イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

マルゲリータ・サルファッティ――ドゥーチェの恋人(2)

(続き)
「1915年ムッソリーニが第一次世界大戦の時、社会党の路線に反しイタリアの参戦を主張して、党と『アヴァンティ』紙の方向と決別した時、彼女は彼の新しい新聞に従った。『イタリア人民』は僅かな期間であったが、トリーノの『スタンパ』や『ヒエラルキー』のような新聞や雑誌と協力した。『ヒエラルキー』については引き続いて1922年その経営を引き継いだ。

イタリアの参戦を擁護するために、ムッソリーニの傍にいること、そうした政治的位置にいることの代償は大変高価なものに付いた。長男のロベルトは一家の参戦の雰囲気に巻き込まれ、志願兵として入隊し、僅か18歳で1918年1月28日バルド山の戦いで戦死した。

しかしマルゲリータ・サルファッティの名声は、ドゥーチェの女であり、『Dux』と題された、彼の順風満帆の伝記を1925年に書いたということにあるのではなく(その伝記は17刷の増刷があった上に18ヶ国で翻訳された)、特に美術批評活動や視覚芸術の分野での重要な文化的イヴェントの企画・遂行者だったことが偉大であったのである。

第一次大戦初期からヴェネツィア大通りの彼女の家は、インテリの友人達が押し掛けた、即ちマッシモ・ボンテンペッリやアーダ・ネーグリのような作家、彫刻家メダルド・ロッソやアルトゥーロ・マルティーニのような芸術家、マーリオ・シローニやアキッレ・フーニのような画家達で、彼女はフーニについて鋭い論文を書いた。

時にベニート・ムッソリーニもやって来ることがあった。未来派の友人でもあるマリネッティやウンベルト・ボッチョーニ、ルイージ・ルッソロもやって来た。特に戦後20年代は、マルゲリータ・サルファッティの活動は家の居心地のいいサロンから、画廊や公共機関に移った。

1923年3月26日、画廊経営者でユダヤ系のリーノ・ペーザロと《1900年代の7人の画家》と題した大美術展を企画した。アンセルモ・ブッチ、レオナルド・ドゥドレヴィッレ、アキッレ・フーニ、ジャンルイージ・マレルバ、ピエートロ・マルッシグ、チプリアーノ・オッポ、マーリオ・シローニの作品が展示された。それは大イヴェントであり、同じ画廊で翌年も作品が並べられた。

こうして《ノヴェチェント》派が誕生し、同じ年1924年のヴェネツィア・ビエンナーレで公式に認知された。彼女の意図では、これはファシスタ芸術であるかも知れなかったが、ムッソリーニがその点に関して少々懐疑的であるように思われた。しかし全ての歴史家の認識は、この芸術は中身的にはファシスタの宣伝に歩調を合わせるものではない、ということである。
ノヴェチェント[この本でノヴェチェントを知りました] それはマルゲリータの知的で自覚的意志のためであった。しかしながらこうした政治的色付けは離反を招いた。1926年の常設展覧会で彼女の活動は大成功を収め、最初の7人の芸術家の内、フーニ、マルッシグ、シローニだけが残ったが、デ・キーリコからカゾラーティ、グイーディからモランティやセヴェリーニ、更には未来派のバッラやデペーロ、プランポリーニ等が参加した。

そうした中、マルゲリータは建築の歴史に興味を抱いていた。彼女は1925年のパリ工芸博覧会でイタリアのパビリオンを設計した建築家アルマンド・ブルジーニを援助した。しかしそれは手作りの《l'accozzaglia stilistica(様式的寄せ集め)》と称された展覧会を確認し、ル・コルビュジエの《新しい精神(spirito nuovo)》を迎え入れてのことだった。

[スイス生まれの建築家ル・コルビュジエ(本名シャルル・エドアール・ジャンヌレ)が設計した、L'esprit nouveau(新精神)館と名付けられた2階建ての住宅がこのパリ工芸博で展示され、広々とした部屋には最少限の家具だけが置かれ、室内装飾として用いられたものには酒場のワイン・グラス、実験用フラスコ、貝殻、工業用備品、民芸風の敷物、壁掛け等であったそうです。]

