イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

バーカロ(2)

ヴェネツィアの語学学校のテキストから訳出――「バーカリ(Bacari)  バーカロ(bacaro)とはヴェネツィアではオステリーア(食堂)を意味する。そこではチケッティ[つまみの肴=チケーティ(cicheti ヴェ語)=cichetti(伊語)]やオンブラ[ombra(ヴェ語)=ワインのこと]をカウンターで注文出来る。ある店では座る席もあり、温められたチケッティを食することも出来る。
バーカロ地図、リアルト[リアルト橋近辺のバーカリ地図] ド・モーリ(Do Mori)[2人のムーア人の意、サン・ポーロ区ド・モーリ通り(Cl.dei Do Mori)429番地。日曜と水曜の午後は休業]  入口が二つあり、薄暗い空間である。美味のワイン・リストが常備されており、値段もワイン・ショップより抑えた価格で、その中には Picolit から Tignanello まである。お勧めの雄牛の後頭部の肉(coppa di toro)、《切手(francobolli)=小さなサンドイッチ》、他に通常のオンブラに最適の日替わりで作られる美味しい物が並べられている(*)。
カンティーナ・ド・モーリ入口ド・モーリ通り側の入口。裏側の通りプリマ・ガリアッザ[1° Galiazza(ヴェ語)=大型ガレー船]通りにも入口があります。
[この店は1462年に開業したそうです。朝の8.30~20.30の営業で、日本の居酒屋とは発想が丸で違います。店内には座る席はなく、バールではないのでコーヒーもありません。美味と言われているプロセッコ[prosecco(ヴェーネト地方のスパークリングワイン)=spumante(伊語)]から始めて、ひたすらチケッティとオンブラを飲食します。ヴェネツィア人はオンブラの白を飲む人が多いように見受けられます。]

ラ・カンパーナ(La Campana)[サン・マルコ区ファッブリ(Fabbri)通り4720番地。日曜休み]  メニューは外の黒板にヴェネツィア語で書いてある。入店するやその日のスペチャリタ(特別料理)が入ったショーケースと大きなカウンターがある。ヴェネツィア語の詩が壁に貼ってあり、チケッティは最高である。

アル・ポルテゴ(Al Portego)[カステッロ区マルヴァジーア(Malvasia)通り6015番地(サン・リーオ教会側)。8.00~22.00、日曜閉店]  アーティチョークに小蛸を乗せた物(folpetti)、当店風の辛味のサラミ・ソーセージ(salami)や小蝦蛄の料理(pannocchiette)等が色々の大皿小皿に盛りつけてある。腰を下ろして飲食出来る席もある(*)。
[folpetti(ヴェ語)は folpo(蛸)の縮小辞で、ヴェネツィアでは8本足に吸盤が一列並んだ蛸の意で、辞書には moscardino(伊語―麝香の匂いのする麝香蛸)とあります。吸盤が2列の普通の蛸は polpo(伊語)と言い、同義語に piovra、ottopodi 等があります。]

カ・ドーロ(Ca' d'Oro―Alla Vedovaのこと)[カンナレージョ区ピストール(Pistor)通り3912番地。11.30~14.30/18.30~23.00、木曜、日曜全休]  スペチャリタが並べられた素敵なカウンター。二つの部屋があり、奥の部屋には多くのお客のためのテーブル席が用意されている(*)。
バーカロアッラ・ヴェーチャ・カルボネーラ(Alla Vecia Carbonera)[カンナレージョ区マッダレーナ(Madalena)埋め立て通り2329番地。8.30~21.30、金曜土曜は~深夜2.00まで。月曜休み]  元々木炭小屋であった[carbonera(ヴェ語)=carbonaia(伊語)=木炭小屋、倉庫]。今でも部屋に古い酒樽が置いてある。上質のワインとパニーニ[panini=サラミ、生ハム、チーズ等を挟んだサンドイッチ]が美味しい[vecia(ヴェ語)=vecchia(伊語―古い)]。(*)
[サンタ・マリーア・マッダレーナ教会前の、サンタントーニオ橋左袂の《カルボネーラ》。NHK・TVの伊語語学講座の舞台となりました。]

