イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの印刷・出版(4)

「……最初の印刷所はグーテンベルクによって導入された技術を知り、美しい印刷活字を生み出す母型を作り出すことの出来る職人達によって設置された。ニコラ・ジャンサンNicola Jensen[仏人ニコラ・ジャンソンNicolas Jenson?]はパリ造幣局の見習いだったが、ケルン(Colonia)に赴き、印刷技術を学んだ。
アルド・マヌーツィオの肖像[別のアルド・マヌーツィオの肖像]  彼はジョヴァンニ・ダ・スピーラ[独人Johann von Speyer]同様に、彼の母型から生み出された美しい活字で賞賛された。その母型は彼の工場の基本的な物であり、その印刷機も高価な物ではなく新技術という訳ではなかった。母型から新たに一つか二つの活字のシリーズが付け加えられると、印刷所の施設にとって本1冊の紙のコストを少々上回る資本の投下を意味した。

しかし資本は職人の賃金、工房に在庫して置かねばならない本の用紙代やインク代、更に多くの本を売るのに必要な輸送費に必要だった。

直後は印刷所の開設でジャンサンは、資本を供給出来る会社を興し、販売を容易にした。後には企業家達は職人というより本屋や出版人としての手段を持つ者となっていた。彼等は何を出版するかを決め、母型を作り、活字を溶融する、印刷機を操る職人を雇った。紙を供給し、比較的適正な賃金を払い、市場を拡張する努力をした。

この種の企業人として有名なのは、アルドの義父のアンドレーア・トッレザーノでアルド同様大陸側から渡ってきた。アンドレーアは本屋を開業し、ニコラ・ジャンサンの母型を購入し出版方針はアルドに任せ、企業家として仕事を分けた。編集方針はアルドの分野で、経済面では利益の多い、文化的には有意義なものとなった。

自分達の仕事のために、アンドレーアとアルドは30人以上の使用人を自分達の方針の下に統合した工場(工房)を組織した。植字工、印刷者や見習い工以外に、アルドの新しい《イタリック》体活字の母型の作れる職人として、色々の専門家が雇われた。初めて本の大扉に彼によって、その事が記録されたのである。

他の専門家としては本の校閲者や校正をする人がいた。中でも当時のヨーロッパで最も知られた知識人、ロッテルダムのエラーズモ(Erasmo―エラスムス)が挙げられる。彼はアルド家に滞在し、辛辣な記録を残している。

《アンドレーアは主人だった。アルドもまた彼の使用人と考えられていた》と、大人文主義者は書いている。若い頃居たこの出版社の校正係と見なされることを彼は嫌がっている(後に彼はそこで友人となった人々と喧嘩をし、喜劇的で辛辣な冷やかしの文章を彼等に呈した)。

《僕は校閲をした。著者の間違いを正すだけである。植字の誤りを正す、雇われ校正者は別にいた》と、エラスムスは言う。ギリシア語の知識については、アルドによって集められたギリシア人インテリと比べて、彼は自分に課せられた役目は大したものではなかった、そして皆はアルドを働かせ過ぎだと断言し、《自分は頭を掻くくらいの時間はあるが、アルドはこんな騒音と混乱の中で、よく難なく色々物を書くことが出来るな、と驚いたものである。》

アルドの勤勉さは、自分の周りの人々を鼓舞し、彼が書いた文章の中にそれが見える。殆ど経済広告としての《offerta Lavoro》であるが、印刷所の入口に掲げてあった。ラテン語であったが、概ね以下の意のようである。

――誰であろうと、出来るだけ自分を抑えて頂きたい、そして力尽きたアトラスに対したヘラクレスのように、あなたも立ち去って頂きたい、救助の手を差し伸べる余裕はないのです。ここへわざわざお出掛けの方々全てに対しては、我々は充分にお手伝いするでしょう。――

エラスムスの中傷文書は、工場の知的責任者であるアルドについて比較的敬意をもって書いているが、主人のアンドレーア・トッレザーノのしみったれについては手厳しい。そうした伝統的な家族的な工房がアルドの印刷所のように色々な使用人を抱えた大きな工場として生きていくということは、使用人全員が主人に養われるということを意味していた。

