イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館(P.Coccina Tiepolo Papadopli)(1)

ドナ館右脇のティエーポロ通り(C.Tiepolo)の右は、コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館です。R.ルッソの『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のように述べています。
コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館「19世紀の60年代、イタリアの独立と統一を願う、反オーストリアの熱き思いの年、館は当時ヴェネツィアを支配していたオーストリア当局の12件にも及ぶ家宅捜査の本部となっていた。建物には《革命》のためのアンガージュマン活動で著名なマッダレーナ・モンタルバーン夫人が住んでいた。

若い人達の不法な国外退去を手助けして、1860年には初めて逮捕されていた。1863年には過激派の資金集めに政治色の濃い物品を売り捌き、またガリバルディ将軍に捧げた正義の剣を注文したために、背信行為だとして告訴された。

その上、サヴォイア皇女マリーア・ピーアとポルトガル公との結婚に際し、そのアルバムを贈る活動を促進しようとして逮捕され、幸いにも1年間だけの収監で釈放された。1866年ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がヴェネツィア入りをした時、個人的に感謝の意を表明したくて、彼女に手を差し伸べ、宝石を贈った。 

この館は1560年頃、ジャンジャーコモ・デ・グリージによりベルガモ出身の商人コッチーナ家のために建てられた。この一家は貴重な芸術品を収集したが、中でも今日ではドレースデンのノイエ・マイスター絵画館が所蔵するパーオロ・ヴェロネーゼの4枚の絵画作品が際立っていた。

コッチーナ家は血筋が絶えて、1748年邸宅はティエーポロ家に、更に1837年にはマッダレーナ・モンタルバーンの夫ヴァレンティーノ・コメッロに渡った。その後幾人かの手を経て、1864年にはアルドブランディーニ・パパドーポリ伯爵の所有となった。一家の最後の者は内部を新しく装飾し直した他に、庭園と ala(翼館)を付け加えた。

1922年から建物はアッリヴァベーネ伯爵家の所有である。」

E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は、特にティエーポロ家の歴史を伝えています。

「ジャン・ジャーコモ・デイ・グリージ(グリエルモ・デイ・グリージの一番有名な息子)による、ルネサンス様式の豪華でエレガントな建物で、1560年までには完成を見ている。高貴でバランスのいいファサードは、古典様式の扶壁柱により四角形に枠取りされ、3層の中央にセルリアーナ式の開口部という特徴を見せている。

1階はメトープとトリグリュフォスという装飾模様の帯状装飾を持つドーリア様式であり、上の階はイオニア様式とコリント様式が続いていく。両脇は円形と三角形のペディメントの窓でしっかり引き締められ、軒蛇腹の下にはアティック式の卵形明り取り窓が開いている。

内部装飾のために、当時の芸術家が多数集められた。中でもヴェロネーゼは聖性を主題にした絵画4作品を描いた。現在はドレースデンにある。

コッチーナ家の後、館には1800年代初頭までティエーポロ家が住まった。この一家は歴史的な貨幣や書物、遺物等の貴重なコレクションを有していた。1864年にはパパドーポリ伯爵が購入し、内部の改装に徹底的に手を加え、前面に庭を設け、館の脇翼を作った。

ティエーポロ家は大変古い家柄で、その分家は現在も存続している。 ……」
  ――この続きのティエーポロ家の歴史は次回です。
  1. 2011/09/24(土) 00:03:43|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――フィリップ・ソレルス

フィリップ・ソレルス(1936.11.28ボルドー~ )については、2009.08.08日の文学に表れたヴェネツィア―プルースト中、その著書『ヴニーズ――愛の辞典』の中で「プルーストの人生と『失われた時を求めて』の全ての道はヴニーズへと至る。……ヴニーズとは見出された時である。……」と書いていると触れました。