ラ・パタティーナ(La Patatina)[サン・ポーロ区サオネーリ[Saoneri(ヴェ語)=石鹸製造者]通り2741番地(サン・ポーロ橋の袂)。9.30~14.30/16.30~21.00、日曜休日]  大きなポテトチップスとコロッケは気に入るだろうか。この店のそれを味わってみて欲しい。ローマ風サルティンボッカ[saltinbocca alla romana=薄切りした子牛肉と生ハムの間にセージを挟みバター焼きした料理]、モッツァレッラ・イン・カッロッツァ[mozzarella in carrozza=薄切りの食パンにモッツァレッラ・チーズを挟み、溶き卵を付けて油で揚げた温かいサンドイッチ]、野菜の揚げ物。

アッラッチュゲータ(All'Acciugheta)[カステッロ区サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ(Ss.Filippo e Giacomo)広場4357番地。8.00~24.00、無休]  スペチャリタは、店名がそうであるように、アンチョビー[sardon(ヴェ語)=acciuga(伊語)=片口鰯]を挟んだ丸パン(panino)である。壁面に、画題にアンチョビーを描いた絵が数枚掛かっている(*)。

アッラ・ペルゴラ(Alla Pergola)[カンナレージョ区センサ運河通り(Fdm.de la Sensa)3318番地]  人気のないカンナレージョ区に足を踏み込んでみたければ、この店であまり目にすることのないテッティーナ[tetina(ヴェ語)=tettina(伊語)=牛の乳房肉]とルメガル[rumegal(ヴェ語)=反芻動物の胃]のような料理を目にするだろう。運河に面してテーブルを持つ居酒屋として、二つのサーヴィス料込みのツーリスト・メニュー16000リラ、20000リラがある(*)。
[当時100リラが7円位でした。この学校の教科書の紹介はリラ時代のものでしたので、これらの記述には変更になったり、消滅してしまったもの等が多々あるかも知れません。]
ド・スパーデド・スパーデ(Do Spade)[2振りの剣―サン・ポーロ区レ・ド・スパーデ通り(Cl.de le Do Spade)860番地。木曜午後と日曜休み]  食べてみたい物の中に、辛口のタルティーネ[tartine=一口大のパンにバター、チーズ、アンチョビー、アスパラガス、卵などを乗せたカナッペ]がある(*)。

アーエ・ド・マリーエ(Ae Do Marie)[カステッロ区ローリオ通り(Cl.de l'Ogio[(ヴェ語)=olio(伊語、オリーヴ油)]3129番地]  古いスタイルの居酒屋である。

アル・ポンテ(Al Ponte)[カンナレージョ区ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通り(Cl.de la larga Giacinto Gallina)6371番地。8.00~21.00、日曜休日]  サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ広場直前[カヴァッロ橋(P.Cavallo)の袂]にある(*)。
バーカロ・アル・ポンテ「ダ・アルベルト」ダ・アルベルト(Da Alberto)[カンナレージョ区ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通り(Cl.de la larga Giacinto Gallina)5401番地。日曜休日]  とりわけチケッティが豊富で、辛子のきいた温かいムゼット[museto(ヴェ語)=musetto(伊語)=豚の皮や頭の肉等の大型のソーセージ=salsicciotto(伊語)]、ソップレッサータ[sopressada(ヴェ語)=soppressata(伊語)=豚の頭の肉、足、屑肉等で作る腸詰め]やサラミ・ソーセージ(salame)、また揚げたバッカラ[bacala`(ヴェ語)=baccala`(伊語)=切り開いて塩漬けにした鱈]がある(*)。
[サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会前の橋を下ると左の赤い《アル・ポンテ》、座る席が沢山あります。その道をそのまま少し行くと右手の《ダ・アルベルト》です。2013年現在立ち飲みを止めてしまいました。直ぐ傍のテースタ通り(Cl.de la Testa)にアパートを借りたのでこの二つのバーカリは便利でした。]

