イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ボッカッチョ(1)

ルネサンス時代の三大詩人と言えば、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョと高校の歴史で教わりました。ダンテについては、2008.06.06日の造船所(アルセナーレ)で取り上げました(そこに『神曲』の一節を引用しました。その書名を『神曲』と命名したのは森鷗外だったそうですが、彼の訳によるアンデルセン[デンマーク語式にはアナーセン]の『卽興詩人』中の、《神曲》登場箇所は次のようです)。

「≪オルガノ≫の笛の如く、金紙卷きたる燭は竝び立てり。柱のやうに立てたる膓づめの肉の上には、琥珀の如く光を放ちて、≪パルミジヤノ≫の乾酪据わりたり。夕になれば、燭に火を點ずるほどに、其光は膓づめの肉と≪プレシチウツトオ≫(らかん)との間に燃ゆる、聖母像前の紅玻璃燈と共に、この幻の境を照せり。我詩には、店の卓の上なる猫兒(ねこ)、店の女房と價を爭ひたる、若き≪カツプチノ≫僧さへ、殘ることなく入りぬ。此詩をば、幾度か心の内にて吟じ試みて、さてフェデリゴに歌ひて聞かせしに、フェデリゴめでたがりければ、つひに家の中に廣まり、又街を踰えて、向ひなるひものやの女房の耳にも入りぬ。女房聞きて、げに珍しき詩なるかな、ダンテの神曲(ヂヰナ・コメヂア)とはかゝるものか、とぞ稱へける。」
[『即興詩人』の訳文の中で何度も『神曲』のことは話題となりますが、これが初出のようです。第三章「美小鬟、卽興詩人」の終わり近い段落にあります。]
デカメロン[2015.12.22-2016.03.06日《英国の夢 ラファエル前派展》で来日したジョン・ウィリアム・ウォーターハウス画『デカメロン』]  2008.06.13日にはヴェネツィアとフランチェスコ・ペトラルカについて触れました。第三番目の人、ジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313.6/7月、チェルタルド/フィレンツェ~1375.12.21チェルタルド)は、『デカメロン(十日物語)』の四日目第二話の舞台をヴェネツィアに設定しています。当時この町は、Vinegia とか Vinezia 等呼称されていたようです。
『デカメロン』ボッカッチョ[イタリアのサイトから借用]  「ここに、マドンナ・リゼッタ・ダ・カ・クイリーノと呼ばれる虛榮心が高く、愚かな若い婦人がおりました。彼女はガレア船でフィアンドラ(フランドル地方)に行った大商人の妻でしたが、他の婦人たちと一緒にこの信心深い司祭のところへ告解にまいりました。

彼女はヴィネージャ人でした、そして、ヴィネージャの人は一體にみな浅薄なのですが、彼女はひざまずいて自分の身の上を少しばかり話しますと、修士アルベルトは彼女には情人があるのではないかと訊ねました。修士に対して彼女はいやな顏をして答えました。

≪おや、修士さま、あなたの頭にはお眼がついていないのですか。私の美しさは、他の女の美しさと同じようだとおっしゃるのですか。私はもとうと思ったら、情人などとてもたくさんもてますのよ。でも私の美しさは、誰もかれも愛せるというのと違います。私ほどの美人を貴方さまは今まで幾人ごらんになりました。私はきっと天國にいったとしても、美人の方でしょうよ。≫ そしてそのほかにも自分の美貌についていろいろと述べたてて、聞くのも退屈なくらいでした。

 修士アルベルトはすぐ、この女は少し馬鹿であると見抜き、自分の耕すに適する土地だと思いましたので、すぐさま、すっかり彼女に惚れ込んでしまいました。
……
修士アルベルトはその夜、天使でなく騎士にならなくてはならないと考え、馬からふり落されるほど、弱蟲であってはならないと、糖菓子や、その他の滋養物で力をつけ始めました。そして外出の許可を得て、夜になってから、一人の仲間と一人の女友達の家にはいりましたが、牝馬を走らせに行くときは前にも、この家から出かけたものでした。そして、もういい時分だと思ったとき、變裝して女の家に行きました。家に入り、持參した飾りで天使に扮裝しまして、階上に上ると女の寢室に入りました。

