イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――吉井勇と森鷗外

吉井勇作詞、中山晋平作曲による歌謡に『ゴンドラの唄』があります。黒澤明監督映画『生きる』の中でも歌われました。You Tube にその唄がありましたので、次のサイトでお聞き下さい。 『ゴンドラの唄』

いのち短し、恋せよ、少女(おとめ) / 朱(あか)き唇、褪せぬ間に、 / 熱き血液(ちしほ)の冷えぬ間に / 明日(あす)の月日はないものを。……

前々回掲載したロレンツォ・イル・マニーフィコの『バッカスの歌』について触れながら、塩野七生さんが『わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡』(新潮文庫、平成二十二年五月一日)の中で次の事に言及しています。

「この推論の根拠は、ロレンツォのこの詩(うた)が、フィレンツェにとどまらずにヴェネツィアでも大流行し、ヴェネツィアではとくに、ずいぶんと後代になっても謝肉祭中は欠かせない歌になっていたという事実である。それを上田敏か誰か、ヴェネツィア旅行をした日本人の文人が聴き知り、日本にもどってきて話したのが、吉井勇にヒントをあたえた、とまあこんな具合である。『ゴンドラの唄』と題されたのも、ヴェネツィア経由であったからではないかと…。」

実は私は、『海の都の物語』の著者のこの意見を長い間、信じていました。最近森鷗外訳、アンデルセンの『卽興詩人』を読み返し、何か疑問のような蟠りが仄かに芽生えてきました。それは次の鷗外の訳文です。
森鷗外[森鷗外。『ヨコハマ経済新聞』サイトより借用] 「…我は艙板の上に坐して、藍碧なる波の起伏を眺め居たるに、傍に一少年の蹲れるありて、ヱネチアの俚謠を歌ふ。其歌は人生の短きと戀愛の幸あるとを言へり。ここに大槪を意譯せんか。其辭にいはく。朱の脣に觸れよ、誰か汝の明日(あす)猷在るを知らん。戀せよ、汝の心の猷少(わか)く、汝の血の猷熱き間に。白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に、二人はその盖(おほひ)の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗ふことを許さゞらん。

少女よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、波は相推し相就き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猷少く、汝の血の猷熱き間に。汝の幸を知るものは、唯々不言の夜あるのみ、唯々起伏の波あるのみ。老は至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。」
  ――『鷗外全集 第二巻』(岩波書店、昭和四十六年十二月二十二日)『卽興詩人』より

この『ゴンドラの唄』について渉猟してみました。PC上で相沢直樹先生が『山形大学紀要第16巻3号』に《『ゴンドラの唄』考》を書かれたものが掲載されています。その中で大正5(1916)年5月に『新演藝』誌上に発表された吉井勇の公開書簡《松井須磨子に送る手紙》が引用されていました。
吉井勇[吉井勇。高知工科大学《吉田研究室》サイトより借用] 《「その前夜」が上場されるに就て、その脚色者である楠山君から唄を作る事を頼まれて喜んでそれを引き受けたのは無論友達の脚本と云ふ事もありますが、ひとつには又あなたに對する、憧憬もないではなかつたのです。この時作つた「ゴンドラの唄」は實を云ふと鷗外先生の「卽興詩人」の中の「妄想」と云ふ章に、

「其辭にいはく、朱の唇に觸れよ、誰か汝の明日あるを知らん。戀せよ、汝の心猶少く、汝の血は猶熱き間に、白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に。二人はその蓋の下に隠れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗ふことを許さざらん。少女よ。人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂て、波は相擁し相就き、二人も亦相擁し、相就くことは其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。」とあるのから取つたものですが、幸か不幸かその節が稍難しかつた爲めに、あまり流行せずに濟んでしまひました。》[鷗外はゴンドラを《輕舸》と訳したようです]

これは大正4(1915)年、島村抱月の藝術座がロシアのツルゲーネフの『その前夜』を舞台化し、帝劇で松井須磨子の主演で上演し、第4幕の《ヱ゛ネチアの町 大運河の岸》の場で歌われた劇中歌だったのです。

