イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

固有名詞

娘に一つくらいは稽古事を、と近くにピアノを教えている人ありと聞き、レッスンに通わせました。日曜日、娘のピアノ練習終了後、私もバイエルを取り出してピアノに向かい、自分の固い指に運指を強制し、練習に励んで見ました。そしてバイエルも最終頁に差し掛かり、バイエルはもうよろしいと自分で勝手に判断した頃には、何とかかんとか指を左右別々に動かせるようになっていました。その後は、先生もいないことですから、継続させる強い意志があるかどうかです。

ピアノフォルテを発明した人は、イタリア人のバルトロメーオ・クリストーフォリ(1655.05.04パードヴァ~1731.01.27フィレンツェ)と一般的に言われています。ピアノフォルテは、弱音(ピアーノ)と強音(フォルテ)が出せる鍵盤楽器ということで名付けられています(日本ではフォルテを省略)。

クリストーフォリは1690年頃フィレンツェに移り住み、メーディチ家に仕え、楽器類の管理に携わり、1709年頃ハープシコードとは異なる発音法、ピアーノとフォルテが出せる打鍵の原理を発明したと言われています。

この新楽器のことを、歴史家、劇作家として名高かったフランチェスコ・シピオーネ・マッフェーイ(1675.06.01ヴェローナ~1755.02.11ヴェローナ)が、『Giornale dei Letterati d'Italia』という文芸紙に書き残しているそうです。以後ピアノフォルテは改良に改良が重ねられました。

ドイツのハルツ地方出身のハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(Steinweg、1797~1871)が、ドイツでピアノ製造業を始めました。その後彼は4人の息子と共にアメリカに渡り(長男は除く)、アメリカでピアノ製作のスタインウェイ社(Steinway & Sons)を1853年ニューヨークに立ち上げました。世界に冠たるピアノの始まりです。長男のテオドールはドイツに残って、ドイツでピアノ製作を続行しました。

この一家の事を読んでいる時、シュタインヴェークと共に一緒に渡米した息子達、カール、ハインリヒ、ヴィルヘルム、アウグストの子供達、二世達の名前はアメリカナイズされていき、当時その実際の呼称は親達にどういう風に発声されたのかと思ったのです。英語風の発音なのか、独語風の訛りのある発声なのかと些細なことが気になりました。

というのは、以前来日した伊人演出家、Giorgio ○○ さんが日本で英語での対談で、Giorgio の英語名 George ではなく、そのまま英語式にジョージョウと発音されたのか、カタカナ表記がそうなっていたからです。

イタリア音楽がヨーロッパを席捲していた頃、イタリアの音楽家達はヨーロッパ各国をツアーで駆けずり回っています。ある音楽家はフランス宮廷に雇われていた時、子供が生まれるとフランス名前で命名し、次の国イングランドで子供が生まれると英語名を名付け、というように行く先々の国の名前を付け、ヨーロッパの方程式、Charles(チャールズ、英)=Charles(シャルル、仏)=Carl(カール、独)=Carlo(カルロ、伊)=Carlos(カルロス、西)=Ka'roly(カーロイ、洪)=Karl(カルル、露)とは別の命名法をしている音楽家の話を読んだことがありました。兄弟姉妹の名前が国際色豊かでした。

例えば英語のマネージャーはマネジェル、コンピューターはコンピューテルと読む伊人ですから、名付けた親はフランス名でもロシア名でも、イタリア語式の読み方で子供を呼んだのではないかと思いました。人々が世界各国から入国してくるアメリカには世界各地の名前が氾濫していると思われます。今では名前の読み方には法則が定着しているのでしょうが、いずれにしても自分達に読み易いように読んでいるのでは、と推測します。イタリアも同じことでしょう。

現在の日本では出来るだけ現地音に忠実にカタカナ表記するようになってきました。しかしかつては音楽家の名前等は最初独語式に読まれ、紹介されていました。例えばポーランドのピアニスト、ジンメルマンはツィンマーマン、アルゼンチンのピアニスト、アルヘリッチはアルゲリッヒ、それでいてN響指揮者ザヴァリッシュはサヴァリッシュ、ヨハン・ゼバスチャン・バッハはセバスチャン・バッハ等、名前の表記は一筋縄ではいきません。

