ベンボ館の右はベンボ通り、更に17世紀の住宅(ヴィヴァルディが住んだことあり)や16世紀の住宅建築があり、ダンドロ小館、ダンドロ館と続きます。ダンドロ小館について『大運河』(1993)は次のように述べています。

「この場所にはかつてダンドロ家の建物が建っていた。その庭はサン・ルーカ広場まで続く広さだった。13世紀のゴシック様式のこの美しい小館だけが残存しており、その狭いファサードは楣
(まぐさ)式構造のポルティコが1階を占めており、上の階は小さな柱群と両壁柱の上部を飾る三葉飾りのアーチで全面的に覆われている。後に最上階が増築された。
ここで、したたかで強靱な総督エンリーコ・ダンドロ(1108〜1205)が生まれた。また1551年ピエートロ・アレティーノがここへ越して来、1558年に卒中を引き起こして死亡するまで住まった。彼は抱腹絶倒の笑い話から淫らな小話に至るまで物にし、当時の大毒舌家と言われた。
ダンドロ家については、今日では総督の家系は絶えたものと思われる。最も令名高い一家の一つであったから、5世紀にこの名のパードヴァの司教が記憶されている。12の“使徒”の家系の一つであり、1192〜1354年という150年ほどの短い期間に偉大な精神を持った強固な男達、4人の総督が共和国の初期の運命に大いなる影響力を及ぼした。
理由が判然としないのだが、セレニッシマに有能な人物を供給し続けたにも拘わらず、この一家は次第に衰退の色を濃くしていった。この全4人の総督とは、エンリーコ(1192〜1205)、ジョヴァンニ(1280〜89)、フランチェスコ(1329〜39)そしてアンドレーア(1343〜54)であり、優雅な品格の男達であった(だから、ミラーノのルキーノ・ヴィスコンティ公の妻イザベッラ・フィエースキが1347年ヴェネツィアを訪れた時、当時40歳の総督アンドレーアにゾッコン惚れ込んでしまった)。彼は逞しい体付きで鉄の心を持ち、勇猛果敢な兵士であり、有能で抜け目のない戦略家であった。
しかし勿論エンリーコが最も有名である。実際彼は武器の使用に長けていた。一つの運命が彼に素晴らしい機会を提供した。それを彼は見逃さなかった。

右、エンリーコ・ダンドロ
彼は1108年に生まれ、若かりし時、コンスタティノープル(Costantinopoli)でバイロ[Bailo=コンスタンティノープルの皇帝宮殿近くに住み、ヴェネツィアとの交渉事に当たる外交官]をしていた。その地で皇帝(Basileus)マヌエル1世(Manuele Comneno)がオリエンタル風の事大主義的礼(お追従や媚び諂い)を強要していたが、ダンドロのヴェネツィア人釈放を求める断固とした威厳には甚く感心したのだった。それまで皇帝の輝きには目が眩むべしという態度を強制しており、彼は何事にも目を瞑るこの礼儀作法から逃れようとして、視力を失う原因となったし、頭にも傷を負った。
1192年総督に選出されたが、彼がやった事の中で“マッタパン(Matapan)”銀貨あるいはグロス銀貨の鋳造がある。聖マルコの像を刻んだ最初の銀貨である(総督ジョヴァンニの下では有名なドゥカート金貨あるいはヴェネツィア・ゼッキーノ金貨の鋳造が始まった。凡そ1世紀後の1285年3月のことである)。[このducato という24金の金貨は、片面に聖マルコが総督に旗を授ける図、逆面に玉座に座るキリスト像が彫られているそうです。共和国崩壊まで凡そ500年間通用します。1285年ではなく、1284年のようです。]
そしてフランス貴族達が第4次十字軍を公表したのは、この時のことである。彼らはヴェネツィアに使者を派遣、聖地に船で輸送してくれるように申し込んだ。
ヴェネツィアはいかなる事が生じようと引きうけようと受諾した。最終的な取り決めは総額を4回分割で支払うこと、戦利品は折半することが決められた。セレニッシマ共和国側も、9千頭の馬、荷を携えた約4万人の兵士と艤装品の運搬のための艦隊を準備し、9ヵ月分の兵士らの糧秣等を用意した、その上ある数量の用兵を提供することまで。
船団は総督自身が指揮を執ることになるだろう。その時点には十字軍騎士達は、ヴェネツィアに集まって来ており、リード島に配置されていた。
全ての艦船は進水した。しかし乗船時になっても十字軍騎士達は取り決めた全額の費用を支払うことが出来なかった。……」
――E.& W.Eleodori『大運河』(1993)より。(2)へ続く。
- 2012/02/11(土) 00:01:57|
- 建物
-
-
| コメント:2
テニス部に入る子が増えたように思います。誠之助pescecrudoヴェネツィアを撮した映画(1)ペさん、石井のクンちゃんと会ったんですか!
彼はテニス部のキャプテンをしていた時に私とペアを組んで個人、団体の両方で1年間全優勝しました。
私が生意気だということSeptember30ヴェネツィアを撮した映画(1)september さん、石井のクンちゃんと言えば、もうだいぶ前のことですが、妻の友人が、知ってる人を連れてきたよと言って、
北里病院の同僚だったクンちゃんを連れて家に現pescecrudoヴェネツィアを撮した映画(1)紺屋町で私もいろいろと思い出しました。テニス部で1年上級だった石井のクンちゃんの両親がやっていた「レナウン」という洋装店。それから現在鳥大医学部の学長をやっていSeptember30ヴェネツィアを撮した映画(1)September さん、色々な事を思い出しました。
紺屋町の、Y子さんが住んでいた辺りは子供の時の遊び場でした。あのヴェネツィアのように狭い入り組んだ路地は鬼ごっこ(旅鬼pescecrudo