 彼女はこんな眞白なものを見ると、その前に跪いてしまいました。すると天使は彼女に祝福を與えて、立ち上がらせると寢臺に行くように合圖をしました。それに從うことは彼女の望むところでしたので、すぐそうしました。天使はそれから、自分を信心している女とともに橫になりました。修士アルベルトは、美しい頑健な體の男でしたし、脚も體にしっかりついていました。 ……」 (続く)
  ――『デカメロン(十日物語)』(その三、野上素一訳、岩波文庫、1957年2月5日発行)より
  1. 2010/10/30(土) 00:00:09|
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ヴェネツィアの建物: Palazzo Balbi(バルビ館)

カ・フォースカリ運河(Rio de Ca' Foscari)の大運河出口に建つバルビ館について、『大運河』(1993)は次のように書いています。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)バルビ館「1582~90年、アレッサンドロ・ヴィットーリアの設計で建てられた、盛期古典様式から初期バロック様式に至る間の堂々たる建造物。ファサードは中央に二対の柱を置いた美しい三連窓が、3、4階は扶壁柱で強調される、伝統的な三部構成を示している。

しかし浮出し飾りのある滑やかな石積みの高い1階窓は、波状の縁取りがあり、三つの玄関門の縁飾りとなっている壁龕のティムパヌムは(上の階の窓のように)、装飾的モチーフを受け入れることを止めている。大理石の二つの大きな紋章は、ピアーノ・ノービレの二つのモノーフォラ(Monofora――連になっていない一面窓)の間に置かれている。

現在はヴェーネト州の州庁の所在地である。

サン・パンタローン運河(Rio de S.Pantalon)[カ・フォースカリ(Ca' Foscari)運河にはこういう呼称もある?]の河口に建ち、艦隊司令長官であったことを示す一対のオベリスクが屋根の上に高く聳えている。貴族ニコロ・バルビのために建てられた。

年代記によれば、長い間この人物は大運河の屈曲部(volta di Canal)の見事な衝角部分に、自分の住処を建てたいという希望を持っていたが、計画実現の時を見出せないでいた。一家はその地の所有者の家から程遠くない所の建物に住んでいたが、その家の持主とは友好関係にはなかった。持主の男は彼への嫌がらせを目論んで、侮辱する機会を窺っていた。

ある日バルビが元老院への登庁途中、決められた月日に支払いを怠っていた彼に、賃料の支払いを直ぐするように失礼な態度で声を掛けてきた。怒り狂ったニコロは、直ぐにその場所に館の建設を命じた。それだけではなかった。敵の家の前に大きな船を係留させ家から大運河が見えないようにし、家族諸共そこに越してきて、賃借契約は破棄した。

こうして水の上で何ヶ月も生活しながら、建築が迅速に進むように監督した。しかし残念なことに、風邪に罹り、素晴らしい住宅に入居出来る前に亡くなった。1807年[12月2日]、ナポレオンは彼の名前を冠したレガッタをこの館から見守った。

左隣には、現在低い建物[Palazzetto Masieri]があるが、これはアメリカ人大建築家フランク・ロイド・ライトが1951年に、若き建築家アンジェロ・マジエーリのための住宅として設計した物であるが、アンジェロはその年航空事故でなくなった。その後、マジエーリを記念して建築学生のための学生寮として改築されることになったが、そのプロジェクトに論争が巻き起こり、そのため当局は決めかねて未だに実行に移されていない。」

マジエーリ館左隣の黄色の建物(写真左奥に見える橋の右)は、ヴェネツィア市の消防署です。水面に接した四つの入口の中に消防艇が係留されています。ここからフェニーチェ劇場までは僅かの時間です。フェニーチェ出火当時、大運河口のラルボロ運河(R.de l'Alboro)からフェニーチェ劇場周辺のレ・ヴェステ(le Veste)運河やラ・ヴェローナ(la Verona)運河等はヘドロ浚渫のために水が堰き止められていて、消防艇は現場に近付けませんでした。そのため消防の主力は、ヘリコプターによる海水の撒布でした。劇場修復時、塩分の除去は大変だったと言います。
1792年のフェニーチェ1837年のフェニーチェ劇場1977年のフェニーチェ劇場炎上するフェニーチェ劇場(1)[左、1792年ジュゼッペ・サルディが印刷発行したフェニーチェ劇場正面。中左、ジョヴァンニ・ブザートの幕の見える、1837年のジョヴァンニ・ピヴィドールのフェニーチェ劇場内部。中右、焼失前1977年の舞台風景。右、1996年水勢のないポンプの消火風景。]