日本では『公園』(岩崎力訳、新潮社、1966年3月30日)以来、『神秘のモーツァルト』(堀江敏幸訳、集英社、2006月12月)、『女たち』(鈴木創士訳、河出文庫、2007年12月)等翻訳出版されています。その中で『ゆるぎなき心』(岩崎力訳、集英社、1994年5月25日)は、彼の関心の一つであるのか、この小説中、Ⅳ章は場面がヴェネツィアに設定されています。
フィリップ・ソレルス『ゆるぎなき心』Ⅲ章の終わりで次のように書かれています。
「……《いや、昨日電話をかけてきた。つまり、ちょうど一年後に。たいへん結構なことさ。しかしぼくたちはヴェネツィアに出かけるから…》《あたしも出かけるの?》《今度の金曜日に。もちろん、君もそうしたいならということだけれど》《シグリッドもいっしょ?》《いけない?》《チェチーリアは知ってるの?》《ぼくが電話する。それとも君がする?》《あたしがするわ》《創立いらいはじめて結社のメンバーがヴェネツィアに集まるわけだ》……」

そしてⅣ章はヴェネツィアの場面です。哲学的なお話であったり、ヴィヴィッドな考察であったり、ポルノチックな描写であったりして、読者を先へ引っ張っていきます。

「……二本目のキアンティも空けてしまう…  そしてラ・フェニーチェのほうへ歩いて行く…  二人はそれぞれぼくの腕につかまりながら、興奮して無礼なことを言いつづける…  いまは真暗な小路…  白い橋…  リヴは『フェードル』の台詞をすこし口ずさむ…  シグリッドは『コシ…』を小声で歌う…  警官の最初の検問線に着く…  ナイフは自宅に置いてきた… 

あちこちから招待客が集まってくる…  イヴニングドレス姿のご婦人がたがハンドバッグを開けてみせ、スモーキングの殿方は、胴と脚をそっと探られる…  上海から持ち帰ったぼくの毛沢東風の上着を見て、検札係はけげんそうな顔だ…  新左翼の先史時代の名残りだが、迷信からとっておいたもの…  ぼくは封をしたマルコの手紙を差し出す…  《モルト・ベーネ、アヴァンティ》[結構です、どうぞ]…  」

「……リヴは眠り込む…  ぼくはラ・サルーテのほうへ散歩に行く…  天使たちはあの上のほう、暗闇のなかに立っている…  もう千回も歩いたところだが、いつもはじめてのようだ。ルイーズ、インゲ、ソニア…  水の夜、空気の夜、ほとんど明かりもなくその二つの夜が並行している、さわやかな石の地平線、規則正しいかすかな水音… 

ザッテレ・アイ・サローニ…  ポンテ・デルミルタ…  向こう側はサン・ジョルジョとレデントーレ教会…  そして巨大なエンポリオ・デイ・サリ[塩取引所]…  いまは《ブチントーロ》海運会社の本部であり、ほっそりした、横から見た形の美しい、つやのある船でいっぱいの倉庫になっている…  その先がカ・バラ…  そしてザッテレ・アッロ・スピーリト・サント…  そしてアリ・インクラービリ…  そして最後にアイ・ジェズアーティ… 
……」
  ――『ゆるぎなき心』(岩崎力訳、集英社、1994年5月25日)より
  1. 2011/09/17(土) 00:03:47|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: ドナ館(P.Dona`)(2) 、 あるいはドナート館

2011.09.03日の《ドナ・デッラ・マドンネッタ館とドナ館》(1)の続き。
「その後カミッロ・ボルゲーゼはパウルス五世(1605~21)の名前で教皇庁の玉座に登り詰め、ラグーナ政府の世俗の絶対的な独立をへし折る準備を始めた。当然ヴェネツィアは丁重に構え、教会の掟から逃れるべく動いた。

一つのヴェネツィアの法律が教皇を特に苛つかせた。それは、宗教上の不動産の譲渡はどのような形にせよ禁ずるというものだった。ヴェネツィアでは教会の所有権のいかなる拡大も阻止されることになった。それだけでなく、大評議会の認可なくして教会の建設もままならなかった。

到頭、衝突の機会が訪れた。2人のヴェネツィアの僧侶が犯罪を犯していた――その一人マルカントーニオ・ブランドリーンは、数人の人間を殺めていたのである――セレニッシマは彼の起訴の準備を始めた。教皇庁は宗教者を裁く権利は教皇座のものであると主張して介入してきた。ヴェネツィアが譲れば、ヴェネツィアはその独立と主権を放棄したことになるだろう。

