イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

食(1)(フォークについて)

NHKラジオ・イタリア語講座2011年4~6月に《イタリア・食のサロン(Salotto di Gastronomia)》という講座がありました。その中でフィレンツェのカテリーナ・デ・メーディチ(仏語カトリーヌ・ド・メディシス)[新教徒を抑圧して聖バルテルミの虐殺を黙認した]が1533年、後のフランス王アンリ2世に嫁ぎ、大勢の料理人や菓子職人を伴い、沢山の食材や食器・料理道具を携えてフランス入りをしたのだそうです。フィレンツェの料理が色々フランスに伝わったと思われますが、その中の一つにフォーク(伊語forchetta)もあったそうです。
NHKラジオ・イタリア語講座2011年4月古代ローマでは手摑みで食事をしたようです。ナツメヤシの実等いくつかの食べ物を取るための小さなフォークは昔もあったそうです。西ローマ帝国の没落と共にフォークの使用も途絶えます。

1003年[この当時は3月が一年の初月だったそうです]ヴェネツィアで、総督ピエートロ・オルセーオロ2世(在位992~1009)の息子ジョヴァンニに、ビザンティン帝国のコンスタンティノス8世[1025~28、その時はまだ帝位にありません。バシレイオス2世(976~1025)の時代]の姪マリーアが嫁いだ時の嫁入り道具の一つとしてフォークも持参し、ヴェネツィアで日の目を見たのだそうです。しかしその後、ヨーロッパの宮廷では引き続き使用されることはなかったと言います。

それは一つには、ビザンティンに対する偏見があったり、悪魔が地獄落ちした人間を貪り食うのに使った熊手(forca)と酷似していたということもあったそうです。いずれにしても2本歯等のフォークはレストラン等の厨房では使われていたそうで、2~3本歯等の歯は尖り過ぎていて、口に食事を運ぶには危なっかしいと思われたようです[フォークの歯、rebbio―伊語=branco―ヴェ語]。

人前で公然とフォークを使用した最初の人物は、カテリーナ・デ・メーディチとアンリ2世の息子アンリ3世で、とある居酒屋に立ち寄った時に使用したのだそうです。

ヨーロッパでフォークの使用が一般的になるのは1700年代になってからで、イタリアではそれ以前からパスタ料理のために定着していたそうです。現在使われている4本歯は1800年頃、ブルボン家のナーポリ王フェルディナンド4世の宮廷晩餐会で、庶民の食べ物だったヴェルミチェッリ(=スパゲッティ)を振る舞いたいと思い、侍従で技術者だったジェンナーロ・スパダッチーニという人がより食べやすく安全な4本歯のフォークを考案したと、吉川敏明『ほんとは知らない―イタリア料理の常識・非常識』(柴田書店、2010年3月15日)に出ています。
『イタリア料理の常識・非常識』フォークだけで食べるヴェルミチェッリ等ロング・パスタ類は元来庶民の食べ物だったとかで、上流社会の食卓に上ることはなかった故、賓客を迎える晩餐会などには正式な献立としてのることはなかったようです。

また現在、日本のイタリア料理店でお昼のランチにスパゲッティを注文すると、フォークとスプーンがセットで登場し、お客がスパゲッティをフォークで絡ませ、スプーン上で巻いて食べる風景を見掛けますが、私がヴェネツィアでファビアーナさんのプランゾに招かれた時、プリーモにスパゲッティを出すけれど、スプーンを使ってスパゲッティを食べるのはみっともないからやらないで、と釘を刺されました。スプーン上でフォークにスパゲッティをからめる行為は人前ではしてはならない、家庭内だけの児戯に類する作法(maleducato)のようです。

ヴェネツィアで4人でレストランに行き、全員がスパゲッティ・アッレ・ボンゴレを頼んだ時、カメリエーレが出来たてのスパゲッティを特大の皿に冷めないように大きな金属の蓋で蓋をし、サイド・テーブル(台車)を押して運んで来て、客の目前で4人の皿に装ってくれました[こういう風に客の前で蓋を取って供するのはヴェネツィア流のサーヴィスとのこと]が、それは片手にそれぞれフォークとスプーンを持ってのことでした。

