イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ダナ・レオン(2) サン・ロレンツォ教会とスプリッツ

ダナ・レオンのブルネッティ警視シリーズは10作ほどあるのだそうですが、『ヴェネツィア刑事はランチに帰宅する』(北條元子訳、講談社文庫、2005年4月15日)が『ヴェネツィア殺人事件』の次に発刊されています。ヴェネツィアの雰囲気が味わえる上に、ブルネッティ警視とパオラ夫妻の家庭の2人の会話や描写を読む度にヴェネツィア来訪の度にお邪魔したファビアーナのお宅の事が思い出されてとてもしっとりした気分になってきます。
『ヴェネツィア警視はランチに帰宅する』「ブルネッティは、そのサンタ・クローチェの住所がサン・ジャコモ・デロリオ教会の近くだと分かっていたので、アカデミアまで歩き、一番のヴァポレットでサン・スターエまで。そこからは勘に任せ、間もなくサン・ボルド広場に入った。広場(カンポ)では、探している住所と番地が近い煙草屋に寄って道を尋ねた。店員がよく分からないというので、ブルネッティはオーストリア人の老婦人を捜しているのだと言った。
……
ブルネッティは窓際に立ち、サン・ロレンツォ教会の上にそびえる二基のクレーンを眺めた。あまり長いことそこにあるので、近頃はなんだか教会の両側から舞い上がる、二人の天使の羽のような気がしている。ブルネッティは、自分がこの署へ赴任してきたときからクレーンはあったように思ったが、修復作業にそんなに長い時間がかかるわけがない。こいつらが動いているのを――いや、今日と違う位置だったことがあっただろうか?……」

[ここで警察署(Questura)5053番地周辺の説明をしてみます。この地図『Calli, Campielli e Canali』の説明によれば、QUESTURA の右向かいのサン・ロレンツォ教会は次のように解説されています。
《サン・ロレンツォ教会はベネディクト派の修道女の尼僧院を直前に置いて、9世紀に創建された。1500年代末修道院と共にシモーネ・ソレッラにより再建された。元修道院は(教会右手)はG.B.ジュスティニアーン病院の補助施設(現老人ホーム)である。教会は1915~18年の戦争中ひび割れが生じ、閉鎖され、きびしい修復の手が入っている。将来ヴェネツィアに古典的着想の宗教施設として蘇生するだろう。》(修復は長期に渡っています)
Questura(警察署)とサン・ロレンツォ広場近辺地図またヘンリー・H・ハート著『ヴェネツィアの冒険家――マルコ・ポーロ伝』(幸田礼雅訳、新評論、1994年11月30日)は、この教会にあったマルコ・ポーロの墓について次のような事を書いています。

フランチェスコ・サンソヴィーノという人が、1581年に出した『ヴェネツィア名所希所』というヴェネツィア・ガイドブックの中で、《……その袋小路(アングリポルト)の下には、マルコ・ポーロ、通称“イル・ミリオーネ”が眠っている。……》と現在形で記し、その後コッレール美術館に残されたトマソ・フガッツォーニの『サン・ロレンツォ修道院の起源と発達の概略』という手記の中で、彼はサン・ロレンツォ教会の改修工事が1582年に始まり、《……列柱廊の中央には、最も有名なヴェネツィアの貴族、マルコ・ポーロの墓があった。……》と過去形で記述していることから、マルコの墓はその改修工事の時点で行方不明になったものと思われます。]

「住所は、バンディエラ・エ・モロ広場、教会右手の建物の中だ。ヴィヴァルディが洗礼を受けたという教会で、前任者の神父のときに、教会にあった絵画や彫刻が個人の手に渡ったというもっぱらの噂だ。……
……
サンティ・アポストーリ[サンティ・アポーストリ]を越え、スタンダを過ぎたところで右折し、再びラグーナの水辺に出る。ミセリコルディアとターバンを巻いた商人がラクダを引いている石のレリーフを過ぎ、もう一度右に曲がって勘だけで歩き続けているうち、ヴァポレットのマドンナ・デッロルト駅に出た。

一隻のヴァポレットがいましも右手に向かって岸を離れたところだったが、パイロットはブルネッティを見るとモーターをアイドリングに切り替え、バックに戻して船着き場(エンバルカデッロ)[imbarcaderoのことか]に戻ってきた。ガタガタというエンジン音が乗船を促す。水兵が金属製の渡り板を戻してくると、ブルネッティはその気もなかったのに飛び乗ってしまった。

