周旋者名、所番地[…]、更に紳士が渡すべき代金。付言: 優雅に登楼されますように。』[『ヴェネツィアの花形娼婦総覧』のこと]と題されたカタログが、無名の A.C.の編集で発行されており、その中には≪サンタ・マリーア・フォルモーザ広場の Vero.Franca(ヴェローニカ・フランカ) pieza so mare(仲介は彼女の母親)、2スクード≫と書かれています。
サンタ・マリーア・フォルモーザ広場カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』ヴィゼンティーニ板刻のフォルモーザ広場ベルナルド・ベッロットのサンタ・マリーア・フォルモーザ広場[左はマリエスキ(Michele Marieschi)の版画、中左はカナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』、中右はそのカナレットの絵をヴィゼンティーニ(Visentini)が板刻したもの、右は Bernardo Bellotto の描くサンタ・マリーア・フォルモーザ広場]

そして彼女が母親の斡旋で、自分の体を日常的に売りに出しているということがあり、その母親自身も同じく≪カタログ≫で明らかなように、仲介なしで同様な商売をしていました。『カタログ』曰く、≪サンタ・マリーア・フォルモーザ広場の Paula Franca は pieza lei medema(仲介は本人自身)、2スクード≫」と筆者は書いています。この2スクードは極めて低い価格だったそうですが、それは駆け出し時代の料金だったようです。

『ルネサンスの高級娼婦』は述べています。
「彼女はヴェネツィアでも屈指の旧家の一つであるヴェニエール家の邸にとりわけ足繁く出入りしたが、そこではヴェネツィアの名だたる文人たちが定期的に集い、その中には『エルサレム解放』の作者の父ベルナルド・タッソからパードヴァのアッカデーミア・デリ・インフィアマーティの中心人物であったスペローネ・スペローニまで、また印刷業者のパーオロ・マヌッツィオ[アルド・マヌッツィオの息子]からピエートロ・アレティーノまでがいた。
……
ヴェローニカは1575年に詩集を出版し、それをマントヴァ公に献呈している。……

みずみずしい薔薇や百合や菫が
わたしの熱い溜息に吹かれて枯れてしまった
太陽までがわたしを哀れんで翳(かげ)るのを見た。 

涙でうるむ眼であたりを見渡すと
川の流れは止み 海も怒りをしずめた
わたしの苦しみを哀れに思って。

ああ わたしのむごい悩みを聴こうと
いくたび 木の葉はさわぐのを止め
いくたび 風はそよぎを止めたことか!

ついには わたしがどの道を通ろうとも
わたしにははっきり見えるのだ
わたしの悩みのために石まで涙するのが。」
  ――ポール・ラリヴァイユ『ルネサンスの高級娼婦』(森田義之・白崎容子・豊田雅子訳、平凡社、1993年8月25日発行)より
  1. 2010/09/18(土) 00:05:59|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: フォースカリ館(Ca' Foscari)

ジュスティニアーン館隣の、フォースカリ館について『ヴェネツィアと入江』(1926)の記述は次のようです。
カ・フォースカリとジュスティニアーニ館カ・フォースカリ中央がフォースカリ館 「今は経済商業高等専門学校(Istituto Universitario di Economia e Commercio)の在所。モニュメンタルで、壮麗な建造物である。15世紀後半の、ヴェネツィア・ゴシック期の建物の中でも最も重要な例である。

フォースカリ家の邸宅であった。栄光に包まれたその激動の人生の中でも30年以上も共和国政府を支えた総督フランチェスコ・フォースカリ[全総督中、最も長期在位、1423~57年]は、最上級職から解任されたその政治的原因のため、苦悩の余り1457年11月1日ここで死んだ。