アッラ・ランパ(Alla Rampa)[カステッロ区サンタントーニオ大通り(Sz.Sant'Antonio)[バンディエーラ・エ・モーロ・オ・デッラ・ブラーゴラ広場の直ぐ裏]3607番地。7.00~20.30、日曜休日]  古いタイプの居酒屋で、全くツーリスト向きではない。温かいムゼット(museto)を挟んだパニーノ(panino)がある(*)。

ヴィーニ・ダ・ピント(Vini da Pinto)[サン・ポーロ区レ・ベッケリーエ広場(Cp.de le Becarie)367番地。日曜夕方と月曜休み]  朝のリアルト市場が活況を呈している時間がお勧め[魚市場の直ぐ前]。バッカラ(bacala`)、アンチョビー、蛸(folpo)がある。奥に部屋もある(*)。」
  1. 2011/12/31(土) 00:03:46|
  2. バーカロ
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バーカロ(1)

バーカロ(bacaro[単数]、bacari[複数])とはヴェネツィアの居酒屋(osteria、hostaria)のことです。ヴェネツィアの語学学校に通った時、学校から提供された教科書に、ヴェネツィアならではの、ヴェネツィア案内の頁にバーカリの事が紹介されていました。題して“Un giro enogastronomico”。夕方の課外授業でも、先生方が希望する生徒達をバーカリのハシゴをしながら、伊語の勉強がてら案内してくれました。

バーカロはヴェネツィア語で伊語ではありません。バール(bar)に似ていますが、ヴェネツィア特有の店です。朝早くから客に酒とそのつまみを販売し、そんな店が町中至る所に散らばっているという現象は、ヴェネツィア独特のことではないでしょうか。早朝からオンブラ(ヴェ語―ワインの意)を飲む人が沢山いるということです。

ヴェネツィア語についてウンベルト・エーコは、ジャン=クロード・カリエールとの対談集『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(工藤妙子訳、阪急コミュニケーションズ、2010年12月30日)の中で次のように言っています。
『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』エーコ: 私が思うに、書物の定義を考えることは、言語と方言はどう違うかを検討するのに似ています。言語学者にもその違いはわからないんです。それでも、方言とは軍隊も艦隊も持たない言語である、というふうに説明することは可能です。だからこそ、たとえば、ヴェネツィア語は言語だと考えられています。なぜなら、外交や商取引で使用されていたからです。逆にピエモンテ語が言語と呼ばれるような働きをしたことはいまだかつてありません。
カリエール: だからピエモンテ語は方言の域を出ない、と。
エーコ: そういうことです。ですから、小さな石碑に記号が一つだけ、たとえば神の名前が一つだけ書いてあったとしても、それは書物ではありません。 ……」

私がヴェネツィアに行くと必ずと言っていいように立ち寄る店は、リアルト橋近くのラヴァーノ通り(Rugheta del Ravano)にある《アンティーカ・オステリーア・ルーガ・リアルト(Antica Osteria Ruga Rialto)》というバーカロです。初めてヴェネツィアに行った時、この店は《レティーツィア》というレストランで、店は混んでいて店の奥の部屋に案内されました。

その後数年して《(略して)アンティーカ・ルーガ》と名前が変わっていました。店に入るとカウンターがあり(以前はなし)、オンブラを飲むバーカロ空間です。奥に食事の出来るオステリーア空間も残されています。今年ヴェネツィアに帰郷していたファビ様の娘エレオノーラ(ミラーノ大3年生)に、お勧めのレストランは? と尋ねると、レティーツィアと発声して、この旧レティーツィアを勧められ、不思議な因縁を感じました。