イタリアに大変な興味を抱いていた、デンマークの詩人アンデルセン(正確な発音はアネルセン?)は、当然ロレンツォ豪華王の『バッカスの歌』は読んでいたでしょうし、イタリアを経巡り、ヴェネツィアに行った時、そういう耳でヴェネツィアの歌も聴き、『卽興詩人』を完成させたに違いありません。2011.07.16日に 文学に表れたヴェネツィア―アンデルセンを書きました。   
  1. 2012/03/31(土) 00:01:48|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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フェリーチェ・ベアート

フェリーチェ・ベアートの東洋パンフレット、裏面   フェリーチェ・ベアート自写像[右はフェリーチェ・ベアートの自写像]   
《フェリーチェ・ベアトの東洋》展に行ってきました。5月6日まで恵比寿の東京都写真美術館でやっています。2010.02.06日に《イタリアと日本との関わり》として 《フェリーチェ・ベアート》 を書きましたが、その時参考にした10年前の資料とこの展覧会のデータが大分変わっています。主だった変更を図録解説から抽出してみました。10年の歳月の間に新しい発見があったようです。

フェリーチェ・ベアート[Felice(幸福な)Beato(最高に幸せ)という大変めでたい名前]は、実際には1832年(旧資料は34年にコルフ島生)ヴェネツィアに生まれたそうですからヴェネツィア人です。当時のヴェネツィアは10年間のフランス領有後、オーストリア軍が1814年に再度進駐していました(~66年)。34年頃、両親に連れられてヴェネツィア共和国時代はヴェネツィア領だったコルフ(現、ギリシアのケルキラ)島に移住し、成長します。ヴェネツィア共和国が1797年ナポレオンに滅亡させられる等ナポレオン嵐後のヨーロッパの政治的再編を目指し、全体会議は一度も開かれず舞台裏の饗宴外交(映画『会議は踊る』の舞台となった)で事を決めた、1814~15年のウィーン会議の結果、コルフ島はイギリス保護領となっていました。彼は後にイギリス国籍を取得します。ウィキペディアフェリーチェ・ベアトが参考になります。

写真家となってからの行動は知られています。2010.02.06日のイタリアと日本の関わり(1)をご参照下さい。そして日本で実業家の才ありと錯覚して写真家を辞め、事業にも失敗して無一文となり、1884年には日本を後にしました。10年以上前の資料では離日後の軌跡が明確ではありませんでしたが、1887年にはビルマ(現、ミャンマー)に写真家として再登場し、ビルマのマンダレーに落ち着きます。今回の展覧会ではビルマ時代の作品も多数展示されています。マンダレーでは写真スタジオと土産物屋を開業し、木製・金属製・象牙製などのビルマの土産物も販売し、当時インドの一州として観光地となっていたマンダレーの観光客の人気スポットとなったそうです。

ビルマを去り、イタリアに戻り、ベルギーにいた姉妹にも会い、フィレンツェに居を定め、1909年1月29日この地で亡くなったそうです。激動の時代をグローヴァルに活動して、流浪の人生を送ったフェリーチェの出生・死亡記録等を見つけ出した人々に感動しました、データの背後で姿は見えませんが[生死のデータの発見は2009年]。
『フェリーチェ・ベアート』(フェデリーコ・モッタ出版刊)  楽器を演奏する芸者達茶屋の前の護衛役の日本人役人[左はイタリアで出版されたベアートの写真集。手彩色写真左、演奏する芸者達。右、茶屋前の護衛役の役人]
ヴェネツィアのアッサッシーニ埋立て通り(Rio tera' dei Assassini)の古本屋さんで上携の本を見つけ、購入していました。この本屋さんは日本関係の本を結構並べています。この本には、チャールズ・ワーグマンの《日本での生活》や外国人の目に映った《フェリーチェ・ベアート時代の横浜》等のエッセーの中に、Dietmar Siegertの『日本のフェリーチェ・ベアート』という長文のエッセーがありましたので、冒頭の部分を訳出してみました。