ヴァポレットがフォンダメンタ・ヌオーヴェに着き、ブルネッティは心を決めて墓地行きに乗り換えた。墓地に着くと、女性の一団――しかもほとんどが年配で、一人残らず花を抱えている――のなか、黒一点のブルネッティも船を下りた。歩き始めてからずっと、まるで足がその他の身体の部分を導いているように、本能の導くまま、前へ前へと進んでいた。」
 ――『ヴェネツィア刑事はランチに帰宅する』(北條元子訳、講談社文庫、2005年4月15日)より

前回紹介した sprits についてイタリアのPCのサイトを読んでみました。このカクテルは、ハプスブルクのオーストリア=ハンガリー帝国が1800年代イタリアを占領していた地域、ヴェーネト、フリウーリ=ヴェネツィア・ジューリア、トレンティーノ=アルト・アディジェに広まっているのではないでしょうか。スペルには spriss、 spriz,、sprisseto があるようです。

オーストリア人はヴェーネトのワインを強いと思い、水で割って飲んだそうですが、イタリア人はそれをもっと旨くしようとリキュールとのカクテルを思いついたようです。それが時と共に洗練され、現在に至りました。カクテルするリキュールには、Campari、Aperol、Select、Cynar、Gin 等だそうです。

カクテルは各家庭それぞれで代々の秘伝のようですが、バールやバーカロもバリスタの好みでカクテルされるのだそうです。例えばアペロールでカクテルの調合の基本と言いますと、白ワイン40%、炭酸水30%、アペロール30%だそうで、後はそれに自分の好みを付け加えるようです。

最近、ミラーノなどにも広まって行きつつあるそうです。
  1. 2011/11/26(土) 00:01:10|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ダナ・レオン(1)、とスプリッツ・コン・ビッテル

ダナ・レオンとかドナ・レオンと表記される作家(1942年米ニュージャージー州生まれ~ )は、ヴェネツィアに住み、グイド・ブルネッティ警視シリーズを執筆中で、日本でも『死のフェニーチェ劇場』(春野丈伸訳、文藝春秋、1991年7月)、『異国に死す』(押田由起訳、文春文庫、1998年3月)等、翻訳されています。『ヴェネツィア殺人事件』(北條元子訳、講談社文庫、2005年4月15日)を読んでみました。
『ヴェネツィア殺人事件』ヴェネツィア在住と言われるだけあって、ヴェネツィアの地図に則りブルネッティ警視が動き回る様子は、映画等のように映像の面白さに合わせて街の景観が奇想天外に実際には繋がらない場所へ飛んでいくのと丸で異なります。歩行やモーターボートでの移動は地図的に正確で、私には非常に臨場感がありました。ジェソーロという英語式(?)表記が何回か登場するのですが、Jesolo(イエーゾロ)という地名と分かるまで、時間が掛かりましたが。

「ブルネッティはサンフランチェスコ・デッラ・ヴィーニャに向かってバルバリア・デッレ・トーレ(Barbaria de le Tole)を歩き始めた。右手にはかつらをつけた果物売りが店を畳むところで、果物や野菜の箱に緑色の布をかけているのが見えた。その手つきが、ロッシの顔に布をかけたときのしぐさを思い起こさせて、いやな気がした。……
……
ボートに乗り込んで時計を見たブルネッティはもう5時をはるかに回ってしまっているのに気づいた。ということは警察署に戻る潮時だ。大運河に入り、ボンスアンは右に回ってバジリカや鐘楼へと続く長い S 字の水路を、ピエタ橋から警察方面へと辿って行った。」
Questura(警察署)とサン・ロレンツォ広場近辺地図サン・ロレンツォ運河を挟んでサン・ロレンツォ広場(Campo S.Lorenzo)の向かいに警察署(Questura)はあります。