2年後、モンツァでの第3回目の展覧会でイタリア建築に生じた決定的な方向転換を確認することが出来た。

1921年ムッソリーニはローマへ引っ越し、最初はラセッラ通りのアパート、次いで1928年にはヴィッラ・トルローニアに移った。その時マルゲリータ(彼女の夫は1924年死亡していた)は娘のフィアンメッタとローマへ、そのヴィッラから程遠からぬ所へ移り住んだ。
マーリオ・ソクラーテ『マルゲリータ・サルファッティと娘フィアンメッタの肖像』しかしドゥーチェは彼女に飽いてしまっていた。ファシズモの状況が変化しただけでなく、新しい登場人物が線上に現れていた。ムッソリーニは人々の訴えに益々神経質になり、直ぐ様要求に応え、特に弟のアルノルドの死後は穏健な慈善活動に励んだ。

1938年はユダヤ人迫害を始めた年である。マルゲリータは最初パリに避難し、後で息子のアメデーオもパリに到着し、彼はウルグアイにラッファエーレ・マッティオーリの手で送られた。マッティオーリは彼女の息子を迫害から守るべく手助けした商業銀行の頭取であった。

1942年イタリアに帰国した。そして『Acqua passata(過ぎ去った洪水)』を書いた。1961年10月30日ヴィッラ《Saldo》館で亡くなったが、既に忘れ去られた人であった。」
  ――ブルーノ・ ロザーダ『ヴェネツィア女達(Donne veneziane)―Amori e valori』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)より
  1. 2011/10/29(土) 00:01:07|
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マルゲリータ・サルファッティ――ドゥーチェ(統帥)の恋人(1)

マルコ・ベッロッキオ監督の映画『愛の勝利を――ムッソリーニを愛した女』が、5月連休のイタリア映画祭で上演され、その後シネマート新宿で一般公開されました。その後もシネマート六本木で名画上演されました。
『愛の勝利を―ムッソリーニを愛した女』ジョヴァンナ・メッゾジョルノとマルコ・ベッロッキオ監督『愛の勝利』のパンフレットから。右は主演のジョヴァンナ・メッゾジョルノとマルコ・ベッロッキオ監督
ベッロッキオ監督の作品は『ポケットの中の握り拳』(1965公開)を皮切りに一般公開や映画祭公開等を含めて、次のようです。『凱旋行進』(1984)、『肉体の悪魔』(1987)、『サバス』(1988)、『新肉体の悪魔(蝶の夢)』(1994)、『乳母』(2001)、『母の微笑』(2003)、『夜よ、こんにちは』(2004)、『愛の勝利を――ムッソリーニを愛した女』(2011)等があります。

私が気に入っている映画は1994年の『蝶の夢(Il Sogno della farfalla)』です。今回のイーダ・ダルセルの生涯を辿る『愛の勝利を』見ながら、だんだん腹が立ってきました。ファシズム時代はこういう無法がまかり通っていたのです。

かつてクラウディア・カルディナーレがムッソリーニの《女》の役をした時、何故彼女がこんな悪逆非道の男の《女》役を演ずるのか、と非難されたことがあったと記憶します。第二次大戦後は、ムッソリーニという名前を聞くのも穢らわしいというようなことがあったのでしょう。

やはりムッソリーニと恋愛関係にあったマルゲリータ・サルファッティ(Margherita Sarfatti)というヴェネツィア出身の女性の事を書いた本があります。そのBruno Rosada『Donne veneziane』(Corbo e Fiore Editori、2005.12刊)から、拾い訳をしてみます。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』「少女の姓はグラッシーニ(Grassini)というヴェネツィアの古いユダヤ人一家のものであるが、当時の習慣で夫の姓サルファッティという姓で呼ばれた。

マルゲリータ・サルファッティは特異な女であったが、大変な美人だった。今日思い出されるのは、特に20年間ベニート・ムッソリーニの愛人だったということである。この男は、典型的なイタリア男で、彼女と妻のラケーレ2人だけでは満足するようなタイプの男では決してなかった。

ドゥーチェと彼女の関係は噂の類では決してなく、疑いのない確かなもので、その関係の中で彼女は彼が受け取った物より、遥かに多くの物を彼に注いだのは確かであり、モラルの点でも、ましてや政治的な面でもそれは彼女に相応しいことでは決してなかった。なぜなら特に文化的な分野でのこの女性の才能と功績は、全く別物だったからである。

彼女は1880年4月8日ヴェネツィアで誕生した。イタリアの最も重要なユダヤ系一家と親戚関係で繋がっていた。例えば女流作家の故ナターリア・ギンズブルグは、ピエモンテの反ファシズム運動の代表となった従兄弟でトリーノのユダヤ系ジュゼッペ・レーヴィの娘であった。