エラスムスは、アンドレーアが利益増加のためには使用人のワインは水で割り、殆どかすみを食わせていると断言している。質素が特徴のヴェネツィア料理に対する嫌悪感と共に、この企業人が経費を節減しようとする態度に、この人文主義者は執拗に怒りを爆発させていた。

エラスムスは北国の人間で、肉をたらふく食べるのが好きであり、《蛸、烏賊、貝類といった海産物の類は、排水溝に棄てるだけ》。譬え質素過ぎたとしても、アンドレーア・トッレザーノは企業人として成功を収め、アルド亡き後も会社を発展させ、孫達に栄えある印刷所を残したのである。

一つの工場内でのアルドの編集組織は、典型的なケースということではなかった。多くの編集者は、出版を2,3台の印刷機を抱えた小さな工房の印刷所に依頼した。こうした印刷者が小編集者に独立することもよくあったし、彼等は自分達の産品を書店や見本市で売り捌いた。

10~15人の労働者(植字工、印刷人、校正者、専門職、見習い工、下働き)を抱えた工房を経営するこうした印刷者は、私が呼ぶところの職人経営者(artigiani-gestori)の部類に属し、ヴェネツィアでは比較的重要な職種であった。 ……」
  ――『ヴェネツィア史(Storia di Venezia)』(Frederic C.Lane 著、Franco Salvatorelli 訳、Giulio Einaudi editore 刊)、p.365~366 から訳出

エラスムスの文庫本的な『格言集』は132版という驚異的な版を重ねたそうです。また Giovanni da Spira 以前にイタリア最初の印刷者、僧の Clemente da Padova と言う人がいて、ヴェネツィアとルッカで活動したそうです。Spira は、ヴェネツィア最初の出版物、キケロの『Epistolae ad familiars(家族書簡)』とプリニウスの『博物誌(Historia naturalis)』を1468年出版し、『家族書簡』は直ぐに重版になったそうです。

追記: 2013.08.31日にアレッサンドロ・マルツォ・マーニョを書きました。このヴェネツィア人はヴェネツィアの印刷出版やゴンドラ等について執筆しており、翻訳があります。非常に参考になります。
  1. 2011/06/25(土) 00:00:17|
  2. ヴェネツィアに関する印刷・出版
  3. | コメント:2

ヴェネツィアの印刷・出版(3)

グーテンベルクの金属活字の発明から20年程でそれを使用する印刷術がヴェネツィアに到来しました。アメリカの歴史学者 Frederic C.Lane は伊訳(Franco Salvatorelli 訳)版『ヴェネツィア史(Storia di Venezia)』(Einaudi Tascabile刊)で、1500年前後の印刷事情について次のように述べています。
Frederic C. Lane『Storia di Venezia』「……新産業の中で特に注意を引くのは、規格化された可動活字の発明者ヨーハン・グーテンベルクが1450年頃ラインラント(Renania)で始めた印刷業である。20年以上後に活字を鋳込むために溶解する母型作りをする鋳型や貨幣鋳造作りに秀でた2人の技術者のニコラ・ジャンサン[Nicola Jensen―仏人 Nicolas Jenson のこと?――プリニウス『博物誌』(1472)が有名?]とジョヴァンニ・ダ・スピーラ[Giovanni da Spira―独人Johann von Speyer(ヨーハン・フォン・シュパイアー)――ヨーハンとウェンデリン兄弟?]によってそれはヴェネツィアにもたらされた。

ジョヴァンニ・ダ・スピーラは最初の出版物の中で、キケロの書簡集を100部作るのに4ヶ月かかったと述べている。しかしこんなにも遅いスピードでも、手写本に比べれば圧倒的に早く、書店は前もって顧客に知らせることが出来た。そして2番目の本の時には、彼は同じ時間で600冊を作った。

ヴェネツィアには読者がおり、商業的繋がりで遠くポルトガルやポーランドまでにも本を送り、お客を容易く見つけることが出来るということで、本の印刷には適した土地柄だった。紙はヴェネツィアでは作られなかったが、ファブリアーノのようなイタリアの町で優れた紙が製造され、ヴェネツィアの手で売られていた。この新産業にいち早く腕のある職人が充分に集められた。