ニューグローヴ音楽大事典(講談社版全20巻。有料のインターネット版(小学館)も何年か前に閲覧可能になりました)を見ると、古い音楽家の名前が少しずつスペルが違いながら、沢山並べてある人がいます。音楽家が色々国を回り、各国の表記法が区々あることと、どうしても生じる誤記も含めて文献に残っている故でしょう。

ジョアッキーノ・ロッスィーニの場合など、本来の名前は、Gioacchino のようですが、彼自身は c を一つ取った Gioachino でサインすることを好んだそうですので、二つ併記してあります。

私の兄がオーストリアを旅し、チロルに行こうとして駅で《チロル》と英語を使って言っても駅員に理解して貰えず、紙に Tirol(ティロール)と書いてようやく通じたとか言ってました。また新宿の駅で道に迷ったらしい人に話し掛けるとナーポリの人と判明し、妻がポンペイを見てきましたとナーポリ人に言っても分かって貰えず、私がポンペーイに行ったんですと言うと直ぐに反応し、素晴らしい所だろう、と鼻高々でした。アクセントの重要さを思い知った瞬間でした。

名前についてのコメントを幾つか頂いたので、名前についての感想を書いてみました。私は出来るだけ現地音(?)に合わせるように努めています。
  1. 2011/08/30(火) 00:03:27|
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(3)

森鷗外は『即興詩人』を訳していますし、多分ゲーテの『伊太利亞紀行』は読んでいたに違いありません。とすると、ヴェネツィアに興味を抱いていたのではないでしょうか。

もしそうだとすれば、彼が仏人作家アンリ・ド・レニエの作品の独訳から『復讐』を日本語訳していることに合点がいきます。この作品はヴェネツィア人のお話なのです。ヴェネツィア好きだったレニエはヴェネツィアを舞台にした作品を幾つか書いています。2009.05.23/30日の文学に表れたヴェネツィア―アンリ・ド・レニエに彼の詩のことを書きました。

「……こんな風に己達の青春は過ぎた。ヱネチアの少女等は戀愛でこれに味を附けて過させてくれた。波の上をすべるゴンドラの舟が、ひまな己達の體をゆすつてくれた。歌の聲や笑聲が、柔かい烈しさで己達のひまな時間を慰めてくれた。その時の反響がまだ己の耳の底に殘つてゐる。

こんな樂しかつた日の記念の數々は、運河のうねりの數々よりも多く、その記念のかゞやきは、運河の水の光より強い。今から思つて見ても、あの生活を永遠に繼続することが出來たなら、己は別に何物をも求めようとはしなかつただらう。あの生活をどう變更しようと云ふ欲望は、己には無かつただらう。只目の前にゐる美しい女の微笑(ほほゑみ)が折々變つて、その脣が己に新なる刺戟を與へてくれさへしたら、己はそれに滿足してゐただらう。

倂しバルタザルはさうは思はなかつた。己の胸はあれが館の窓々が鎖されて、只白壁の上に淡紅色の大理石の花ばかりが開くやうに見えてゐた時、どんなにか血を流しただらう。バルタザルは遠い旅に立つた。世間を見ようと思つたのである。あれは三年の間遠い所にゐた。そして去る時飄然として去つたやうに、或る日、又飄然として歸つて來た。