「アルセナーレ(Arsenale)の奥までくると、ペルティーレは左に急角度に旋回し、通常の停留所を幾つも通り越した。病院前、フォンダメンタ・ヌオーヴェ(Fdm.Nove)、ラ・マドンナ・デッロルト(La Madonna de l'Orto)、サン・アルヴィーゼ(S.Alvise)、そしてカナレジオ運河(Canal de Canaregio)の突先へと回り込む。最初の停留所を過ぎた直後、海岸通り(riva)に立って、近づいてくる一行に手を振っている警官が見えた。
……
ブルネッティは気持ちを切り替えると、サン・マルコ広場に向かい、そこを横切って右へ、町の中心部をサン・ルカ広場へと戻った。ブルネッティが着いたときにはフランカはもう来ていて、顔は知っているが名前は知らない男と話していた。近づいていくと、二人が握手しているのが見えた。男はマニン広場のほうへ曲がり、フランカは本屋のショーウインドウを覗いた。
《チャオ、フランカ!》フランカの横にたってブルネッティが声をかけた。
……
《チャオ、グイド》と言って、ブルネッティのキスを受けるため頭を反(そ)らせた。
《一杯おごろう》と言いながら、ブルネッティは何十年来の習慣でフランカの腕を取ると、バーへと導いた。
中へ入り、スプリッツァーを飲むことにして、バーテンがワインとミネラルウォーターを混ぜ合わせ、ほんの印だけカンパリを垂らし、グラスの縁にレモンのスライスを差して、カウンターの上を二人のほうへ滑らせてよこすのを見守った。
《乾杯(チンチン)》二人は声をそろえて言い、一口すすった。
バーテンが目の前にポテトチップスの入った小さな皿を置いたが、二人は無視した。バーの人いきれがしだいに二人を奥に押しやり、とうとう窓に押し付けられる格好になってしまった。……」
 ――『ヴェネツィア殺人事件』(北條元子訳、講談社文庫、2003年3月15日)より

スプリッツ(spritz)の作り方は各店で異なると思われます。私の好みは、フェニーチェ劇場隣のバール《Al Teatro》のファービオさんが作ってくれるものです。白ワインにカンパーリを注いだカクテルにタンクから炭酸水を振り掛け、最後に串刺ししたオリーヴの実を一個入れます。カンパーリの味が濃厚で、アルコール濃度が高く感じられます。そして必ずカップに山盛りの、サーヴィスのポテトチップスが随伴して出てきます。

私見ですが、1866年までヴェネツィアはオーストリア軍の支配下にありました。独語で Spritzer(シュプリッツァー)は“ワインをソーダ水で割った物”と辞書にあり、ヴェネツィア人はそれにヴェネツィア人の好きな赤色のカンパーリ等でカクテルした物を考案したのではないでしょうか。カンパーリは苦みがあるので、spritz con bitter(スプリッツ・コン・ビッテル)と通称されますが、同じ赤色の飲み物に、アペロール、セレクト(or セレ)、チナール等のカクテルがあります。アルコール拒否症の人用にも、色そっくりの飲み物が用意されています(ヴェネツィアで spriz という綴りも見ました)。

この飲み物はヴェーネト州には広まっていますが、他のイタリアでは見掛けたことはありません。2008.03.13日のブログ濃紅色でも類似したことを書いていますので参考までにどうぞ。

2014.09.09追記: 私が版画集《ヴィゼンティーニのヴェドゥータ》を買ったサン・ルーカ広場の美術本の本屋は数年前から姿を消してしまいました。その隣がローザ・サルバのバールでしたが、ローザ・サルバのチェイン店ではなくなってしまいました。
  1. 2011/11/19(土) 00:01:02|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: Il Casin degli Spiriti di Palazzo Contarini dal Zaffo(コンタリーニ・ダル・ザッフォ館)(2)

「四月末のとても過ごしやすい、快適なある宵、この魅惑的な女性が窓から顔を突き出して、気だるそうにどことなく遠くを見やっていた。物憂い思いが心の片隅を過ぎり、身の回りに起こったよしなし事から気を紛らそうとしていた。モルトが近づこうとしているのには気付かなかった、この男が背後から彼女の腰に腕を回し、首筋にキスし始めるまで。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』彼女はその抱擁から逃れようとしたけれどうまくいかず、この恋する男の手が胸に触ろうと上がってきた。《止めて、放して、離れて、ゾッとする!》 モルトの酔った息の悪臭が鼻に付いた。《穢らわしい、放して!》 そう言うと、男の睾丸を踵で激しく蹴り上げた。ルッツォは息の詰まったような叫び声を上げて彼女を放し、二、三歩後退した。その間に彼女は激しいビンタを男の顔に浴びせ掛けていた。