一方教皇が目的達成のために、ヴェネツィアを出口なしの迷路に追いやる筌蹄を画策しているのは明白だった。それ故ヴェネツィアは、2人の犯罪人の引き渡しと教会との関係に有害と思われる法律の廃止を求めた最後通牒に応じるべく、教皇庁宮廷の権謀術数を熟知した、最有能な外交官を派遣することを決めた。それがレオナルド・ドナだった。
レオナルド・ドナ[レオナルド・ドナの肖像(イタリア・ウィキペディアから借用)]  しかしローマへの旅支度の最中、総督マリーノ・グリマーニが亡くなり、直後の選挙でレオナルド・ドナは総督に選出され、共和国と教皇座との激しい確執という重い遺産を背負うことになった。こうして突如、特異の性格を備えた2人の旧敵同士が、新しい高い権力の座で睨み合うことになった。

ローマから放たれた破門は、海上の一滴の油のようにヴェネツィアの頭上を過ぎったが、それは突然イエズス会士の頭上に跳ね返り、教皇を驚かせた。

当初パウルス五世の全ての要求は、以前のように断固として撥ね付けられた。そして今や総督は破門と聖務停止を拒否していた。それだけではなく、その通達の掲示を禁じ、宗教者には通達の事は忘れて、通常の宗教活動に精励するように命じた。蠟燭の火は絶やしてはならなかったし、教会の門は閉め切ってはならなかった。いつものように結婚式、誕生会、葬式、祝い事は続けられた。

それは厳命だった――政庁の頑とした態度を知って――誰も無視出来なかった。しかしイエズス会士は命令を拒否したので直ぐ様ヴェネツィアの領域から追放された。そのニュースは大反響を巻き起こし、更に拡大していく気配だった。

このニュースに各国が一息ついた時、スペインは教皇に軍隊の提供を申し出、イギリスはヴェネツィアを強く支持し、一つの教会そのもの(una Chiesa propria)になるように勧めた。一方トルコのスルタンもまたローマに対立するヴェネツィアと闘うことを提唱した。

その間ヴェネツィアは動ぜず、兵士を徴用していた。その時フランスは心配して、この騒動の鎮静化のために2人の敵対者と接触すべく、最優秀の交渉団を派遣した。微に入り細を穿つ外交交渉の結果、両者が《メンツを保つ》のに成功した。

フランス王は個人的な好意でセレニッシマに例の2人の犯罪人を自分に引き渡すように求めた。ヴェネツィアはその後教皇座に対して敬意を表明したのである。

こうしてヴェネツィアは教皇のいかなる命令にも譲ることなく、2人の困った厄介者から巧みに手を切り、援助や助言を申し出てくれた国々の気分を害することなく、フランス人の気に入るようにしたのである。

教皇は2人の宗教者への要求については、外観上は勝利したのだという体裁を認めるしかなかった。本当の所はあらゆる面で敗北したのだが耐えるしかなかったのである。

その上パウルス5世は憤怒を正当化した筈の方策、無意味な破門と聖務停止措置を嫌々ながら取り下げねばならなかった。

レオナルド・ドナは取消措置を見て、大評議会の前で冷静に次のように宣言した。《いずれにしてもヴェネツィアは、教皇の聖務停止など問題にしなかった。それ故同じような事で、停止措置のためにヴェネツィアが一喜一憂することなど何もない》と。元老院は了承した。」
 ――E.&W.エレオドーリ『大運河』(1993)より
  1. 2011/09/10(土) 00:03:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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『世界遺産 ヴェネツィア展』――ヴィットーレ・カルパッチョ(3)

下はイタリアで購入したカルパッチョの画集。イタリアの美術評論家の解説の文章は、寓喩、諷喩、換喩、暗喩等と多く、文学者の書くものに比し、非常に難しいと感じました。
カルパッチョ作品集『カルパッチョ』(続き)「この絵が、バルコニーでの客待ちの2人の娼婦を描いたものであるという確信は、ちょっとやそっとで無くなるものではなく、この10年ほどの間、彼女達が貴婦人であると言われているにも拘わらず、新しい信者が生まれている。

詳細に見てみよう。『Dame(貴婦人達)』は多分、1800年代初頭『潟での狩猟』の場面を示す、上の部分が切り取られた。この断片は――1944年市場に登場し、現在カリフォルニア州ロサンジェルスのマリブにあるジョン・ポール・ゲティ美術館に収蔵されている――最近例外的にヴェネツィアのコッレール美術館に展示されたが、『Dame』に再び結び付けられた。