特許証や印刷の独占的権利を遵守させることは、この世紀他の土地同様に、ヴェネツィアでも困難であったが、政府はそうした権利を印刷業者に許すのに吝かではなかった。そうしたヴェネツィアの寛容さがヴェネツィアをして印刷業の大ヨーロッパ・センターと化さしめた。

1495~97年に、全ヨーロッパの印刷所が刊行したトータル1821点の刊行物の内、441点がヴェネツィアであり、当時2番手の印刷地パリは181点のみだった。1500年代初頭の戦争が、他の重要なイタリアの印刷地を破壊したが、ヴェネツィアの刊行点数は増加し続けたのである。

1500年代後半ローマでの印刷は、ヴェネツィアの3倍の費用が掛かると考えられた。ヴェネツィアの113社の印刷出版業者は、1ヶ月にミラーノ、フィレンツェ、ローマの3.5倍の出版物を刊行したのだった。

出版物は1500年代を通じて増加したが、ヴェネツィアの印刷業者は16世紀初頭より、より美しい本を刊行したのである、それは美麗な手写本の作り手と顧客を生み出す競争をしながらであった。そうした印刷業者の中で、最も著名なのが人文主義者のアルド・マヌーツィオ[Aldo Manuzio―羅典式、アルドゥス・マヌティウスAldus Pius Manutius]であった。

本土側の貴族の家庭教師であった彼は、当時大変希求されていたギリシア古典を印刷したいと1480年頃心に抱いた。しかしこの言葉(ギリシア語)で印刷されたものは何もなかったので殆ど何も知られていなかった。

マヌーツィオは本拠地にヴェネツィアを選んだのだが、そこは既に印刷の第一のセンターになっていた。文献を準備し、校閲をするための人材を集めなければならないが、そうしたギリシア人インテリ、またベッサリオン(伊式Bessarione)枢機卿がヴェネツィアに遺贈したギリシア語の手写本のコレクションが図書館にあることを考慮してのことだった。

ピエートロ・ベンボはそのコレクションの司書に任命されていたし、アルドの友人でもあり、彼を支援した。その上アルドはヴェネツィアで彼がデザインしたギリシア活字を母型から起こせる職人を見出すことが出来た。彼はその文字には、高名なギリシア人インテリの文字をモデルにして母型製作を準備したのだった。迅速と安全という海のシンボルである《イルカと錨》という、ヴェネツィアに適合したデザインを自分の出版社の紋章に選んだ。
アルド出版の「錨とイルカ」のマーク[アルド出版の有名な《イルカと錨》のマーク。エラスムスによればこのマークは《錨は仕事を始める前の熟慮を意味し、海豚は仕事を完遂する速さを意味する》のだそうです。]
マヌーツィオはラテン語やイタリア語の本に重要な改革を施した。筆写スタイルの新しいタイプの文字をデザインした。いわゆるイタリック体(italico)である。この文字は大きな頁の本では読みにくかったので、それまで使われていた本の2分の1、4分の1の判型の本の印刷が始まった。八折り判という判型は紙を八つに折り、16ページが刷れるのである。

八つ折判とイタリック体の文字の使用で、マヌーツィオは以前の八つ折判あるいはシート判という大きなサイズの本を、ポケットに入れることの出来る本として作り出した。彼の最初の八つ折判である『ウェルギリウス』を1501年に出版した。このことで本の値段が大型本に比べて約8分の1になった。そして学生層にまでマーケットが膨れたのである。ヴェネツィアはこの書体に特許を与えたが、他の場所で直ぐに模倣者が現れた。

ヴェネツィアでの編集は色々な方面に及び、多くの分野、とりわけ音楽出版に卓越していた[講談社刊『ニューグローヴ音楽事典』(全20巻)からヴェネツィアの音楽出版社名を抽出してみました。2007.10.31日に書いたLibreria Emilianaでどうぞ]。ギリシア語以外にヘブライ語本も印刷された。図版は最初は木版だったが、後に銅版に変わった。