ヴェネツィアの伝統的建築様式による塔と思しき物が傍に建っていた。以前に存在した館は、共和国将軍マントヴァ侯へ提供のために政府が1428年獲得したが、1439年にはフランチェスコ・スフォルツァに譲られたと思われる。結局1452年競売に付され、総督フォースカリが取得し、彼は取り壊して現在の建物を再建した。
フランチェスコ・フォースカりラッザロ・バスティアーニ画『総督フランチェスコ・フォスカリ』、2011年『世界遺産 ヴェネツィア展――魅惑の芸術-千年の都』で来日
1700年代には内部を拡張して建て替え、中庭と外階段を取り潰した。1800年代にはヴェネツィア市が手に入れ、修復(1867)し、商業高等学校、現在の経済商業高等専門学校となった。――1574年ヴェネツィアを通り掛かったフランスのアンリ3世を迎えたのだが、今日では当時の華麗に設えられた内部の豪華な装飾的面影は殆ど残存していない。」

また『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような歴史を語っています。

「1420年共和国は15世紀末頃建てられたこの貴族の屋敷を、ジュスティニアーン家から6500ドゥカートで購入した。十人委員会はマントヴァ侯ジャン・フランチェスコ・ゴンザーガに与えることを決めた。しかし10年後、彼がミラーノと同盟した時没収した。その後館はスフォルツァ侯フランチェスコの手に渡った。

続いてセレニッシマは館を競売に付し、1423~57年総督だったフランチェスコ・フォースカリが取得した。彼は父親がその理由が未だに判然としない流罪で追放されていたエジプトで育ったが、27歳には元老院議員、31歳には Avogador(司法長官)、僅か45歳でサン・マルコ収入役(Pracurator 財務官)となった。
[Pracurator de S.Marco とはヴェネツィア共和国では貴族階級の中でドージェの次に位する、第一級の高官と『ヴェネツィア語辞典』にあり、『伊和辞典』(小学館)には収入役とあります。]

4年後には総督に選出され、ヴェネツィア史上最年少の総督となった。在職中対ヴィスコンティとの10年に及ぶ戦争のお陰でヴェネツィア領はロンバルディーアのアッダ河岸まで拡張された。

1440年彼の息子ヤーコポのルクレーツィア・コンタリーニとの結婚式が祝われた。総督自身は結婚式の夜、150人の貴婦人に付き添われた花嫁をブチントーロ船でサン・バルナバから総督宮殿まで案内し、そこで豪華な食事が饗された。サン・サムエーレとサン・バルナバ間に架けられた船の浮橋の上を花嫁を迎えに行く貴婦人や騎士の行列が通過した[当時はアッカデーミア橋は存在せず]。サン・マルコ広場では馬上試合が催され、フェッラーラ侯やモンフェッラート侯、フランチェスコ・スフォルツァの息子まで参加した。

何年間かはヤーコポは自分の事が話題にならないようにしていたが、1445年スキャンダルが発生した。十人委員会に総督の息子が不法な取引や人に便宜を謀り、高価な見返りを得ているという噂が届いた。逮捕命令が出され、続いてルーマニアのナウプリアへの追放刑が下された。[ナウプリア(Nauplia)はルーマニアではなく、ギリシア南部のナウプリオンのことのようです]。しかしトレヴィーゾへの強制移住に変更された。

父親の懇願で2年後呼び戻された。しかし1450年11月5日の夜、貴族のアルモロ・ドナが帰宅途中殺された。彼はヤーコポ・フォースカリの刑の申渡しの時の十人委員会のメンバーであり、その殺害の時間に総督宮殿近くで、彼の使用人が見られていたので、彼は逮捕され、クレタ島に流刑になった。

実際はヤーコポは無実であった。というのはニコロ・エーリッツォが死の床で殺人を告白したのだった。が既にヤーコポは亡くなっていた(この悲しい事件から、バイロン卿は『二人のフォースカリ』の悲劇の主題を取りだし、ヴェルディがこの作品からオペラを作った)。
[フランチェスコ・マリーア・ピアーヴェは、1842年フェニーチェ劇場の direttore degli spettacoli に就任すると、1844年に『二人のフォースカリ』の台本をヴェルディに提供(ローマのアルジェンティーナ劇場初演)。1848~59年フェニーチェ劇場の公式詩人となり、『リゴレット』や『椿姫』等ヴェルディのためには10作品の台本を執筆しました。]