「1863年5月21日と28日の“China Mail”通信の旅行者名簿から、フェリーチェ・ベアートがボンベイ・香港・上海航路便で、1863年6月日本に到着したことが知られる。彼の横浜滞在の最初の確証はチャールズ・ワーグマンが1863年7月13日の“Illustrated London News”に発表した報告で得られる。《日本の役人達が私の絵や友人のB氏(フェリーチェ・ベアート)の写真を見に、私の事務所に集まってきた。》

ベアートとワーグマンは阿片戦争中の1860年、支那で知り合った。ワーグマンが戦争終結後“Illustrated London News”のイラストレイター且つ正式の通信員として日本に派遣された、その一方でベアートは、ロンドンで戦争写真売却のため、一度ヨーロッパに戻った。

彼らの商業的結び付きである“Beato&Wirgman, Artists&Photographers”社が香港で毎年発表される戸籍公報の横浜編に、1864年初めて取り上げられた。会社の所在地は、横浜の外国人居留地区24番地の建物に1867年まであった。
横浜外国人居留地図  横浜の丘から見た港のパノラマ[左、橫濱繪圖面。右、横浜の丘から見た、外国人居留地の見える港の風景]
横浜に到着後直ぐに、軍隊を退役したキャプテンだった英国の画家チャールズ・ワーグマン(1832~91)は、1862年“The Japan Punch”誌を創刊した。それは典型的に英国式の、インスピレイションをカリカチュアしたもので、当時広い人気を博した。

ワーグマンはどこへでもスケッチ帳を持参し、道や人物を描き、風俗習慣を深く観察し、税関や船の係留場で出会った興味深い出来事に目を凝らしている。フェリーチェはまだ異国人に知られていないこの国の色々な地方をドキュメントした日本における最初の外国人写真家であった。長崎でも旱魃の時、旧市街の浅瀬の川床や港、出島や新しく生まれた外国人居留地を写真に収めた。

街の上にある丘に昇り、姉妹の夫のジェイムズ・ロバートソンに教えられたテクニックでパノラマな景観を撮した。2~5個のショットで構成し、伝統的なパノラマの画面の超ワイドな画型の中に、平面図法的技法で組み合わせたパノラマ写真は、旅行写真のパイオニアであり、プロとしての能力と芸術家としての資質を最高に表している。

ベアートの写真に付けられたキャプションから富士登山したことが分かる。オランダ総領事のGraeff van Polsbroek(グラーフ・ヴァン・ポルスブルーク) は、ベアートと彼の仲間、パークス夫人と招待客を引き連れたハリー・パークス卿ら全員で富士登山に参加した。パークス夫人はこの骨の折れる試練に耐え、勇気を示したただ1人の貴夫人だった。登攀途中ベアートは、ディルク・デ(Dirk de)・グラーフ・ヴァン・ポルスブルークの護衛役(日本人)らとお茶を飲みに入った料亭、富士山麓の須走(洲走)村を撮影した。しかしそこには、この企画を検討出来る写真情報がない。

この種の遠出が危険を伴わずに行われるのは、いつもという訳にはいかなかった。外国人嫌いや侍の敵愾心を燃やす者のヨーロッパ人への攻撃は日常茶飯事だった。1864年11月ベアートとワーグマン、彼らの仲間の一行は鎌倉で辛くも襲撃から逃れたことがあった。

11月19日横浜を出発した。金沢で一泊し、20日と21日は鎌倉にいた。有名な鎌倉八幡宮や巨大な青銅の大仏像の写真の中に、ベアートやワーグマンの姿も認められる。翌日の11時頃、江の島到着前、英国横浜駐屯歩兵第20連隊のボールドウィン少佐とバード中尉に出会った。ベアートは彼ら2人と長話をした。
鎌倉八幡宮とベアート達鎌倉大仏とベアート達清水清次の晒し首[左は鎌倉八幡宮のベアート達、中は鎌倉大仏前のベアート達、右はベアート撮影の清水清次の晒し首]
数時間後、藤沢の旅籠で一服し、一行は2人の英国将校が鎌倉(鶴岡八幡宮前の襲殺だという)で暗殺されたことを知った。ベアートはその後、暗殺者清水清次の処刑の模様をカメラに収めた。[清水の仲間、武州浪人間宮一も後に捕まり斬首された。]

