イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――アンドレア・ディ・ロビラント

アンドレア・ディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』(桃井緑美子訳、早川書房、2004年6月30日)は、18世紀のヴェネツィア貴族メンモ家のアンドレーアとジュスティニアーナ・ウィンという実在した2人の、残された恋文を元に書かれた小説のようなドキュメントです。
アンドレア・ディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文』「メンモ家は八世紀にヴェネツィアの基礎をきずいた一族の一つだった。歴史家はアンドレアの家系を古代ローマの氏族(ゲンス)、メンミア一族にまでたどっている。メンモ家は九七九年には元首(ドージェ)を出し、以来八世紀にわたって多くの政治家と高級官吏を輩出しつづけた。アンドレアの時代にも、ヴェネツィアの政治の世界でいまだ多大な影響力を保っていた。この街に住むほかの多くの貴族の家系が政治とは縁遠くなった時代に、メンモ家はエリート中のエリートだったのである。……
……
《昨日はなんとかしてきみに会おうとしました。昼食の前はゴンドリエーレの都合がつかず、昼食後にサント・ステファノ広場へきみを探しにいったのです。だがきみはいない。そこでサン・マルコ広場へ向かったところ、サン・モイゼ橋でルクレツィア・ピザーニにばったり会った! ……》
……
ヴェネツィア人が田舎に引かれるのは、自然に親しみたいという田園地帯への憧れからではない。お決まりの夏の大移動は奇矯な見栄の張りあいで、その様子はゴルドーニがその年の初めにサン・ルカ劇場で喝采を浴びた喜劇[『避暑三部作』(1756)のこと]でひやかしているが、つまりは冬に町で貪る怠惰な生活がそのまま田舎に場を移したものだった。……
……
スミス領事[ヴェネツィアのイギリス領事]は二十代の初めから避暑(ヴィレッジャトゥーラ)の習慣に親しんでいたが、ヴェネツィア北部のトレヴィーゾへの道路沿いにあるモリアーノという村に家を買ったのは、三十代に入ってからだった。友人のアントニオ・ヴィゼンティーニに改修を頼んだその家は、すっきりした直線と簡素で優雅な空間を特徴とする典型的なネオ・パラッディオ様式だった。
……
スミス領事は美術品のコレクションの一部をモリアーノの屋敷に移して壁を飾った。ベッリーニ、フェルメール、ファン・ダイク、レンブラント、ルーベンスといった過去の巨匠のほか、同時代の名匠としてマルコ・リッチ、セバスティアーノ・リッチ、フランチェスコ・ズッカレッリ、ジョヴァン・バッティスタ・ピアツェッタ、ロザルバ・カッリエーラの作品もあった。
……
避暑の一日は朝のホットチョコレートからはじまった。たっぷり眠ったあとの口のなかに甘味が広がり、たちまち活力が湧く。それはひそやかな場所、すなわち寝室で朝食とともにたのしめる。ヴィッラの主人夫妻と客は挨拶を交わして耳よりなうわさ話を一つ二つ交換し、それから朝の郵便物が配達される。その日の予定が決められる。
……
一七五八年のカーニヴァルは、アンドレアとの波乱つづき気の休まらない関係からジュスティニアーナをひととき解放した。十八世紀半ばには、カーニヴァルは《昔ほどの浮かれた底抜け騒ぎではなくなり、節度ある行事になっていた》。それでもヴェネツィアの街の通りや橋は、道化師や火食い術を披露する奇術師やさまざまな怪物でいっぱいだった。音楽と踊りと酒宴は夜までつづいた。ものすごい人出で移動するのもひと苦労だったが、仮面の群衆のなかを人に知られずに動くのは容易だった。
……
冬は終わりを知らないかのように長引いたが、春の兆しが訪れるとヴェネツィアは少しずつきらびやかな色彩をとりもどした。小路は行き交う人でふたたびにぎわった。運河には大小の舟があふれた。長いあいだじっと閉じこもっていたあとで、人々はまたおしゃべりしながらリストーネを散歩[ヴェ語で lista or liston と呼ばれ、夕方サン・マルコ広場を友人達とゆっくり行ったり来たりすること]しはじめた。

