イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ジェイムズ・カウアン

2010.08.14日に書きました文学に表れたヴェネツィア―パウンド(2)とサン・ミケーレ島の中で少し触れました、ジェイムズ・カウアン(1942メルボルン~  )が1996年に刊行した『修道士マウロの地図(A Mapmaker's Dream)』(小笠原豊樹訳)の主人公は、サン・ミケーレ島の修道院のカマルドリ会修道僧でした。
『修道士マウロの地図』生まれた場所も年月日も不明のようですが、彼の没(1459年10月20日以前)後すぐに造られた記念メダルに彫り込まれた次のラテン語で、彼が15世紀に生存したことは明確と言われています――Frater Maurus S.Michaelis Muranensis de Venetiis ordinis Camaldulensis cosmographus incomparabilis。

この実在の人物の生年を100年以上も遅らせたフィクションのため、1492年のアメリカ大陸の発見等があり、16世紀の世の中の状況はまるで違ったものとしてのフィクションです。著者がヴェネツィアのサン・ラッザロ・デッリ・アルメーニ島のアルメニア教会付属の図書館で、マウロ修道士の日誌を発見するというところから物語は始まります。

少々長期にヴェネツィアの語学学校に通っていた時のこと、たまたま知り合った仏人女性ベアトリスが、このアルメニア教会付属図書館の古本の修復の仕事をしているのだと言い、その上彼女にこの図書館を案内され、彼女の修復した本を見せられた時には、この『修道士マウロの地図』のことが思い起こされ、感銘深く彼女の案内に付き従ったのでした。本の修復には日本の和紙が最適だという彼女の言葉で、ヴァティカン礼拝堂のミケランジェロの絵の修復のため、汚れ等を取り除くのに和紙が活躍したことを思い出していました。

「……これらの人びとはいずれも想像上の事物について熱心に語ったのだった。ここヴェネツィアのサン・ミケーレ・ディ・ムラーノ修道院に住み、カマルドリ会に所属する一介の地図製作者として、私もまた、世界の間道を放浪したこれらの人びとの足跡を図面に残すことを生涯の仕事としている人間である。

どんな航海者の平凡な物語も聞くに値しないということはないし、どんな旅行者の陳腐な日誌も読むに値しないということはない。それらの人びとの出くわした世界を研究するために数学や自然科学の勉強を放棄してしまって以来、もっぱら他人の言説のまにまに生きている私である。
……
ある日、ヴェネツィアの十人委員会に付属する秘密文書保管所の所長、クリストフォロ・ロレダン氏が来訪した。氏の召使の一人がたまたま屋根裏部屋でトルコ語の入っている地図を発見し、その解説部分の刷り物を翻訳するにあたって、私の助力を取り付けに来たのである。
 
ロレダン氏の話によれば、その刷り物の版木は、古い書類の山に埋もれていた小さな木製の箪笥の中から発見された。

《箪笥には抽斗がいくつかあって》と、氏は説明した。《どの抽斗からも小さな版木がたくさん見つかったのですが、それらの版木に彫られていたのはちんぷんかんぷんの文字ばかりです。一体何が書かれているのか調べようと、出入りの印刷屋にその版木を刷らせました。

そしてこれはトルコ語で解説が書かれた世界地図であると判明し、国家の安全保証の見地からしても、この刷り物はぜひとも翻訳しなければいかん、ということになったわけです。あなたは東方の言語にお詳しい方だから、ここはひとつ、どうしてもお力をお借りしようと、政府の依頼を受けて参上いたしました》

氏の口上は、要するに、このトルコ語入りの地図にヴェネツィアの安全を脅かすような情報が含まれているかどうかを調べよということである。仕事を引き受けた私は早速、氏から預かった刷り物の調査を始めた。まもなくわかったのは、『完全版世界全図、解説付き』と題されたこの地図の作者が、名前はハジ・アハメドといい、チュニスに生まれ、モロッコのフェス市のモスクで哲学と自然科学と法律を学んだということだった。

