イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

言葉・名前(2)

神保町の《萱》という飲み屋さんで盃を傾けながら、カウンター内のママとお喋りしていました。

偶々話がガラスの事に及び、ヴェネツィアのムラーノ島の事に発展しました(ママもイタリアを経巡っているのです)。例えば、私の居住する町の八王子城が発掘された時、当時ムラーノ島でしか作れなかった白いレース・ガラスの破片が発見されされたそうで、それは天正の四少年使節が帰国した時、ヴェネツィア土産のレース・ガラス等のガラス製品が太閤秀吉に献上され、それがまた論功行賞等で誰かに渡され、八王子城が落城した時、そのガラスが城周辺に四散した、等ということでもあったのでしょうか。[追記: 八王子城落城=1590年、天正使節帰国=1592年]

隣の席で友人とお喋りをしていた若い女性が、私が《ムラーノ島》と口にしたのを耳にし、私に話し掛けてきました。自分はヴェネツィアに行き、《ムーラノ島》にもガラスを見に行きました。《ムーラノ島》の人は自分達の島を《ムーラノ》と言っていましたよ、と親切に教えてくれました。しかし聞き違いでしょう、ムラーノが正しい筈です。

コンメーディア・デッラルテを見たいと思い、ジュデッカ島にあるパンタスキーン座を訪ねた時、ヴァポレットを降り、停留所直前のバールに入って《ユングハンス(Junghans)》広場への行き方を尋ねました。バール・マンの男性は、私の《ユングハンス》の発音に一瞬キョトンとした表情を見せました。店の客と顔を見合わせてから、おもむろに《ユンガンス》は店の前を右に行って一つ目を右に曲がるようにと教えてくれました。

その時、私はヴェネツィアに行くようになってまだ殆どイタリア語が話せない頃の体験が蘇ってきました。《グッゲンハイム(Guggenheim)》美術館への道順を尋ねた時、日本のガイド本通り発声すると、聞かれた人は私の言った事を内心検索する風情でした。そして《グッゲナイム》美術館への道を《sempre diritto》と教えられたことがあったのです。

今にして思えば、例えばイタリア語で《上海》は《Shanghai》と書いて《シャンガイ》と《h》を基本的に読まないことに思い当たりました(実際は、《上海》は伊語では《Sciangai》と綴り、h のスペルはないようですが)。

日本のガイド本等で書かれている固有名のカタカナ表記と現地発音の違い等は、例えばローマなどでは古代ローマの建造物等の名前が、多分日本でしか通用していない、《正しい古代ローマ式発音》で書かれています。しかしそれを口にしてもローマでは通用しなかった覚えがあります。

例えば、現在通用している音楽用語の場合、《マニフィカト(magnificat)》は古典羅典式はマグニフィカト、《ディエス・イレ(dies irae)》はディエス・イラエ、《レジナ・チェリ(regina caeli)》はレギナ・カエリ、《アニュス・デイ(agnus Dei)》はアグヌス・デイと隔たっているため、ローマでアウグストゥス帝の《アラ・パチス(Ara Pacis―平和の祭壇)》をアラ・パキスと言ったら分かってもらえませんでした。私は《郷に入って郷に従え(Quando a Roma vai, fa' come vedrai)》という格言通りやりたいと思っているのですが……。

ヴェネツィアのサン・マルコ広場にある、世界で一番古いカフェはフロリアーンですが、日本のガイド本には独語式に《フローリアン》と書かれることが多いようです。フロリアーノ(Floriano)という人が始めたこの店は、ヴェネツィア式に《Florian》と語尾の《o》が脱落して呼称されていますが、アクセントの位置は変わっていない筈です。
カッフェ「フロリアーン」カッフェ「フロリアーン」[カッフェ《フロリアーン》。『Le Tre Venezie』N.88(Anno XIV 2007)他から借用] YouTube で検索してみますと、ある伊人アナウンサーが、Florian の人にインタヴューしている動画があり、両者《フロリアーン》と発音しています。しかしもっと探してみると、《フローリアン》と発声している伊人アナウンサーの動画もありました。ローマのアナウンサーでしょうか。次のサイトでフロリアーンをお楽しみ下さい。cafe Frolian

Maria` Fortuny i de Madrazo(マリア・フォルトゥニ・イ・デ・マドラソ)は、カタルーニャの画家フォルトゥニ・イ・マルサルの息子で、画家、デザイナー、舞台美術家でもあります。ヴェネツィアの彼の美術館が日本のガイド本には、フォルトゥニー美術館と書かれています。日本のデザイン関係の人達は英語式にフォーチュニーと発音しているそうですが、何故、西語の語尾の《Y》が《イー》となるのでしょうか。

ジュデッカ島にあるデザインのフォルトゥーニの工場は、同じこの島のユンガンスにあるパンタスキーン座のコンメーディア・デッラルテの演劇活動等を援助しているのだそうです。