ベアートが商港から遠く離れた日本内部で、来日初期に見たものは少数の人に記憶されている。幕府は10マイル以上内陸に入り込むことは外国人には禁じていた。その禁令に対しての唯一の対応策は、外交団のグループに潜り込むことであった。スイス公使エメ・アンベールは、江戸での撮影活動は容易くないと書いている。

“我々の右側には薩摩藩の鬱蒼とした、素晴らしい庭園が広がっている……。左側には有馬藩の屋敷を取り囲む高い塀が伸びている……。ベアート氏はこの長閑な景色を撮影しようと準備していた。その時2人の藩の役人が気付き、しようとしていることを止めるよう、口喧しく言い募った来た。Metman は自分達の希望を認めてくれるよう、先ずあなた方の主君の意向を伺って来てくれるよう懇願した……。

数分後役人は帰ってきて、主人は屋敷の一部たりとも撮影することは禁ずると言っている旨告げた。ベアートは深々と頭を下げ、撮影器具を片付けるように仲間達に言った。役人達は満足して引き上げていった、彼らが屋敷に入った隙に写真家は既に2枚のネガを撮っていたことなど疑いもせずに。

我々の護衛役(日本人)は、写真のことには無関心だったが、ベアートの権謀術数には全員賞賛の意を表した。” ……」
  ――『Felice Beato―Viaggio in Giappone 1863-1877』(Federico Motta Editore、 1991.09)より

先日再放送されたNHKテレビ『知られざる決断~尾張藩・徳川慶勝』で、尾張藩主徳川慶勝が写真の技術を独学し、機材を取り寄せ、自ら薬品を調合して、独り貴重な写真群を歴史に残した話は感動的でした。フェリーチェが日本で活躍していた幕末にこんなお殿様がいたとは大変な驚きです。
  1. 2012/03/24(土) 00:00:40|
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言葉(2)――暗唱・朗読

かつてアントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『Le Petit Prince』(最近沢山の和訳が出版、題名も区々です)を初めて読み終えた時、コロムビア・レコードから出ていたジェラール・フィリップ朗読のレコード(王子役はGeorges Poujouly)を聞きました。彼の仏語の美しさに感動しました。

その伊語訳を You Tube で検索してみますと、『Il Piccolo Principe』の定番訳なのか、ジェラール・フィリップの朗読と同じ構成の朗読が見付かり、聞いています。訳文とは言え、美しい伊語ではないでしょうか。
Il Piccolo Principeこのサイトで伊語朗読が聞けます。

「Il piccolo principe se ne andò a rivedere le rose. “Voi non siete per niente simili alla mia rosa. Voi non siete ancora niente", disse. “Nessuno vi ha addomesticato e voi non avete addomesticato nessuno. Voi siete come era la mia volpe. Non era che una volpe uguale a centomila altre. Ma ne ho fatto il mio amico e d'ora è per me unica al mondo."

“Voi siete belle, ma siete vuote", disse ancora. “Non si può morire per voi. Certamente, un qualsiasi passante crederebbe che la mia rosa vi rassomigli, ma lei, lei sola, è più importante di tutte voi, perchè è lei che ho innaffiata. Perchè è lei che ho messa sotto la campana di vetro. Perchè è lei che ho riparato col paravento. Perchè su di lei ho ucciso i bruchi(salvo due o tre per le farfalle). Perchè è lei che ho ascoltato lamentarsi o vantarsi, o anche qualche volta tacere. Perchè è la mia rosa."