イヴェントというものは注意を促すものである。なぜならこの具体的な結び付け――グラッシ館で展示は続くのだが、この二つの切り離された断片は、ヴェネツィア・ルネサンス展として9月に展観される――で、チャンスが訪れたのである。これを最後に、唯一のオリジナルの板絵の正しい出自を確定する(多分箪笥の扉か窓の鎧戸だった)だけでなく、コッレールの絵の新しい、イコン的解釈の正当性を証明するものとなったからである。

その解釈は、あの時代アウグスト・ジェンティーリとフラーヴィア・ポリニャーノによって推敲され、まとめられたものであるが、その幸運な解釈が遊郭(遊女)に取って代わられるように運命付けられていた。

ソロモンの雅歌や生理学者[or自然科学者Fisiologo―大文字は何を意味する?]、詩人オヴィディウス、博物学者プリニウス、更には衣装の入念な調査に至るまでの、入り組んだ解釈が――3階の少女の場合は正に結婚に関わってくるが――事実その絵は、夫婦の貞節と呼ばれるシンボルとしての交響曲なのだと直感的に理解出来る。

ハンカチ、真珠の首飾り、上下2面の絵に分断された百合の花は、心底から純潔を呼び起こす。銀梅花(ぎんばいか)、オレンジ、雉鳩、鸚鵡、雌の孔雀は女性の忠節という特徴に一致する。
[mirto(伊)=myrte(仏)=myrtle(英)は南ヨーロッパ産の白い花で、銀梅花とかミルト/ミルテとか呼ばれ、ヨーロッパでは美神ウェヌスの神木とされ、愛の象徴として結婚式の花輪に用いられるそうです。]

更に警戒という要素(グレーハウンド犬)と仲間意識(2階の子猫)がある。だから貴婦人は全く娼婦ではあり得ず、ヴェネツィアの上流階級に属する慎ましやかな女性なのである。

類似点あるいはまた年齢の違いを見るに、多分母娘であり、どんな家系の出であるか分からないが、花瓶にプレーリ家という紋章がある(長い間、トレッラ家と言われてきたがそうではない)。しかしこの事は我々の助けには丸でならない。何故ならプレーリ家は、12世紀に既に消滅しているからである。

この女性達の考え深そうな、物思いにふけった態度について何が言えるか? 確かに《盛装した愚かな女》であろうが、誰かを心配そうに待つ、瞑想にふけった貴婦人でもある。更に背後にいる少年とは何者? 解答は多分『潟での狩猟』の切り取られた部分に隠されている。

《Dame》は不安そうな面持ちで男達を待っている。彼等はラグーナで弓矢を放って鳥を仕留めるのに忙しいのである。黒い鵜が、餌を取り戻すのに力を貸す。少年が、何かが逃げたと女達に告げに来た。

多分鍵となるメッセージは『潟での狩猟』に隠されている。カルパッチョはそこにトロンプ・ルイユの手法で、手文庫に収められた一束の手紙を描いた。しかし書かれたものは全て削り取られた。1906年まで、貴婦人達の足下に読める画家のサインがあったのだが。」
[trompe-l'oeil=遠近法を使い、精密な描写で実物そっくりに見せかけたもの。だまし絵のこと]
  ――1999年の夏の新聞記事、Marco Carminati 記者の記事から訳出。このグラッシ館での展示は、翌年1月まで延長されました。

[途中、大文字で始まる Fisiologo が何を意味するかが分かりません(誰か著名な自然科学者を指すのでしょう?)ので、その箇所の日本語の意味が取れません。誤訳と思いますので、飛ばして下さい。]
  1. 2011/09/08(木) 00:02:10|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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『世界遺産 ヴェネツィア展』――ヴィットーレ・カルパッチョ(2)