YouTube で検索してみました。美術館の展覧会のオープニングで、前ヴェネツィア市長マッシモ・カッチャーリさんが話している動画がありました。マッシモさんは《マリアーノ・フォルトゥーニ》と発声していました。Mariano Fortuny という言い方は、カタルーニャの Maria` が Mariano とイタリアナイズされたものだそうです。次のサイトをご覧下さい。カッチャーリさんが video 半ば(3.40分過ぎ)で話し始められます。museo Fortuny

最近知った発音に《マーリブラン》劇場があります。西人音楽家マヌエル・ガルシアの娘マリアが仏人貴族マリブラン(Malibran)と結婚し、当時ヴェネツィアでサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモと稱された劇場で、マリア・マリブランはベッリーニの『夢遊病の女(Sonnambula)』を歌ったのです。オペラは大成功で、マリアは出演料を劇場再建のために全額寄付したのでした。劇場は彼女に敬意を表し劇場名を《マーリブラン劇場》と変えました。2010.06.05日のサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場にマリア・マリブランのことを書きました。

このスペインの歌姫は《マリア・マリブラン》であり、ヴェネツィアの劇場名は《マーリブラン》ということになります。

ヴェネツィアは古くは Venedia、Venesia、Venetia、Venexia、Vinegia 等と書かれたそうです(誤記を含めてではないでしょうか)。英語ではVenice(ヴェニス)、仏語Venise(ヴニーズ)、独語Venedig(ヴェネーディヒ、Veは《フェ》とはならないようです)、蘭語Venetie"(フェネティエ)、ポーランド語Wenecja(ヴェネツヤ)、チェコ語Bena'tky(ベナートゥキ)、西語Venecia(ベネシア、西語の《ve》は《べ》の音です)、葡語Veneza(ヴェネーザ)、トルコ語Venedik(ヴェネディキ)。

日本ではかつて威尼斯と漢字で書かれる前は部禰舎と書かれたそうです。またカナでヱニスやヱニスのヱに濁点を振ったものがありました。それ以外にも久米邦武は『米欧回覧実記』の中でヴェニェシヤとかヴェニシ、ベ子チャ等と表記しているようですし、鷗外はヱネチヤ、上田敏はヱネチヤのヱに濁点を振っています。

[9月2日サントリー美術館に『あこがれの ヴェネチアン・グラス』展に行ってきました。そこで次のような展示物のコメントを知りました。
《ヴェネチアン・レースグラス破片(八王子城出土)》八王子市教育委員会――1590年以前のヴェネチアン・グラス
1992年、八王子城跡の発掘調査で出土したレースグラス片。八王子城は1582~87年頃に北条氏照(1540/43~90)が築いたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際、1590年に落城、焼き討ちによって消失した。これらのレースグラスは南蛮船の渡来、あるいは別のルートで北条氏に献上されたと考えられる》。天正の四少年使節のヴェネツィア土産とは無関係のようです]
  1. 2011/07/30(土) 00:01:22|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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『世界遺産 ヴェネツィア展』――ヴィットーレ・カルパッチョ(1)

『ヴェネツィア展』パンフレット『ヴェネツィア展』『ヴェネツィア展』パンフレット中面『ヴェネツィア展』パンフレット中面偶々観世会の能楽堂に置いてあったので『世界遺産 ヴェネツィア展――魅惑の芸術-千年の都』のパンフレットを貰ってきました。2001年に始まった、今年何回目かの《日本におけるイタリア》2011の年であり、そのメイン・イヴェントとして、この催しが9月23日~12月11日に東京で開催されます。以後来年も引き続いてこの展覧会は全国を巡回し、仙台にも行くそうです。東北大地震もありましたが、仙台は伊達政宗の命で渡欧し、ヴェネツィアにも挨拶状を送った支倉常長の故郷でもあります。

この6~7月ヴェネツィアを中心にイタリアを回りました(ラヴェンナ音楽祭が楽しかったです)が、ヴェネツィアでは友人の案内で美術館に入るチャンスもなく、この企画は大変待ち遠しく思っています。
『ラヴェンナ・フェスティヴァル・マガジン』アフリカのIsango-Portobello Companyの、モーツァルトの『魔笛』ラヴェンナ音楽祭で見た南アフリカの、来日したこともある Isango-Portobello(イサンゴ・ポルトベッロ)Company の演じる、モーツァルトの『魔笛』をアリギエーリ劇場で見ました。またラヴェンナ大聖堂に入って暫くすると突如パイプオルガンの煌びやかな演奏が始まり、門が閉まるまで1時間あまり聞いていました。明日の演奏会のための予行演習だと門衛の人が言っていました。