E ritornò dalla volpe. “Addio", disse. “Addio", disse la volpe. “Ecco il mio segreto. E molto semplice: non si vede bene che col cuore. L'essenziale è invisibile agli occhi. È il tempo che tu hai perduto per la tua rosa che ha fatto la tua rosa così importante." “Tu diventi responsabile per sempre di quello che hai addomesticato. Tu sei responsabile della tua rosa……."
日本語訳は次の本の頁をご覧下さい。
内藤濯訳『星の王子さま』内藤濯訳『星の王子さま』からイタリアでも子供達がこの定番訳(?)を暗唱して、楽しんでいるに違いありません。小学生時代、森鷗外の『卽興詩人』の冒頭を暗唱しようと何回か挑戦したのですが、漢字の読みやカタカナ表記のローマ地名が難しかったのでしょうか、暗記出来ずに終わりました。

いいだ・もも著『神の鼻の黒い穴』(河出書房新社、昭和四十一年四月二十五日)の中に次のような小咄が載っていました。「聖金曜日の晩のこと、カラブリアの山賊たちが火を囲んで丸く坐っていました。そのとき、仲間の一人が言いました。〈おい、ベッペ、お前は話をたくさん知っているから、なにかいい話を聞かしてくれないか〉そこでベッペは胴間声で話しはじめました。《聖金曜日の晩のこと、カラブリアの山賊たちが……》……」と延々と話が繰り返されるという小咄です。

伊語の勉強を始めてから、面白がって中身を多少変え、この小咄を暗唱用に訳してみました。伊語クラスの忘年会の時、何かやれと言われ、これを披露しましたが、受けませんでした。それが次です。
《C'erano una volta alcuni banditi in una certa montagna in Calabria. Una sera fredda del venerdì santo, stavano seduti per terra in cerchio attorno al fuoco, bevendo vino. Uno di loro allora disse: “Dai, Beppe, sei bravo a raccontare. Perchè non ci racconti qualcosa di bello?" E subito dopo cominciò a narrare con una voce rauca. 《C'erano una volta……. 》…….

しかし結局いつでも暗唱出来る語句は、伊語を始めて最初に覚えた、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコ(豪華王)が、カーニヴァルのために書いたと言われる『バッカス(酒神)の歌(Trionfo di Bacco e di Arianna―ディオニューソス(バッコスとも)とアリアドネーの勝利)』の冒頭の4行のみです。
[テーセウスのミーノータウロス退治に協力したアリアドネーは、ナクソス島(エーゲ海キクラーデス諸島最大の島)に彼と共に遁れますが、彼女は彼にこの島に置き去りにされます。そこへディオニューソスが来て彼女に恋をし、妻としました。結婚の贈り物に与えられた王冠は星座に変えられたと伝えられます。それ故古代この島は、ディオニューソスとアリアドネー信仰の中心地だったそうです。1207~1566年はヴェネツィア共和国領でした。2007.10.21日に 《アリアドネーの糸(Il filo d'Arianna)を書いています]
ロレンツォ・イル・マニーフィコ『バッカスの歌』
Quant'è bella giovinezza (若さとは何と麗し)
che si fugge tuttavia! (そは疾(と)く過ぎゆく)
chi vuol esser lieto, sia: (幸望む人、さ、あれ)
di doman non c'è certezza. (明日(あした)には確たるものなき故)
  1. 2012/03/17(土) 00:05:29|
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言葉(1)――唱え詞・遊び言葉

幼年期から少年期に掛けて耳に入ってきた、遊びに纏わる言葉や童唄、呪文の類は何十年経っても記憶装置に固着しているようで、ふとした弾みに口に上ってきます。先日も『鐘の鳴る丘』の主題歌が口に付いて出て来、第一番全部が空で歌え、何とも甘く懐かしいような不思議な心地になりました。

呪文、唱え詞、童言葉と言われるものに、例えば《無花果、人参、山椒に椎茸、牛蒡に零余子、名草、薑(はじかみ)、九年母、唐辛子》とか《ちちんぷいぷい、ごようのおんたから》《鬼さんこちら、手の鳴る方へ》《ここまでお出で、甘酒進上》また《かっちゃん、かずの子、にしんの子》《みっちゃん、みちみち、うんこたれ……》そして《夕焼け小焼け、あーした天気になーれ》と願い事して、履いている下駄の片方を足指から蹴っ飛ばし、下駄の表裏で明日の天気を占ったり。

少年時代過ごした故郷で、面子遊び[田舎ではペッタイと言いました]を学校の砂場等で始める前、最初にメンコを波打つ砂上に張る時、《ジンジョウ、イッペンタン、カマトル》と宣言して始めました。意味は波打った砂の上で、メンコがどういう危険な状態にあっても位置を直そうと触れば、その札は対戦相手の物になるという不文律です。《尋常に、勝負、勝負!》。