この人物はチュニスに帰省中に捕えられ、奴隷としてヴェネツィアへ運ばれて来たらしい。地図製作の技術をどこで学んだのか、ヴェネツィアでの主人がどんな人だったのかは、今もなお不明のままである。ハジ・アハメドがこの技術を習得したのは、氏名不詳の主人に命じられただけのことかもしれないし、さもなければ故郷に錦を飾る日を夢みてのことだったのかもしれない。
……」
 ――『修道士マウロの地図』(小笠原豊樹訳、草思社、1998年4月1日発行)から
修道士マウロフラ・マウロの世界地図マウロ修道士の像と地図。実際は北は下に描かれているそうです(ここでは分かり易く天地逆に――Wikipedia《Fra Mauro》のサイトから借用)
サン・マルコ図書館(Biblioteca Marciana)に現存し、保管されているという、Fra Mauro(フラ・マウロ)制作の mappamondo/planisfero(平面球形図)を一度見てみたいものです。この地図は彼の書いたオリジナルそのものではないそうで、船乗りで彼の協力者であった Andrea Bianco(アンドレーア・ビアンコ――地図も制作しているとか) が1459年に模写したものだそうです。この地図の中に、アジアの端に isola de Zimpagu という地名が書き込まれているそうです。

マルコ・ポーロの影響を受けたと言われるマウロは、上記のようにアジアの果てにズィンパグ(ジンパグ)島を描き込んでいるそうなのですが、マルコのズィパング(ジパング―Zipangu)を彼が Zimpagu と書き誤っている(あるいは模写したビアンコ(Bianco)が写し間違えた?)としても、日本を描いた地図の嚆矢はこのマウロの地図なのだそうです。
  1. 2010/12/25(土) 00:01:23|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの地図

15年以上前私が初めてヴェネツィアに行くに際して用意したのは、この街は迷宮都市で道に迷うのは当たり前、という話に恐れをなして、購入していた Touring Club Italiano の『Veneto, Trentino-Alto Adige, Friuri-Venezia Giulia, Emilia-Romagna』のヴェネツィア市街図を拡大コピーして貼り合わせ、運河と覚しき所は水色にマーカーして、ビニールのフォルダーに挟んで持って行きました。

一番最初に船(アリラグーナ便)で空港からサン・マルコ前(サン・ザッカリーア駅)に着岸した時、初見の町とて道など様子は完全に不案内のまま、旧プロクラティーエ館のすぐ裏にある筈のホテル・サン・マルコに行くのに、ハリーズ・バーの方から大変大回りをして逆行し、それでも何とかホテルに辿り着けました。

迷わず到着できたのはこの白地図が、省略のない正確な地図であったことです。横丁などの本数を数え、道を曲がるたび迷わぬようにマーカーで地図に着色しながら行きました。旧プロクラティーエ館の下が通れるとは思っていなかったので、今にして思えば、よく到達出来たものでした。

一週間ヴェネツィアを見て回り、歩きながら通った道に毎日日替わりで違った色でマーカーし、帰国日が近づいた頃には随分道を覚えたような気がして精神的に余裕が出てきたのか、小心者の私も少々大胆になり、道を間違えることは怖くなくなったようです。冒険心も湧いてきたのでしょうか。

ホテルや旅行社、案内所が無料で渡してくれる美麗な地図は、省略が多く、ヴェネツィアという街のイメージ地図で、歩くための実用にはならないということです。その上、度々ヴェネツィア行をする結果となり、どうしても通り名を知りたくなり、全通り名が書かれている地図が必要になってきました。
ヴェネツィア地図  ノート型ヴェネツィア地図写真の地図が、初めて購入した物で全通り名が入っています。しかしこの地図は、一枚物の大きな地図ですので持ち歩きには不便な上、例えば私が二度目の語学学校通学時に借りたマッシモ先生のアパート傍の広場は、C.lle Due Pozzi とヴェネツィア語が伊語に翻訳されています[Due(伊語)=Do(ヴェネツィア語)]。この地図は使用が激しく何度と破れ、何度も購入し直しました。