朝が來れば、あれの聲が石階の上から又己を呼ぶ。晩にはあれと己とがまた博奕の卓を圍む。己達は又昔の通りの生活を始めた。そのうち或る日不思議な出來事があつて、あれを永遠に復()た起()つことの出來ないやうにしてしまつた。それからと云ふものは、あれはサン・ステフアノの寺の石疊みの下に眠つてゐる。兩手を創口(きずぐち)の上に組み合せて眠つてゐる。 ……」
 ――『鷗外全集 第十一巻』(岩波書店、昭和四十七年九月二十二日)―アンリ・ド・レニエ作『復讐』より
ダーリオ館裏のレニエのプレートスクリストーフォロ橋左、大運河に面したダーリオ館裏のバルバロ小広場(Cpl.Barbaro)壁面にこのプレートが掲げてあります。《ダーリオ家のこの古い館でフランスの詩人アンリ・ド・レニエが、1899年と1901年ヴェネツィア風に生活し且つ著述した。1948年ヴェネツィア市》。右、ダーリオ館裏のバルバロ小広場のサン・スクリストーフォロ橋(P.S.Cristoforo)と右壁面のレニエの碑。写真直ぐ左脇のサン・クリストーフォロ橋の90度にカーブした石の欄干を少年が滑り降りてきて、キャサリン・ヘップバーンに出会うシーンが映画『旅情』の中にありました。
  1. 2011/08/27(土) 00:05:56|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの橋(2)

一番豪華なリアルト橋に対する、一番貧弱な橋として、欄干もない橋がカンナレージョ(Canalegio)区にあります。ヴェネツィア本島で唯一と思われる欄干のない橋の例です(アルセナーレの中は海軍の敷地ですので、一般人は入れませんからそこは確認されていません)。[知られた事ですが、トルチェッロ島にも通称《悪魔の橋》という欄干のない橋が残されています。橋の様子はshinkaiさんのブログヴェネツィア、トルチェッロ島をご上覧あれ]

リアルト橋からフォンダコ・デイ・テデスキ大通り(Salizada del Fontego dei Tedeschi)を鉄道駅へ向かって、どこまでも(ヌオーヴァ大通りを通過)道なりに真っ直ぐ行きます。四つ目の運河(Rio de S.Felice)を渡ったところで、運河沿いの道(教会運河通り(Fdm.de la Chiesa))を右へ曲がって直進します。ミゼリコルディア運河(Canale de la Misericordia)の手前で道は左折しますが、その右手に欄干のない釘橋(Ponte Chiodo)があります(三つの一番上の地図では最下部中央で文字がごちゃごちゃして分かり難いです)。
キオード橋(左図最下部中央部)近辺地図
駅に向かうヌオーヴァ大通り中心の地図
     リアルト橋近辺地図この橋は映画にも何度か取り上げられています。デヴィッド・リーン監督の『旅情』(1955)ではキャサリン・ヘップバーンとロッサーノ・ブラッツィの恋がようやく実り、2人は夜を過ごしに橋を渡ってある館の中へ入っていきます。夕方で薄暗く分かり難いのですが、ヴェネツィアに行くようになり、再度映画を見てみますとそれはこのキオード橋でした。
[この映画『旅情』には原作となった戯曲があるとかで、それは『ウェスト・サイド物語』の原作者アーサー・ローレンツ(Arthur Laurents―本年5月没)作『カッコーの季節(The Time of the Cuckoo)』というお芝居で、ハロルド・クラーマン演出でブロードウェイでヒットしたものだそうです。]
キオード(釘)橋キオード橋また独映画『逢いたくてヴェニス』(ヴィヴィアン・ネーフェ監督)では、女主人公のエーファは亭主の浮気相手の女の夫(弁護士)を拳銃で脅し、不倫の2人がいる筈のヴェネーディヒ(ヴェネツィア)にやって来ます。弁護士は水恐怖症のために、この欄干のない橋は這ってでしか渡ることが出来ません。

かつてヴェネツィアには欄干のない橋が数多く見られ、例えば拳骨橋やサンタ・フォスカ橋なども欄干はなく、殴り合いの乱闘の末、運河に多数の人が転落しています。運河に落下した人は戦列から離脱する決めになっていたそうです。
アントーニオ・ストーム画『拳骨戦』ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』左はアントーニオ・ストーム画『拳骨戦』、右はガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』

ヴェネツィアをハプスブルク・オーストリア帝国が支配下に置いていた19世紀、オーストリア政府は欄干を積極的に取り付けさせたそうで、鉄製の欄干にはオーストリア風のデザインを取り込んだ欄干が数多く見られると言います。