バルビ館右隣はカオトルタ・アンガラーン(P.Caotorta Angaran)館です。『大運河』(1993)の記述は次のようです。
「17世紀末の建物で、1956年に建て直された。名もなきファサードは中央のセルリアーナ式の窓が特徴であり、横に長方形の単純な窓が開いている。執政官をしていた古い家系のカオトルタ家は、ヴェネツィアの初期からの史料で裏付けられる。一方、ヴィチェンツァのアンガラーン家は1655年、14万ドゥカートで貴族身分を買い取った。」
  1. 2010/10/23(土) 00:03:41|
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文学に表れたヴェネツィア――久米邦武

ブログを開始し、凡そ週一ペースでヴェネツィアのあれこれを3年に渡って書いてきました。ここで初めて日本人のヴェネツィア体験記を取り上げてみます。明治初期、特命全権大使の岩倉具視が米欧を回覧した時、彼に随行してその記録『米欧回覧実記』を残した久米邦武に、日本人としてヴェネツィアについて書いた第一号の文章があることは、余りにも有名です。

大聖年の2000年末、私がド・ポッツィ広場傍の、語学校のマッシモ先生の部屋を借りた時は、アルセナーレの停留所からカ・レッツォーニコ停留所まで、CartaVenezia に登録し、ヴァポレットの定期券を購入して通学しました。朝登校時ヴァポレットに乗船すると、口に付いて出てくる言葉がありました。「水調一声、響キ海雲ヲ遏(とど)メテ瀏湸(りゅうりょう)タリ」という『米欧回覧実記』の一節です。

速く伊語が分かるようになりたいという願いの口調のいい呪文のようなものでした。意味は「水面を流れる民謡の歌声は朗々として、雲の流れさえとどめそうに響きが高い」(現代語訳『特命全権大使 米欧回覧実記 第四巻 ヨーロッパ大陸編・中』(水澤周=訳・注、慶應義塾大学出版会))と意味的には無関係です。

「《ヴェニェシヤ》府ハ我日本ニテ《ベネチヤ》トイヒシハ、卽チ比府ノコトニテ、英ニテハ《ヴェニシ》ト云、以太利東北ノ海口ナル都會ニテ、《アトリャチック》海ニ濱セル、斗出(としゅつ)ノ島ヲ聚(あつ)メテナル、島中ニ大運河ヲ回(めぐら)ス、巴字ノ如シ、是ヨリ大小ノ運河ヲ引キ、縱橫ニ交錯シ、附近ノ小島ニ連綴(れんてい)シ一府トナス、雄樓傑閣、島ヲ塡メテ建ツ、河ヲ以テ路ニカエ、艇ヲ以テ馬車ニカユ、歐洲ノ諸都府中ニ於テ、別機軸ノ景象ヲナセル、一奇鄕ナリ、名ツケテ衆島府トイフ、比都府ハ、歐洲ニテ古キ貿易場ニテ、紀元三百年ノ頃ヨリ繁盛ヲナシ、附近ノ土地ヲ占メテ、合衆政治ヲナシ、獨立ノ一國タリ、
総督宮殿サン・マルコ寺院運河と大運河からのサルーテ教会歐洲東方ヨリ、小亞細亞(エジャマイナ)、阿刺伯(アラビヤ)、及ヒ印度トノ交易ハ、地中海ヲ運シ、比ニ聚(あつ)メテ歐地ニ散ス、貿易ノ權ヲ總()ヘ、繁盛ヲキワムルコト一千年ナリシニ、葡萄牙人始メテ亞弗利加ノ航路ヲ開キ、喜望峰ヲ回リ、印度、阿刺伯ヘノ交易ヲセシヨリ、比府ノ生理頓(とみ)ニ衰ヘタリ、然レトモ、猶地中海ノ樞ヲ占メテ、利ヲ東方ニ擅(ほしいまま)ニセリ、是我邦ニ早ク《ベネチヤ》國ヲ知リシ所以(ゆえん)ナリ、
……
○比日ハ驛舍ヨリ直ニ艇ニ上ル、艇ノ製作奇異ナリ、舳首騫起(じくしゅけんき)シ、艇底円轉トシテ、舳ニ屋根アリ、中ニ茵席(いんせき)ヲ安ンス、棹(さお)ヲ打テ泛泛(はんはん)トシテ往返ス、身ヲ淸明上河ノ圖中ニオクカ如シ、市廛(してん)鱗鱗トシテ水ニ鑑ミ、空氣淸ク、日光爽カニ、嵐翠水ヲ籠メテ、晴波淪紋ヲ皺(しわ)ム、艇は雲靄杳緲(ようびょう)ノ中ヲユク、飄飄乎(ひょうひょうこ)トシテ登仙スルカ如シ、府中ノ人、音樂ヲ好ミ、唱歌ヲ喜ヒ、伴ヲ結ヒ舟ヲ蕩(うごか)シテ、中流ニ游フ、水調一聲、響キ海雲ヲ遏(とど)メテ瀏湸(りゅうりょう)タリ、旅客ノ來ルモノ、相樂ミテ歸ルヲ忘ルゝトナン、比日旅舘ニ至レハ、樂伴舘下ノ水上ニテ樂ヲ奏シテ、着府ヲ祝セリ、
……
比書庫ニ、本朝ノ大友氏ヨリ遣ハセシ、使臣ヨリ送リタル書翰二枚ヲ藏ス、其遺紙ヲ一見センコトヲ望ミシニ、挾紙ヨリ取出シテ示シタリ、皆西洋紙ニ羅甸(ラテン)文ニテ書セル書翰ニテ、末ニ本人直筆ノ署名アリ、鋼筆ニテ書セルモノナリ、岩倉大使、余ヲシテ模寫セシム、左の如シ、[署名1]一千六百十五年二月廿四日トアリ  [署名2]一千六百十六年トアリ