ヴェネツィアで少女時代、マルゲリータは文化的に非常に高い環境で過ごした。そして大運河の豪華な邸宅でアントーニオ・フラデレットからポンペーオ・モメンティ、ピエートロ・オルシからヴィットーリオ・ピーカ、アルベルト・マルティーニまでの重要な人物達と交際し、彼女の館からザッテレ海岸通りまでのヴェネツィアのインテリ達とイギリスの著名な研究者(美術評論家)ラスキンによって提示された美学論を共有しあった。
ジョン・ラスキンの碑[ザッテレのカルチーナ小広場(C.llo.de la Calcina)の781番地に英国の美術評論家ジョン・ラスキンが住みました。建物右の壁面に次の碑文が掲げてあります。《ジョン・ラスキンが1877年この家に住んだ。彼は我がサン・マルコの石における、イタリアのあらゆるモニュメントにおける、その芸術の祭司であり、創造者の心と民衆の心とでもってあらゆる大理石、あらゆるブロンズ、あらゆる織布を見出した。あらゆる事が彼に声高に言明された、宗教心の美しさ、人間の徳性が何というものを作り出すのか、と。そして人々により崇敬された。1900年1月26日、感謝を込めて、ヴェネツィア市》
更に隣の782番地には、ウィーン皇帝のポエータ・チェザーレオ(ウィーン宮廷詩人)になったアポーストロ・ゼーノが住み、そして1750年亡くなったことを示すラテン語の碑文が掲げてあります。]

15歳の時、彼女よりずっと年の離れた教授に教えられたカール・マルクスの思想との出会いがあった。それは彼女の心を虜にした。

家族の希望に反して、刑事事件専門の弁護士だったチェーザレ・サルファッティと1898年結婚した。彼もまたユダヤ系ヴェネツィア人だった。1902年10月15日、彼と共にミラーノに移住した。

最初2人はブレーラ通り19番地のアパートに部屋を借りた。その後1908年マルゲリータは父の莫大な遺産を相続したので、ヴェネツィア大通り93番地の豪壮なアパートに引っ越した。そこで当時の有名なインテリ達との出会いがあり、またコーモ湖のカヴァッラスカにヴィッラ《イル・ソルド》を手に入れた。

そのヴィッラは、1世紀前はアレッサンドロ・マンゾーニの母ジューリア・ベッカリーア[Beccarla と誤植されています]のパートナーであったカルロ・インボナーティの持ち物であった。
[マンゾーニの母方の祖父はチェーザレ・ベッカリーアという啓蒙思想家、法学者、経済学者で、名著と言われた『犯罪と刑罰』(1764年匿名で発表されたそうです。日本では風早八十二・風早二葉訳、岩波文庫、昭和一三年一一月一日第一刷発行)は、死刑や拷問の廃止を主張し、ヨーロッパの知識人に大きな影響を与えたそうです。パリ12区にはベッカリーア通りがあります。]
ベッカリーア著『犯罪と刑罰』アレッサンドロ・マンゾーニの肖像右、フランチェスコ・アイエツ画『アレッサンドロ・マンゾーニの肖像』(ブレーラ美術館蔵―Hayezのサイトから借用)
ミラーノでマルゲリータは政治の分野にのめり込んだ。社会党に入党しフィリッポ・トゥラーティとアンジェーリカ・バラバノッフの仲間であったアンナ・クリショッフの親友となった。クリショッフが1912年雑誌『女労働者の守り』を創刊した時、鋭意専心、実りあるように彼女に協力した。

その間、党の日刊誌『アヴァンティ』に執筆し、ある時からその雑誌の公式の美術評論家となった。将来のドゥーチェとの関係はその日刊誌で生まれた。1912年12月1日に彼はその編集方針を決定したのである。

マルゲリータはフィリッポ・トゥラーティの指導の下、党の穏健派に属していたが、ムッソリーニから辞職を迫られ、受け入れることになった。が、突如2人の間に大きな共感が生まれ、2人は恋人同士になったのである。」 (続く)
   ――ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女達(Donne veneziane)』(Corbo e Fiori Editori、2005.12)より
  1. 2011/10/22(土) 00:01:08|
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ヴェネツィアの建物: ジュスティニアーン・ブズィネッロ館からリアルト橋まで

コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館右隣の、ブズィネッロ館(P.Businello)について、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。
ブジネッロ館とバルズィッザ館「13世紀中頃のヴェーネト・ビザンティン様式の商館だったが、14世紀以後、何度も手が加えられ、1600年代4階を増築した時は、特に改築が激しかった。水面直ぐ上のポルティコの玄関は建設当初の物で、この入口用の大門の中央開口部以外[両サイド]は壁として塗り込められてしまった。上の階には多連窓がある。」

Alberto Toso Fei 著『大運河の秘密(I Segreti del Canal Grande)』(Studio LT2、2010年)によりますと、この館には、観客を魅了して舞踊の女王と称えられた有名なバッレリーナ、マリーア・タッリオーニが、オーストリア支配時代居住しており、ロンバルディーア・ヴェーネトの支配者であったオーストリアの陸軍元帥、85歳のヤン・ヨーゼフ・ラデツキーを客人として招いたりしたそうです。

彼女については、カ・ドーロ(Ca' d'Oro)に纏わる有名な話があります。ロシアのアレクサンドル・トルベツコイ公は彼女と知己の関係で、彼は1846年このカ・ドーロを彼女に進呈しようと、ジョヴァン・バッティスタ・メドゥーナに館が目立つような修復を依頼しました。

メドゥーナは全てを改造しようと、バルトロメーオ・ボンの有名な井戸の井桁は売却、ヴェルティの中庭の外階段は撤去、その他大理石や貴重な柱頭は剥ぎ取ってしまいました。イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンは大変残念がったそうです。
カ・ドーロ館中庭の井戸現在のカ・ドーロ館中庭の井桁――ジョルジョ・フランケッティ男爵がこの館を手に入れた時、全てを元のままに修復したいと奮闘した歴史は、最近日本のTVでも放映されました。

ブジネッロ館の右館は飛ばして次のバルズィッザ館(P.Barzizza)に移りますと、『大運河』(1993)は次のように記しています。

「屋根裏部屋と、右前部にテラスが張り出したこの建物はゴシック期に手を加えられたヴェーネト・ビザンティン様式の貴重な残存要素が見られる。美しい入口の大門と、2階3階のアーチの多連窓は13世紀に遡ることが出来、突き出ている露台のある一面窓(monofora)は14世紀のものである。ファサードには一家の紋章が付けられている。バルズィッザ家はベルガモ出身の伯爵だが、1694年お金により貴族と認められた時、他家からこの邸宅を手に入れた。」

バルズィッザ館といえば、私にはかつてイタリアの事務機メーカー、オリヴェッティ社のCM誌《SPAZIO》(1990年)に掲載された《対談“どこをとってもヴェネツィアは絵になります”――帰国された別府貫一郎画伯にきく》という、別府貫一郎画伯と聞き手の陣内秀信先生との対談を読んだ記憶があります。

対談中、
陣内  僕は先生が前に住んでられたところから引っ越されて、お手紙下さったときに、その住所を見て、びっくりしちゃったのですよ、コルテ・バルツィッツァと書いてあるんですから。ヴェネツィアの13世紀頃の建物というのは本当に十戸もないのですが、その中でも一番古い建物なんです。一等地ですよ、貴族の住宅で。あれは四階建てですね。……」
……
陣内 ……それから、いかの塩辛とか、かぶの酢漬け、糠味噌まで本当に器用にお作りになった。それを、よく先生のお部屋に一緒にお邪魔した小林惺先生や浜田信次さんや僕がペロッといただいちゃったりして(笑)。僕、糠味噌のお守りしましたよ(笑)。」
という一節を改めて読み直してみると、日伊協会で伊語を教わった故小林惺先生の事が思い出されます。

当時この対談を読んでから後、小林先生と生徒の食事会の時、尋ねてみました。先生は、自分もこの対談に出席することになっていたけれど、直前になって外せない急用が生じ、全て陣内先生に任せました、とのことでした。

バルズィッザ館から右へ何軒か先に、赤色のラヴァ館(P.Rava')があります。G.Lorenzetti『ヴェネツィアと入江』(1926)は次のように書いています。
ラヴァ館「ヴェネツィア・ゴシック様式の近代的建物(ジョヴァンニ・サルディの1906年の建設)。サン・シルヴェストロ教会に近いこの広い敷地は、元々グラードの総大司教の在所があり、それがサン・ピエートロ・ディ・カステッロに越すまで、1156年~1451年の間、司教の住居があった。」
ビゾニーニ館これ以後、ワイン河岸(Riva del Vin)に沿って、リアルト橋まで飛び飛びに行きます。数軒先の3階建ての白い低い建物は写真には Bisognini と記されていますが、かつてはサン・ポーロ区の穀物倉庫だった所で、1840~44年に建て替えられたそうです。そこから5軒目の写真に Casa Franca と記された建物は、バルバリーゴ館(P.Barbarigo)とも呼ばれ、現在はホテル・マルコーニとなっています。左側に二連窓のあるこの建物は1500年代に建て直されたそうですが、1800年代、1900年代初めと全体が改築されたそうです。
ホテル・マルコーニと十人長老会館リアルト橋の袂に建つ Palazzo dei Dieci Savi(十人長老会館)について、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。