次に購入したのは持ち運びに便利な、ノート型ヴェネツィア地図でした。この地図も道の省略はないようなので歩きながら確認するのに便利でしたが、通り名の方は相当省略があります。しかし全紙地図と異なって破損の危険性は格段に少なく、全市域を歩きたいとヴェネツィア行の時は、必ず携帯しています。

何度かのヴェネツィア行の中で、ある書店で見付けたのが次の『Calli, Campielli e Canali』(Edizioni Helvetia発行)です。これは地図というより書籍ですので、分厚く持ち運びには大変不便です。
『Calli, Campielli e Canali』ヴェネツィアに手紙を書く場合、通り名は入れないで、カステッロ区の何番地というように書きます。この番地がこの地図には記載されており(全番地ではありませんが)、例えば《どこどこのレストランは何番地》とパンフレットにあれば、地図上で番地数字から、おおよその見当が付きます(ヴェネツィア全市の建物は、入口に必ず番地が表示されています)。

またこの地図では、著名な建造物等には番号がふられ、番号順に大運河沿いの建物以外等にも簡単な説明がありますし、索引が完備していて、その索引表から逆に小広場や通りにも辿り着けます。

私のブログの地名等のアルファベット表記(ヴェネツィア式)は、この地図に準拠しています。例えば、カンナレージョ区(Cannaregio)→ Canaregio、リアルト~サン・マルコ広場間の通りメルチェリーア(Merceria)→ Marzaria、サンタ・クローチェ区のサン・ジョヴァンニ・デコッラート(San Giovanni Decollato)教会広場→ S.Zan Degola`等、伊語とは大分趣を異にする言い方です。
サン・ザン・デゴラ教会中央がサン・ザン・デゴラ教会そしてその名の広場
ティツィアーノの兄弟子だったジョルジョーネは、ヴェネツィアでは Zorzon(ゾルゾーン)と呼ばれていることを知りました(伊語 Giorgio ⇒ ヴェ語 Zorzo)。
  1. 2010/12/18(土) 00:01:31|
  2. ヴェネツィアの地図
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文学に表れたヴェネツィア――ジョルジュ・サンド

2009.12.12日と12.19日に文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセとしてジョルジュ・サンドとミュッセのことを書きました。サンドの最高傑作の一つと言われている『歌姫コンシュエロ――愛と冒険の旅』(上・下巻、持田明子・大野一道監訳)は、音楽ファンにとって1700年代のヴェネツィアやボヘミヤ、ヴィーン等の音楽事情・雰囲気を知るのに格好の小説です。
ジョルジョ・サンド『歌姫コンシェルジュ』2010.08.21日のジュスティニアーン館他でも触れましたように、女主人公のコンシュエロはヴェネツィアに生まれ、ヴェネツィアで歌手として成長し、世界に羽搏いていきます。その彼女が世界に飛び出していく切っ掛けとなった登竜門が、ジュスティニアーン館での歌唱であったという設定です。
「……街の大時計が真夜中を過ぎた二時の鐘の音を響かせ合っていたとき、アンゾレートがふいに足を踏み入れたのはサン・ファンティーノ教会に近いコルテ・ミネッリだった。日没後、その名も顔も思い出すことのなかった人物の住まいのほうへ、奥深く秘められた本能に導かれて、彼の足は向かった。この小広場へ足を踏み入れるや、優しい声が彼の名を最後の音節でそっと呼ぶのが聞こえた。