ドイツ人作曲家のヨハン・アドルフ・ハッセと彼の妻でソプラノ大歌手のファウスティーナは、アンドレア伯父が健在のころからアンドレアをかわいがり、メンモ邸をよく訪れていた。夫妻の娘のベッピーナとカッティーナも、いまでは成長してアンドレアとジュスティニアーナの友人になっていた。」
  ――アンドレア・ディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』より
  1. 2011/04/30(土) 00:02:24|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ヘルマン・ケステン(2)

「ツァネッタは心ならずもジャーコモの初恋と文学的野心をあおる結果になった。彼女はヴェローナにある古代ローマの円形劇場で、《ラ・プピルラ》[注=かわいらしい口、pupilla だとすれば《瞳》のこと]という、音楽入りの喜劇に出演していた。これは彼女の同郷人のカルロ・ゴルドーニが、彼女の新しい座頭イメール(Giuseppe Imer。ツァネッタの新しい恋人)と、彼女の侍女の喜劇的な関係からヒントを得て、二人にぴったり合うように書いたものだった。

ゴルドーニは歳をとってからも、パリで書いたフランス語の自伝の中で《ツァネッタ・カザノーヴァはかわいらしい、非常に老練な未亡人だった》と書いている。彼女は楽譜も読めないのにとてもチャーミングに唄って、お客をよろこばした。ヴェニスで出版されたゴルドーニのある作品集に彼女の銅版刷りの肖像が載っている。はっきりした目鼻だち、姿勢もからだつきもりっぱな、背の高い女だ。
……
六ヵ月後に彼女は、(おそらくザクセンの選帝侯で、イタリア喜劇と喜劇女優たちの非常なファンであるポーランド王のアウグスト三世の腕に身を投ずるためだったのだろう)、ドレースデンの宮廷劇場にむかって出発する前に、もう一度息子と教師をヴェニスに呼んだ。ツァネッタはドレースデンのこの劇場で生涯を終ることになった。
カザノーヴァの肖像(青年時代)……15歳になってカザノーヴァは、生まれて初めてのように、故郷のヴェニスのまちを見た。千年を経た貴族的共和国は、薄れゆく偉大さのかがやかしい残照の中に生きていた。共和国統領はまだ縁のない帽子をかぶって、はればれしく海と婚礼の式をあげていた。しかし多くの海はすでに新たな主人(フランス、オランダ、イギリスをさす)になびいて、商業は衰微していた。

角ごとに教会が建っていたが、会衆は賭博をした足で来て、濡れごとにでかけた。百五十の運河に架けられた四百以上の橋が、橋と運河に通じていた。大陸から四キロ隔たった入江のまん中の、百に近い小島の上にあるまちはヨーロッパの浮き舞台だった。

仮装のいかさま賭博師たちが本物の国王たちと出遇った。画家たちと船乗りたちが閣下と呼び合った。あらゆる道路、あらゆる劇場で即興的な喜劇が演じられた。劇場の仕切り桟敷の中でさえ、サロンやカジノやカフェーとおなじように賭けごとが行なわれた。世の中全体が恋に陥っているようだった。

その盲窓(めくらまど)、無数の欄干とゴンドラ、行き止まりになっている横丁、不意にひらく側壁、音もなくしまる秘密のドア、その数限りのないバルコニーとおびただしい迷路を持ったヴェニスは、冒険家と、恋愛にうつつを抜かす人びとの楽園だった。一年の半分は謝肉祭で暮れた。統領の名が、《仮面の旦那》で呼ばれた。ゴンドラの船頭の名が《仮面の旦那》で呼ばれた。

十字架からリアルトへ、聖徒から姦淫へ、西洋から東洋へ、仮面舞踏会から鉛板屋根(ヴェニス政庁内の獄舎)まではほんの一歩にすぎなかった。ジガンテの階(きざはし)[巨人の階段]は恋愛遊戯につづいていた。芸術の浪費はこの世の享楽とおなじく莫大なものだった。
……
劇場の仕切り桟敷の中では大修道院長たちが舌なめずりしながら貴族の細君や賤民の娘たちを味わっている。パンタローネはおどけ、アルレッキーノはくつくつ笑った。カルロ・ゴッチは自作の童話を、またカルロ・ゴルドーニはその二百の喜劇を上演させた。

