イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ソフィ・カル

ソフィ・カル(Sophie Calle、1953.10.09パリ~  )著『本当の話(Des histoires vraies)』(野崎歓訳)という本を読みました。その中に《ヴェネツィア組曲》という一編があります。《わたし》という女主人公が、パリで一人の男を追跡し、更に移動した先ヴェネツィアへもその男の後を追い掛けていき、再度パリへ戻った男を尾行するのですが、そのヴェネツィア滞在中の尾行記が《ヴェネツィア組曲》です。

《わたし》が逗留する宿がロカンダ・モンティーンです。かつてここに泊まってみたくて、日本から Fax をしたことがあります。もう宿として営業していないけれどレストランをやっているので、ヴェネツィアにお出での節は食事にお出かけ下さい、と返信がありました。

という訳でお昼を食べに行ったことがあります。夏、パーゴラのある中庭での食事は大変快適でした。注文取りに見えた店主が「あなた方は画家 Kouji Kinutani の名前を知っていますか」と尋ねられ、知っていると答えると、店内の隅の一角に飾られている現芸大教授絹谷幸二画伯の絵の前に案内してくれました。
ロカンダ・モンティーン中央の赤っぽい絵が画伯の物[中央の赤っぽい絵が画伯のもの]  画伯のこの絵がここにある理由やヴェネツィア留学中の苦労話は、NHKテレビ番組『わが心の旅 ヴェネツィア』絹谷幸二篇で見たことがあります。最近は日本人がよく行くようになったのか、画伯の絵は部屋の中程の大変見やすい場所に移されていました。

Locanda Montin はドルソドゥーロ区1147番地にあります。行き方は映画『旅情』でヘップバーンが運河に落ちたサン・バルナバ(S.Barnaba)広場から南に見えるカジーン・デイ・ノービリ軒下通り(Stp.del Casin dei Nobili)を潜り抜けてすぐのロンバルド橋(P.Lombardo)を渡り右に折れてマルパーガ運河(Rio del Malpaga)沿いにカ・ロンバルド運河通り(Fdm.Ca' Lombardo)を行きます。次の橋の所で運河沿いに左に折れ、ロミーテ運河(R.de le Romite)沿いにボルゴ運河通り(Fdm.di Borgo)を南下すると、左側にある路地を3本越した辺りに1147番地が現れます。
『本当の話』1980年217日日曜日  八時。トラゲット通り。昨日と同じく、彼を待つ。今日は日曜、いつもより人通りが少ない。寒い。また行ったり来たりし始める。
 
 十時。中断してこの通りとサン・バルナバ広場との角にある《バー・アルティスティ》にコーヒーを飲みに行く。そこに《ロカンダ・モンティーン》の主人が現れたのでびっくり。かつらをかぶっていてもわたしだとわかるだろうか? 顔を伏せ、レシートをボーイに渡し、あわてて店をでる。

いつでも店を出られるように、これからは注文と同時に代金を払っておいたほうがいいだろう。トラゲット通りに戻る。目で探すのはあの男のシルエットばかり、他は目に入らない。

正午。諦める。サン・マルコ広場に行く。一杯飲みに寄ったカフェ・フロリアンでバーマンのジョヴァンニと知り合いになる。彼はわたしに、ヨーロッパはいちばん美しい大陸で、イタリアはいちばん美しい国で、ヴェネツィアはイタリアでいちばん美しい街で、サン・マルコ広場はヴェネツィアでいちばん美しい広場で、《フロリアン》はサン・マルコ広場でいちばん美しいカフェであると力説し、自分はそのフロリアンのバーマンなのだと自慢した。彼に昼食に誘われ、オーケーする。