顔を上げると、周りの建物のひどくみすぼらしい露台の一つにほっそりした影が浮かび出るのが見えた。すぐにそのあばら屋の戸が開いた。そして、インド更紗(さらさ)のスカートをはき、昔、母親のアクセサリーだった黒い絹の古いヴェールで胴衣を覆ったコンシュエロが現れ、黙っているように指を一本、唇に当てながら、もう一方の手を彼に差し出した。……」
「……
《勇気を出して、娘よ》と先生が小声で言った、《おまえはこれから偉大な師の音楽を歌う。そしてこの師はおまえの歌を聴こうとここにおられる》
《どなたですか、マルチェッロですか?》とコンシュエロは先生が譜面台の上にマルチェッロの詩篇曲を広げるのを見て言った。
《そうだよ、マルチェッロだ》と先生が答えた。《いつものように歌うことだよ、それ以上でもそれ以下でもない。それでいい》

実際、この時、生涯最後の年を迎えていたマルチェッロは、作曲家として、作家として、また、行政官としてその誉れであった祖国ヴェネツィアを最後にもう一度見ようとやって来ていた。生徒たちの歌を聴いてくれるように懇願したポルポラにたいし、彼は慇懃にその求めに応じた。

ポルポラは初めにマルチェッロの壮麗な詩篇曲『広大な天は語る』を、完璧なまでに精通しているコンシュエロに歌わせるという贈り物を用意していた。まさにこの瞬間、気高い娘の心が感じている宗教的高揚にこれほどふさわしい曲はなかった。

このおおらかで、率直な歌の最初の言葉が目の前で輝くやいなや、コンシュエロは不思議な世界に運ばれるのを感じた。ジュスティニアーニ伯爵も、ライバルたちの敵意のこもった眼差しも、アンゾレートさえも忘れて、彼女は神様とマルチェッロのことだけ考えた。
……」
12 オペラ歌手としてジュスティニアーニ宮殿で歌う
音楽の議論は、ココアとシャーベットを食するために真夜中近くに戻って来たジュスティニアーニ宮殿の客間まで続けられた。話は芸術の技法から、様式、思想、古代ならびに現代の形式、さらには表現に及び、そこから、芸術家や、彼らの感じ方、表現の仕方に移った。ポルポラは宗教作品に感動的な性格を最初に刻印した師スカルラッティについて賞賛の念で語った。だが、彼はそこで止まった。宗教音楽が装飾音や走句やルラードを用いることで、世俗音楽の領域を侵すことを望まなかったのだ。

《そういうわけで閣下は、高名な弟子ファリネッリに成功と名声をもたらした、走句や難しい装飾音に反対なさるのですか?》
《私が反対するのは教会にたいしてだけでしてな》とマエストロは答えた、《私は劇場は認めている。だが、それが適所で使われることを求めていますのじゃ。私はとりわけその濫用を禁じている。それらが純粋な趣味をもち、簡潔で、独創的で、優雅なこと、そして、転調にあっては、扱っている主題のみならず、登場人物、表現する情熱、人物の置かれた立場にふさわしいことを求めている。

ニンフや羊飼いの娘たちが鳥のように鳴き、泉のささやきのように調子をつけて歌うことができる。だが、メーディアやディドーネは傷ついた雌ライオンのようにすすり泣くか、ほえることしかできない。あだっぽい女はその浮かれたカヴァティーナを気まぐれで、凝った装飾音でいっぱいにすることができる。コリッラはこのジャンルで秀でている。

だが、深い感動や崇高な情熱を表現しようとすれば、その役を演じるだけの力がないのじゃ。そして、彼女が興奮しても、彼女が声や胸を膨らませてもむだでしてな。場違いな走句や、ばかげたルラードが一瞬のうちに、彼女が達すると思っている、この崇高さを滑稽なパロディーに変えてしまうのじゃ。