ゴンドラの船頭たちはタッソーとアリオストの詩を唄った。肉欲は裸で、あるいは仮面をかぶって歩いた。ジャンバティスタ・ティエポロはそれを画にかいた。バルダッサーレ・ガルッピは七十のオペラ・コミックの中でそれをあざ笑った。肉欲は教会のひらかれた入口を洩れる聖歌隊のうっとりするようなメロディーから聞こえ、水にこだまするゴンドラの船唄からも昼夜の別なく聞こえて来た。ヘンデルもグルックもヴェニスでオペラを書いた。謝肉祭にはモーツァルトがやって来た。

ヴェニスの歌手たちのこの世ならぬ声にはゲーテもルソーも心酔した。ルソーのジュリエッタはひょっとすると、カザノーヴァが肌着とズボンとキッスをとりかわした相手(プレアーティ・ジュリエッタ)と同一人物かもしれなかった。ド・ブロス氏はヴェニスの修道女たちの現世の愛にうつつを抜かした。カナレットとグアルディとロンギはヴェニスの宮殿と、風俗と、そのうっとりするようなたそがれの色と、ネプテューンの都の《最も幸福な夜》を描いた。……」
  ――『カザノーヴァ』上巻(ヘルマン・ケステン著、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)より
『わが脱走記』挿絵 中巻ではピオンビ監獄からの脱獄について触れられますが、2010.05.22日に書いたロレンツォ・ダ・ポンテのダ・ポンテからカザノーヴァへの書簡の注(3)に、彼の入獄は、彼がフリーメイスンに入会しているとしてメンモの母親が当局に訴えたとあります。アンドレーア・メンモとジュスティニアーナ・ウィンの恋の書簡を基に書かれた『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』(アンドレア・ディ・ロビラント著、桃井緑美子訳、早川書房、2004年6月30日)の脚注に次の文章があります。

「1755年7月25日のカサノヴァの逮捕は、いくつかの要因が重なって決定されたようだ。無神論者だと公言していること、数秘術に手を染めていたこと、三人の老貴族を騙したとうわさされたことである。ルチア・メンモの訴えもひと役買ったが、カサノヴァはそれをわかっていた。《彼[アンドレーア]の母親はわたしを牢獄送りにした一味に加担していた》とのちに回想録に書いている。だが息子たちを恨むことはなかった。」

次回はそのディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文』について。
  1. 2011/04/23(土) 00:05:45|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ヘルマン・ケステン(1)

ジャーコモ・カザノーヴァについては、既に二度2009.06.27日の文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーと2009.07.04、2009.07.16日の文学に表れたヴェネツィア――カザノーヴァで書きました。神保町を歩いていましたら『カザノーヴァ』上中下巻(ヘルマン・ケステン著、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)の文庫本が、古本屋さんの店頭の屋台に並べてありました。ヘルマン・ケステン(1900.01.28ポーランド・ガリツィアのポドヴォウォチュイスカ~1996.03.03バーゼル)といえば、『ゲルニカの子供たち』(白水社)や『性にめざめる頃(ヨーゼフは自由を求めてゐる)』(角川文庫)が思い出されます。
ヘルマン・ケステンの『カザノーヴァ』1960年、独ブロックハウスの金庫が開かれ、彼の自筆原稿がブロックハウス書店とパリのプロン書店から原文通り刊行され始めるのですが、それ以前独訳はヴィルヘルム・シュッツ、仏語版はジャン・ラフォルグの校閲で、原文は相当改竄され、その本をケステンは読み、この『カザノーヴァ』を執筆したそうです。

ケステン自身はカザノーヴァの性愛描写の箇所は、《一番文章がまずいのが不思議だ……われわれは彼の道徳家ぶった、校訂者の訂正文を読んでいるにすぎない》と首を傾げているそうです。