次第に本の値段が下がり、軽い文学が比重を占めるようになり、編集センターとしてのヴェネツィアは、売れ行きのいいものを書いて暮らす者を引き付けた。

そうした作家の中で最大の人物は、ピエートロ・アレティーノだった。《宮廷の束縛から解放され、ヴェネツィアでの自由な生活を楽しんだ最初の作家》(Grendler)であり、人を刺す中傷文書を書き《王侯の鞭》として知られた恥知らずの恐喝者だった。
ピエートロ・アレティーノの肖像[ティツィアーノ画『ピエートロ・アレティーノの肖像』]  アレティーノや彼の模倣者達は、喜劇や卑猥で生き生きした対話文学を提供したし、群小作家達はあらゆる種類のマニュアルを執筆した。 ……」
   ――『ヴェネツィア史(Storia di Venezia)』(F.C.Lane 著、Franco Salvatorelli 訳、Giulio Einaudi editore 刊、1978)、P.358~360 から訳出。次回に続きます。

アラビア語の例――Alberto Toso Fei 著『I segreti del Canal grande』は次のような事を書いています。アルド・マヌーツィオの作ったポケットに入る小型本の最初は、1400年末~1500年初に発刊した『ペトラルカ詞華集』であり、ヴェネツィア印刷出版業の商業的・文化的繁栄は、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ修道院に今日でも保存されている、1530年に金属活字で印刷された最初の『コーラン』(パガニーニ社刊)の存在がその事を示すだろうと(誤植は多いらしいです)。

アルドの出版物は、他社の、校閲・校正に金を掛けなかった間違い・誤植だらけの本とは異なり、非常に信頼されたそうです。一般に印刷出版社は、製作費用を抑えるために出来るだけ校正・校閲等に時間と金をかけなかったということと人材も不足していたということだったでしょうか。
  1. 2011/06/18(土) 00:02:01|
  2. ヴェネツィアに関する印刷・出版
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの印刷・出版(2)

A.D.2000年になった時、アメリカの雑誌『ライフ』は、この1000年で起きた最重要な出来事として、独人グーテンベルクが1455年に金属活字により印刷した『42行聖書』の印刷をその第一位に挙げたそうです。それ程金属活字による印刷術の発明は、革新的なことだったのです(金属活字以外による印刷は各地で色々試みられていたようです)。

その印刷技術が、先ず華開いたのは15~16世紀のヴェネツィアでした。その立役者になったのは、2007.10.31日のLibreria Emilianaと2007.12.13日に書きましたRio tera` S. Paternianのアルド・マヌーツィオ(ALdo Manuzio=ラテン式アルドゥス・ピウス・マヌティウスAldus Pius Manutius――1449Bassiano[ローマ近くセルモネータ近郊]~1515.02.06ヴェネツィア)です。ピーコ・デッラ・ミランドラ等友人の多かったアルドは、本人自身、人文主義者としてこの町に到来したのでした。
アルド・マヌーツィオの肖像[アルドの肖像] 当時ルネサンス文化が華開き、僧侶に独占されていた文化、写本という狭い世界に限られていた知識は、民衆の高まってきた知識への欲求から、印刷という形態を暗黙の内に希求していたと思われます。上掲の『グーテンベルクの謎』は述べていますが、15世紀後半、オスマン・トルコの攻撃で東ローマ・ビザンティン帝国は瓦解し、アルドが活躍した時代、ヴェネツィアには亡命ギリシア人が沢山来ていたそうです。

ベッサリオン枢機卿がヴェネツィアに遺贈したギリシア語写本がサン・マルコ図書館(Biblioteca marciana)には500冊もあったそうです。図書館の管理を任されていたピエートロ・ベンボともアルドは知り合いでした。

この本によれば、クレタ島出身のマルクス・ムスルス(1517没)がアルド出版の編集長で、クレタ人ヤンニス・グレゴロプーロスは筆頭植字工であり、1500年にアルドが創設したアッカデーミアではギリシア語が日常語であり、そこにはロッテルダムのエラスムス[伊語でエラーズモ]もいたのだそうです。