上記の『イタリア料理の常識・非常識』によれば、シチーリアにはスパゲッティをスプーンも使って食べる、ある一地域があるそうで、その地のシチーリア人がアメリカに移民し、その作法をアメリカ人に教え、その教えがアメリカから日本へやって来て、普及したのではないかとしています。

いずれにしても、イタリアではスパゲッティ料理の時はフォークしか出て来ませんので、イタリアに行かれる方はフォークだけで食べられることをお勧めします。更にリゾットも4本歯のフォークで食べるのがイタリア式だそうで(3本歯では米が歯の間からこぼれます)、4本歯フォークで食べることの出来ないリゾットは、イタリア料理のリゾットの体をなしていないと、筆者のイタリアン・シェフは述べています。

[近年スーパー等で rucola をルッコラと書いた値札が下げてあったり(何故《ッ》が入るのでしょう?)、パルマ産のチーズ parmigiano-reggiano を、パルメザンと書いてあったりもします(英語風にはパーマザン・チーズ。パルマ産以外のチーズはパルミジャーノ・レッジャーノの呼称は使えない筈ですので、イタリアではパルマ産以外は英語を借用してパルメザン(パルマ風)とイタリア式に発音する、ということでもあるのでしょうか?)あるいは小学館の『伊和中辞典』がパルミジャーノ・チーズをパルメザンチーズとしていることに右へ倣えでしょうか、いずれにしても《食》の素人はどこの産かと混乱します。]    

2015.07.17日追記: 『フォークの歯はなぜ四本になったか』(ヘンリー・ペトロスキー著、忠平美幸訳、平凡社、1995.11刊―平凡社ライブラリー文庫化2010.01刊)という本が出版されていますが、上記のような歴史はご存じないのか書かれていません。著者の意向は、デザインは《形は機能に従う》のではなく《失敗に従う》という考えに集中しているようです。
  1. 2012/02/25(土) 00:03:45|
  2. ヴェネツィアの食
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ヴェネツィアの建物: ダンドロ小館とダンドロ館(2)

[続き]
「その時総督はこの事態を予測していたかのように、無遠慮な提案を言い放った。共和国は、もし十字軍がヴェネツィアに反抗するダルマツィア海岸の諸都市を服従させるのに手を貸してくれるならば、運送費用全額を引き受けましょう、と。
エンリーコ・ダンドロ[出航前、サン・マルコ寺院で忠誠を誓い合う総督と十字軍一行(総督宮殿、大評議会の間)]  ザーラ(現、クロアティアのザダル)はヴェネツィアに楯突いていたがため、自業自得の運命を辿った最初の町である。町が征服され、船団が出港しようとしている時に、権力を奪われた Basileus(皇帝の意)イサキオス2世(Isacco Angelo)の息子がやって来て、父が王冠を取り戻したいので助けて欲しいと総督に懇願した。そしてもし戴冠式が東方正教会で行われるならば、教会はまたラテン教会と一つに結ばれ、統合されるようにすると約束した。

しかし十字軍の力で皇帝が再び王冠を被った時、ギリシア人民はその事に反対し、それらの約束は守られることはなかった。宗教問題がダンドロほどの精神堅固な男の意識に、それ程の痛みを与えるとは考えにくいが、その事は決して忘れることのなかったほとんど盲目、という苦痛を与えられ、今や昔となったかつての事件の清算をする、またとない口実を彼に与えた。

1204年十字軍が雪崩を打って、コンスタンティノープルの400の塔に向けて攻撃を仕掛けたのである。それだけではない。彼自身100歳に近かったが、身体頑強で、不屈の精神の持ち主であり、サン・マルコの旗を手にし、戦士達と地上に降り立った。
ドメーニコ・ティントレット画『コンスタンティノープル征服』[ドメーニコ・ティントレット画『コンスタンティノープル征服』]  町の落城、即ち帝国の慴服後、十字軍は土地を分け合った。そして帝国の王冠をダンドロに差し出したが、彼はそれを拒否した。彼の代わりに、帝国の王冠はフランドル伯ボードゥアン[エノー伯を兼ねる]の頭上に輝いた。

しかし総督が手にした戦勝品は途轍もないもので、信じがたい量だった。その上この町の8分の3の土地の他に彼が付け加えたのは、アイトリア・アカルナニア(Acarnania, Etolia=現ギリシア中西部地方)、エーゲ海のイオニア諸島(isole Jonie)、キクラーデス諸島(Cicladi)、スポラーデス諸島(Sporadi)以外に、更に多くの最重要の土地や島等である。