「ジャーコモ・カザノーヴァは1725年4月2日にヴェニスで生まれた。それは一人の幸運児にとって、恋愛三昧の耽溺生活をするのにはうってつけの時であり、場所だった。
……
彼は私生児で、歓迎されない子供だった。彼には父親が二つあった。一人は貧乏で合法的の父親、一人は非合法な金持ちの父親だった。二人とも彼を棄ててかえりみなかった。彼には、ロンドンを皮切りにドレースデンまで舞台とベッドで出世をしたうら若い、美貌の母親があった。ところが母親は、子供が満一歳になると、この子供を棄てた。それ以来彼は一生母親と一緒に暮らさなかった。
……
ジョヴァンナ(彼の母)はファルージという靴屋の娘で、家庭ではツァネッタ[ヴェネツィアではザネッタ]、劇場ではラ・プラネルラ[ラ・ブラネッラはブラーノ島生まれの意]と呼ばれていた。彼女はまだ15歳だったが、家の向こう側に住む俳優のガエターノ・カザノーヴァとあわてて駆落ちをし、両親の意にそむいてヴェニスの総大司教の前で(1724年2月27日)結婚した。彼女は座頭で貴族のミケル・グリマーニといっしょに彼をだまして、一児をもうけた。結婚後13か月目のことだった。
……
1年後ツァネッタはジャーコモ・ジェロニーモ[ジェローニモ=それが彼の洗礼名だった]を母親のマルチアにあずけて、夫とロンドンに渡った。ロンドンに着いたツァネッタは一足とびに舞台に飛び上がって、後にイギリスの皇帝ジョージ2世となったプリンス・オブ・ウェールスのベッドにころんだ。

彼女が19歳の時ロンドンで産んだ二人目の息子フランチェスコのことを、世間ではプリンス・オブ・ウェールスのご落胤だと陰口をきいた。フランチェスコは後に有名な戦争画家(パリの翰林員会員)になり、百万以上儲けて浪費してしまった。
……
彼(父)は若い妻をロンドンからヴェニスにつれて帰った。ツァネッタはサン・サムエーレ座に出演した。この劇場には夫が俳優として出演していた。また彼女の友達のグリマーニ(ジャーコモの実父で、ミケル・グリマーニ)は、その小屋の座頭だった。彼女は三男と四男の父代わりになってくれる貴族(グリマーニの三人兄弟ミケル、ズアーネ、アルヴィーゼ)を見つけた。

(三男のジャンバティスタはドレースデンで絵画学校の校長になった。四男のツァネットはのらくら者で、ローマで説教師としておわった。一人の娘は四歳の時痘瘡で亡くなった。もう一人娘はドレースデンでバレーを踊り、宮廷のチェンバロ教師ペーター・アウグストと結婚した)。
……
60年後カザノーヴァは《わたしが生涯で味わった、初めてのほんとうのよろこびは、おばかさんの言ったことが母と後見人にたいしてどこまで正しかった》ということだと書いている。バッフォーがいなかったらカザノーヴァは、世間の掟や習慣に唯々諾々としたがう意気地なしになっていたかもしれない。

バッフォーのおかげで彼は自分自身の理性に喜びを見いだしたのだ。孤独な時には、それが彼の気を引きたてたのだった。評判のわるい、この女たらしのカザノーヴァはインテリだった。恋人の腕に抱かれている時でも、やはりインテリだった。

話すことは処女のようで、考えることはサチュロスのようだと言われたジョルジオ・バッフォーは、ある名門の血を引き継ぐ最後の男だった。ぶおとこで、実生活では極度のはにかみ屋だったが、わいせつな詩を書く時は途方もなく大胆になった。
Giorgio Baffo『Sonetti licenziosi』バッフォーは、カザノーヴァが謦咳に接した初めての詩人だった。彼はカザノーヴァの最初のパトロンであり、この少年に才能のかすかな閃きをみとめた最初の人だった。おそらくカザノーヴァは彼をもとにして、詩人と色男はこういうものだと考えたのかも知れない。つまり、このわいせつな自伝のお手本になったのだ。
……」
  ――『カザノーヴァ』上巻(ヘルマン・ケステン著、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)より

ジョルジョ・バッフォが住んでいた家は、サン・マウリーツィオ教会(chiesa di S.Maurizio)入口の右直前の2760番地の建物、ベッラヴィーテ=テルツィ(Bellavite-Terzi)あるいはベッラヴィーテ=ソランツォ=バッフォ(Bellavite-Soranzo-Baffo)と呼称される、16世紀半ばの古典様式の建物です。
ジョルジョ・バッフォの家サン・マウリーツィオ広場で、教会入口からこの建物を見ると、壁面に二つのプレートが嵌め込まれているのが分かります。左には「1803~1804年、アレッサンドロ・マンゾーニがこの家にすんだ」とあり、右には「QUI VISSE GIORGIO BAFFO / 1694-1781 / POETA DELL'AMORE CHE HA / CANTATO CON LA MASSIMA LIBERTA` / E CON GRANDIOSITA` DI LINGUAGGIO / GUILLAUME APOLLINAIRE 1910.(1694~1781年、ここで限りなく放恣に、そして絢爛たる措辞口跡で愛を歌った詩人ジョルジョ・バッフォが生きた。ギヨーム・アポリネール、1910年)」とあります。
  1. 2011/04/16(土) 00:02:18|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィア年中行事(13)