2001年のイタリア年初年は、最初の展覧会は『イタリア・ルネサンス――宮廷と都市の文化』として、ヴェネツィアの美術品も展示されましたが、フィレンツェを中心としたものでした。その後、『華麗なる18世紀絵画――ヴェネツィア絵画展』が上野の森美術館で2001年3月24日~5月27日にありました。2007年9月2日~10月25日には『ヴェネツィア絵画のきらめき――栄光のルネサンスから18世紀へ』として、Bunkamura ザ・ミュージアムでヴェネツィア絵画が並べられました。そして今回が日本での3度目のヴェネツィア美術との出会いです。

このイタリア年のイタリア美術との邂逅となった、その前哨戦となったのは、1999年3月20日~6月20日にサンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館所蔵の『フィレンツェとヴェネツィア』という美術展でした。エルミタージュの学芸員達の、イタリア美術の素晴らしさをわざわざイタリア語で大変楽しく語る講座もありました。1800年代美術館として名を成していたピザーニ・モレッティ館右隣のバルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館は1850年その美術品を全てロシア皇帝に売却し、エルミタージュ美術館作品の一部となったそうです。

このパンフレットによりますと、今回登場する絵画はサン・マルコ大聖堂正面にあるコッレール美術館所蔵、日本初公開のヴィットーレ・カルパッチョ『二人の貴婦人』等です。パンフレットには《上図・参考図版》として、米国ロサンジェルスのポール・ゲッティ美術館にあるカルパッチョの『潟(ラグーナ)での狩猟』が並べて掲載されていますが、ヴェネツィアで1999年、翌年1月まで延長して、大運河に面して建つグラッシ館で展示されたように、両者同時に見ることが出来るのでしょうか?

今回ヴェネツィア展公式サイトに発表された内容から、来日されたヴェネツィア市立美術館群総館長ジャン・ドメーニコ・ロマネッリ氏が「東京のみ特別出展の、話題のあの絵のミステリーについても……」と語っておられることから、もしや? 二つが同時に見られるかも、と思い込んでいるところです。

パンフレット上に《世界でもっとも美しい板絵》と英国の批評家ジョン・ラスキンが言ったとありますが、この絵はかつて『二人の娼婦』と題されていました。娼婦と言い出したのは、当のラスキンだったと聞きました。ヴェネツィアに残る当時の版画の髪型と比べてみても、丸で違うのですが。
カルパッチョの『二人の貴婦人』『潟での狩猟』ジャーコモ・フランコ『著名な高級娼婦』(コッレール美術館蔵)[コッレール美術館のジャーコモ・フランコ画『著名な高級娼婦』]  その後1990年代初め、上記の『潟での狩猟』が『二人の貴婦人』の上部半分を切り取ったものであることが判明(上部の花瓶の花の茎が一致)したことから、色々なことが明らかになってきました。

故須賀敦子さんの『地図のない道』(新潮社、1999年10月30日)の中で次のようにあります(引用の初出は、トンボの本『ヴェネツィア案内』(渡部雄吉、須賀敦子、中嶋和郎著、新潮社、1994年5月20日)の中で、《ザッテレの河岸で》として巻末に掲載されています)。
須賀敦子『地図のない道』「……彼女たちの乾いた、虚ろとしかいいようのない表情をみてみると、ロマン派の批評家でなくても、これはコルティジャーネに違いないと思いたくなるのは無理ないのではないか。視線のさだまらない、大きく見ひらかれた目も、あらわにはだけた胸もと、手前の赤い衣裳の女のものだろう、画面左上にだらしなく脱ぎ捨てられた、舞妓のこっぽりの重そうな靴、そして、画面全体が発散している、凄絶なほどの頽廃というか、しどけなさ。

これらをまえにしては、私だって娼婦を描いたものとかたく信じてしまうにちがいない。それとも、乾いた目をしていたのは、男たちにもてはやされた娼婦ではなくて、むしろひとりでは街を歩くこともできなかった良家の女たちだったのか。

 しかし、この絵をコルティジャーネの肖像とする説はいまや古い過去のものだと説明書にはあった。大理石の欄干におかれた、たぶんファエンツァ焼きだろう、白黒の網目模様がついた花壷の家紋から、この絵はトレッラ家というヴェネツィアの由緒ある家柄の婦人たちであるということがわかったのだそうである。

彼女らが小さな帽子をかぶっているのも、コルティジャーネではない証拠かも知れない。中世以来、帽子をかぶることをゆるされていたのは、《ちゃんとした女》だけだったはずだから。

 だが、こんな反論も考えられはしないか。そもそも十六世紀のヴェネツィアでは娼婦が街にあふれて、教会にまで着飾って現れるので、《住民はまともな女性と悪い女性を区別できない》ことさえあったということを、どこかで読んだことがある。

花瓶の家紋にしても、トレッラ家の男が、彼女たちを館のひとつに住まわせていたと考えることはできないのか。現に、ヴェネツィア最初の公娼館は、貴族の持家があてられたという史実がある。 ……」