あなた方はみな、ファウスティーナ・ボルドーニ、今日のハッセ夫人を聴かれた。その輝かしい長所にふさわしいいくつかの役では彼女は比類がない。だがクッツォーニがその純粋にして深い感情で、苦しみや、祈りや、あるいは優しさを語らせると、彼女が流させる涙は、ファウスティーナがあなた方の感覚に惜しげもなく与えた驚嘆の思い出をあなた方の心から一瞬にして消し去ってしまうだろう。……」
  ――『歌手コンシュエロ――愛と冒険の旅』(上・下巻、持田明子・大野一道監訳、藤原書店、2008年5月30日・6月30日発行)

第一部の《ヴェネツィア》篇だけでも、ニコーラ・ポルポラ(先生役)、ベネデット・マルチェッロ、アレッサンドロ・スカルラッティ、ファリネッリ、ファウスティーナ・ボルドーニ、ヨーハン・アードルフ・ハッセ、フランチェスカ・クッツォーニ等々と当時の音楽家の名前が数多く登場します。
ロザルバ・カッリエーラ画『ファウスティーナ・ボルドーニ・ハッセの肖像』レッツォーニコ館にあるロザルバ・カッリエーラの『ファウスティーナ・ボルドーニ・ハッセの肖像』
[ニコーラ・ポルポラはサンタ・マリーア・デイ・デレリッティ教会のオスペダレット養育院で、実際に1744~46年音楽教師を勤めました。ボルドーニとクッツォーニの、ロンドンでの確執については、2007.12.25日のヴェネツィア18世紀博物館で触れました。]

話に出てくるサン・サムエーレ劇場は、貴族のグリマーニが建てた物ですが、小説では大運河に壮麗な邸館を持つジュスティニアーニ伯爵の経営という設定です。ジュスティニアーニ伯は2010.11.13日に書きましたサン・モイゼ劇場を建てました。
ジョルジュ・サンドの家サンドが1834年夏、『ある旅人の手紙(Les lettres d'un voyageur)』というヴェネツィア通信を本国に書き送った住み処跡。彼女はサン・ファンティーン教区のコルテ・ミネッリ(Corte Minelli)の自分が生活したこの場所を、この小説『歌姫コンシュエロ』の中で上記のように利用しています。碑文訳「ここにジョルジュ・サンドが住んだ。1834年夏『ある旅人の手紙』の中にヴェネツィア的魂を喚起させた。」
  1. 2010/12/11(土) 00:01:51|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: ピザーニ・モレッタ館(P.Pisani Moretta)

ティエーポロ館の右隣は瀟洒なピザーニ・モレッタ館です。『ヴェネツィアとその入江』(1926)は次のように述べています。
ピザーニ・モレッタ館他『ヴェネツィアとその入江』「富贍(ふせん)で複雑に入り組んだ装飾を施した大きな窓を持つ15世紀半ばのゴシック式建築である。16世紀劈頭ファサードと内部には修復の手が入った。1742年内部の重要な装飾が完成した。大広間はムラーノ製の鏡とシャンデリアで著名であり、パーオロ・ヴェロネーゼが『アレクサンダー大王に跪くダレイオス(ダリウス)王一家(La famiglia di Dario ai piedi di Alessandro)』(1857年からロンドンのナショナル・ギャラリーにある)を描いた。

ジャン・バッティスタ・ティエーポロは天井にフレスコ画を描き、ピアッツェッタは大キャンバス画『ダレイオス王の死(La morte di Dario)』を描き、現在でもそこに存在する。他の部屋はヤーコポ・グァラーナによりフレスコ画が描かれた。ここにはアントーニオ・カノーヴァの若き日の傑作『ダイダロスとイーカロス(Dedalo e Icaro)』の群像があったが、現在はコッレール美術館に収蔵されている。」