外ニ日本使臣書翰五葉アリ、皆橫文字ナルユエ、筆者ニ寫取(うつしと)ラシメ、贈與アランコトヲ嘱請シテ歸レリ、其五葉ノ書ハ一千五百八十五乃至七年〈我天正ノ季〉マテ、大友家ノ使臣、羅馬、及ヒ威尼斯ニ至リシトキノ往復文ナリ、比支倉(はせくら)六右衞門ハ、是ヨリ三十年モ後レテ至リタレハ、大友家ノ使臣ニハ非ルヘシ、……」
  ――『特命全権大使 米欧回覧実記 四』(久米邦武編、田中彰校注、岩波文庫、1980年8月18日発行)より
『米欧回覧実記 四』現代語訳『米欧回覧実記 4』天正の四少年遣欧使節と支倉常長の渡欧についての研究が始まったのは、ヴェネツィアの東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内で、フラーリ古文書館に残されていた書翰等の発見が基で、彼らの事が少しずつ知られてきたことが分かります。久米の執筆時には判明していなかった支倉六右衛門の事は、例えば『米欧回覧実記』の現代語訳版の後注で次のように分かります。

「岩波文庫『米欧回覧実記 四』の田中彰氏の注によると、明治九年夏行われた明治天皇の東北巡幸の記録『東北御巡幸記』の六月二六日の記事に、仙台の博覧会場に、支倉常長が持ち帰った自分の肖像画が陳列されており、きわめて珍しいものとされたとあるそうである。支倉常長の事績は、江戸時代を通じて伊達家の秘密とされ、この時期に至って初めて明らかにされたのであろう。」
  ――現代語訳『特命全権大使 米欧回覧実記 4 ヨーロッパ大陸編・中 1871-1873』(普及版、久米邦武=編著、水澤周=訳・注、米欧亜回覧の会=企画、慶應義塾大学出版会、2008年6月20日発行)の《後注》より  
  1. 2010/10/16(土) 00:03:14|
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文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコ(4)

Bruno Rosada著『Donne veneziane―Amori e Valori―Da Caterina Cornaro a Peggy Guggenheim』(Corbo e Fiore Editore、Venezia、2005年12月印刷)という本に、ヴェローニカ・フランコについての章がありましたので、誤訳を恐れず、拙劣な和文ですが何とか意味だけでも分かればとその一部を訳出してみました。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』「……ヴェネツィアは当時、富と国力が頂点に達していた。しかし綻びが見え始めてもいた、特に新大陸発見後、物資の新しい流れが各地に拡大し始めていたからであった。しかし誰一人としてその事に気付いていなかった。