「この建物には、収税吏の役所あるいは十分の一税に対する十人長老会が入っており、1514年の大火で灰燼に帰した後、アントーニオ・アッボンディ・ロ・スカルパニーノが1520~22年に再建した直ぐ傍の旧役所のように、それら再建建物群の一つである。リアルト橋の袂で大運河に面して開かれているのは左側だけであるが、建物は奥へヴェッキア通り(Ruga Vecchia)まで長く延びている。

建物の気品といったことより純粋に機能本位で、1階回廊の広いアーチの上に、2階3階では対になった四角形の単純な窓が連続している。現在は市の水利行政局が入っている。」
  1. 2011/10/15(土) 00:01:46|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア―ソランジュ・ファスケル

フランスの女流作家ソランジュ・ファスケルの作品を集めた短編集に『ヴェニスの街のなんと哀しき――』(榊原晃三訳、人文書院、1995年6月30日)があります。ヴェネツィア編は30ページ足らずの短編ですので30分ほどで読めるでしょうか。
『ヴェニスの街のなんと哀しき』夫のあるポリーヌと妻のあるユベールが、それぞれ連れ合いに内緒で3日間のヴェニス旅行を楽しみます。楽しむつもりが、意に反してそうでない状況に陥っていきます。

「たった三日間の滞在なので、費用のことなどできるだけ気にしないで、静かな豪華ホテルで評判の〈チプリアーニ〉に部屋を取った。このホテルなら、気を使ったりわずらわしい思いをしたりする怖れは少しもなかった。

やがて、二人は大運河でゴンドラに乗った。陽ざしが大気を暖めていて、これが六月かと思われるほどだった。
《想像していた以上にすてきね》とポリーヌは言った。
《神さまのおかげだよ……》

パリでは、時にユベールをひどく打ちのめすこともある日々の重みが、ここではまるで奇跡のように軽くなっているような気がした。このヴェニスの旅は、日常の空間と時間からはみ出した、目に見えない瘤みたいなもののようだが、それもやがては、知らず知らずのうちに、日々の暮らしの中に溶けこんで行くにちがいない。

《もう一度、カ・ドーロの館を見てみたいわ》と、その館が背後に消えてしまった時、ポリーヌが言った。
《明日、行こうよ》
……
しばらくしてから、二人は夕食に出かけた。サン=マルコ広場では、人々の群れがたえず動きまわり、たえずおしゃべりをしていた。あちこちのアーケードの下では、いろいろの国の言葉が切れ切れに聞こえていた。
《あなたとヴェニスにいるなんて信じられないわ》とポリーヌは言った。《あんまり何度も細かいところまで想像し過ぎていたから、想像していたことのほうが、ずっと本物に思えるくらいよ。不思議でしょ?》
……
《すてきな井戸ね》彼女が言った。
ユベールの暗い顔が彼女を戸惑わせた。ユベールは、朝、目を覚ました時からずっと様子がおかしく、いらいらと怒りっぽくなっているようだと彼女は思った。霧雨が絶え間なく降り続いているので、このヴェニスの魅力が失われてしまったというのだろうか? あるいは、このカ・ドーロの館は何か不吉な場所だったのだろうか? 

ジャックと来た時も同じようだった。ジャックは、この館にいる間ずっと一言も口をきかなかった。おそらく、あれは結婚して最初の夫婦喧嘩で、その原因はもう忘れてしまうほど些細なことだったと思うが、あの時のジャックのとげとげしい態度だけははっきり覚えていた。

《もう、あちこち訪ねるのはたくさんだ》とユベールがぶっきらぼうに言った。
ポリーヌがびっくりして、信じられないように彼の顔を見つめた。
《あなたはレッツォーニコ館をとても見たがっていたじゃないの……》
《気が変わったんだよ》
《じゃあ、ハリーズ・バーへ行きましょうよ》とポリーヌは提案した。