写真家の篠利幸氏はバーカロについて、雑誌『太陽』(《ヴェネツィア―海の都の物語》1997年10月号)の中で次のように書いていました。
『太陽』1997年10月号「19世紀の中頃、オーストリアと戦っていたヴェネツィアにプーリア出身のパンタレオ・ファビアーノという男が兵士として滞在していた。戦争が終わると彼はヴェネツィアがたいそう気に入っていたので、この町に留まることにした。しかし当時は質の良いワインがこの地にはなく、郷里のプーリア県のトラーニからワインを取り寄せて売ってみたところ、これが評判になった。

ある夜、ゴンドリエのグループが彼の店にきてそのワインを飲み、その内の親分格の男が《これはうまいワインだ。これこそがバーカリのワインだ》と喜んだ。

そもそもヴェネツィアの古い方言では、仲間たちと飲み食いしながら馬鹿騒ぎをすることを“bacara(バーカラ)"と言っていた。この語源は酒神バッカスの祭りである“baccanale”や《馬鹿騒ぎ》を意味する“baccano”と同根と見ても間違いではないだろう。

ゴンドリエの男は“バーカラ!”と言うべきところを思わず間違って、“バーカリ!”と叫んでしまったのだ。以来、ファビアーノはそのワインをバーカリと呼び、また新しく出した店にも《バーカリ・グランド》という名前をつけ、人々はだんだんと居酒屋をバーカリと呼ぶようになったのである。……」

新宿三丁目の伊勢丹前の地下2階にある《イル・バーカロ》というバーカロ風に立ち飲みの出来るヴェネツィア料理の店は、ヴェネツィアのバーカロ《アッラ・ヴェードヴァ》で修行されたシェフ、谷川さんが店長だった店です。現在でもヴェネツィアが懐かしくなるとカウンターでオンブラを飲んだり、ヴェネツィア料理を食べに行きます。
イル・バーカロヴェネツィア・レストラン『バラババオ』谷川さんは現在は、ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ教会脇のレストラン《バラババオ》で修行したシェフが腕を振るう、銀座一丁目の同名のレストラン《バラババオ》に移られました。この店にも立ち飲み空間が用意されています。

他のイタリアンの店のことは余り知りませんが、こういう気さくな立ち飲み空間のあるイタリアンの店は東京に他にもあるのでしょうか。立ち飲みしていると、テリトリーの決められたテーブル席とは異なり、つい隣に立つ未知の人とも気軽にお喋りを始める人が多いように見受けられます。
『Bacari』の本 篠利幸『ヴェネツィア―カフェ&バーカロでめぐる12の迷宮路地散歩』Simone Azzoni、Ermanno Torossi『Bacari―Ristoranti e Osterie di Venezia e dintorni』(Cartografia di Novara、2002年5月)や篠利幸『ヴェネツィア―カフェ&バーカロでめぐる12の迷宮路地散歩』(ダイヤモンド社、2008年8月1日)、といったバーカロについての本を読んでまたバーカリのハシゴをしたいものです。次回は語学学校の教科書から簡単な Bacari の紹介です。
  1. 2011/12/24(土) 00:04:07|
  2. バーカロ
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文学に表れたヴェネツィア――ティツィアーノ・スカルパ

1963年5月16日ヴェネツィアに生まれた作家、ティツィアーノ・スカルパの『スターバト・マーテル』(中山エツコ訳、河出書房新社、2011年9月30日)が出版されました。2008年イタリア最高の文学賞ストレーガ賞とスーペルモンデッロ賞を受賞した作品だそうです。早速読んで見ました。
ティツィアーノ・スカルパ『スターバト・マーテル』Tiziano Scarpa『Venezia e` un pesce』スカルパの本は、『Venezia e` un pesce』(Universale Economica Feltrinelli、2003.10刊)というエッセー風のガイドを読んだことがあります。ヴェネツィアを魚(舌平目)に喩えて、ヴェネツィアのイメージを描出した書です。《Venezia e` un pesce. Guardala su una carta geografica. Assomiglia a una sogliola distesa sul fondo.…》と始まります。