2011.07.26日に『世界遺産 ヴェネツィア展』(1)について書いた後、1999年の夏、ヴェネツィアで『二人の貴婦人』と里帰りした『潟での狩猟』がサン・サムエーレ教会広場前のグラッシ館(P.Grassi)で、初めて並べて展示された時の新聞のコピーが出てきました。『ヴェネツィア展』に関連しますので訳出してみました。――マルコ・カルミナーティ記者の記事です。
カルパッチョ『潟での狩猟』と『二人のヴェネツィア女』の新聞カルパッチョ『二人のヴェネツィア女』と『潟での狩猟』の新聞[元二人の《maliarde(手弱女)》、今は《perbene(貴婦人)》] 「1700~1800年代に渡って生きたヴェネツィア貴族のテオドーロ・コッレールは、冷酷なまでの収集家と言われた人であった。セレニッシマ(静謐この上なき共和国)の滅亡後、ヴェネツィアの市場に雪崩を打って登場した芸術作品、文献や色々な物品を大資力で手に入れたいという思いに取り憑かれて、この貴族は自制すること不可能な精神状態にあった。

祖国の歴史にとって素晴らしく、貴重で、重要と思われた芸術品を見ると、電光石火のごとく、財布の紐を緩めたのである。一家の紋章のある物品に遭遇すれば勿論のことである。その時は欣喜雀躍、獲物に食らい付くので、商人や贋造者の利益に貢献する羽目になる。彼等は彼の紋章学的知識のないことを熟知しており、どこであろうと、コッレールの紋章を売り捌くのに躊躇しないし、この見栄っ張りの購入者を満足させれば満足である。

テオドーロ・コッレールが破廉恥な商人の恥知らずの悪ふざけと不埒な奸策の犠牲者であったことは確かである(エマヌエーレ・アントーニオ・チコーニャが『日記』の中でその面白い話を書いている)。しかし実際は、彼はそんな未熟な人物ではなかった。

1830年亡くなった時、収集した芸術品をヴェネツィア市に遺贈することを決め(その時は大運河に面した館に収蔵されており、現在はサン・マルコ広場の翼(ala)館に収められている)、人々は直ぐ様理解したのであるが、それは多くの議論の余地のある作品群であっても、絶対的に重要な傑作として光り輝く指輪のように並べ立てることが出来たのである。

それらはジョヴァンニ・ベッリーニであり、アントネッロ・ダ・メッシーナであり、コズメ・トゥーラであり、カルパッチョであった。今日でも、それらは彼の名を冠した美術館(コッレール美術館)の誇りとなっている。

そしてそのコッレールでさえ、作品を購入する時、奸計とクリーンでない取引から免れた訳ではないに違いないのである。そうでなかったなら、何故彼の死後直ぐに遺産管理人達が慌てて作品の取得に関わる一件書類を一掃することを決め、コレクションの形成に纏わる貴重な(そして危険な)情報を闇に葬ったのか、の説明が付かないのである。

アントーニオ・フロリアーンとジョヴァンニ・カルロ・ベヴィラックァは、ヴェネツィアの裁判所の専門官だが、1830年春、コッレールの遺産の千にも及ぶ物品の目録を作り、評価するために16回にも渡る実地調査が必要だった。その目録の中に初めて、著名となることが運命付けられた一つの作品が現れた。

主題はよく分からなかったが、専門官達は『二匹の犬と戯れる二人の女』と命名し、12リラという馬鹿馬鹿しい評価をした。しかし今我々が話題にしているのは、ヴェネツィア・ルネサンス期の最も有名な作品の一つである、ヴィットーレ・カルパッチョの『二人の貴婦人』であることは分かっている。

絵画の名声を上げるには、特に特異唯一の主題が必要である。この孤独でエレガントな、人目にはっきりと、退屈そうに見える2人の女は誰か? 家のバルコニーに腰を下ろして、そこで何をしているのか? 1800年代のヴェネツィア案内(ガイド)には、最初策略があった。それは《maliarde(魅力ある女、手弱女あるいは魔法使い)》だったと言われている。

導火線に火を点けるようなものだった。好奇心に溢れた目はよりじっと見ようと《高級娼婦》の性格を取り込んだようである。その時からもはや誰一人として人々の動きを押し止めることが出来なくなった。一つには研究者の一群、もう一方で優れた文学者達(その中にラスキンとダンヌンツィオがいる)は、肉体を売るという領域に属する女達を描きたいという目的で、蠱惑的な絵に飛び込んだのである。