須賀さんの《トレッラ家》の時代から時が進み、また違った史実が浮かびました。詳細は2008.01.19日にFondamenta Zattereにその辺の事情を書いています。

8月17日追記:  今年は《日本におけるイタリア》2011の年であり、『世界遺産 ヴェネツィア展』以外にも、箱根のガラスの森美術館で11月3日まで『華麗なるヴェネチアン・グラス』展と、六本木のサントリー美術館で10月10日まで『あこがれのヴェネチアン・グラス』展があります。この続きは2011.09.06日の『世界遺産 ヴェネツィア展』――カルパッチョ(2)です。
  1. 2011/07/26(火) 00:04:58|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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言葉・名前(1)

ヴェネツィアの語学学校(Istituto Venezia)に何度か通いました。ヴェネツィア人が一番 simpatico と言っている広場サンタ・マルゲリータ(S.Margarita)の片隅、カナール埋立て通り(Rio Tera` Canal)にあります。授業は月~金曜日の9~13時で、1日の前半が会話中心の場合は、後半が文法中心といった構成でした。

学校と同じ並びにコンパニーア・デ・カルザ“イ・アンティーキ”の作業場があり、扉は開いていて、ストップ印の大きな掌の像が玄関口に置いてあり、コンパニーアの中心メンバーの一人グェリーノ・ロバートさんの仮面店がその真正面にありました。やはりそのメンバーの一人ドナートさんの本屋さんは学校の真向かいにあり、よく割引の本を買いに行き、知り合いました。

カナール埋立て通りの端は、有名な《拳骨橋(P.dei Pugni)》で、橋の下にはこれまた有名な船の八百屋さんがあり、授業が終わってアパートへ帰る途中、野菜や果物をよく買いました。近年船の八百屋は閉店して、その直前の陸の店一本に変わったように見受けられます。

授業の15分の休憩時間には必ずといっていい程、学校下のバールに「ブオンジョルノ!」とコーヒーを飲みに行きました。その日余りに喉が渇いていたので、「スプリッツ・コン・ビッテル(spritz com bitter――ヴェネツィア語はspriz)」と注文すると、カウンターの中の若い女性に「No!」と拒否され、「スプリッツは授業が終わってからよ」諭されました。彼女には授業が何時まであるか、ちゃんと分かっているのです。

その彼女に言われたことがあります。何故日本人は皆揃って、「ボンジョルノー」とか「グラッツィエー」「カッフェー」と語尾を伸ばすのか、おかしい、と言います。言われてヴェネツィア人の言い方を注意して聞いてみると「ブオンジョールノ」と語尾が切り上がり調子ですが、日本人留学生は「ボンジョルノー」と下がり調子です。語尾は明確に短音でキリッと切り上げないと締まりがない物言いに聞こえるようです。

森鷗外の昔から翻訳に表れた表記は、《タッソー》《アリオストー》、更には《カルーソー》《ゲットー》《ポー川》があり、語尾を伸ばす癖が日本人にはあるのかも知れません。

バールでコーヒーを飲む時、イタリア人はエスプレッソを注文し、カッフェが出て来るや2口ほどで飲み干し、コインをパチリとカウンターに置き、素早く立ち去ります。座ったりしたらそうしたスピード感は生まれません。それはイタリア人の行動美学のように思われます。そういうキリットとした所が言葉にも出るのかなと思った次第です。日本人はコーヒータイムは《お茶する》と言って腰を下ろし、たっぷりしたコーヒーでゆっくり寛ぐ方が好きです。

5月連休の恒例となったイタリア映画祭の第一回目(2001年)に、マイア・サンサさんが出演したマルコ・ベッロッキオ監督の『乳母(La balia)』のため来日され、映画祭図録にサインして頂きました。彼女はその後も同じマルコ監督の『夜よ、こんにちは(Buongiorno, notte)』(2004)にルイージ・ロ・カーショと共演したりして、日本の観客には大変親しい存在になっています。
『Festival del Cinema Italiano 2001』映画祭の座談会で日本人司会者は彼女をマヤ・サンサと紹介されたのですが、イタリアのTVをPC上で見た限り《Maya Sansa》は《マイア・サンサ》と聞こえますし、『DOP』の発音記号は《maia》です。

映画関係者は昔から少し違った伊語固有名を使っています。《ジーナ・ロッロブリージダ》がロロブリジーダ、《シルヴァーナ・マンガノ》がシルバーナ・マンガーノ、《エットレ・スコーラ》がエットーレ・スコラ、《ロベルト・ロッセッリーニ》がロッセリーニ、音楽関係者にはロッセルリーニ(Rossellini)と言ったりする人もいます。