『スターバト・マーテル』はピエタ教会のピエタ養育院に収容された一少女の目から見た、ピエタ養育院の音楽活動等を書いたフィクションです。当養育院の音楽教師として新たにやって来たアントーニオ・ヴィヴァルディと重なっていきます。

「ジュリオ神父はあまりにも長いこと音楽を書き続けていて、もうアイデアもなければひらめくものもありません。養育院の監事のひとりの兄弟で、それが、毎年ここのヴァイオリン教師兼作曲家の契約を更新する唯一の理由です。インスピレーションが惰性に堕落してしまうなんて。ジュリオ神父がもう飽き飽きしていることは、楽譜を一目見ればわかります。惰力で書いているのです。たぶん神様に、もう死なせてくれとお願いしているのです。
……
お母様、今日シスター・テレーザが稽古場にやってきて、わたしたちの何人かに一緒にくるように言いました。マッダレーナ、ガブリエッラ、エリザベッタ、アニータ、そしてわたしの五人です。楽器を持ってくるように言われました。そしてわたしたちに演奏会用の赤い服を着させました。それからフードのついたマントをまとい、フードの下は仮面で覆いました。養育院の、運河に面した裏門が開けられ、そこでわたしたちを待っていた小舟に乗り込みました。背中には船頭の視線を、岸辺からはじろじろ眺める通行人の視線を、わたしたちは感じていました。
……
わたしたちは、男たちの音楽を演奏する。音楽家はほとんどみな司祭です。

男たちは、その音楽でわたしたちの中に侵入してくる。養育院の新しい教師兼作曲家、アントニオ神父が書きあげた楽譜をもってくると、わたしたちはそれを読み、自分のパートを写譜する。こうして音楽は少しずつわたしたちの中に入り込んでき、わたしたちはそれを目で追う。音楽は、書いているわたしたちの手を動かし、わたしたちはそれを学んでいく。