オーストリア軍はヴェネツィアでの移動の便のために、本土とヴェネツィア島との間のリベルタ橋(1846年完成)を始め、大運河にアッカデーミア橋とスカルツィ橋を架橋しました。その鉄の橋は、大運河にヴァポレットが就航することになった時、橋桁が低すぎて運航不能のために取り壊されて、新しいアーチ形の橋が架けられました(アッカデーミア橋については2010.04.17日のアッカデーミア橋に書きました)。
[リベルタ橋に沿って架橋された車用の橋は、1933年ウンベルト・ファントゥッチの設計で架橋されました。]

E.&W.Eleodori『大運河』(1993)によれば、
「スカルツィ橋は1858年、オーストリアによって架けられた鉄の橋が大運河の通行に適さなくなり、建築家エウジェーニオ・ミオッツィによって代わりの橋が1934年架橋された」とあります。
故スカルツィ橋Alvise Zorzi著『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore、1995.09)から写真を借用しました。キャプションは次のようです。「スカルツィ教会とサンタ・ルチーア鉄道駅前の、1858年オーストリア占領時代、Neville とかいう人に作られた鉄の橋(ガブリエーレ・ダンヌンツィオは《大運河を侮辱するオーストリアの橋》と言っている。1934年まで機能した)」。写真からかつての鉄道駅とその前の広場の様子が分かります。
スカルツィ橋前の賑わい「レガッタの日の大運河の最終地点の模様。一番奥に Neville とかいう人の設計の、オーストリア人が手掛けた銑鉄製の悪名高い橋は、丸でニワトリの鶏小屋である。」 かつての旧サンタ・ルチーア教会(鉄道駅)とスカルツィ教会近辺の様子。
新しいスカルツィ橋「Nevilleとかいう人の、今や死刑を宣告された橋の傍らに、地元の技師エウジェーニオ・ミオッツィの最新の橋がある。」
ヴィゼンティーニのヴィゼンティーニ版画の『サンタ・クローチェ教会(現パパドーポリ公園)からスカルツィ教会への景観図』より
「11月2日の故人の日、ラグーナから立ち上ってくる靄、そしてヌオーヴェ海岸通り(Fdm.Nove)と死者の島サン・ミケーレ島を結ぶ船の長ーい長い浮橋を包む霧の中は、既に冬景色である。菊の香りが辺りに強く漂い、お菓子屋は故人の日に食べる甘い空豆形のお菓子やアーモンドを並べる。程なくやって来る11月11日のサン・マルティーノ(聖マルテイヌス)の祝日のためのパンペパート菓子やマーマレードも店頭に現れる。」
サン・ミケーレ島への船の浮橋[モノクロ写真とそのキャプションは全て、Alvise Zorzi『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore、1995.09)から借用したものです。かつてサン・ミケーレ墓地にお詣りのために、こういう浮橋が架けられたことを初めて知りました。]

You Tube にLa Venezia che fu`というサイトがあります。かつてのヴェネツィアをモノクロ写真で見ることが出来ます。
  1. 2011/08/20(土) 00:02:03|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの橋(1)――リアルト橋

ヴェネツィアの事ばかりに感(かま)けていますと、時に衝動的に日本の事について読んでみたくなります。特に日本的なものと思って、日本浪漫派の作家、保田與重郎の名作『日本の橋』を読んでみました。

彼については来日イタリア人文芸評論家ロマーノ・ヴルピッタ氏が、中公叢書『不敗の条件――保田與重郎と世界の思潮』(中央公論、1995年2月10日)を直接日本語で書き、刊行しています(ヴェネツィアで1972年死んだエズラ・パウンドと保田を並べて論じた章もあります。彼は京都鳴滝の身余堂に保田を訪ねて行ったようです。かつて新学社の雑誌『イロニア』に書かれた保田與重郎論は興味深いものでした)。
ロマノ・ヴルピッタ著『不敗の条件』『イロニア』『日本の橋』を読み進める内に、「……岩橋が羅馬の石造橋となり、蔦橋が近世の鐵の吊橋となるまで、架橋は羅馬人の唯一の歴史的獨占事業とさへ思はれる。……」、そしてまた「……歎きの橋と歌はれた、ヴェニスの町の幽囚者と死刑者を渡すための橋のやうに深い代々の詩人の驚異の情緒を織りこんだ橋は求める方が無理である……」(『保田與重郎全集』第四巻(講談社、昭和六十一年二月十五日))等の文章に遭遇すると、結局は『伊賀越道中雙六』の《落ちつく先は九州相良》ならぬ、イタリア・ヴェネツィアとなってしまいます。