音楽書の中で《ファニー・ペルシアーニ(Fanny Persiani)》という歌手の名前を見ました。伊語では庭球の tennis(伊語は英語を借用)を《テンニス》と発音するように、《ファンニ》となる筈です。仏語なら「ファニ」、英語なら「ファニー」となるでしょう。

ヨーロッパの名前は、日本人にはその使い分けが非常に煩瑣です。例えば英語の William(ウィリアム)は、Wilhelm(独、ヴィルヘルム)、Willem(蘭、ウィレム)、Guillaume(仏、ギヨーム)、Guillermo(西、ギリェルモ/ギジェルモ)、Guilherme(葡、ギリェルメ)、Guglielmos(希、ググリエルモス)、Gulielmus(羅、グリエルムス)等ですが、伊語は Guglielmo(グリエルモ)です。

イタリアでは、この名前の聖名祝日は2月10日だそうです。
  1. 2011/07/23(土) 00:05:07|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――アンデルセン

アンデルセンの『即興詩人』(神西清訳、小山書店、昭和33年3月31日)の後半で、主人公アントニオはヴェネチアに向かいます。

ローマに住んでいたアントニオは、友人のファビアーニに言われます。
「……君はもう子供じゃない。自分の足をどこへ向けるかは十分わかるはずだ。すこし旅行をしたらためになるだろう。医者も同じ意見だ。もうナポリへは行ったことがあるから、今度は北イタリアへ行きたまえ。
……
冷たさがアルプスからこの暖かい血へ吹き込まれるのか? 北へ、水に浮ぶヴェネツィア、海の花嫁へ! 神よ! 私をまたとローマへ、忘れがたい思い出の墓へは帰し給うな! さらば、わが故郷の町よ! 
……
ヴェネツィアそのものは実際、ほかのどのイタリアの町とも非常にちがっていた。それは豪華な粧いをこらした力強い海の花嫁であった。翼をもったヴェネツィアの獅子が私の頭上の旗にゆらめいていた。帆が風にふくれて、私の目から海岸をかくした。
……
私は宏壮な聖マルコの広場を見た。《ここに生活がある!》と私は聞いてきたが、ナポリとは、いや、あの賑やかなコルソ通りに見るローマとさえ、なんという違いであろう! しかもなお聖マルコの広場はヴェネツィアの心臓、生活のある場所なのだ。

書物、真珠、絵画などを売る店が長い柱廊を飾っていたが、しかし、まだ人出がなく活気づいていなかった。けばけばしい服装をして、長いパイプをくわえたギリシア人やトルコ人のかたまりが、コーヒー店のそとに静かに坐っていた。聖マルコの黄金の円屋根の上、玄関の上の堂々たる青銅の馬の上に、太陽が輝いていた。
……
私はゴンドラに乗って、無言の夜の街々を舟の行くままに運ばれていった。船頭たちはたがいに歌いかわしたが、それは『解放されたエルサレム』の中のものではなかった[かつてヴェネツィアの唄は《サンタ・ルチーア》ではなく、これだったそうです]。ヴェネツィアの人々は彼等の古い唄さえ忘れてしまったのだ。彼等の総督(ドージェ)は死に絶え、彼等の凱旋の車につけられた獅子の翼が、外国人の手で縛られてしまったからだ。
……
ここで私は堂々たる総督の邸宅を訪れ、人のいない豪華な広間をさまよい、おそろしい地獄の責苦の絵のある宗教裁判の部屋を見た。私は狭い歩廊を通り抜け、ゴンドラのすべって行く運河の上に、屋根よりも高いところにかかった屋根と壁のある橋を渡った。
カナレット『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ潟岸』溜息の橋[左はカナレット画『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ潟岸』部分、右は溜め息の橋] これは総督の邸から牢獄への通路であり、この橋は《溜め息の橋》と呼ばれる。その直ぐそばに《井戸》がある。通路に置いたランプの光が目のこまかい鉄格子を通って、いちばん上の土窂だけにようやく射し入る。
……
次の朝、私は非常に元気だった。けだかい誇りが私の胸に目ざめていた。私は自分にめぐまれた詩才という神の賜物を幸福に思い、神に感謝する気持だった。私はゴンドラに乗った。その妹の知人として市長の家を訪問に行くつもりだった。かくさずに言えば、あんなに明白に私にたいする敬意を表わした、美の女王と認められている若い婦人に会いたい、という願いをもっていた。
……
《オセロの宮殿が見えます!》船頭はこう言って、大運河を通って私をある古い建物へつれて行った。漕ぎながらの彼の話によると、美しい妻デスデモーナを殺したヴェネツィアのムーア人はそこに住んでいたので、イギリス人が誰でもそれを見物に行く様子は、まるで聖マルコの教会か、造船所の遺跡へでも行くようだという。 ……」
  ――ハンス・クリスチャン・アンデルセン『即興詩人』(神西清訳、小山書店新社、昭和33年3月31日)より