フランチェスコ・フォースカリはその時84歳だった。彼は今や総督としての仕事を遂行するのが無理になっていた。十人委員会は彼を引退させた。数日後亡くなったが、伝説によるとその時には新総督パスクァーレ・マリピエーロの選出の鐘が鳴っていたのだとか。

しかし邸宅には悲しい思い出ばかりではない。大運河上での祝祭やレガッタの時には、煌びやかな人達が集まった。1579年のオーストリアのフェルディナント公とマクシミリアーン公、1686年のブラウンシュヴァイクのエルンスト公、1709年のデンマーク王フェルディナン4世等がある。

1574年フランス王でありポーランド王のアンリ・ド・ヴァロワ3世がヴェネツィア共和国滞在中の住居としてここを選んだ。フランチェスコ・フォースカリが死んだ部屋の直ぐ近くの部屋に在留したのだった。フランス王と王妃エレオノーラは、絹の正装で矛と槍を手にした護衛兵60人と若い貴族達40人を随えた総督に出迎えられ、ムラーノ島まで導かれた。

金箔を貼り、絵柄を刻印した皮革や高価な織物、古い武具等で飾られたフォースカリ宮殿にブチントーロ船で到着した。何艘かの大きな船の上に設けられたある種のロッジャ(柱廊)でオーケストラが飛切りの音楽を演奏した。邸館の前には船上に設えられたガラス窯に一晩中火が入れられ、火と、溶けて白熱光を発するガラス・ペーストが映え、大運河を照らし出した。

祝宴のテーブル上には食器やフォーク・セット、また菓子職人の砂糖で作った神話や歴史を題材にした像、その飾付けがサンソヴィーノのデザインで配置された。レガッタが行われたのだが、今日でも浮かべられる貴賓席はフォースカリ館の直前に係留される。
[この館直前の大運河の屈曲部は《Volta de Canal》と呼ばれ、現在ゴンドラ等のレガッタのゴール地点で、そこに設置される観覧席は《マーキナ(machina)》と呼称されます。先日、9月第一日曜日に行われた Regata storica でもここがゴールになった筈です。]

1847年市の取得するところとなり、入念な修復後、経済商業高等専門学校となった。現在はヴェネツィア大学の本部である。」
カナレット画をヴィゼンティーニが板刻Canaletto の絵を Antonio Visentini がエッチングした『ヴェネツィアのパースペクティヴ(Le Prospettive di Venezia)』の38画の1枚から――リアルト橋方面からの展望で、大運河最奥正面中央の建物が Ca' Foscari です。
  1. 2010/09/11(土) 00:01:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――ゲーテ(2)

ヴェネツィアで彼が滞在したホテルは《イギリス女王》という名の旅館だったと、『イタリア紀行』には書かれています。そしてその訳注には「今日ではホテル・ヴィクトリアと呼ばれている」と1942年6月1日発行のこの訳書にはあります。この当時はこの名のホテルで営業していたということでしょうか。

ヴェネツィア語学校に通い始めた時、ヴァポレットのバス船の定期券を利用するために、フゼーリ通り(Rm.dei Fuseri)の ACTV の事務所(Ufficio A.C.T.V.abbonamenti)にカルタヴェネツィア(CartaVenezia)を申請し、定期券を作ってもらいに行きました。

フゼーリ橋(P.dei Fuseri)の袂(1810番地)にそれはありました。その建物の運河側の壁面に次の碑文があることが分かったのはその後のことです。即ち《GOETHE WOHNTE HIER 28 SEPT.―14 OCT.》とあり、そこがかつての《イギリス女王》館という旅館だったことを知りました。
ゲーテの碑『イタリア紀行』その後、ここの ACTV の事務所は廃止され、暫くは空家になっていましたが、最近商店が店開きをしていました。ヴェネツィアも色々と変化があるようです。そう言えば、直ぐ近くに KENZO の店があって夜もショーウィンドーが明るく、夜中の散歩でホッとするゾーンでしたが、現在ではその店もありません。