下左はここまで行事について引用してきました『Venezia――Manifestazione 2008』のパンフレットに載る《ラテン帆協会》の年間予定表、右はレガッタの年間予定です。このパンフレット以外の資料によりますと、次のようなイヴェントもあるそうです。
ラテン帆協会の年間予定レガッタの年間予定●カーニヴァル最終日(Martedi` grasso)の深夜、灰の水曜日のコンサート(Concerto delle Ceneri)というのがあるそうです。それはカーニヴァル終了を意味するパンタローネの火炙りの刑に立ち会った後、参加者全員必ず仮面を付け、スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)を通ってピエタ教会(Chiesa di Pieta`)に向かいます。そして灰の水曜日の伝統的なコンサートを聞くのです。仮面を着装した者のみに許された、唯一のコンサートだそうです。

●3月8日は女性の日(Festa della Donna)で、男性はあらゆる親しい女性達に黄色のミモザの花を贈ります。

●復活祭前週の木曜日(Giovedi` santo)には、火の祝福(Benedizione del fuoco)という行事があるそうです。これは聖週間の伝統に則った、心に迫るような典礼行事だそうです。
儀式は暗闇に包まれたサン・マルコ大聖堂で、聖木曜日の午後遅く行われます。先ず聖火の点火が柱廊玄関で執り行われます。そして行列は曲がって、脇の入口から聖堂内部へ入り、堂内の蠟燭へ最後の一本まで順次点火されていきます。 

●6月の最終週にはサン・ピエートロ・ディ・カステッロ教会の祭日(Sagra di S.Pietro di Castello)があるそうです。教会前広場はヴェネツィアでも唯一敷石が敷き詰められておらず、草の生えるカンポ広場で、その週日は沢山のワインの屋台が並び、ヴェネツィアの典型的な伝統料理が提供されます。日曜日の夕方には大トンボラ大会が催されるそうです。

トンボラとは、辞書によりますと「ビンゴに似たゲーム。1から90までの数字から無作為に選んで、縦3、横5の合計15枡の番組表を埋め、抽選によって出た数字を番組表から消していくゲーム。1列に三つ、四つ、五つと消された数の並びを競い、15枡全部が消された場合をトンボラと言う」だそうです。

このサン・ピエートロ・ディ・カステッロ教会は、1807年にサン・マルコ寺院に司教座が移される以前、司教座が置かれていたヴェネツィア大聖堂(Duomo)でした。サン・マルコ寺院は総督個人の教会でした。元々ヴェネツィアはグラードの総大司教区に属しており、1451年独立して司教座を持つことになった時、政治に宗教が入り込むことを非常に恐れた共和国政府は、司教座聖堂を町の中心から外れたこの地に置くようにしたらしいのです。

●8月15日には、聖母被昇天の祝日のコンサート(Concerto dell'Assunta)が行われるようです。
トルチェッロ島の司教座聖堂で、伝統的な音楽会が行われます。それはヴェネツィアが始まった時の中心であった、ラグーナの中でも最も魅惑的な島の一つを訪れ、素晴らしい音楽を聴くというものです。

●偶数年の9月第2金・土・日曜日には、ヴェーネト州のマロースティカのカステッロ広場で、中世の装束に身を固めた人間を駒として配置してチェスの試合(Partita di Scacchi)が行われるそうです。Castello Inferiore というお城は現在は市庁舎になっています。

●9月第3日曜日には、ブラーノ島で魚祭り(Sagra del pesce di Burano)があるそうです。
この楽しいお祭りでは《新酒(mosto)》が提供され、炭火による網焼き肉、ポレンタ添えのような美味しいご馳走を食べ、楽隊の演奏で踊りも踊られます。午後には男女混合のレガッタがあり、これは年に一度だけ1カップルの男女で漕がれるレガッタなのだそうです。
  1. 2011/04/09(土) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィア年中行事(12)

12月4日には年間最後のレガッタとして、第12回サンタ・バルバラ・レガッタ(XII Regata di S.Barbara)がイタリア海軍協会ヴェネツィア支部の手で行われます。