日本では『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』等の童話で有名なアンデルセン(丁抹語式発音では [ˈhanˀs ˈkʁæsdjan ˈɑnɐsn̩]“アナスン”のようです。dは無音。独語式はアンデルゼン、英語式はアンダースン、鷗外の読みは何語から?)。森鷗外が初訳したこの小説は、『鷗外全集』第2巻(全38巻、岩波書店、昭和四十六年十二月二十二日)で読むことが出来ますが、古い文体の雅文調で書かれ、正字・旧字の旧仮名遣いで印刷されたこの本は、読むのも、原文通りここに引き写すのも苦労です。先ずPCの文字は旧字・正字に正しく対応していません。

ダンテの『Divina Commedia』を『神曲』と訳したのは、鷗外のこの『卽興詩人』の中でが初めてだったことは知られています。ダンテは元々この詩を単に『Comedia』と題していたそうですが、何年か後ヴェネツィアで出版された時(1555年)、『Divina Commedia』と“Divino/a(神の)"の文字が追加され、以後出版される時は、このヴェネツィア本式が踏襲されているのだそうです。

2012.04.05日追記= 「……ダンテ Dante の神曲 Comedia[現在の伊語では Commedia、ダンテの表記は Comedia だそうです]は幽昧にして恍惚、ギヨオテ Goethe の全集は宏壯にして偉大なり。誰か來りて余が樂を分つ者ぞ。……」――『鷗外全集』第35巻(岩波書店、昭和五十年一月二十二日)《獨逸日記》の明治十八年八月十三日の件にこのようにあります。彼は『卽興詩人』を出版する前から『神曲』の訳語を考えていたようです。
  1. 2011/07/16(土) 00:04:02|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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4世紀後、解決したメーディチ家のミステリー

旧聞に属しますが『Il Giornale』紙の『2006年12月24日(日曜日)――Cronache17』 に《4世紀後解決したメーディチ家のミステリー》という記事が載りました。ヴェネツィアの友人Fabiさんが切り抜きを送ってくれていました。以前、彼女はメーディチ家のミステリーを解明するための科学者のグループが組織されたと、メールを呉れました。5年経ちそれを訳してみます。
[『メジチ家の墓をあばく』(ドナテッラ・リッピ、クリスティーナ・ディ・ドメニコ著、市口桂子訳、白水社、2006年6月30日)という本も発刊されています]。
『Il Giornale』紙面 『Il Giornale』の拡大紙面 「メーディチ家の暗部の中で最も悪辣に術策を弄したものの一つについて、再び書かれた。フランチェスコ一世と彼の二番目の妻ビアンカ・カッペッロの、Poggio a Caiano のメーディチの別荘での死は、マラリアによるものではなく、かなりの量の砒素を盛られてのことだった。

420年前から公式の歴史が語っていることは、本当のところは、違っているのではないか――2人ともマラリアに感染して死んだ、それも片方の死が前者の死から11時間後だった――それは沢山の文学を生み、伝説も各種あまたある。

今や科学的確証を得た。毒殺である。『British Medicale Journal』紙上に掲載された記事でそれは明らかにされている。その紙上著者達――法廷毒物学のフランチェスコ・マーリ、エリザベッタ・ベルトルそしてアルド・ポレッティーニ、薬物歴史学のドナテッラ・リッピ――は、大公夫妻の死の経緯を再構成している。その死が、メーディチ家フェルディナンド1世が権力の座に上り詰める道筋を切り開いたのである。

あらゆる角度からこの宮廷の暗部を検証してみると、このいきさつの中には1人の容疑者、2人の犠牲者、そして当然ながらその犯行動機が見えるのである。

最初の妻ジョヴァンナ・ダウストリアからは大公フランチェスコ1世は嫡男の男の子を授からなかった。唯一の小公子ドン・フィリピーノは5歳にもならない内に亡くなった。本当の所、男の子は存在していた。アントーニオという名で、若い時からよく知られていたヴェネツィア貴族のビアンカ・カッペッロとの間に、誕生していたのである。

1578年ジョヴァンナ・ダウストリアが亡くなると、フランチェスコはビアンカとの関係を《正式にする》ことに決めたのである。彼女は直ぐに新大公夫人となり、息子はドン・アントーニオとして公式に《認知され》、唯一正式の後継者(嫡男)となった。

しかしこうした事全てが、フェルディナンドには不快極まりなかった。権力というものが、彼の手から遠ざかっていくことが恐怖であったのである。そこから自分とメーディチの王冠との間に横たわる、あらゆる障害物を《排除しよう》という決意が生まれた。