十四時。《アッラ・マドンナ》というレストランに行く。わたしはジョヴァンニに、休暇でこちらに来ているボーイフレンドを探している、彼をびっくりさせてやりたいのだと作り話をする。
……
二人のすぐそばをついていく。彼らが通った道順は次のとおり。トラゲット通り、サン・バルナバ広場、プーニ橋、リオ・テッラ・カナル――そこで彼は通行人に道を聞く――サンタ・マルゲリータ広場、サン・パンタロン橋、モスコ、サリッザーダ・サン・パンタロン小広場、リオ・デル・ガッファロ、トレンティーニ河岸、カマイ通り、レ・キオヴェーレ通り、サン・ロッコ広場、ラルガ通り――二人は《ルナール写真店》のウインドーを眺める――トラゲット通り、サン・トマ橋、ノンボリ通り、リオ・テッラ・デイ・ノンボリ、サオネーリ通り、サン・ポーロ橋、サリッザーダ・サン・ポーロ、サン・ポーロ広場――彼は教会を指差し、広場の写真を撮る。わたしもそのまねをする――ソット・ポルテゴ・デ・ラ・マドンネッタ、マドンネッタ通り、マドンネッタ広場――彼は大運河か、そこを通っていく船の写真を撮ろうとひざまずく。数秒後にわたしもまねをして、同じ写真を撮ろうとする――ネローニ小広場――二人は壁に貼られたコピー機の広告に興味を示す――メッゾ広場、サン・タポナル広場――彼女は本屋に入るが、すぐに手ぶらで出てくる――ルゲッタ通り――彼は新聞を買い、売り子と言葉を交わす――ルーガ・ヴェッキア・サン・ジョヴァンニ――二人はローマ銀行の前で少し立ち止まり地図を広げて眺める。……
本の挿図より『本当の話』の挿図[本の挿図から]  わたしも運河や家や、彼がじっと見ていたあたりの写真を撮ってから、追跡を再開する。〈彼は一人っきり、わたしは大胆になる。彼に近づきすぎる〉。スカレッタ通り、サンタ・マリーナ橋、クリスト広場、ヴァン・アクセル河岸――彼は仮面をかぶった男に声をかけ、パラッツォ・ヴァン・アクセルの前で男にポーズを取らせ、腕の位置を直してから写真を撮る。男に礼をいって、また歩き出す――エルベ通り、ロッソ橋――わたしたちはこれまで通ってきた寂しい道よりは人影の多い、広々とした広場に出る。びくびくした気持がおさまる――サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場。真ん中に騎馬像、奥は市民病院。彼は病院に向かって進み、門を入る。 ……」
  ――ソフィ・カル著『本当の話』(野崎歓訳、平凡社、1999年10月20日発行)より         
  1. 2010/11/27(土) 00:05:01|
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ヴェネツィアの建物: チヴラーン・グリマーニ館(P.Civran Grimani)館からティエーポロ館(P. Tiepolo)まで

フレスカーダ運河(rio de la Frescada)を越えて更に右へ進むと、チヴラーン・グリマーニ館です。今回の簡単な紹介は全て『大運河』(1993刊)の記述のお世話になります。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)ダンドロ館他ジュスティニアーン・ペルスィコ館他ティエーポロ館他[左からチヴラーン・グリマーニ館、ダンドロ・パオルッチ館、ドルフィーン館、マルチェッロ・デイ・レオーニ館、ジュスティニアーン・ペルスィコ館、2軒置いてティエーポロ小館、ティエーポロ館]
「それ以前に建っていた建物が1720~40年頃に改築されたと思われる。そのため、ジョルジョ・マッサーリの名前が挙げられている。窓が長いことや、1階の優美な浮出し飾りのある平らな切石積みは、彼の手法に近いと思われる。全体の簡潔さと窓の間の表面から引っ込んだ四角形のモチーフは、新古典様式の到来を予告しているかのようである。1818年グリマーニ家の所有となった。」

右隣のダンドロ・パオルッチ館(P.Dandolo Paolucci)の記述は次のようです。
「中央にアーチ式多連窓が並ぶ1600年代の簡素な建物。二つの玄関口がある。1924年にテラスの付いた階が追加になった。」