このような時に、1574年7月18~28日の出来事が発生する。即ち近々フランスとポーランドの国王となる筈の、ヴァロワ王家の将来のアンリ3世がヴェネツィアを訪れたのであった。その歓迎祝典は破格のものだった。ヴェネツィアはこの令名高き賓客を驚かそうとして、総額2万5千ドゥカートという目を見張る歓待費用を使ったのである。

ビロードやダマスクスの緞子、黄金の織物等で飾り付けた60艘のゴンドラに元老院議員がそれぞれ一人乗船した船列が、マルゲーラまで殿下をお迎えに参上し、ムラーノ島までお連れした。ムラーノでは盛装に身を固めた総督アルヴィーゼ・モチェニーゴ[1世、1570~77]が、豪華な制服で着飾った、盾と槍を手にした60名の兵を従えて出迎えた[2010.03.06日に書いた《バルバリーゴ館》の正面右を飾るモザイク画はこの時のアンリ3世を題材にしたものですビオンディ館からロレダーン・チーニ館まで)》。

黄と青のタフタ織で着飾った400人のダルマツィアの操舵手が漕ぐラグーナ警備隊長のガレー船に殿下を乗せ、リード島のサン・ニコロまで案内した。そこには大建築家パッラーディオの設計になる奉迎用の舞台が建てられ、それはティントレットとヴェロネーゼの両巨匠が装飾を施していた。
パッラーディオ設計のアンリ3世歓迎門ガブリエール・ベッラ『アンリ3世の入市』[左、パッラーディオ設計の奉迎門と歓迎ポルティコ。右、ガブリエール・ベッラ画『アンリ3世入市時の歓迎の模様』]  ブチントーロ船上でのミサ終了後、そこからゼッキーノ金貨で飾られた絢爛たる装いの別の船で、フォースカリ宮殿まで赴いた。その邸館が彼のヴェネツィア在留中の邸宅として提供されたのだった。

そして彼のヴェネツィア滞在10日間は、祝宴、舞踏会、饗宴と、豪華絢爛たる光景が続いた。というのは、富裕なヴェネツィア貴族達は外国の君主に自分達の富を見てもらおうと祝宴や饗宴の華を競ったのだった。

若い王はその時23歳だった。黒い顎鬚は善良さを示す風格を強調していた。一言で言えば、美男だった。ある時誰かに自分の欲望の事を口にしたに違いない。いずれにしても、妹のマルゲリータ[マルグリット・ド・ヴァロワ、有名な王妃マルゴ]に似ていたなら、兄妹とも烈しい性欲で知られていたように、彼もまた欲望を抑えるのは難しかったに違いない。

だがしかし、ヴェネツィア共和国にとってこの歓待は神聖なことであった。賓客のあらゆる欲求とは一つの厳命なのである。王に対して一人の娼婦を差し向けるというのは、この場合状況に合っていたに違いない。

ヴェローニカは29歳だった。フランチェスコとパーオラ・フラカッサの間に1545年誕生した。美人で、教養があり、洗練されていた。彼女の仕事はよく知られていたが、ヴェネツィア貴族の上層の人々との付き合いがあり、友情を培っており、最上のサロンへの出入りを許されていた。

彼女は医師パーオロ・パニッツァと結婚し、既に離婚していた。6人の子供達がこの人物との間になしたものであったかどうかは不明である。しかしこの結婚を取り止めたヴェローニカの態度が結び付くのは階級の違いであった、とは考えられていない。彼女の家は貴族に次ぐ上層の社会階級である《本来の市民階級》に属していた。

この階級からだけ、共和国の官僚組織のメンバーが排出されるのだった。しかし父も妻パーオラ・フラカッサが売春するのを認めていた。そうした事が大きなスキャンダルを引き起こさないと思われていたようである。

その時ヴェローニカ・フランコ(というより、ヴェローニカ・フランカについてである。何故習慣でこんな風に女性形の姓で全ての史料が書かれるのだろうか)以上に、お相手として最上である著名な賓客を誰がもてなすことが出来たであろうか。

そして更に、作家ダーチャ・マライーニはヴェローニカの精神状態を忠実に描き、彼女に言わしめている。
≪殿下は何もお支払いにはなりませんでしたわ。だってこれは私には最高の栄誉だったということですもの。お分かりになります? 私と愛を交わしに来られたんじゃない……。そのためだったら、私より百倍も美人で、若い人がいるじゃないですか。私のエスプリをご覧になりに見えたのよ。……≫[『Veronica, meretrice e scrittora』(Bompiani、1992)からの引用でしょうか?]