その調整作業は大変な時間を要した。《オリエントのラテン帝国の8分の3の宗主》と称することだけでなく、レヴァントでの通商の大幅な拡大、何世紀にも渡って商業的優位を保持出来ることがヴェネツィアに齎された。その上モンフェッラート侯[十字軍の総大将]からクレタ島(Candia)を譲り受けた。

ヴェネツィアに帰還した船は、貴重な宝石類、真珠、想像も出来ない芸術品の数々という巨大な宝の山を持ち帰った。例えば、サン・マルコの4頭の青銅の馬、高価で珍しい織物類、銀40万マルコ、金1万2千リッブラ、更に銀5万リッブラ。
聖マルコ寺院の4頭のブロンズ馬ヴェネツィアが現在のような素晴らしい街になったのは、その芸術作品のお陰であった。エンリーコ・ダンドロの後にも先にも、こうした事は決して見られなかった。
エンリーコ・ダンドロ総督は、……1205年6月、97歳の時この地に没した。……」
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より

ビザンティン式という形容に用いられる常套的形容詞に、《煩瑣な》儀式、《狡猾な》外交、《阿った》美辞麗句、《枝葉末節の》論議等、ビザンティン帝国の歴史的な特性だったことから使われる言葉があるようです。

[上記の『コンスタンティノープル征服』の絵を調べている時、非常に信頼しているアルヴィーゼ・ゾルジ著『ヴェネツィア歴史図鑑』(金原由紀子他訳、東洋書林刊)は、キャプションにパルマ・イル・ジョーヴァネ作としていました[キャプションは日本で作文されたのでしょうか]。総督宮殿で購入した図録は、絵が左右逆版になり、Domenico Tintoretto 作となっています。結局、『図説 ヴェネツィア 《水の都》歴史散歩』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社刊)を利用させて頂きました(聖マルコ寺院の4頭の馬も)。画名も伊語で、presa、conquista、和訳も征服、陥落等を見掛けました。]
  1. 2012/02/18(土) 00:00:26|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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箱根ガラスの森美術館

ヴェネツィアでは既にカーニヴァル中です。仮面を被って扮装した人達を、町中至る所に見掛けるでしょう。そんな訳でヴェネツィア気分を満喫しに、箱根ガラスの森美術館にムラーノ・ガラスを見に行ってきました。《日本におけるイタリア年2011》の《ヴェネツィア展》の時とまた異なったガラスが展示されているようです。現代作家リーヴィオ・セグーゾやアメリカのデイル・チフーリのガラス作品まであって、“ヴェネツィア”を楽しんで来ました。
ヴェネチア仮面祭カーニヴァルは移動祝祭日です。春分の日後の満月、直ぐあとの最初の日曜日が復活祭となる決まりです。その日から40日前(日曜は数に入れない―6週間前)の火曜日が、カーニヴァルの最終日の martedi` grasso(肉の火曜日)となる約束です。その前の giovedi` grasso(肉の木曜日)から土・日曜を挟んだ最終日までが一番の賑わいを見せます。翌日の Ceneri(灰の水曜日)からは四旬節でヴェネツィアも豹変し、閑静そのものです。

今年は閏年のため1日狂いましたが、今年の復活祭は4月8日、来年は復活祭が3月31日、2014年は4月20日、2015年は4月5日だそうです。

復活祭後の祝祭日も、この日から決まっていきます。辞書によれば、復活祭直後の月曜日が lunedi` dopo Pasqua、40日目の木曜日がキリスト昇天祭(Ascensione)、ヴェネツィアではセンサ(Sensa)と言い、かつては《ヴェネツィアの海との結婚式》はこの日に行われていたそうですが、現在は直後の日曜日に祝われるようになっています。

セレニッシマ時代は、総督がブチントーロ船をリード島のアドリア海入口まで漕ぎ出し、金の結婚指輪をアドリア海に投げながら次のように誓ったそうです。《Ti sposiamo, o mare nostro, in segno di vero e perpetuo dominio.》 現在は市長によって、誓いの金印を月桂樹の輪飾りに変えて挙行され続けているとか。海との結婚式については、《アッカデーミア美術館で触れました。