更に右隣の、サン・トマ停留所前のドルフィーン館(P.Dolfin)は次のようです。
「左寄りにアーチになった三連窓の付いた小さな建物。ゴシック式の建物だったものが改築された。3階のオジーヴ式窓の枠組みもまた特徴である。」

その右隣にはマルチェッロ・デイ・レオーニ館(P.Marcello dei Leoni)があります。
「右側のセクションにアーチ式三連窓のある、建設者不明の建物。入口の両脇の壁面に置かれたロマネスク様式の2頭のライオンからその名が来ている。しかしこの渾名は、オリエントから生きたライオンが連れてこられて庭で放し飼いされていたことに由来する、とある人たちは考えているようである。」

右のサン・トマ運河(R.de S.Toma`)を挟んで、右隣はジュスティニアーン・ペルスィコ館(P.Giustinian Persico)です。
「1500年代のルネサンス様式の美しい建物。そのファサードの広がりは、大理石仕上げではなく赤い漆喰ではあるが、デリケートなサイマ[cimasa(伊)=cyma(英)―古典建築で用いられる凹形凸形の両方を組み合わせた反曲線を持つ波形の刳り形]模様とエレガントなバランスの中で、アーチ式窓の輪郭線がロンバルド様式を感じさせる。2、3階の中央には四連窓にテラスが付き、引き立たせている。」

更に右に進むと、19世紀と15世紀住宅の次に、Tiepoletto と通称されるティエーポロ小館(Palazzetto Tiepolo)と少し大きめのティエーポロ館が並んでいます。それぞれ『大運河』(1993)の記述を借ります。

「1400年代後期の建物で、次の世紀には改装された。2階の窓はオジーヴ式で、五連窓は中央に集められ、大理石の枠取りで飾られ、3階のアーチ式の地味な窓と対照をなしている。」

「1500年代の建物で、玄関が二つ、中央にバルコニーの付いた四連窓がある。アンドレーア・メルドッラに帰属するフレスコ画の痕跡がファサードに今でも残っている。彼はダルマーツィア出身(1522~63)だったので、スキアヴォーネと呼称された。」
  1. 2010/11/20(土) 00:03:26|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの劇場: Teatro di San Moise`(サン・モイゼ劇場)

サン・モイゼ教会を背にして直前のサン・モイゼ橋(P.S.Moise`)を跨越し、3月22日大通り(Calle Larga XXII Marzo)を進み、右のフェニーチェ劇場へ向かうサルトール・ダ・ヴェステ通り(Cl.del Sartor da Veste)と丁度反対側の、左へ入るテアートロ・サン・モイゼ通りの奥に同名の小広場(Ct.Teatro S.Moise`)があります。ここにサン・モイゼ劇場があったのだそうです。

この劇場について『Venezia――I luoghi della Musica』(1995刊)は、次のような事を述べています。
ヴェネツィアの音楽「建設は1620年のことで、1906年過ぎまで(長い中断の時期を含み)活動を続けた。どちらかと言えば、3層の palco(桟敷席)を持つ長細い形の劇場であった。ガースパロ・ゴッズィ[ヴェネツィアの新聞“Gazzetta Veneta”(1760-61)等の創刊者]は書いている、≪観衆が喜劇に真の喜劇性を与える。何故かならば、座席と演者との間で間断なく掛け合いが続くからである。≫と。

貴族のジュスティニアーン家の建造であり、1638年音楽劇をやるに相応しい劇場として改装された。1639年、オッターヴィオ・リヌッチーニ台本、クラウディオ・モンテヴェルディ作曲の『アリアンナ』で開場した(この作品は1608年既にマントヴァで上演されていたもので、イタリア・バロック史上最も美しい作品の一つと言われる『アリアンナの嘆き』の≪Lasciatemi morire(死なせて下さい)≫が唯一現在に伝わっている)。