ヴェネツィアの橋で、誰でもイの一番に挙げる橋は言わずと知れたリアルト橋でしょう、美しさの点でも古さ[総督宮殿前のパーリア橋は大運河以外の架橋で一番古く1360年の物だそうです]の点でも。またイタリアの橋の中では知名度においても、フィレンツェのポンテ・ヴェッキオと双璧をなすでしょう。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はリアルト橋について次のように記述しています。
カナレット『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ潟岸』[カナレット画『サン・マルコ湾のモーロ(サン・マルコ桟橋)とスキアヴォーニ湾岸』部分、のパーリア橋。その奥に溜め息の橋(保田與重郎は《歎きの橋》と書いています)が少し見えています。カナレットの時代(1700年代)、溜め息の橋はまだ世界には知られておらず、バイロンが詩に歌ってから(1800年代)その知名度が爆発的に増したようです。]

「最初、一部が船で支えられた簡単な橋であった。現在の鉄河岸(Riva del Ferro)には元々ヴェネツィア造幣所が置かれていたため、《貨幣橋》と呼ばれていた。それは1170年に作られたのであるが、伝説によれば、総督ミキエールが2本の高い円柱をオリエントから運ばせ、それを垂直に立て起こしてサン・マルコに立柱したのが、この橋の建造家バラッティエーリであったという。

マリーノ・モロジーニ総督時代、杭柱を基礎にした橋の建設が指令され、1265年に出来た。1310年バイアモンテ・ティエーポロとその仲間の陰謀が発覚し、ティエーポロ一味は逃亡したが、それを総督の兵士が追い、逃亡者によって破壊されてしまった。

続く橋はやはり木造で、フェッラーラ侯爵の結婚式の行列をもっとよく見ようと詰め掛けた群衆の重みで、1444年崩れ落ちてしまった。カルパッチョはその時代の橋を描いている。両岸に固定され、船の通行が出来るように中央部は跳ね橋になっていた。

最終的に石で架橋されたのは、第6番目の橋であった。1500年代中多くの建築家がプロジェクト案を提出した――フラ・ジョコンドからミケランジェロ、サンソヴィーノ、パッラーディオ、ヴィニョーラまで――その結果建設は、1588年アントーニオ・ダ・ポンテに委ねられた[彼に協力したのは甥 Antonio Contin だったとか]。

完成には3年[1588~91]掛かった。先端の基礎部分の強化に1万2千本の杭が打ち込まれ、25万ドゥカートの費用が掛かった。1591年に新設の、決定版の橋の落成式が行われた。両側の4ヶ所に記念碑が残されている。
カルパッチョのリアルト橋カナレットのリアルト橋の西側カナレットのリアルト橋ミケーレ・マリエスキ画『リアルト橋の眺め』
ルーカ・カルレヴァリス画『リアルト橋』ヴィゼンティーニのリアルト橋ヴィゼンティーニ『東側のリアルト橋』[上左はカルパッチョのリアルト橋(部分)、上中左はカナレットの『大運河とリアルト橋を西から見る』、上中右はカナレットの『大運河とリアルト橋を南から見る』、上右はミケーレ・マリエスキの『リアルト橋の眺め』、下左はルーカ・カルレヴァリスの『リアルト橋』、下中はアントーニオ・ヴィゼンティーニの『西側のリアルト橋』、下右はそのヴィゼンティーニの『東側のリアルト橋』(下、中右の版画は、上、中左右のカナレットの絵をヴィゼンティーニがそれぞれ板刻した物)]

橋は長さ28.7mの単一アーチ、高さは7.5mで、12のシンメトリックなアーチ形がそれぞれ両側に配置された上に、冠を被った形である。橋の中央に向いて店が開かれており、元々は銀行や金融事務所が置かれていた。そして現在は活気ある商店が並び、観光客で溢れかえっている。