Pentecoste(聖霊降臨祭)は復活祭から50日目の日曜日、Corpus Domini(聖体祭)は60日目の木曜日。移動祝祭日はこのような決めで進んでいきます。

私の初めてのカーニヴァル体験は、1996年のことでした。ヴェネツィアに到着するや、先ず向かったのは、フェニーチェ劇場でした。1月29日に焼失したことをニュースで知っていました。劇場前に着くと、門柱の前の階段に大きな山のような、弔意の花束が捧げられていました。焼け残った石の門柱の間から見えるのは、曇った空だけでした。内部は完全に焼失しているようでした。
炎上するフェニーチェ劇場(1)フェニーチェ劇場焼失翌朝焼失したフェニーチェ劇場正面[左、炎上するフェニーチェ劇場。中央、フェニーチェ劇場焼失翌朝。右、再建開始のフェニーチェ劇場。]
数日後再度見に行くと、劇場前のサン・ファンティーン広場には近付けないように遠くから縄が張られ、遠望するしかありませんでした。カーニヴァル中のこともあり、直ぐに狭い道が人で一杯になり、身動きつかなくなり、この一画から広い広場に解放されるまで1時間も掛かったのです。その間群衆は、狭い道を熟知しているかのように押し合い圧し合いすることなく、前の人が動き出すまで、気長に待って行動する様子には感心したものです。
デイル・チフーリのガラス作品チフーリ作品についてチフーリ作品  リーヴィオ・セグーゾ『Vegetazione '95』[箱根ガラスの森美術館。左2点はチフーリ作品、右端はリーヴィオ・セグーゾの『ラグーナの植物群(Vegetazione '95)』(ヴェネツィア・ビエンナーレ100周年記念のために1995年に制作された物)]

下、無料貸し出しの仮面を付け扮装しカーニヴァル気分で、館内のヴェネツィアン・グラスを鑑賞して回ります。
無料貸し出しの仮面を付け扮装してヴェネツィアン・グラスの鑑賞風に揺れる盃花瓶酒杯ガラスの飾り人形
  1. 2012/02/16(木) 15:51:47|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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ヴェネツィアの建物: ダンドロ小館(Palazzetto Dandolo)とダンドロ館(1)

ベンボ館の右はベンボ通り、更に17世紀の住宅(ヴィヴァルディが住んだことがあるそうです)や16世紀の住宅建築があり、ダンドロ小館、ダンドロ館と続きます。ダンドロ小館について『大運河』(1993)は次のような事を述べています。
ダンドロ小館とダンドロ館「この場所にはかつてダンドロ家の建物が建っていた。その庭はサン・ルーカ広場まで続く広さだった。13世紀のゴシック様式のこの美しい小館だけが残存しており、その狭いファサードは楣(まぐさ)式構造のポルティコが1階を占めており、上の階は小さな柱群と両扶壁柱の上部を飾る三葉飾りのアーチで全面的に覆われている。後に最上階が増築された。

ここで、したたかで強靱な総督エンリーコ・ダンドロ(1108~1205)が生まれた。また1551年ピエートロ・アレティーノがここへ越して来、1558年に卒中を引き起こして死亡するまで住まった。彼は抱腹絶倒の笑い話から淫らな小話に至るまで物にし、当時の大毒舌家と言われた。

ダンドロ家については、今日では総督の家系は絶えたものと思われる。
……
理由が判然としないのだが、セレニッシマに有能な人物を供給し続けたにも拘わらず、この一家は次第に衰退の色を濃くしていった。この全4人の総督とは、エンリーコ(1192~1205)、ジョヴァンニ(1280~89)、フランチェスコ(1329~39)そしてアンドレーア(1343~54)であり、優雅な品格の男達であった(だから、ミラーノのルキーノ・ヴィスコンティ公の妻イザベッラ・フィエースキが1347年ヴェネツィアを訪れた時、当時40歳の総督アンドレーアにゾッコン惚れ込んでしまった)。彼は逞しい体付きで鉄の心を持ち、勇猛果敢な兵士であり、有能で抜け目のない戦略家であった。 ……
右、エンリーコ・ダンドロ[右、エンリーコ・ダンドロ]  エンリーコは1108年に生まれ、若かりし時、コンスタティノープル(Costantinopoli)でバイロ[Bailo=コンスタンティノープルの皇帝宮殿近くに住み、ヴェネツィアとの交渉事に当たる外交官]をしていた。その地で皇帝(Basileus)マヌエル1世(Manuele Comneno、1143~80)がオリエンタル風の事大主義的礼(お追従や媚び諂い)を強要していたが、ダンドロのヴェネツィア人釈放を求める断固とした威厳には甚く感心したのだった。それまで皇帝の輝きには目が眩むべしという態度を強制しており、彼は何事にも目を瞑るこの礼儀作法から逃れようとして、視力を失う原因となったし、頭にも傷を負った。