《おいおい、おとなしくして呉れよ、キスだけだったんだ、もう行くよ》 半ば苦笑いで、モルトが敢えて口に出した。しかしチェチーリアは激しい憎悪で怒り心頭に発し、許すつもりは一切なかった。

《キスだけだよ、もう行くよ、分かってくれよ。俺、あんたに夢中なんだ。どうしてもキスしたかったんだ。もう首を括りたいよ》。《くたばっちまえ!》 彼女が言った。《触らないでよ、穢らわしい豚め! そこに水があるじゃん、身を投げてくたばっちまえ!》。

《気を付けた方がいいぞ》 モルトが叫んだ。《死人は時には戻ってくるんだから》 こう言うとドアを開けて、あっけにとられた全員を尻目に走り去った。チェチーリアもまた、ジョルジョーネの腕の中に身を投げに走っていった。それがピエートロ・ルッツォの姿を見た最後だった。この哀れな男は本当に身を投げたのだった。
……
ある夏の暑い宵、開け放れた窓から射し込む銀色の月光で部屋が満たされている時、チェチーリアとジョルジョーネはオリエントの柔らかい絨毯に身を横たえて、何度となくキスを交わしながら陶然と上の空にあった。

それはモルトだった。……窓枠の中に浮かび上がっていたのはモルトの幽霊だった。蒼白な顔色で、瞼は殆ど開いておらず、体は骨がないかのように、よれよれと今にも倒れそうだった。

2人の恋人が一斉に叫び声を上げたので、部屋の全員が気付いた。皆が窓の恐ろしい幽霊を見た。全員走って逃げた。次の日、亡霊の出た窓を塞ぐために左官屋が呼ばれた。しかし別の窓にルッツォの幽霊が現れて同じ光景が現出した。次の日、その窓も塗り込められたが、毎夜幽霊は現れるので効果はなかった。

最後の窓が塗り潰された時、一同は他の場所に移ることに決めた。この小館は早寂れ果て、恐ろしげに変貌していた。その時からコンタリーニ小館は、casin degli spiriti(幽霊の館)となり、夜中使われなくなったこの建物から、奇妙な音や不思議な声がすると言う人がいるのである。
……
これは事実に沿った詳細な検討の末のお話ではない。コンタリーニ・ダル・ザッフォ館(エルサレムのテッラサンタに封土があるヤッファ公から続くコンタリーニというこの一家の分家の通称で、それは十字軍の時獲得されたもの)は、1530~40年頃に建てられた物で、ジョルジョーネがここで過ごしたのは20年前、即ち1510年のことだということである。

更に、恋人のチェチーリアは1511年、ルッツォは1526年に死んでいる。ピエートロ・ルッツォ(美術史家の言う通り、ロレンツォかも知れない)、即ちモルト・ダ・フェルトレは彼について書かれた人相書とは丸で関係がないし、ジョルジョ・ヴァザーリは、異常な情熱でもって、彼に古代ローマの地下道内で過ごす体験をさせようと仕向けることになった。

実際にはピエートロ・ルッツォは、1508年ヴェネツィアのドイツ人商館[フォンダコ・デイ・テデスキ――Fontego(ヴェネツィア語)=Fondaco(伊語)]の有名なフレスコ画の完成をコネリアーノのマエストロ[チーマ・デ・コネリアーノの事?]と協同で仕上げたジョルジョーネの弟子であり、彼女と駆け落ちをしたのは彼だった。
……
この小館はコンタリーニ館と同時に建てられたのであり、文学者や哲学者、文化人を宴に招きたいとコンタリーニ家が望んだことである。それ故"spiriti"の意味は亡霊や幽霊のことではなく、才気煥発の、洗練された、高尚な人の意である。」
  1. 2011/11/12(土) 00:01:16|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: Il Casin degli Spiriti di palazzo Contarini Dal Zaffo(コンタリーニ・ダル・ザッフォ館)(1)

ヴェネツィア本島の北、サン・ミケーレ島が望める海岸通りは、ヌオーヴェ海岸通り(Fondamente Nove)ですが、この通りを右手にサン・ミケーレ島を眺めながらどこまでも行きますと、その先はミゼリコルディア湾(Sacca de la Misericordia)に突き当たります。
キオード橋(左図最下部中央部)近辺地図その突端から前方右手を望むとラグーナに小さな館が突き出しており、その建物は Casin degli Spiriti と呼ばれています。『Calli, Campielli e Canali』(Edizione Helvetia, 1989)の説明は次のようになっています。