館をあとにしながら、彼女はユベールの腕につかまった。彼は腕を引っこめはしなかったが、今はこうして体を触れ合うのが不快に感じていることを彼女は察し、すこし経ってから、当たり障りのない言いわけをして腕をほどいた。

ハリーズ・バーで、ポリーヌはついつい店の雰囲気を楽しんでしまった。ゆっくり味わったアレクサンドラ(カクテル)はすばらしく、彼女は最高の気分を味わった。
……」
  ――『ヴェニスの街のなんと哀しき――』(榊原晃三訳、人文書院、1995年6月30日)より
  1. 2011/10/08(土) 00:02:52|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館(P.Coccina Tiepolo Papadopli)(2)

(続き)
ティエーポロ家は大変古い家柄で、その分家は現在も存続している。1000年にはバルトロメーオが既にサン・マルコ財務官であり、第一級の政治家として頭角を現していた。そして1000年以上続くヴェネツィアの全歴史の間、この一家の名前は途切れることなく出現し、偉大なる外交官、行政官、宗教家、海の男として著名になっている。

この一家から2人の総督も出た。ヤーコポ(1229年)は1249年退位したが、カンディア(現ギリシアのイラクリオン)の最初の総督であり、勇敢な兵士であった。彼はまた博学の法律家であり、それ故、総督に選出されるや、市民法と刑法が成文化に着手されることを願った。

2番目の総督ロレンツォ(1268~75)は活発な日常生活よりはむしろ学究活動に没頭するようなメランコリックで物静かな男であった。それ故海軍の指揮を任された時、海洋については殆ど無知だったので公然と愚弄された。更に友人の1人が彼にパレスティナのアクレ[イスラエル北部の港湾都市]からジェーノヴァ人を追い払い、モンティオイ要塞の石を自分のために持って帰ってくれるように頼んだ。

ロレンツォは何も答えなかったが、嘲笑されたことは覚えていて町を征服するやいなや、砦から大きな石の塊を切り取らせ、ヴェネツィアに持ち帰った。自分のガレー船の画像の上にその事を彫り込ませると、最初にその塊を友人の家の前に置いた。それからサン・パンタローン教会の右脇に置き換えた。

サン・マルコ寺院の、総督宮殿側の角にある斑岩製の Tetrarchi 像を持ち帰ったのは、彼だったようである。
[この Tetrarchi(複数―Tetrarca:男性単数)とは赤い斑岩で作られた《四分領主像》で、サン・マルコ寺院総督宮殿側の壁面に嵌め込まれています。赤いのですぐそれと分かります。ローマ帝国支配に役立てようと、ディオクレティアヌス帝が4世紀に製作させたと言われています。四分領主とはディオクレティアヌス、マクシミリアン、ウァレリアヌス、コンスタンティヌスの4帝だそうです。シリアあるいはエジプトで作られ、コンスタンティノープルを経て持ち帰られたと言われています。]
四分領主像[サン・マルコの四分領主像]  1310年一家の若いバイアモンテがピエラッツォ・グラデニーゴ[総督ピエートロ・グラデニーゴ]の憲法上の改革で損害を被った貴族達、舅のクェリーニらに支えられて、権力奪取の陰謀を企んだ。ピエラッツォは事の気配を察知し、幸運にも助けられて守りを固めていた。

一方陰謀者達は武装した支持者とサン・マルコ広場へ侵入しようとしていた。ある老婦人がこの騒ぎは何事か見ようと窓から顔を出した。そして窓にあった石の乳鉢を投げ、旗手アンドレーア・クェリーニの頭に直撃させ、彼は死んだのである。

その事が大混乱を引き起こし、反乱者は総督の兵士に反撃され、逃げ始めた。追跡をかわそうとリアルト橋を断ち落とした。

共和国は偶然の助力であったという認識であったが、乳鉢の老婆(vecchia del morter[乳鉢(mortaio)のヴェネツィア語])の行為を認め、彼女の子孫が永遠にその建物を使用してよしとした。サン・マルコの時計塔のアーチの下近くの壁面に、このエピソードを思い出す縁(よすが)となる碑が刻まれてある。
乳鉢を投げた老婆[メルチェリーア・デッロロロージョ(Marzaria de l'Orologio)通りの乳鉢のジュスティーナ・ロッシお婆ちゃんのレリーフ]  このドラマチックな事件後、ティエーポロ家の政治生命は完全に終息したが、声望はあるのである。なぜなら政治以外の分野で著名な人物を輩出し続けたからである。」
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より
  1. 2011/10/01(土) 00:03:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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