リアルト橋の下の大運河右岸はワイン河岸(R.del Vin)と呼ばれるが、ここにはかつてヴェネツィアで消費されるあらゆる種類のワイン、アルコール類の倉庫が置かれていた。カルパッチョの絵の中で、飲み屋の主人が大運河に係留した船の前で、酒樽を洗っている姿を見ることが出来る。左岸は鉄河岸(R.del Ferro)と炭河岸(R.del Carbon)である。」

[完成したのは総督パスクァーレ・チコーニャ(1585~95)時代で、当時この建設案は技術的観点から見て、無謀ともいえる大胆なものと考えられ、パッラーディオの弟子だったヴィンチェンツォ・スカモッツィ等は崩れ落ちるに決まっている、と陰口を叩いたそうです。今やヴェネツィア建築のシンボルとなっています。]

一般に河川の右岸左岸は、川上から海に向かって左が左岸と呼ばれる筈です。例えばパリのセーヌ川左岸はソルボンヌのあるカルティエ・ラタン側であることは知られています。ヴェネツィアでは? ここの文章ではサン・マルコ湾に向かって右を右岸と言っています。私が屡々参照させて頂いている Daniele Resini の『Venice. The Grand Canal』は、鉄道駅に向かって右を右岸と言っています。決まりはないのでしょうか。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』[ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] 今年度のヴェネツィア展でこの絵が展示されていましたので、掲載してみました(2011.11.26日)。
  1. 2011/08/13(土) 00:03:56|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの建物: グリマーニ・マルチェッロ館からベルナルド館へ

カッペッロ・レイヤード館の右隣はグリマーニ・マルチェッロ館です。この館について E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように書いています。
ジュスティニアーン・クェリーニ館他「ジョヴァンニ・ブオーラ家の、16世紀初頭の美しい建物である。ファサードは完全に大理石で覆われ、左右のバランスが完璧で、はっきりとロンバルドの影響が見て取れる。コンポジット式の扶壁柱で三つの部分に分けられ、2階、3階の中央部分には広々とした三連窓があり、両脇にもアーチ形の窓がある。その窓の間に色付きのパネルと円形プレートが置かれている。1階窓はニッチ風である。」

その右隣はジュスティニアーン・クェリーニ・デュ・ボワ館で、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。

「1600~1700年代風の大きな建物で、建物はヴェネツィア建築ではよくあるように、三幅対祭壇画のような配分案を採用している。中央は多連窓であり、両脇は楣(まぐさ)式構造を持つコーニスを含んだアーチ形の単一窓である。」

更にその右隣はベルナルド館です。R.ルッソの『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を述べています。

「二つの入口の大玄関は、このゴシック式邸館が同じ家系2家族の住まいであったことを示している。この建物は15世紀半ばの物であり、多くのゴシック様式の二家式建築は、正しくこの期間に遡るのである[2010.08.21日のジュスティニアーン館他に書きましたジュスティニアーン館もこの例です]。

ベルナルド家の邸宅は、色々の機会に共和国の招きでヴェネツィアにやって来た名士達を迎え入れた。それはベルナルド家が館の別の場所に引き籠もってしまった時もそうであった。最も著名な賓客の中で、フランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・ヴィスコンティ夫妻が1442年にここに滞在したが、それは館がやっと完成を見た頃であったようである。」

また『大運河』(1993)の表現は次のようになっています。

「大運河のこの区間の、ゴシック様式の最も興味深く、壮麗な建築物の一つであり、非常に保存のいい物の一つでもある。大運河に玄関が二つあり、2階、3階の中央部には美麗な六連窓がある。1階は先端に花形装飾を持つ尖塔風窓と張り出した露台。

2階は四葉模様の窓と歯飾りを施した四角い枠取り、それは下の階の物と若干ずらして配置されている。透かし細工が施された単一窓(monofora)もまた非常に美しい。一方、建物背後の中庭には有名な外階段がある。

ベルナルド家によって1442年に建てられたが、その賓客の中には、ミラーノ公爵フランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・ヴィスコンティ夫妻があった。」 
  1. 2011/08/06(土) 00:01:29|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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