1679年 marionette(操り人形劇)のための作品『Ulisse in Feacia(スケリア島のオデュッセウス)』[伊語フェアーチャとはギリシア神話のスケリア島(現ケルキラ島、旧名コルフ島のこと)で、feaci(パイアーケス人)の国。嵐に遭い、海中に投げ出されたオデュッセウスは、アルキノオス王の娘ナウシカアーに発見され、救助されて、結局故郷イタケーに送り届けられる。]が上演された。それは≪舞台内部で音楽家達が歌い、リアリスティックに人形達が演じた。≫という。

1680年にも操り人形劇、フィリッポ・アッチャイウオーロとアウレーリオ・アウレーリ台本、マルコ・アントーニオ[マルカントーニオ]・ズィアーニ作曲の『Damira placata(癒されたダミーラ)』[エジプトの王クレオンテの王妃ダミーラは、フィダルバと名を変え、羊飼いの娘の住処に潜んでいる。]が上演された。オーケストラと歌手達は、≪木製あるいは蝋製の人形≫が操られる舞台の背後に隠れていた。

1684年劇場は4層の桟敷席に改築され、オペラ公演で再開場した。

アントーニオ・ヴィヴァルディのオペラで最初に上演されたのは、『La costanza trionfante degli amori e degli odii(愛と憎しみに勝つ貞節)』(1716、A.マルキ台本、現存)、そして『Armida al Campo d'Egitto(エジプト戦場のアルミーダ)』(1718)[G.パラッツィ台本、1、3幕現存――トルクァート・タッソの『解放されたエルサレム』中の魔女アルミーダと十字軍将軍リナルドの物語。彼女は十字軍を混乱させ、彼を眠らせ殺そうとした時、あまりの美男子の彼に恋してしまう。]が舞台に掛けられた。
[T.タッソのこの話をオペラ化した、ヘンデルがロンドンに行き最初に書いた『リナルド(Rinaldo)』の第2幕4場でアルミレーナ(Almirena)の歌うアーリア《Lascia ch'io pianga/Mia cruda sorte, …》は、大変有名になりました。チェチーリア・バルトリ(Cecilia Bartoli)の歌Lascia la spinaでどうぞ。しかしこれはヴィチェンツァのテアートロ・オリンピコで行われた、《Lascia la spina》という別ヴァージョンによるコンサートです。]

トマーゾ・アルビノーニのオペラ『L'Ermengarda(エルメンガルダ)』[アントーニオ・マリーア・ルッキーニ台本――ランゴバルド族の王デジデーリオの娘エルメンガルダはフランクの王シャルマーニュに嫁ぐ。]は、1723年に上演された。

1765年にはジョヴァンニ・パイジエッロ作曲の『L'amore in ballo(ダンス中の恋)』、1775年にはパスクァーレ・アンフォッシ作曲の『La Didone abbandonata(捨てられたディードー)』[ディドーネは希語ディードー。ヘンリー・パーセルの『ディードーとアイネイアース(ダイドーとイーニアス)』のダイドー(Dido)に同じ。テュロス族の女王ディードーはカルタゴを建設したという。]が上演された。1750年からカルロ・ゴルドーニの喜劇をバルダッサーレ・ガルッピが作曲して上演されるようになった。

1764年には、有名な歌手ローザ・ヴィタルバを顕彰して、あるファン達が彼女への頌詩を鳩に括り付け、放ったということがあった。

1810年11月3日、ジョアキーノ・ロッスィーニ[伊語では Gioacchino(ジョアッキーノ) ですが、本人は1ヶの"c"で Gioachinoと綴ることを好んだそうです]の最初の本格的なオペラ『La cambiale di matrimonio(婚約手形)』を、そして『L'inganno felice(幸福な錯覚)』(1812)、『La scala di seta(絹のはしご)』(1812)、『L'occasione fa il ladro(出来心の盗み/成り行き泥棒)』(1812)、『Il signor Bruschino(ブルスキーノ氏)』(1813)とこれら全ての初演を断固として行った。