それから、楽器を手にする。アントニオ神父の音楽はわたしたちの目の中に入り、わたしたちの頭を満たし、わたしたちの腕を動かす。右腕の肘と手首は、弓を操ってくねくね柔軟に動き、右手の指は弦の上で折れ曲がる。わたしたちの中を、男たちの音楽が横切っていく。
……
《アントニオ神父! アントニオ神父!》 聖具室から老女の声が聞こえ、それからシスター・アッポローニアが祭壇のほうに走っていくのが見えました。
《喘息! 喘息!》 シスターが言います。《なんて頑固な、ミサができないのはおわかりでしょうに!》
《喉に詰まって……》 神父は引きつけながら、やっとのことで言いました。《息ができない……》
シスターは、神父の背中を力強くはたきだしましたが、神父はまだ咳をしています。
……
神父は四つの詩を書きました。各季節にひとつずつ。それを印刷させ、演奏会の前に教会で配りました。聴衆の鑑賞を助け、白昼夢でも見るように音楽で彼らに想像させようというのです。抜け目のないぺてん師です。音楽の純粋さを子供騙しでけがそうというのですから。
《春がきた。小鳥たちはさえずり、嬉しそうに春に挨拶をする……》
《空気が澄みわたる。小鳥たちは忘れていた歌を取り戻す。氷は解け、水はもう形をとどめない》
《牧夫は山羊のかたわらにうずくまる。犬は遠くのなにかに向かって吠え立てる。牧夫たちはぎこちない踊りを披露する》
《息もできないような暑さ。カッコウが鳴いている。キジバトが仲間の鳴き声に応え、ゴシキヒワが間に割り込む》
《遠くから雷鳴が近づいてくる。北風が吹いて、なにもかも台無しにしてしまいそう。若い農夫が悔しさに涙を流す》
《そこら中を飛びまわる蠅。嵐がやってきた》
《農夫たちが歌い踊る。この農夫は飲みすぎたよう。ふらついて、挙げ句は立ったまま眠り込む》
《獣が逃げ惑う。銃、犬。獣は傷を負って息絶える》
《吹き荒れる風。足踏みをして体を温めるが、体が震え歯は自然とガチガチ鳴る》
《雨が降る。大雨になった》
《用心して氷の上を歩く。すべって転び、体を打ちつける。足の下で地面にひびが入る》
《あちらこちらから凍てつくような風が吹きつけてくる。みんないっぺんに》
……
雷の中に音楽の形で入ることができたのは、アントニオ神父のヴァイオリンだけです。猛りたった独奏でした。空の神経が苛立ち、ひとつの思いにとらわれる。猛り狂うこと、震動すること、戦慄(わなな)きそのものになること、それも秘密のただ中で。世界にできた亀裂、創造の源が口を開いて光が流れ出る。」
  ――ティツィアーノ・スカルパ『スターバト・マーテル』(中山エツコ訳、河出書房新社、2011年9月30日)より
ブラーゴラ教会と3805~09番地サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ広場の家パラディーゾ橋前の建物大運河に面した最後の家ヴィヴァルディが住んだ家。左から出生(1678)から1705年まで居住、カステッロ区バンディエーラ・エ・モーロあるいはブラーゴラ広場3805~09番地(ブラーゴラ教会右の4棟のどれか)。中左、1705~11年居住、カステッロ区サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ広場4358/a番地の2階。1711~22年は同じ4358番地に移動。中右、1722~30年居住、サンタ・マリーア・フォルモーザ広場裏、パラディーゾ橋前のドーゼ運河通り5878/79番地、ここで名曲『四季』を作曲。右、リアルト停留所前のベンボ通り4644番地に1730~40年、ウィーンに旅立つまで居住(2階より上に行くにはベンボ通りの入口からで、ヴィヴァルディの部屋の窓は大運河に面していたらしい)。詳しくは2010.04.03日のヴィヴァルディの家に書きました。
ヴィヴァルディの出生証明書の写しピエタ養育院のヴィヴァルディについての碑左はサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会内部に展示されているヴィヴァルディの出生証明書のコピー。右は、ラ・ピエタ教会右のラ・ピエタ通り(Cl.de la Pieta`)の入口に掲げられているヴィヴァルディについての碑。2008.07.15日のブログインテルプレティ・ヴェネツィアーニにそれぞれの訳を掲載しています。また2008.12.27日のサンタンジェロ劇場》も参考までに。
  1. 2011/12/17(土) 00:03:01|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: ドルフィーン・マニーン館(2)

E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はマニーン家について次のように述べています。

「……大変富裕だったマニーン家はフリウーリ出身で、そこに所有地を持ち、声望があった。14世紀イングランドのエドワード3世によって貴族に叙されたが、1651年“お金”でヴェネツィア貴族の仲間入りをした時は、丁度カンディア[クレタ島]の悲惨な戦争の最中のことであった。

1789年のロドヴィーコの総督選出は、彼の政治的手腕というよりはむしろ彼の途方もない富のお陰であった(彼には3万ドゥカート以上の不労所得があった)。

その日ピエートロ・グラデニーゴは、怒りと悲しみを露わにして元老院で叫んだのである。《皆さんはフルラーン人(Furlan―フリウーリ人)を総督に選んだのだ。共和国は死んだ!》 そしてそれは正しかった。ロドヴィーコ・マニーンは穏和で、優柔不断、その上病気がちの人物だった。彼の名刺にはサン・マルコの雄々しいライオンの気配がなく、樫の木陰で、裸身で眠るアドニスだった。

1797年5月12日の劇的な状況は、ナポレオンの最後通牒を峻拒する昔気質のエネルギーと勇気を要求されたはずであるが、元老院に殆ど泣かんばかりに服従を受け入れるよう説得したのが、当のマニーンだった。

イッポーリト・ニエーヴォはその著『あるイタリア人の告白(Le confessioni di un italiano)』の中で、その事について書いた。《その悲しみの沈黙の中で、総督は自分がその代表者である大議会の前で青ざめ震えながら立ち上がった。そして敢えて、先人にその例のない、怯懦の態度を見せたのである。》
イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』[イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』] ……今やフランス軍はそこまで迫っており、政府は大急ぎで降伏に同意した方が良いのではないかと元老院を説得した。マニーンは総督の印の名誉の衣装を脱ぎ、白い帽子[総督帽acidario=corno dogale]を脱ぐとそれを従者に与えて言った。《これは私にはもはや無用だ。今夜我々が自分のベッドで寝るのは安全ではない。》

人民は元老院の決定には断固として反対した。4日後ナポレオン軍が解放軍というラベルをぶら下げてラグーナに侵入し、ヴェネツィアを占領し、その富を略奪した。
[ナポレオン本人をはじめ、ナポレオン軍の略奪は凄まじかったようです。今でも彼を悪しざまに言うヴェネツィア人は沢山います。例えば、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』はルーヴル第一の大作ですが、ナポレオン略奪後未だに変換されていません。]

ロドヴィーコ・マニーンは、侮蔑と中傷にさらされた惨めな5年間の隔離生活の後、1802年に亡くなった。彼の遺灰はサンタ・マリーア・デッリ・スカルツィ教会小礼拝堂に埋葬されている。墓石には単純で簡素な文言だけである。“Cineres Manini”と。

マニーンはエリザベッタ・グリマーニと結婚していた。彼女は総督宮殿に住むことは拒否した。それに関して彼女は、ある友人に手紙を書いている。《大喜びの中で、総督の奥方であるということが、私に引き起こしている苦々しさに耐えなければなりません。その奥方は、女の奇妙奇天烈なところですが、総督夫人であるということを意地悪い目で見ているのです。
……
その彼女はどんな催し事にも参加したくないのです。ある人はムラーノ島で言っていましたし、また他の人はその彼女[自分]のエージェントの家で言っていました、彼女は表に出ようとせず、隠れ潜んでいたと。……》

この二つのマニーン[ルドヴィーコ・マニンとダニエーレ・マニーンのこと]という名前の間には、皮肉にもある絆があった。ルドヴィーコ・マニーンの血縁ではないもう一つの貴族のダニエーレ・マニーンが、ある意味でマニーンの名誉挽回をしたのである。即ち、庶民の間に沢山の貴族の名前を何世紀にも渡って見付けることが出来るからである[庶民は貴族達の名前を貰っていた]。即ちそれは、譬え宗教が違って[ユダヤ教]も、洗礼を受ける子供達に、貴族[マニーン]としての自分の名前を与えるという習慣があった。……

貴族は“聖ヨハネの名付け親”になって、自分の名前で保護と援助を与えた。ロドヴィーコの兄弟はユダヤ教徒(Medina―ダニエーレの祖父)の名付け親であった。Medina は習慣に従い、マニーンの名前を手に入れた。

[ダニエーレ・マニーンの両親は、Pietro と Anna Maria Bellotto という名でしたが、祖父は Samuele Medina という名のヴェローナのユダヤ人で、妻 Allegra Moravia と1759年4月、改宗してキリスト教徒となった時、マニーンの名を貰ったということです。ダニエーレは祖父の名を継いだのです。  

また作家 Itaro Svevo の母も Allegra Moravia と言うそうですし、作家アルベルト・モラヴィアの父 Carlo Pincherle Moravia もヴェネツィア生まれの建築家で、父方の祖父は Moravia 姓のコネリアーノ出身のユダヤ人でした。Moravia 姓はこの地方のユダヤ人の名前のようです。]

そしてダニエーレ(1804~57)の銅像はマニーン広場に立てられた。日常の話題の中でしばしばヴェネツィアの栄光が思い起こされるが、1848年3月22日のその日、全てのヴェネツィア人が雄叫びを上げた。“共和国万歳! 自由万歳! サン・マルコ万歳!”」

マニーン広場に立つマニーンの銅像は、彼の目線の先、サン・ルーカ運河(R.de S.Luca)の向こうのヴェネツィアで生活した我が家を見下ろしています。ユダヤ人を扱った伊文学者の本にここを生家としているものがありますが、プレートに IN QUESTA CASA ABITAVA DANIELE MANIN…… とあるようにこれはマニーンが生活をした建物で、生家はここではなく、サンタゴスティーン(S.Agostin)広場直ぐ傍のアストーリ通り(Rm.Astori)のどん詰まりに次のようにあります。
ダニエーレ・マニーンの生家ダニエーレ・マニーンについては2007.11.22日Daniele Manin(1804-57)をご参照下さい。
  1. 2011/12/10(土) 00:05:47|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ドルフィーン・マニーン館(1)

リアルト橋からサン・マルコ湾に向かう、いわゆる右岸(de Citra)は、ボンバゼーリ通り(Ramo dei Bombaseri)から始まる赤い建物、そしてチェルヴァ通り(R.della Cerva)、それに続く鉄河岸(R.del Ferro)沿いの3軒の建物、マッツィーニ大通り(Calle larga Mazzini)までのこれらの4軒の建物は内部が繋がっていて、全てホテル・リアルトになっています。
赤い建物を中心に5軒分がホテル・リアルトです。ホテル入口前の多少広い空間は、ペスケリーア・サン・バルトロメーオ(Pescaria S.Bartolomeo)と呼ばれ、かつては魚屋さんが屋台を並べていたのでしょうか?

マッツィーニ大通り右の白い建物はドルフィーン・マニーン館で、R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を記しています。
真ん中の白い建物がドルフィーン・マニーン館「ドルフィーン家は泳ぎの才能が抜群のために dolfin(ヴェネツィア語)=delfino(伊語―海豚)と渾名されたに違いないグラデニーゴ家の想像上の人物にその姓は由来するとされている。ドルフィーン家は434年のアクイレーイアの司教、1人の総督、5人の枢機卿、数多くの共和国高官がいたという。

この一家の歴史で面白くない点は、“アッチェージ”団のようなサン・サルバドールのある有名なコンパニーア・デッラ・カルザの後援団体に繋がっていたことである。コンパニーア・デッラ・カルザは色々なパーティ、悪ふざけ、演劇的催し物等で楽しんだ貴族の若者達の結社であった。彼らとその従者達は、どんな compagnia(団、結社)に属しているかを示す、色とりどりの靴下を履いていた。

1565年にはアンドレーア・パッラーディオが、ドルフィーン館の中庭に木造の劇場の建設を任された。フランチェスコ・サンソヴィーノは《称賛に値する華麗な様式の柱が立ち並んでいた》と言っている。

館は1538~74年に、ヤーコポ・サンソヴィーノによってジョヴァンニ・ドルフィーンのために建てられた。1602年までドルフィーン家の所有であったが、その年一家の血が絶え、邸宅は相続人に分割された。

1789年ロドヴィーコ・マニーンはセレニッシマ共和国の最後の総督で、この館を手に入れ、建物を最新にしようとジャン・アントーニオ・セルヴァ[フェニーチェ劇場建設者]に委ね、工事が始まった。

ロドヴィーコ・マニーンの総督辞職は、総督職の長い伝統の終焉を告げるものとなった。このため彼はしばしば名誉を傷つけられた。
……
辞職した後、ロドヴィーコ・マニーンは最初、グリマーニ家に、その後サン・スターエのペーザロ家に仮寓した。1801年最終的に我が家へ帰館し、その直後亡くなった。
[マニーン館は、彼の帰館前はフランス軍に接収でもされていたのでしょうか?]

彼の遺産相続人達は、1867年までこのサン・サルバドール地区に居住した。その後建物の所有が王立ナツィオナーレ銀行に移り、次いでイタリア銀行の所在地となった。」
  1. 2011/12/03(土) 00:03:16|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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