彼の《イギリス女王》館へは、サン・マルコ広場傍のオルセーオロ・ゴンドラ溜まり(Bacino Orseolo)から運河沿いに次の橋トローン(P.Tron)まで行き、左折。左角に猫ちゃんマークのセルフ・サーヴィス・レストランがある突き当たりでフレッゼリーア(Frezzeria)通りを右折して行くと道は直ぐに左へ90°曲がります。そして最初の横丁を右へ折れるとフゼーリ通りで、前方にある橋(P.dei Fuseri)左袂の建物(右袂はレストラン)がゲーテの泊った元旅館です。
モーツァルト記念碑フゼーリ通りへ右折しないで直進し、次のバルカローリ(Barcaroli)橋、左袂の建物(1830番地)は、1771年のカーニヴァルの時、少年モーツァルトが父と滞在したチェゼレッティ館で、その事を示す碑が運河側の壁面に掲げてあります。2008.12.13日に書きましたモーツァルトも参考までに。
   
「十月十日。
ようやくこれで私も喜劇を見たと公言することができることとなった。聖ルカ劇場で、今日、“Le Baruffe Chiozzotte”が演ぜられた。それはつまり《キオッツァの喧嘩口論》とでも訳さるべきものである。役者はことごとくキオッツァ[伊語キオッジャ]の住民である漁夫で、それに彼らの妻、姉妹、娘たちが交っている。これらの人々の善きにつけ悪しきにつけ慣習となっている叫喚、争論、短気、気立の善さ、愚鈍、機智、諧謔、わざとらしくない挙動――すべてがいかにも巧みに模倣されていた。

なおこの芝居はゴルドニの作である。それに私はつい昨日その地方に行ってきたばかりであって、漁夫および港の人たちの声や物腰がなお眼に映り耳に残っているので、この劇はひとしお興が深かった。個々の点に関して解らないところもあるにはあったが、しかし全体の筋は十分によく辿ってゆくことができた。

構想はこうである。キオッツァの女どもが家の前の船著場に腰をおろし、いつものように紡いだり、編物をしたり鋏の音をさせている。そこへ一人の若者が通りかかって、一人の女に他の女よりも格別親しげに挨拶する。そこでやがて当てこすりが始められる。それが度を増して、だんだん烈しくなり、嘲笑にかわり、さらに高まっては攻撃となり、ますます無礼がつのって、ついには性急な一人の隣の女が真実を発(あば)いてしまう。そうなると悪口、雑言、絶叫が一斉に爆発し、極端な侮辱的行為さえ行われたので、やむなく裁判所の人たちが干渉することになる。
……
自分自身や自分の家族のものたちがいかにもありのままに演じ出されるのを見て、見物はやんやと喝采するのだが、こんな面白い光景を私はまだ曾て経験したことがない。始めから終りまで哄笑と歓呼の連続である。しかしまた私はここに俳優の芸がすぐれていたことも認めなければならない。彼らは人物の性質に応じて、民衆の間に一般に行われているような種々の声をば、めいめい使い分けた。

スターの女優は最も愛らしく、最近女丈夫の服装で情熱的な役を演じた時よりも、遙かによくやった。概して女優は、中んずくこの女優は、民衆の声と挙動の本性をきわめて優美にまねていた。また、つまらない材料からこんな愉快な慰みをつくりあげた作者も大いに賞讃に価する。これもまったく直接に自国の楽天的な民族を相手にしてこそできることだ。作者の筆は実に達者なものである。 ……」
 ――『イタリア紀行』(上巻、相良守峯訳、岩波文庫、1942年6月1日発行)
  1. 2010/09/04(土) 00:02:55|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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