アルドは2人のギリシア人の助けで、各種のギリシア文字をデザインし、20年間に120種250巻の書物を上梓し、中でも重要なのが、2折判5巻本の『アリストテレス著作集』(1495~98)だそうです。1502年以降もアイスキュロス、ソポクレス、プラトン、ヘロドトス等の古典を印刷・出版したそうです。

彼は本が多数の読者に迎えられるようにと、イタリック体をデザインさせ、16折判の小型ポケット判を出版しました。この小型本の伝統は、19世紀に出版されたドイツのレクラム文庫から現代日本の文庫にまで繋がっています。

アルドの出版物の中でも特に有名なのは、1499年のフランチェスコ・コロンナ著『ポリフィーロの夢酔譚』と言われているそうです。この物語はポリフィーロとポリーア[ポーリア?]の恋物語を168点の挿絵を用いて印刷された作品で、ローマン体活字の一段組みの本文と画家不詳の木版挿絵がよく調和した美麗な物だそうです。
ポリフィーロの夢[『ポリフィーロの夢酔譚』の本文頁、Wikipedia から借用] イタリア Wikipedia はフランチェスコ・コロンナについて次のように書いています。
「彼(1433ヴェネツィア~1527ヴェネツィア)は、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会、そのドメーニコ会修道院の僧であった。折り句風の文体に隠されたその文章を手掛かりにすれば、彼は単に『ポリフィーロの夢』として著名な『Hypnerotomachia Poliphili, ubi humana omnia non nisi somnium esse docet. Atque obiter plurima scitu sane quam digna commemorat.』というラテン語の長ーい長い題名の寓意的な散文作品の著者と考えられている。……これはルネサンス期に印刷された最も美しい書物である。
……
ヴェネツィア木版挿絵の傑作である『ポリフィーロ』は、旅行の入門書である。そのテーマはプラトニックな愛であるが、愛する女を探し求めるメタファーでカモフラージュされている。主題として旅の入門を含む別の物語、即ち2世紀後半のローマの作家アプレイウス(Apuleio)の『黄金の驢馬(Asino d'oro――変身物語の意)』を必ずや思い起こす。この作品が古代ローマの神々への呼び掛けを伴う異教的性格を持っていることはよく知られている。」

『澁澤龍彦全集』13巻(河出書房新社、1994年6月15日)中の≪胡桃の中の世界≫の中に《ポリュフィルス狂恋夢》という章があり、この物語の事が詳しく語られており、大変に興味深いことでした。

この『ポリフィーロの夢』を種にしての小説『フランチェスコの暗号』上下(イアン・コールドウェル&ダスティン・トマスン著、柿沼瑛子訳、新潮文庫、平成十六年十月一日)という推理小説も出版されています。
マヌーツィオの碑マヌーツィオの碑の壁面  アルド・マヌーツィオの碑ヴェネツィアに残る二箇所のアルド・マヌーツィオの碑。左は、サン・ポーロ区サンタゴスティーン広場傍のセコンド埋立て通りの、アルドが最初に印刷所を設置した場所、右は、サン・マルコ区マニーン広場とサン・ルーカ広場を結ぶサン・パテルニアーン埋立て通りの引越し先の印刷所の碑。
  1. 2011/06/11(土) 00:09:27|
  2. ヴェネツィアに関する印刷・出版
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの印刷・出版(1)

『グーテンベルクの謎』(高宮利行著、岩波書店、1998年12月18日)という本を読みました。次のような部分があります。
高宮利行『グーテンベルクの謎』「17世紀半ばでさえ、同様な話が北イタリアで浮上した。小都市フェルトレのフランシス会の修道士アントニオ・カムブルッチは、1470年代にミラノやヴェネツィアで活躍したパムフィーロ・カスタルディこそ印刷術の祖であると主張した。つまり、カスタルディは1456年フェルトレで印刷術を発明したにもかかわらず、《ファウスト・コメブルゴ》によって盗まれたというのである。この人物の名前はいみじくも、フストとグーテンベルクの名を合成してでっちあげたものである。……」
とあります。