毒薬を盛ったのだが、多分誰もそれに気付かず、大公夫妻は病に倒れ、11日後亡くなった。《事件の隠蔽》工作は施されたが、色々の疑惑がフェルディナンドに集中した。

フランチェスコ1世の遺体はフィレンツェに運ばれ、懇篤に葬られた。一方、大公夫人の遺体は未だに明確でない場所に埋葬された。しかし彼等の内臓は検死後、ヴィッラ・メーディチ近くのボニスタッロの小さな教会に埋葬された。

そしてドナテッラ・リッピが2005年5月に発掘に行くまで、それはそこにあった。彼女は自然な有機物の外観を持つ、その証拠物件を発見したのである。事はかくの如くであった。

というよりむしろ、粉々になった、その乾き切った濃密な三つの物質は、正に致命傷になるに充分の砒素の染み込んだ人間の生物的証拠物件であることを示していた。

それだけではなかった。三つの証拠資料――人間の肝臓の分子構造と互換性のある分子構造を持っていた――は、男と女という二つの異なった個人の物であることを示していた。男から採取された DNA は、フランチェスコ1世の顎髭の皮膚に付いていた髭の断片から、その特定された物と酷似していた。

それは《ディエチ・プロジェクト》の期間中、フィレンツェのメーディチの礼拝堂での古病理学調査で、2年前採取されていた物だった。

それ故科学者達は、ボニスタッロで見付かった証拠資料は、事実フランチェスコ1世の臓器の一部がここにもたらされたのであると仮説したのでる。フランチェスコとビアンカの内臓はボニスタッロに一緒に埋葬されたのであり、女のサンプルは同様に砒素が高い数値を示していることから、論理的推測は、大公夫人の遺物であったということである。即ち彼女もまた夫と共に毒殺されたということである。」

フィレンツェ大学薬物歴史学教授ドナテッラ・リッピへのインタヴュー
「●どういう手法を使用しましたか
《文学的源泉は数多く、何年もよく知られていることでした。それを全て証明しました。特別な事を推理しました、それは証拠能力が高いと思われたのです。即ち死とその検死の後、2人の臓器がボニスタッロのサンタ・マリーア教会のクリプタに埋葬されていたということでした。その事は1500年代末史料で確定出来ました。私には探偵の才があったようです。》
●結果は?
《山のような屑資料を引っ張り出し、何度も何度もふるいに掛けました。二つの小さな金属の十字架が残りました。それは、その出所は正しい、という確信でした。しかし私にとって興味深かったのは臓器が残っていたということでした。》
●見付けたのですか?
《勿論です。三つの小さな断片です。一番大きなのはハシバミの実の大きさでした。ジャン・ガストーネのクリプタで見付かったそれは、私には全部同じように見えました(2004年の再発掘期間中のこと、ndr(編集者注))。その時私は直感しました。成功した調査活動が私に合理性を与えてくれたのです。》」
  ――『Il Giornale』(2006.12.24)から。
ビアンカ・カッペッロの館ビアンカ・カッペッロの館ビアンカ・カッペッロの館 フェルディナンド像左3点は、マッジョ通りの、夫の弟に毒殺されたビアンカ・カッペッロが住んでいた館、右の銅像は、至聖アンヌンツィアータ広場の、兄大公夫婦を毒殺してフィレンツェ大公に成り上がった、フィレンツェを睥睨するフェルディナンドの像。

ビアンカ・カッペッロの館のあるマッジョ通りに行くサンタ・トリーニタ(S.Tri`nita――伊語として成熟する前のラテン語風のスペル)橋を、日本の翻訳ガイドはサンタ・トリニタ(S.Trinita`――三位一体)橋と、またヴァザーリの回廊脇にある聖女フェリーチタ(S.Feli`cita)の教会サンタ・フェリーチタをサンタ・フェリチタ教会(S.Felicita`――幸福)と改変しています。このブログでこうした誤りや誤訳を出来るだけ冒さないようにとは思っているのですが……。

追記: 2010年に更なる発見があったようです。次のサイトを検索して見て下さい。
Malaria was the killerトリーノの医学者の調査で、フランチェスコの遺体からマラリアの致死因子が検出され、結果的に毒殺説が否定されています。
  1. 2011/07/09(土) 00:03:04|
  2. ヴェネツィアの墓
  3. | コメント:2

ヴェネツィアの建物: バルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館とカッペッロ・レイヤード・カルネッティ館

ピザーニ・モレッティ館の右隣のバルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館(P.Barbarigo della Terrazza)について、G.Lorenzetti 『ヴェネツィアとその入江』は次のように書いています。
「バルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館」と「カッペッロ・レイヤード館」「建物の2階の広い露台、特に中空状の庭のためにこう呼称される――擬古典様式の建物であり、ベルナルディーノ・コンティーンの設計により(と思われる)、1568~69年頃、ダニエーレ・バルバリーゴによって建てられた――1800年代、貴重な美術館として名を成していたが、そこに収集されていた作品は、ティツィアーノのキャンバス画を中心としていた。1850年にサンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館のために、ロシア皇帝に売却された。」
[現在この2765番地には、《ドイツ研究センター(Deutsches Studienzentrum)》と《アルベルゴ・カルパッチョ》が入館しているそうです。]