カトリーヌ・ド・メディシス(Caterina de' Medici)の息子アンリは、優しくお相手を勤めた人の肖像画とその相方が彼に捧げた2篇のソネットを手にしてヴェネツィアを発った。……」
  ――Bruno Rosada『Donne veneziane――Amori e Valori』(Corbo e Fiore Editore、2005.12.)
  1. 2010/10/09(土) 00:00:38|
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文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコ(3)

ローマという教皇猊下のお膝元では、反宗教改革の厳格主義に燃えるピウス5世(天正の四少年遣欧使節が拝謁したグレゴリウス13世の前の教皇)などは都市浄化に燃え、娼婦達を都市外に追放し、これといった産業のないローマの経済は、経済力のある娼婦達の退却で混乱を極めたと言います。
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像] 一方ヴェネツィアでは、フランスの地中海学者フェルナン・ブローデルがその著『都市ヴェネツィア――歴史紀行』(岩崎力訳、岩波書店、1986.8.11発行)の中で、
「16世紀、17世紀を通じて全ヨーロッパにあまねく評判の行き渡っていたヴェネツィアの遊女たちは、豪華な衣装に身を包んだ絶世の美女揃いであり、黄金と真珠で飾り立て、利発で才気に満ち、いわばサロンの女主人であって、貴族や才人たちを客として迎えていた。」のですが、
ブローデル著『都市ヴェネツィア』とは言っても、奥方達をエスコートするのに夫や愛人でもないチチズベーオ(cicisbeo)が常に貴婦人に付き添ったヴェネツィアが、ロンドンやパリに比して、より頽廃していたとは言えないと書いています。マリン・サヌードの日誌が記しているそうですが、その娼婦達が外国人からせしめて銀行に預け、地元の経済を潤したため、「1514年に造船所の重要な工事のために娼婦に多額の臨時税が課された」(『ルネサンスの高級娼婦』)ようなことがあったり、ローマのように娼婦を排除しなかったようです。

「ヴェネツィアでは、ローマと比べると平和で落着きのある、娼婦にとってはさながらオアシスのような都市であった。一つにはこの水の都がイタリア半島の辺境に位置するという地理的条件のためもあったが、それ以上にヴェネツィアが、折から鬨(とき)の声を上げていた反宗教改革の厳格主義を緩和するだけの独立精神を、辛うじてとはいえ保っていたためであった。

たとえば異端審問の法廷においても、元老院から任命されたヴェネツィアの審問官たちは、ローマ教会から派遣されてきた代表が厳しい判定を下すのを抑制するように気を配り、それを助長しようとは決してしなかった。ローマに厳格主義が浸透していたまさに同じ時代に、ヴェネツィアには自由な雰囲気が横溢していたのである。
……
ヴェネツィア共和国では、娼婦は風俗がいっそうゆゆしく乱れるのを阻止するごく小さな必要悪と見なされており、このため彼女たちはよそに比べて寛大な扱いを受けることになったのである。ヴェネツィア当局は、売春そのものよりも、むしろ娼婦たちを取り巻く者と、彼らの許し難い行動の方に目を光らせていた。

事実、15世紀の終りには娼婦の稼ぎで生活する女衒、仲介者、保護者など、ミラノ外交官が残した1492年の文書によれば下層階級の出とされる人びとに矛先が向けられた。その文書には次のように書かれている。≪近頃出された女衒追放令により、司祭や僧侶は別にして111名の紳士がこの日までに町を離れた。彼らは商売女とわたりをつけ、彼女らを斡旋していたのである。≫」
 ――ポール・ラリヴァイユ『ルネサンスの高級娼婦』(森田義之・白崎容子・豊田雅子訳、平凡社、1993年8月25日発行)
  1. 2010/10/02(土) 00:05:42|
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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