イコン的な洗練された絵は、動物や物、色々の職業の女の衣装を語るのだが、当然女神ウェヌス、魔女キルケとの比較もある。一方ある人がロンブローゾ精神医学的分析を試み、2人の貴婦人の顔には倦怠と何か鈍い、ぼやけた感覚が漂っているとした。」
 ――後半は次回『世界遺産 ヴェネツィア展』――カルパッチョ(3)です。
  1. 2011/09/06(火) 00:01:22|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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ヴェネツィアの建物: ドナ・デッラ・マドンネッタ館(P. Dona` della Madonnetta)とドナ館(P.Dona`)(1)

ベルナルド館の右はマドンネッタ運河(R.de la Madoneta)の出口で、その隣には Casa Sicher という19世紀の建物があります。更にその右隣に Ca' Dona` de la Madoneta があります。Lorenzetti の『ヴェネツィアと入江』(1926)は次のように述べています。
ドナ・デッラ・マドネータ館とドナ館「ドナ館は現在は Dolcetti とも呼称される。15世紀のドナテッロ派の《聖母マリアと子供(Vergine col Putto)》の浮彫がファサードに施されているため Madonnetta とも呼称されている。

12~13世紀ヴェーネト・ビザンティン様式の、残存する邸宅の興味深い例である(後に手が加えられた)。その痕跡は特にアーチ形や多くの窓の頭部に豊富に施された模様、装飾的盃等に現れている。」

トラゲット・デ・ラ・マドンネッタ通り(Cl. del Tragheto de la Madoneta)を挟んで右隣はドナ館(P.Dona`) 、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように書いています。

「16世紀末の建物で、3階には美しいヴェーネト・ビザンティン様式の五連窓が盃とイコンで飾られた大理石の枠取りで四角形に囲われている。

ドナ家はローマ出身の大変古い家柄で、現在も存続している。9世紀初頭、リアルトの島々の上に新しくヴェネツィアを建設し、セッラータ(Serrata――締め切り)[1297年貴族階級を補充しようと有力な市民等を貴族に迎え、大議会の議席を制度として整備するために貴族階級の範囲を決めた――永井三明著『ヴェネツィアの歴史』より]の時代《黄金の書(Libro d'Oro)》に含められた家系の一つであったが、《新しい家系》として挙げられている。

13世紀には、ドナ・ダッレ・トレッセ(貴族の紋章の上に帯が付いている)とドナ・ダッレ・ローゼという中心となる家系に分かれた。共和国のあらゆる分野に重要な人物を輩出し、3人の総督を生み出している。フランチェスコ(任期1545~53)、レオナルド(1606~12)とその息子ニコロ(1618)である。ニコロは選出されて34日後亡くなった。心痛の余りと言われている。

彼にはピエートロという甥がいた。異母兄弟の息子で一家の仕事に携わっており、大変強欲で吝嗇だった。伯父が総督になった時、彼にこの状況の取り仕切りが任された。しかし総督宮殿で行われたパーティでは、貴婦人達に渡すいつもの贈り物がなかった。更に多くの貴婦人達は、招待客にあらずという口実で出席が断られた。

大晩餐会である筈のそれは、魚中心の貧弱なディナーだった。総督はその役に全く値しない甥を直ぐにも任命したことで、恥じ入る余り死んでしまったのである。彼は伯父が埋葬される前に、伯父の総督用マントまで売り払ってしまった。

ドナ家で最重要な総督はレオナルドである。その上彼がヴェネツィアの最も偉大な総督の一人であったと間違いなく断言出来る。彼は有能な政治家であり、魅力的な大使であった。

彼が遂行した各種の任務の中で、教皇庁宮廷での非常に難しい任務があった。その地でセレニッシマの決定を変更することなしに、ヴェネツィアが悪名高い野盗マルコ・シャッラに提供した政治犯庇護(ヴェネツィアを隠れ家として提供した)ということのために告発と脅しを掛けられ、何とか切り抜けねばならないということがあった。

そのリアクションは火が点いて燃え上がり、その時の枢機卿カミッロ・ボルゲーゼはドナに言った。もし自分が教皇に選出されるようなことがあれば、ヴェネツィアの元老院を破門するだろう。それに対しドナは反論し、その時自分が総督職に就いていれば、その破門を無視するだろう、と。」
 E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より。後日談は次回2011.09.10日のドナ館(2)に続きます。
  1. 2011/09/03(土) 00:05:06|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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