イタリアの Wikipedia には次のようにあります。
「パンフィーロ・カスタルディ(Panfilo Castaldi[1398.09.22フェルトレ~1479.ヴェネツィア])は医師・文学者であった上に、《印刷本のマエストロ》であって、初期印刷人の一人であった。

アントーニオ・ダル・コルノ(Antonio dal Corno)、更にはフランチェスコ会修道士アントーニオ・カンブルッツィのようなフェルトレの歴史家は、印刷活字の《真の》発明家として彼に信を置いている。ヨーハン・グーテンベルクに帰せられている印刷術、それを発明したいと当時オランダやボヘミアのようなヨーロッパの他の地域でも試みられていた。

こうした潮流の中でパンフィーロ・カスタルディは、ヨーロッパの商業活動と知識のセンターとして繁栄の真っ只中にあったヴェネツィア共和国の市民となる。パンフィーロは、マルコ・ポーロがその旅を『東方見聞録』として書いた、その国から持ち帰ったかも知れない中国起源の活字を、妻となったマルコの孫娘が持参金の一部として持って来たのかも知れない。

彼の生誕600年記念祭を催す予定の、1997年5月30日の法令3971の企画書によれば、即ち《パンフィーロ・カスタルディは印刷活字の最初の発明者かも知れず、フェルトレでの客人となったファウスト・コネズブルゴ(Fausto Conesburgo―独語式ファウスト・コネスブルク)にその製法を伝授し、ファウストは自分の町マゴンツァ(Magonza―独語マインツ)にそのやり方を持ち帰ったやも知れない。》

19世紀にはイギリスの外交官ロバート・カーゾン(Robert Curzon)が、ヘンリー・コーディアー(Henry Cordier)のマルコ・ポーロについての覚書に言及し、ロンバルディーアとヴェーネトの地域に限られたこの伝説を世間に知らしめようとして、グーテンベルクが金属活字で印刷を開始する22年前の1426年パンフィーロ・カスタルディが、最初ムラーノ島のガラスで活字を作り、次いで印刷機に掛けたのは木版活字であったとレポートした。カーゾンはマルコ・ポーロとの関係やヴェネツィアの印刷とグーテンベルクとの関係を強調し、ヨーロッパにおける印刷の発明は自発的なものではなく、中国の知恵の模倣ではないかと推測している。

現代の研究者は、カスタルディの印刷や北イタリアとグーテンベルクとの関係よりずっと以前の日付については誰も触れておらず、こうした理解はフェルトレ以外の地では殆ど受け入れられていない。

カスタルディが生活し、仕事したヴェネツィアやカポディーストゥリア、ミラーノの古文書館の史料を渉猟すれば、期待されるものが見つかるかも知れない。」
  ――イタリア・Wikipedia より

いずれにしても、1426年に初めて木製活字を作ったとされるカスタルディが、1471年に出版したチチェローネ(Cicerone、日本でいうキケロ)の300部の『書簡集』が有名なのだそうですが、それほどの成功を収めた印刷人であったことは確かのようです。

彼の誕生した町では、マッジョーレ広場(Piazza Maggiore)に高名の同郷人を顕彰するために、彼の彫像が建立されているそうです。彼の彫像等については、2007.03.23日の shinkai さんのブログフェルトゥレ・ドロミテの麓、小さな高貴な町を是非ともご覧じませ。

上掲の本の著者によれば、木版活字印刷から金属活字印刷に移行したのではなく、同時期に並行して模索され、木製と金属製活字が生まれただろうとされています。その当時ヨーロッパ各地で筆写による本が僧院に独占され、広く知識を求めるルネサンス時は、色々な印刷が模索されたのでしょう。中でも鏡職人で金属利用に長けたグーテンベルクの発明した金属活字が、木製等より格段に耐久性の優れていることから、世間に普及したのは当然だったでしょう。
  1. 2011/06/04(土) 00:00:09|
  2. ヴェネツィアに関する印刷・出版
  3. | コメント:2

カウンタ

カレンダー

05 | 2011/06 | 07
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア