イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの広場: サンタ・マルゲリータ(S.Margarita)広場(2)

ジュゼッペ・タッスィーニ著『ヴェネツィア興味津々』(1863)はサンタ・マルゲリータ広場について次のような事を書いています。
ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』「サンタ・マルゲリータ教会は、836年に総督に選ばれ、853年には聖別されたピエートロ・トラドーニコ時代、ヴェネツィア人のジェニアーノ・ブジニャーコ(or ブジニャーゾ)によって建てられた。あるビジーナとかいう人は、1330年隠者としての孤独な隠遁生活をするために、近くに狭い独房を作ったらしい。

しかしキリスト昇天祭の前の晩には、サン・マルコ寺院でその日、認められている贖宥を得るために出向けるようにしていた。狭い通路を通って、この頑迷な信仰者はサンタ・マルゲリータ教会大クーポラの上まで昇り、聖務日課に参加することが出来た。

サベッリコはその時代このクーポラは金色に輝き、オリエントの大きな大理石の柱で支えられていたことを記憶している。サンタ・マルゲリータ教会は17世紀初頭改築される必要が生じ、1647年完成を見た。1810年までこの教区は続いた。その年教会は閉鎖され、民間利用に供されたのだった。

サンタ・マルゲリータ広場には、正確に言えば Ca' Canal(カ運河)を埋め立てる前、いわゆる Fondamenta della Scoazzera(スコアッゼーラ運河通り)が拡張され、碑盤にあるように富裕で教養豊かなパードヴァの上流夫人、マッダレーナ・スクロヴェーニによって創建された貧しい庶民用の病院、即ち救護施設があった。
[Scoazzera(ヴェネツィア語)を辞書で引くと家のゴミ収集の木製の《ゴミ箱》の意とあります。またゴミあるいは堆肥を集める人の妻あるいは女清掃人の意にも使用。更にそのゴミあるいは堆肥を集めてヴェネツィア外の土地に運び、土地の肥やしにするのですが、その運ぶ船の意にも使ったようです。]

彼女は、パードヴァのサンタ・マリーア・デッラレーナ教会[マドンナ・デッラレーナ教会とかサンタ・マリーア・デッランヌンチャータ教会とも呼ばれるこの教会のスクロヴェーニ礼拝堂にジョット・ディ・ボンドーネがフレスコ画を描いたことで有名。ジョットのパトロンであったエンリーコの命で1305年献堂されました]を建てたエンリーコ・スクロヴェーニの息子ウゴリーニの娘で、エンリーコはダンテが『神曲』地獄篇の中で高利貸しの仲間に入れたリナルド[Reginaldo degli Scrovegni の事?]の息子である。 」
ジョット・ディ・ボンドーネ画『東方三博士の礼拝』[ジョットがスクロヴェーニ礼拝堂に描いたフレスコ画連作の内、1301年飛来したハレー彗星を描き込んだ『東方三博士の礼拝(Adorazione dei Magi)』]

[ 「『神曲』地獄篇第17歌
第7圏(ここには暴力者が住んでいる)第3環。神に対する暴力者――高利貸つまり技術すなわち神の孫に対する暴力者――彼らは一門の紋章のついた財布を頸からかけ火の雨の中に坐っている――ジェリオーネ――カステロ・デイ・ジャンフィリアッツィ、ウブリアーキ、スクロヴェーニなどはヴィタリアーノ・デル・デンテおよびジョヴァンニ・ブイアモンテなどを取り巻いている――二人の詩人はジェリオーネの背に乗って第8圏に下る
……
すると白色の小さな財布に青色の孕(はら)んだ
牝豚の模様(1)のついたのをさげた一人が私に
いった。《きみはこの濠の中でなにをしているのだ、
さっさと行ってしまえ。だがきみはまだ、
生きているのだから、私の左側に私と
同郷のヴィタリアーノ(2)がもうじき坐るのを
知っておくがよい。これらのフィレンツェ人のうち
私だけがパドヴァ人なのだ。……》
……
  注(1)パドヴァの名門スクロヴェーニ家の紋章
  注(2)ヴィタリアーノ・デル・デンテといって、1307年パドヴァの長官となったこともある人。」
  ――『筑摩世界文學大系 11――ダンテ』(野上素一訳、筑摩書房、昭和四十八年十一月十五日)より ]

「彼女はフランチェスコ・レジーニと結婚したのであって、弁護士の資格を持つアントーニオ・ピアッツァがチコーニャに宛てた手紙の中で推察し、また『Inscrizioni』の中で、チコーニャが引用しているようにフランチェスコ・マンフレーディではない。

彼女は1439年ではなく、1428年に亡くなった。その年1421年5月21日から住んでいたサンタ・マルゲリータ地区で作られた遺言状が公にされた。スクロヴェーニによって創建され、1762年サン・マルコ財務官の手で修復された右岸の救護院の傍に、現在でもメネギーナ・ボッコによって、12人の女性貧窮者のために建てられた、別の救護施設がある。

ということはそれは、1403年11月18日の遺言書として残されたものであるということである。サンタ・マルゲリータ広場にある二つの井戸は、1529年11月12日、Pregadi(ヴェネツィア元老院)の命で作られたものである。

この広場の中央に、今でも毛皮製造業者[varoter=ヴェ語単数←varoteri複数]のスクオーラ(同信会館)が建っているが、イエズス会に所有されていたもう一つの作品が手放された後、1725年に『聖母マリアの聖エリザベツ訪問』が彼らによって奉納された。敬虔な浅肉彫りがファサードを飾っていたが、市の博物館に1886年納められた。 」
  ――『ヴェネツィア興味津々』(ジュゼッペ・タッスィーニ著、Filippi Editore、1863)より
  1. 2012/01/28(土) 00:07:12|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの広場: サンタ・マルゲリータ広場(Campo S.Margarita)(1)

ヴェネツィアに行くようになって、地図以外に購入したガイドとして、Guido FUGA-Lele VIANELLO『コルトのヴェネツィア案内(CORTO SCONTO―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia)』(Lizard edizioni、1997)がありました。ヴェネツィア案内人 Corto Maltese の案内でヴェネツィアを巡ります。その他 Giulio Lorenzetti『ヴェネツィアと入江(Venezia e il suo Estuario)』(Edizioni LINT Trieste、1926)は、時々このブログで紹介しました。そして名著 Giuseppe Tassini『ヴェネツィア興味津々(Curiosita` veneziane)』(Filippi Editore、1863)、最近 Alberto Toso Fei『大運河の秘密(I Segreti del Canal Grande)』(Studio LT2、2010)が発行されています。
グイード・フーガ=レーレ・ヴィアネッロ『CORTO SCONTO』『ヴェネツィアとその入江』アルベルト・トーゾ・フェーイ『大運河の秘密』ヴェネツィアをイメージ的に語ったエッセイとしては、Diego Valeri『ヴェネツィア・センティメンタル・ジャーニー(Guida sentimentale di Venezia)』(Passigli Editori、復刻1997)、Tiziano Scarpa『ヴェネツィアは舌鮃だ(VENEZIA E` UN PESCE)』(Universale Economica Feltrinelli、2000)、Paolo Barbaro『再び見出された町、ヴェネツィア(Venezia―La citta` ritrovata)』(Marsilio Editori、1998)、Alvise Zorzi『ヴェネツィア再発見―1895~1939(Venezia ritrovata 1895~1939)』(Arnoldo Mondadori Editore、1995)等を覗きましたが、パーオロ・バルバロ『再び見出された町、ヴェネツィア』(Marsilio Editori、1998)から、私が通った語学学校のある広場、サンタ・マルゲリータ広場の一節を紹介してみます。
ディエーゴ・ヴァレーリ『ヴェネツィア・センティメンタル・ジャーニー』Tiziano Scarpa『Venezia e` un pesce』パーオロ・バルバロ『また見出された町―ヴェネツィア』アルヴィーゼ・ゾルジ『再発見されたヴェネツィア 』「朝も酣な頃、到頭“私の広場”に帰ってきた。ここはヴェネツィアの全広場中、最も素敵で最も人間的と言っていいだろう。即ちサンタ・マルゲリータ広場である。何日間か、ある国際会議に出席する予定がある。サンタ・マルゲリータ広場で、ある国際シンポジウムがあることになっている。以前はこの広場はヴェネツィアでも貧窮者の住宅区域であった――世界は変わった、そして世界は変わらず続いていく。

この大きな広場には、何処かしこと言わず女達の姿がある、魚屋、八百屋、編み物屋の屋台に、また豚肉加工食品店、衣料品店、肉屋の店内や店外、ミニ・マーケットや大スーパー、肉桂色の玩具の店に――今では伝説的となった Pettenello、子供時代、そこで成人してからもショーウィンドーに垂涎の物を見て、あらゆる事を夢見たものだった。
サンタ・マルゲリータ広場の屋台サンタ・マルゲリータ広場に集う人々サンタ・マルゲリータ広場に出たクリスマス用品の屋台[サンタ・マルゲリータ広場点描]  その先には美容院や教会、カッフェ等に、小さな花束と卵の入った大きな籠を抱えた女達の姿がある。カッフェ7軒、バール2軒、大衆食堂1軒、レストラン4軒、教会1堂、元映画館2軒……映画館の1軒は現在では国際会議あるいは国際シンポジウムのホールになった。

女達の声、女達のお喋り、女達の呼び声、女達の顔。この大きな広場を行ったり来たり、買い物したりしなかったり、通り掛かったり帰ってきたり、喋ったり叫んだり、挨拶し合ったりバーチョし合ったり、笑ったり泣いたり。

女達の顔は白、黒、亜麻色や赤い髪、醜女だったり美人だったり、老けた人、若い人。活気のある目、思い沈んだ目、茫然自失の目、愛情溢れた目、狂気じみた目。太った、痩せた、不安定な、従順な、威嚇的な体。妊娠して腹が突き出た人、壊れたカート、ビニールの買い物袋と瓶類の間に赤子を乗せた乳母車。

抜け道で待ち伏せしている――穿鑿好きの女、厚かましい女、陰口を叩くのが好きな女、いわゆる“Cazzafate(ヴェ語)――お節介焼き”の女。しかし笑顔一杯で、少々変わった、親切な女がいる。木立の下のベンチに腰を下ろして、お喋りし、煙草をふかし、辺りを眺め、誰かを待っている。孤独に幻想を垣間見ているかのようである。それも過去の幻視というよりは、明日の、将来のそれである。

今日は寒い、身を切るような冷気である。まあ、そんな事はどうでもいい。お喋りすること、語り合うこと、情報を交換すること、陰口をきくこと、稀には褒めそやすこと、それもいつも声高にである――何という声量! 何というエネルギー! 多少コミカルだ、この土地の言葉は――これって、それがしの言葉なのだが――みんなで話せば怖くない、そうコミカルでもない。

またしても、大・小・太・痩・中背・短軀の女達。食べ物、我が子、時間割、お金、病、楽しみ、笑い、スター、星占いといった、我がシンポジウム以外の話題がお喋りの対象である。繰り返されるその傾向には、良きにつけ悪しきにつけ、厳然たる違いがある。何度も何度も繰り返し反復される。同じ話題を再演し、2、3度は口酸っぱく強調する。

少なくとも話されるエピソードは、意味深の“調子”でリズミックなリトルネッロ(リフレイン)である――スィチーリアの操り人形劇の古風なルフランのようだ。

繰り返されるお喋りの、相変わらずの常套の話題はお金と病気。愛についてあまり話されないのは、多分今はその時代ではないということなのだろう。2人の若い男女が片方の井戸の所でキスし合っている。しかし突然娘は女達の一団に加わる。その女達に、あるいはスター達にでも呼び止められたかのような唐突さで――。

エネルギッシュで、機に敏く、傲った態度で、うんざりもし、海千山千で、底意地が悪い。滅多にお目に掛かれないが、女らしい優しさも見せる(あり得るか?)女達、恐ろしいばかりに生き生きと活動的である。生命力に満ちたこうした女達を見るにつけ、ヴェネツィアに対する信頼が再び甦る。

彼女らが活発であれば、万事、順風満帆なのである。」
  ――Paolo Barbaro『再び見出された町、ヴェネツィア』(Alnoldo Mondadori Editore、1995)より
  1. 2012/01/21(土) 00:05:13|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツイァの建物: ベンボ館(Palazzo Bembo)

ドルフィーン・マニーン館右隣はベンボ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を書いています。
赤いベンボ館「15世紀、後期ゴシック様式の素晴らしい建物。1階部分にヴェーネト=ビザンティン様式の最初の建築物の際立った要素が保存されており、それは右側角の石材端の部分とアカンサス模様で装飾された美しいコーニスである。
……
ファサード中央は3、4階の二つの対になった五連窓で完結している。最上階は後世の増築。
ティツィアーノ『ピエートロ・ベンボの肖像』P.ベンボ[左、ティツィアーノ『ピエートロ・ベンボの肖像』(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)、右、ティツィアーノと工房『ピエートロ・ベンボの肖像』(カポディモンテ美術館蔵、3作ある肖像画の最後の作品――2017.01.21~04.02日の『ティツィアーノとヴェネツィア派』展で来日] 
 
この館でピエートロ・ベンボは生まれた[この話は最近、下記のような疑義が申し立てられています]。ベンボ家は建国時の最古の福音家族の4家の一つであった。ずっと後に一人の総督を生んだのみで、センセーショナルな大議会のセッラータ(serrata)後、3世紀以上も続いた“新家族”(nuove)の優位性はようやく“最古の一家”(vecchie)が権力の座に昇り、実現した。
[serrata――1297年と1307年に大議会の議員資格が特定の家柄に限定され、その家柄の全ての成年男子(25歳以上)は非嫡出や合法的に廃嫡された者を除き、大議会に議席を持ち、貴族と規定された―『ヴェネツィア貴族の世界』(永井三明著、刀水書房、1994年2月4日)より]

ジョヴァンニ(任期1615~18)が総督に選ばれたが、彼はウスコック人[16~17世紀トルコと戦った民族]の海賊との戦いで有名になった年老いた兵士だった。

しかし多くの外交官、兵士、旅行家、商人の中で、ピエートロ(1470~1547)は一家に栄誉をもたらした。大文化人であった彼は、聖職者の人生を選んでいた。イタリア各地の宮廷で過ごした後、1519年の父の死後、ヴェネツィアでの生活に戻り、1539年には枢機卿に選出され、ローマでの生活となり、その地で没した。

彼はイタリア文学における画期的な里程標を構築した。また古典主義的俗語のマエーストロとして、特にルクレーツィア・ボルジャに捧げた『アーゾロの人々』の著名な愛の対話で名声を博した。

この『アーゾロの人々』は震えんばかりの、温かな(人間的な)本質を示している。即ち、彼がある若い女性と恋に落ちたことを思い起こすのにぴったりの書だということである。彼は宗教的なあらゆる便宜を失うことになったかも知れないので、彼女とは結婚出来なかったが、夫婦のように生活をしたのだった。」

R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は、概略次のような事を書いています。即ち、彼は詩人文学者、公式の歴史著述家、枢機卿でレオ10世の秘書でもあった。ルクレーツィア・ボルジャ①やカテリーナ・コルネール(1454~1510)②の友人でもあった。
[①フェッラーラの名君アルフォンソ1世デステ公に後妻として嫁ぐ。②キプロスのリュジニャン[西フランス出身ジャック2世―Jacques Ⅱ de Lusignan]王[伊語式ではGiacomo Ⅱ di Lusignano。またイエロニモス2世という表記も見ましたが何語式でしょうか]に嫁いだ。王と息子死後、セレニッシマに戻り、アーゾロに住む。]
ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』[『カテリーナ・コルネールの肖像』、左はジェンティーレ・ベッリーニ画、右はティツィアーノ・ヴィチェッリオ画]
なおこの書は、彼は炭河岸(Riva del Carbon)のこのゴシックの建物には住まなかったのではないかと書いています。ベンボ家はボローニャ出身で、697年の最初の総督パオルッチョ・アナフェストの選挙に参加したほどの古い家柄だということです。
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」[右端は大運河右岸(以前左岸と書きました)のペーザロ館、左中央寄りがカテリーナ・コルネールが生まれたコルネール・デッラ・レジーナ館]

日本の百科事典からピエートロ・ベンボの事績を抜き書きして纏めてみますと、①古典文学作品に限られていたテキストの文献学的研究をイタリア語の作品に応用して、ダンテ『神曲』、ペトラルカ『カンツォニエーレ』を出版した。②旧来の愛の概念に検討を加え、愛とは、神聖かつ理想的な美について思索を深めるものだとし、『アーゾロの人々』(1505)を出版した。③ラテン語に代わる文学語としてイタリア語を用いるよう提唱し、その規範として、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョを生んだトスカーナ語の使用を主張した『俗語散文集』(1525)を発表した。④『詩集』(1530)では、ペトラルカの詩法を忠実に模倣し、その後これに倣った詩人の輩出の端緒を開いた。⑤ヴェネツィア共和国の公式の記録者として『ヴェネツィア史』(1530)を書いた、等が挙げられます。
アーゾロの談論『アーゾロの人々』は、日本では『アーゾロの談論』(仲谷満壽美訳、ありな書房、2013年3月)として翻訳出版されています。

彼は枢機卿としてローマに住み、亡くなったので、墓はサンタ・マリーア・ソープラ・ミネルヴァ教会にあるそうです。ベンボ館右側のベンボ通り(Cl.Bembo)を挟んで右隣の17世紀の住宅に、1730~40年アントーニオ・ヴィヴァルディがウィーンに旅立つまで住んだそうです。2010.04.03日のブログヴィヴァルディの家でその事について触れました。
  1. 2012/01/14(土) 00:09:46|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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バーカロ(3)

アッラルコ(All'Arco)[サン・ポーロ区ロッキアライオ通り(Cl.de l'Ochialer[ヴェ語]=occhialaio[伊語]=眼鏡修理人)436番地[《ド・モーリ》の直ぐ傍]。8.00~16.00/18.30~22.00、日曜休日]  ワインの選択は豊富に出来る。鹿肉と猪肉のハム、鱈のバッカラ(bacala`)とアンチョビー[sardon(ヴェ語)=acciuga(伊語)]、平らで小さなパニーニ(panini)がある。
アルコに集う人々《アッラルコ》に集う人達。店の右脇の路地少し奥に《ド・モーリ》の看板がチラリ見えています。
ルーガ・リアルト(Ruga Rialto) アンティーカ・オステリーア・ルーガ・リアルトのこと[サン・ポーロ区ラヴァーノ通り(Rugheta del Ravano)692番地。水曜休み]  新しい店。――古いオステリーア[旧Letizia]が戻ってきて縁起が良い。オンブラ1杯800リラ[リラ当時の値段は100円以下の格安。大運河の渡し舟トラゲットが700リラでした、現在は0.5ユーロです]、サオール・ソースの鰯[sarde in saor―saor(ヴェ語)=sapore(伊語)=味の意]、パスタと隠元豆の料理[pasta e fagioli]。玄関口に大きな樽[飾りだが、外で飲む人のテーブル]が置いてあるので直ぐ分かる(*)。
《アンティーカ・ルーガ》のカウンターに立つジョルジョさん[《アンティーカ・ルーガ》ではジョルジョさんが気さくに対応してくれます。最近結婚して女の子が生まれ、嬉しそうに写真を見せてくれました。“ジョルジョ”と言えば、2人の経営者店主の1人がジョルジョさんです、為念。]

[イタリアでは通常バール等では注文品が出て来る度に、その場で直ぐ様支払いのコインをカウンターにピシャリと置きます。バーカロでは最後に飲食した物を正確に申告し支払います。リアルトの野菜広場のバール《マルカ》は夜はバーカロに早変わり、客が2人立てば店内が一杯の空間に何十人という客が押し寄せ、店前の広場で立ち飲みのお喋りです。バーテンのフランチェスコさん等、客が何を何杯飲んだか食べたか、記憶出来る筈もありません。最後に正確に申告し清算するのがヴェネツィア人なのです。国民皆兵に快く立ち上がった中世の昔から(他のイタリアでは見掛けません)、何世紀もかけて培ってきた信義の上に成り立つヴェネツィア風です。知り合った仏人ベアトリスは、注文した照明器具が直ぐ届き、その場で支払いをしようとしたら、dopo と言われ、1ヶ月後に清算したそうで、パリでは考えられないことと言っていました。]

サークロ・エ・プロファーノ(Sacro e Profano) [サン・ポーロ区リアルト・ヴェッキオ・オ・パランゴーネ(Cl.Rialto Vechio o Parangon)499(?)番地]  エレガントな店で、リバジョーネ[libagione=献酒]の儀式は注目すべき。

ヴィヴァルディ(Vivaldi) [サン・ポーロ区ラ・マドンネッタ通り(Cl.de la Madoneta)1458番地。10.00~15.00/18.00~24.00、月曜休み]  サン・ポーロ広場の直ぐ近く、生き生きとした店。つまみの突き出しとコクのあるワイン(*)。

アッラ・ボッテ(Alla Botte) [サン・マルコ区ビッサ通り(Cl.de la Bissa)5482番地(サン・バルトロメーオ広場裏、サン・リーオ教会へ向かう左路地)。10.00~15.00/16.30~23.00、木曜、日曜と水曜午後休み]  脾臓[spienza(ヴェ語)=milza(伊語)]、ムゼット(museto)、他にも各種チケッティ(cicheti)。23.00まで座って食べられる部屋がある(*)。

アイ・ルーステギ(Ai Rusteghi) [rusteghi(ヴェ語、複数)=rustici(伊語―百姓、つっけんどんな人)。サン・マルコ区サン・バルトロメーオ広場5529番地(アッラ・ボッテの近く)。15.00~17.00は閉店、日曜休日]  パニーニ(paninetti)が美味しい(*)。
[ヴェネツィア生まれの音楽家エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリがカルロ・ゴルドーニの作品(『I rusteghi』)を下に『I quattro rusteghi(4人の気難し屋)』というオペラを書いています。]

フィオーレ(Fiore) [サン・マルコ区レ・ボッテーゲ通り(Cl.de le Boteghe)3461番地(サント・ステーファノ教会前バール・アンゴロ脇路地入る)。火曜休み]  広いカウンターに色々の料理が置かれ、黒板にヴェネツィア独特の料理のその日のメニューが書かれている。通りに面した席でパスタ料理を食べることが出来る(*)

アッラ・リヴェッタ(Alla Rivetta) [サンタ・クローチェ区セケーラ通り(Cl.Sechera)637番地(ラーナ(Cp.de la Lana)広場傍)]  ワインはそこそこだがパニーニ(panino)はお勧め(*)。
「アッラ・リヴェッタ」のご主人にレデントーレのお祭りの時お世話になりました《アッラ・リヴェッタ》のご主人にはレデントーレのお祭りで、花火が始まるまでジュデッカ島での見物席に入れて頂き、大変お世話になりました。

ヴィーニ・パドヴァーニ(Vini Padovani)[ドルソドゥーロ区チェルキアイ通り(Cl.dei Cerchieri[ヴェ語]=cerchiai[伊語]=樽のたが職人達の意)1280番地。月曜~木曜~21.00/金・土曜~24.00、日曜休み]  内部にテーブル席。広いカウンターでアンチョビーまたはソップレッサータ[sopressada=豚肉のサラミ・ソーセージ]を挟んだ小さなパニーニ(paninetti)。

アイ・プロメッシ・スポージ(Ai Promessi Sposi)[カンナレージョ区オーカ通り(Cl.de l'Oca)4367番地(サンティ・アポーストリ広場近く)。~23.00、水曜休み]  奥の部屋で食事が出来る。中でも、揚げ物と小海老とルーコラの小さなニョッキ[gnocchetti=南瓜、ジャガ芋等を茹でて潰した物に小麦粉、硬質小麦粉等を混ぜ、団子状にして茹でて、各種のソースで味付け]がお勧め。
バーカロ“Ai Promessi Sposi” アレッサンドロ・マンゾーニ『いいなづけ』[《アイ・プロメッシ・スポージ》はアレッサンドロ・マンゾーニの傑作『いいなづけ』に敬意を表明した店名でしょうか。]

レーノ(Reno) [サン・マルコ区ラ・マンドラ通り(Cl.de la Mandola)3660~3733番地近辺らしい]  アンチョビー入りのポレンタ[polenta=玉蜀黍の粉に水を入れ火に掛け、固く練り上げた物]や固茹での卵。フリウーリ人の溜まり場。

アッランティーコ・ドーロ(All'Antico Dolo)[サン・ポーロ区リアルト通り(Ruga Rialto)778番地。~23.00、日曜休み]  子牛の胃袋や腸の料理[tripa rissa e manega(ヴェ語)=trippa riccio e lampredetto(伊語)?]が有名である(*)。

アル・マリネール(Al Mariner)[カンナレージョ区オルメジーニ運河通り(Fdm.Ormesini)2679番地]  温かいムゼット(museto)、温かいトリッパ(tripa)、ブルスケッタ(bruschetta=フランスパンをトーストして大蒜を擦り込み、オリーブ油と塩で味付けした物)、馬の塩漬け肉(salumi)、ヴィン・ブルレ(vin brule`=ホット・ワイン)等。

ベンティゴーディ・ダ・アンドレーア(Bentigodi da Andrea)[カンナレージョ区1424番地(ファルセッティ埋め立て通り(Rio Tera` Farsetti)からカッレゼッレ(Calesele)通りに入った所)。~23.00]  お勧めのチケッティ(cicheti)と小部屋がある。

アル・ミリオーン(Al Milion)[カンナレージョ区プリーマ・デル・ミリオーン小広場(Corte Prima del Milion)5841番地]  カウンターの方が好ましい、素敵な店。

ドゥーエ・コロンネ(Due Colonne)[カンナレージョ区クリスト埋め立て通り(Rio Tera` de Cristo)1814/a番地。~21.00、火曜休日]  温かいムゼット(museto)、蛸(folpo)、脾臓(spienza/spiensa)、牛の胃(tripa)がある。

ダ・トーニ(Da Toni) [ドルソドゥーロ区サン・バゼージョ運河通り(Fdm.S.Basegio)1642番地。月曜休み]  運河通りにはテーブルもある。バッカラの煮込み[bacala` in tecia(ヴェ語)=baccala` in tegame/umido(伊語)]、ミートボール(polpetta)、烏賊の煮込み等。

カンティーナ・アズィエンダ・アグリーコラ(Cantina Azienda Agricola)[カンナレージョ区ファルセッティ埋め立て通り(Rio Tera` Farsetti)1847/a番地]  ヴェーネトのワインを量り売りもする。ミートボールと魚のフライがお勧め。 

ダ・レーレ(Da Lele)[サンタ・クローチェ区トレンティーニ広場(Cp.dei Tolentini)183番地。6.00~14.00/16.30~20.00、土曜午後と日曜休日]  ヴェネツィアの典型的な小バールである。ワインは上等、パニーニは多種。

オステリーア・アイ・ド・ラドローニ(Hostaria Ai Do Ladroni)[サン・マルコ区フォンダコ・デイ・テデスキ通り(Rm.del Fontego dei Tedeschi)5362番地。~24.00まで開店]」
  ――語学校教科書より訳出。所番地や営業時間等補足しましたが、リラ時代の教科書ですので、変更があるやも知れません。
「Cantine del Vino gia` Schiavi」ジャ・スキアーヴィこの他にかつてのNHK・TV・BSの世界街歩き番組ヴェネツィア編でカメラが入ったバーカロに《カンティーネ・デル・ヴィーノ・ジャ・スキアーヴィ(Cantine del Vino-gia` Schiavi)》[ドルソドゥーロ区ナーニ運河通り(Fdm.Nani)992番地(サン・トロヴァーゾ橋前)。8.00~14.30/15.30~20.30、日曜午後休み]がありました。右は店で頂いたこの店のカード、長橋(P.Longo)近くから見るサン・トロヴァーゾ橋前の〇印。
バーカロ・レメールのある広場またリアルト市場の裁判所 Fabriche nove の丁度大運河の対岸に見えるレメール小広場(Cpl.del Remer)に《レメール(ゴンドラの櫂を作る職人の意)》というバーカロが新しく出来ました。時間を置いてサーヴィスのチケーティが脇のテーブルに並べられ、それが目当ての人もいるようです。
NHK・TVのフィクション風のドキュメント、ドラマティックバス・ベネチア編『ヴァポレットの女』の中で、ヴァポレットの北部ラインの運転手さんが話しているその背景から、このバーカロのカウンターでの録画であることが分かりました。ヴェネツィアのバーカロは枚挙に遑がありません。
  1. 2012/01/07(土) 00:00:58|
  2. バーカロ
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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