1818年、ロッスィーニの『Cenerentola(シンデレラ)』の再演後、劇場は閉鎖され、売られて、大工の仕事場に改築された。操り人形劇のために再開場したのは1871年で、1906年には映画館となり、後、崩れ落ちた。」
  ――A.Bova『音楽する土地ヴェネツィア』(1995)より
  1. 2010/11/13(土) 00:01:53|
  2. ヴェネツィアの劇場
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文学に表れたヴェネツィア――ボッカッチョ(2)

(続き)
「……女友達はリゼッタのもとを立ち去ると、こうしたことを話すのに都合のよい所はないかと、待ち遠しく千年も經つような氣がしましたが、丁度祭があって大勢の女たちがよりましたので、その人たちに順序をたててその話をしました。

これらの女たちは、それを夫や他の女たちにしましたし、それらの女たちはまた他の女たちに話しましたので、二日もたたないうちにヴィネージャ中に擴まりました。しかしこれらの話を聞いた者の中に、彼女の義理の兄弟たちがいました。彼らは彼女にはだまって、その天使をみつけて、それが飛べるかどうか知ろうと思って、幾晩も待伏せをしていました。

ところがこのことについて、修士アルベルトの耳には何のニュースもはいりませんでした。彼はまた女を娯しもうと、ある夜そこへ行き、着物を脱ぐか脱がないうちに、彼がやってくるのを見た彼女の義理の兄弟が、彼女の寢室の戸のところへきて開けようといたしました。

修士アルベルトはその音を聞いて、何が始まったか知り、起き上り、他に逃場がないのをみて、大運河に面していた一つの窓を開けると、水の中に飛びこみました。底が深くて、彼は十分泳ぎをしっていましたから、少しも怪我はありませんでした。

運河の對岸に泳ぎついて、開いていた一軒の家にすぐ入り、そこにいた善良な男にむかって、神樣の慈愛にかけて生命を助けて下さいと申しました。なぜ、こんな時刻にそこに裸でいるのか、いろいろ作り話をして聞かせました。善良な男は、可哀そうな氣がしましたし、自分は用事で出かけねばならなかったので、自分の寢臺にねかしてやりました。そして自分が歸るまでここにいるようにと言って、中に閉じ籠めてから用事をしに行きました。
……
その男はすでに彼の體の上に、すっかり蜜を塗り、その上に鳥の細かい羽毛をつけてしまい、頸のまわりに鎖を卷き、頭には假面をつけて、片手には太い棒を、もう一つの手には屠殺場からつれてきた二頭の大きな犬をひかせ、男をリアルトの橋にやり、天使ガブリエロを見たい人は、聖マルコ廣場に行くがよいと觸れさせました。これがヴェネツィア人の誠實さでありました。
……
≪皆さん、猪が狩にまにあわないので、狩は中止いたします。しかし皆さまに無駄足をおかけしないように、夜になると天から降ってヴェネツィアの婦人を慰める天使ガブリエロを御覽になっていただきたいと存じます。≫

假面がとりさられると、修士アルベルトであることがすぐ皆に分ってしまいました。彼に向って皆の怒號が起りました。そしていかなる惡黨でも受けたことのないほど、もっとも汚い言葉やもっともひどい惡口を彼にむかってあびせかけ、それのみか、顏めがけて或る者は汚物を、他の者は何かほかのものを投げつけました。 ……」
  ――『デカメロン』(その三(四日目第二話)、野上素一訳、岩波文庫、1957年2月5日発行)より
『デカメロン物語』1957年に発行されたこの文庫は、旧字・正字の造本となっていますが、1969年発行の教養文庫は同訳者により、地方別の編集で漢字も新字体に、訳文も読み易く改められています。当時商業で覇を競ったヴェネツィア共和国とトスカーナ。ボッカッチョの筆はヴェネツィアに対して、≪ヴィネージャの人は一體にみな淺薄なのですが、……≫等と辛辣です。
  1. 2010/11/06(土) 00:05:44|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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