海軍の守護聖人である聖バルバラの聖名祝日に行われるというのは、現役あるいは退役した海兵と海との絆、またヴェネツィアが各種の宗教行事を祝ってきた、その古い伝統行事が典型的に海と関わってきたものだったことを思い起こしたいということから始まったそうです。

前にも引用しました『名前事典』には、Barbara について次のような記事を掲載しています。

「バルバラという名前は1900年代半ば頃まで忘れられていた。突如甦り、西洋世界全体に広まった。ギリシア人は人間を二つに分類した、ギリシア人とそれ以外。即ち外国人のことで、彼等の言葉で barbaroi と定義された。この言葉はラテン語 barbarus として我々にもたらされ、単に《どもる》を意味し、ギリシア語が話せない人、変な国語を話す人、bar-bar とたどたどしく話す人のことである。

次いでキリスト教徒は異教徒を barbaro(異民族)と呼んだ。次第に形容詞形が固有名詞となり、教会が色々の聖人の名前を記録するようになる。エジプト人の殉教者であった聖バルバラがとりわけ有名で、雷除けの守護聖人であった。伝説によれば、聖女は父親に首をはねられたのだが、直ぐに父は雷に打たれてしまったのだという。

このため、稲妻から人間を守る以外に聖バルバラは大砲や土木技師、消防夫の守護聖人でもある。その上、船の弾薬庫を守ってくれるので、《santabarbara(船内の弾薬庫)》という言葉も生まれた。比喩的意味で《santabarbara》は直ぐにも爆発しかねない危機的状況の意でもある。聖女は鉱員の守護聖人でもある。

現代人の例を挙げれば、女優バーバラ・スタンウィックとバーバラ・ストレイザンドがある。Barbarella は同名の映画の有名な登場人物である。この名の人は、火薬の聖女に捧げた12月4日が聖名祝日である。」

同名の外国語形=Barbara(英:バーバラ、独:バルバラ、仏:バルバラ、チェコ:バルバラ、ポーラ:バルバラ、西:バルバラ)、Bab、Babi、Barbie(英)、Barbe、Barbette(仏)、Bella(英、独)、Babel(独)、Varvara(露)、Barbaros(希)。伊語変化形=Barbera、Barbarella、Barbarina、Barberina、Barbaro、Barbarino、Barberino。

12月の年中行事の最後を飾るのは、クリスマスであることはあまりにも知れたことですが、24日(イヴ)、25日(クリスマス)、26日(聖ステパノの祝日)は日本の正月三が日のように休日となりますので、観光で滞在する時は買い物や食事等がままならぬ事態になる可能性があります。

聖ステパノの伊語形 Stefano について、Emilio De Felice著『イタリアの名前辞典』(Oscar Mondadori)は次のように紹介しています。
『Duizionario dei Nomi italiani』『イタリアの名前辞典(Dizionario dei Nomi italiani)』(Oscar Mondadori刊)
「Stefano(ステーファノ)の変化形=Stefanio、Stefanino、短縮形=Steno、Stenio、女性形=Stefana、Stefania、Stefanella、Stefanina、短縮形=Stena、Stenia。

全イタリアに普及した名前だが、シチーリアでは特に Stefano、Stefana の形の密度が高く、AD.37年にエルサレムで最初に殉教した聖ステパノや数多くの小聖人への信仰が反映している。

ギリシア起源の Ste'phanos は王冠の意の ste'phanos から作られ、ラテン語化して Stephanus となり、装飾と勝利のシンボルとしての冠に関連しているが、殉教の冠の意味でヒットした名前となった。

Stefania の形は女性のラテン語形の Stephania に由来する形を継承しており、2人の聖女と殉教者への崇拝に支えられて、響きの良さとエキゾチックな調子(仏、英、独の形、響き)という最近の流行はそうした評価から生まれている。」

同名の外国語形=Ste'phane、Ste'phanie、Ste'phen、E'tienne(仏)、Stephen、Stephanie、Steve、Stevie、Fanny(英)、Stephan、Steffen、Stef、Stephanie、Steffi、Fanny(独)、Esteban(西)、Este'va'o(葡)、Stefan、Stefania(ポ)、Stepan(露)
  1. 2011/04/02(土) 00:01:43|
  2. ヴェネツィアの行事
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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