右隣はサン・ポーロ運河(R.de S.Polo)で、サンタ・ルチーア鉄道駅に船で急行する時は、サンタゴスティーン(R.de S.Agostin)、サン・ジャーコモ(R.de S.Giacomo)、マリーン(R.Marin)と運河を渡って行くと近道になるのだそうです。

この運河の右隣の角には、カッペッロ・レイヤード(レイヤルド)・カルネルッティ館(P.Cappello Layard Carnelutti)があります。E.&W.Eleodori の『大運河』(1993)は次のように書いています。

「サン・ポーロ運河と大運河の合流地点の角に立つ、この1500年代の建物は、1階の長方形の窓と上の階のアーチ型の窓だけでアクセントを付けている大変簡素なファサードである。右にある三連窓の面前には柱で支えられた小さなテラスが顔を見せている。元々ファサードは、パーオロ・ヴェロネーゼとジャンバッティスタ・ゼロッティのフレスコ画で飾られていたが、現在は姿を消した。

ここにはイギリス大使ヘンリー・オーステン・レイヤード卿が住まいし、1915年の彼の死により、彼の絵画コレクションはロンドンのナショナル・ギャラリーに遺贈された。

カッペッロ家は9世紀からヴェネツィアで華開いた貴族の一家であった。有能な政治家と勇敢な軍人を輩出した。ヴェットーレは1467年ネグロポンテ島(現、エーゲ海のエヴォイア島)で喫した惨敗による悲嘆のあまり死んだ。同じ島で、パーオロ・エーリッツォがその3年後、トルコ人の手で残酷に殺された。しかしこの一家の知名度は、特に一人の女、ビアンカ(1548~87)に負うている。

彼女はモロジーニのある一族に繋がる、美しい、落ち着きのない15歳の娘であった。フィレンツェの銀行の若者とフィレンツェに駆け落ちした。フィレンツェで彼は家族達の意志に反して、1563年結婚した。ヴェネツィアではこのスキャンダルは、その事実からしても大変なものだった。いずれにしてもヴェネツィアの貴婦人は、昔のビザンティンの貴婦人のように、むしろ表立った所から一歩控えた所で監視されるように生活していたのである。

この少女には欠席裁判でセレニッシマから死が宣告されていた。しかし何年か後トスカーナ大公夫人になった、積極的で活発なビアンカは、《共和国の秘蔵っ娘()》と幸運にも宣言されることになった。

事実メーディチ家のフランチェスコ大公の注意を自分にだけ注がせることに成功したこの若い娘は、彼の恋人になっていたのである。そしてミステリアスな状況の中での実の夫の死(彼女にとって幸運であった)と、大公夫人の逝去で、1578年大公と結婚することが出来た。一般的な反目のある状況の中、大公とその弟フェルディナンドとの間に目に見える対立を引き起こしたのであったが。

この時からビアンカは自分の立場の強化のために、子供を持つことしか考えなくなった。そして何年もの不妊期間、ヒステリックに妊娠への試みを推し進め、薬で健康を害し、結果、若い身空で水腫にかかってしまった。

約10年の対立の後、メーディチの兄弟は和解し、夏に宮廷がこぞって、快適な Poggio a Caiano のヴィッラでの避暑に同行したのである。そこで10月半ば大公は病に罹り、数日後亡くなった。ビアンカも36時間後彼の墓へ、死のお供をしたのである。

当時邪魔者を殺すのによく使用された毒薬の事が話題に上った。しかし歴史的な検証は、陰鬱なロマンチックな現実遊離の栄光の陰に溶融してしまい、トスカーナの王冠を手にしたフェルディナンド2世の名誉を挽回したかに見える。

フランチェスコは遺伝的欠陥のある肉体の持ち主であり、ビアンカは不妊症を回復したいと厳しい治療を次々と試みて、健康を害したと立証したのだが。」
  ――E.&W.Eleodori『大運河』(1993)より。

私は『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』vol.1,2(Piero Pazzi,Tipografia del Centro Grafico di Noale)に教えられ、ビアンカ・カッペッロの事は2008.04.11日に天正のローマ使節(4)、2008.06.27日にカランパーネ埋立て通り、2009.10.31日にヴェネツィアと日本との関係(2)と書きました。その生家はサン・ポーロ区内部のベッカリーエ運河(R.de le Becarie)の屈曲部に立つモリーン・カッペッロ館(P.Molin Cappello)でした。この E.&W.Eleodori の『大運河』(1993)は、全カッペッロ家の歴史について広い視点から書いているようです。
  1. 2011/07/02(土) 00:02:02|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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