また『ヴェネツィアの邸館』(1998)の記述は次のようです。
ヴェネツィアの邸館  ピザーニ・モレッタ館ティエーポロ・パッシ館、ティエーポロ館、ピザーニ・モレッタ館[中と右、ピザーニ・モレッタ館] 「ピザーニ・モレッタ館のゴシック式のファサードは、総督宮殿のそれを想起させるが、大運河の中でも最も美しい四葉装飾の多連窓を持つ邸館の一つである。二つの大玄関は、この建物にピザーニの家系に属する二つの別の家族が住んでいたことを現している。この家系は1307~28年、大評議会のメンバーだったニコロ・ピザーニまで遡る。

彼の息子ベルトゥッチ(アルベルト)からは、銀行業や商業活動のために呼称されるようになったピザーニ・ダル・バンコ(Pisani dal Banco)家が興り、もう一人の息子アルモロ(エルモラーオ)からはサント・ステーファノ広場の建物[現在、ベネデット・マルチェッロ音楽院となっています]やサンタ・マリーア・ゾベニーゴ広場の建物[現在ピザーニ・グリッティ館はホテル・グリッティ・パレスとなっています]、モレッタの家系が始まった。

ピザーニ家はその始祖がピーザのバッシ伯爵家まで遡るが、ヴェネツィアでも最も富裕な家族の一つであった。市内の建物以外にも、バニョーロとモンタニャーナにはアンドレーア・パッラーディオに、またロニーゴにはヴィンチェンツォ・スカモッツィにヴィッラを建てさせていた。

ピザーニ・モレッタ家の最後の跡継ぎが亡くなると、全財産はピザーニ・ダル・バンコに嫁いでいた娘キアーラに移った。彼女はサン・ポーロ区のこの住宅に一貫した修復を施した。それは栄えある大階段を設置したり、当時の最も秀でた芸術家ジョヴァン・バッティスタ・ピアッツェッタとジャンバッティスタ・ティエーポロに装飾を委ねたのだった。

ピアッツェッタは『ダレイオス王の死』[現在これは、レッツォーニコ館(18世紀美術館)に収められている]を、ティエーポロは『美神アフロディーテー(ヴィーナス)と軍神アレース(マールス)の邂逅(L'incontro tra Venere e Marte)』を描いた。
ジャンバッティスタ・ティエーポロの天井画(1742)[ティエーポロの天井画『ヴィーナスとマールスの邂逅』(1742)] キアーラの息子の一人ヴェットールは1700年代後半、色々な噂が絶えなかった人物である。1753年彼はヴェネツィアの小市民階級に属する若い娘と関係を持った。彼女はテレーザ・ヴェードヴァ又はダッラ・ヴェードヴァという名前で、有名な鏡の刻版師の娘だった。その不倫関係が露わになり、彼女は父親にムラーノ島のサン・ジャーコモ修道院の女子寄宿舎に押し込められた。

しかし2人は、修道院の女院長のお陰で会い続けることが出来、1758年秘密裏に結婚することが出来た。しかし事が露見し、テレーザは修道院の国家査問委員会に送られ、その直後そこで男子ピエートロを産み落とした。ヴェットールは子供を認知したくなく、テレーザに便宜的に亭主をあてがおうとしたが、彼女は拒否した。

教会上の結婚の取消を得ることが出来、ヴェットール・ピザーニはグリマーニ家の娘と再婚した。1775年彼の死後、テレーザとの間に生まれたその息子は、遺産の要求を公の場に持ち込んだ。全ヴェネツィアが世紀の裁判に固唾を飲んだ。ピエートロは貴族や市民の温かい眼差しに囲まれ、裁判所が彼に正当性を与えた時、月桂樹に飾られたゴンドラの勝利の船列が彼の家まで付き従った。

彼はバニョーロ伯爵となり、ヴェネツィア貴族の仲間入りをした。現在、邸館はピエートロ・ピザーニの相続者の手に属している。」

この館は、ヴェネツィアで結婚式を挙げたい日本の若い人達を含めて、その豪華な背景からここを結婚式場として提供してもいるそうです。館を保持していくための一つの方針なのでしょう。molto interessante !
  1. 2010/12/04(土) 00:00:50|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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