「コンタリーニ・ダル・ザッフォ館。1500年代後期の建築で貴族の邸宅だったが、素晴らしい庭があり、そこに隣接して《才気煥発の館(Casin degli Spiriti)》があり、そこの集まりで文学談義がなされたことでヴェネツィアでは有名である。1500年代の最も優秀な知性と才能の持ち主が集まったのである。」
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』Marcello Brusegan『Miti e leggende di Venezia(ヴェネツィアの神話と伝説)』(Newton Compton Editori, 2007.10)は次のような事を書いています。

「1500年代初頭サン・ミケーレ島とムラーノ島の直前の、ミゼリコルディア湾として知られるカンナレージョのこの地区では、文学者、芸術家、その他にもインテリ達のグループがコンタリーニ家からこの小さな建物を自分達のクラブ用に賃借りしていた。それは大きな邸宅の庭の片隅にあり、持ち主達は通常は息抜きや気晴らしのために使用していた。

賃貸借していた者の中には、偉大なるティツィアーノやジョルジョーネ、ヤーコポ・サンソヴィーノらがいる。その他にも放埒な文学者のピエートロ・アレティーノもいて、色々な芸術家の中でも、とりわけ気儘であった。

結局、多くの文化人、大芸術家、強い性格の人々であったが、高尚な会話でお互いを切磋琢磨するというよりは、肉体的快楽に沈湎していた。こうしてどんちゃん騒ぎのために集まる度に、大いに飲み、且つ喰らい、恋愛遊戯に走り、賭博に耽った。

このコンタリーニの集いに最もよく通った者の一人がジョルジョーネで、彼はチェチーリアとかいう、ある特別の女に、自分の絵画に対する思い以上に入れ込んでいた。彼女について良く言う人も悪く言う人もいた。彼が彼女に役立ってくれている時は優しかったが、そうでない大半の時はつれなく、身勝手で虚栄心が強く、しかし途轍もなく蠱惑的で瞬時にして男の心を鷲摑みした。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館……ジョルジョーネの事は皆によく知られていた。彼は bevaron[ヴェネツィア語で媚薬の意]を盛られていた、即ち愛の妙薬[filtro d'amore―ドニゼッティにこの題名のオペラがあります]を。彼は四六時中彼女に媚び入り、彼女の言動に動揺し、彼女の言い分は常に認め、恋文を送り、ロマンチックな絵を描いてやり、自分の絵の中で彼女をマドンナの姿で描いた。

彼はそれ程までに彼女に恋い焦がれていたので、この美しいチェチーリアの悪巧みには気付かなかった。彼女は時に彼を裏切り、浮気をするなど意にも止めなかった。彼女は言った。《全くのところ友達内ではこんな事はあり得るものよ。余りのスキャンダルにならない程度にね》。しかし、彼には言う必要があった。2人は本当のところ愛し合っていたし、そのアヴァンチュールの後は、愛するジョルジョーネの胸の内に戻ったのだ、はっきりした教訓を得るという危険を冒してのことではあったが。

この小館によく訪れる者の中に絵筆を握る芸術家ピエートロ・ルッツォもいた。彼はフェルトレの出身で、骨格の逞しい姿をいつも憔悴した様子の青白い色使いで描いたため、憂鬱で暗澹たるキャラクターの画家として、モルト・ダ・フェルトレ(Morto da Feltre―フェルトレの死者)と呼称されていた。

《死人》ではあったかも知れないが、彼の血がチェチーリアを見る度に燃え滾ったのは確かである。この彼の情熱にミステリーはない。しかしチェチーリアは彼を鼻であしらった。全くこの痩せてひょろ高い男は好きにはなれなかったし、魅力のかけらもなかった。

その上この呪われた男はよく飲んだ。飲み過ぎた。このコンタリーニの館には人の気を滅入らせるようなことは何もなかったが、彼が取り憑かれたように一気に飲み干したのは確かだった。酔うと攻撃的で暴力的になり、近寄れない人間になった。このためチェチーリアは彼が自由に話させるような状況には決してしなかったし、軽蔑しているので彼の言い寄りはきっぱり撥ね付けた。」 (2)に続く
  1. 2011/11/05(土) 00:01:40|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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