1192年総督に選出されたが、彼がやった事の中で“マッタパン(Matapan)”銀貨あるいはグロス銀貨の鋳造がある。聖マルコの像を刻んだ最初の銀貨である。総督ジョヴァンニの下では有名なドゥカート金貨あるいはヴェネツィア・ゼッキーノ金貨の鋳造が始まった。凡そ1世紀後の1285年3月のことである。
[このducato という24金の金貨は、下図のように片面に聖マルコが総督に旗を授ける図、逆面に玉座に座るキリスト像が彫られています。共和国崩壊まで凡そ500年間通用します。1285年ではなく、1284年のようです。]
ダンドロ金貨[DANDVRO金貨]  そしてフランス貴族達が第4次十字軍を公表したのは、この時のことである。彼らはヴェネツィアに使者を派遣、聖地に船で輸送してくれるように申し込んだ。

ヴェネツィアはいかなる事があれ、引きうけようと受諾した。最終的な取り決めは総額を4回分割で支払うこと、戦利品は折半することが決められた。セレニッシマ共和国側も、9千頭の馬、荷を携えた約4万人の兵士と艤装品の運搬のための艦隊を準備し、9ヶ月分の兵士らの糧秣等を用意した、その上ある数量の用兵を提供することまで。

船団は総督自身が指揮を執ることになるだろう。その時点には十字軍騎士達は、ヴェネツィアに集まって来ており、リード島に配置されていた。

全ての艦船は進水した。しかし乗船時になっても十字軍騎士達は取り決めた全額の費用を支払うことが出来なかった。 ……」
   ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より。(2)へ続く。
  1. 2012/02/11(土) 00:01:57|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――ワーズワース

ウィリアム・ワーズワース(1770.04.07カンバーランド州コッカマス~1850.04.23カンブリア州アンブルサイド)は、フランスやドイツには行ったと年表にありますが、イタリアまでは足を伸ばしていないようです。

1807年に出版した『二巻の詩集』という詩集の中で、1797年《自由、平等、博愛》の名の下にナポレオンによって滅亡略奪された、中世以来ヨーロッパで冠たる都市国家であった、そのセレニッシマ共和国の訃報に接し、「自由で輝かしい不落の都市であった」と次のような哀悼の詩を歌っています。
『世界名詩集大成 9巻 イギリス 1』「  ヴェニス共和国の滅亡に際して
かつて彼女は豪華な東洋を臣事させ、
西の国々の衛(まも)りであった。
自由の最長子であるヴェニス、
その美徳は彼女の誕生を辱めなかった。
彼女は詐略も誘い得ず、暴力も犯すを得ない、
自由で輝かしい不落の都市であった。
彼女が伴侶をめとるとき、
永遠なる海を夫にせねばならなかった。
これらの栄光が色あせ、
称号が消え去り、力が衰えても何であろう。
しかし、彼女の長い生涯が終りをつげるとき、
われらも惜別の貢物を捧げよう。
われらも人の子、かつては偉大なりしものの
影さえも消え去るとき、哀惜せざるを得ないのだ。」
  ――『世界名詩集大成 9巻』イギリス篇1(平凡社、昭和34年10月20日)前川俊一訳より

この同じ『二巻の詩集』の中の短い《虹》という詩は、《霊魂不滅の頌》等とともに傑作と言われている詩なのだそうです。

「 
空に虹を見るとき、
私の心は躍る。
私の生涯がはじまった時に、そうであった。
大人になった今もそうだ。
老いてもそうであってほしい。
でなければ死んでしまいたい。
子供は大人の父だ。
だから、わたしの生活の一日一日が
自然への愛で結ばれてほしいものだ。」
  ――『世界名詩集大成 9巻』イギリス篇1(平凡社、昭和34年10月20日)前川俊一訳より
  1. 2012/02/04(土) 00:01:12|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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