紙芝居の『桃太郎』で、一番最後の《めでたし、めでたし!》の終了の言葉に、《いっちがむかしがつっさけた》とあり、その口調の良さで今でも口が叫びます。

イタリアにも子供の遊びの時に唱えられる、音調の良い言葉(eufonia)、語呂合わせ的な口吟む遊び言葉があり[早口言葉等は、語学テキストなどに掲載されているのを何度か見ました]、メモっておいた幾つかがあります。書き写し間違いの語句もあるかも知れませんが、列挙してみます。

先ず隗より始めよ、
『アリ・ババと四十人の盗賊の物語』から宝物の詰まった洞窟を開く呪文《開け、胡麻!(Apriti, sesamo―アープリティ・セーザモ)》。(宝の山に入りながら、手をむなしゅうしてけえるのか……)

《かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるとかめがつうべった、うしろの正面だーれ》という童戯の時に口吟まれる文句はイタリアにも同じような意味合いのものがあって、以下がそれだそうです。《Giro giro tondo, casca il mondo, casca la terra, tutti giù per terra.…… (回れ、回れ、輪になって回れ、世界が倒れて、地球も落ちて、全ては崩れる)》
Giro-tondo絵はPCの Giro tondo のサイトから借用。You Tube で検索すると歌も聞くことが出来ます。次です。《Giro-tondo
遊技の中で、何かを決める時にジャンケンで決定することは多いでしょう、日本式ジャンケンは morra cinese と言い、《bim, bum, bam―ビン・ブン・バン》と掛け声を交わします。
また、鬼さん誰にしようかな? という時の唱え詞は《Pimpiripettannuse, pimpiripettappà―ピンピリペッタンヌーゼ・ピンピリペッタッパ》と唱えるそうです。
同じように遊びでの順番を決める時、《Ambarabà cicci coccò.(アンバラバ・チッチ・コッコ) Tre civette sul comò che facevano l'amore con la figlia del dottore, il dottore si ammalò. Ambarabà…)》というのもあるそうです。

言葉遊びとして、《Il baco del caro del malo. Il beco del cero del melo. Il bico del ciro del milo. Il boco del coro del molo. Il buco del curo del mulo.》があると、ナターリア・ギンズブルグの小説にありました。

《Abracadabra―アーブラカダーブラ》 病魔を追い払う時等に用いる逆三角形に書かれた呪文。実際にこの言葉が言われたのは映画『ニューシネマパラダイス』で、広場に集まった群衆に喜劇役者トトの映画を見せようとアルフレードが広場の建物の壁面にシーンを映す(その後火事になる)時に、うまくいきますようにと、アルフレードは念じます。
《Balabin balabà―バラビーン・バラバ》 よいしょ、こらしょ!
《Cucù, cucù, eccomi!―クク・クク・エッコミ!》 居ない、居ない、バー!

トランペット奏者の演奏は、《Turum tum tum, turum tum tum, teretetè teretetè, retetè retetè……》
ロッシーニのオペラの中には次のような不思議な音が沢山出て来るそうです。《cra cra, bum bum, din din tac tac》、《zitti zitti, piano piano》、《misipipi pipi pipi》、《zuma zumi zuma zumi》 [《クラクラ、ブンブン、ディンディン・タクタク》は、ロッシーニが作曲家 Carlo Coccia の作曲の遅れで急遽1813年4月末代役を頼まれ、同年5月22日ヴェネツィアのサン・ベネデット劇場(この劇場の所有者は土地を所有するヴェニエール家に追い払われ、他の場所にフェニーチェ劇場を造ることになります)でロッシーニ自身の指揮で初演され、大成功を収めた作品『アルジェのイタリア女』の中で歌われました]

さてどん尻に控えしは磯風荒れえ小ゆるぎの磯慣(そなれ)の松の曲がりなり、……
《例によって例の如し》 ≪Rieccoci alle solite.≫
《成るように成る(ケ・セラ・セラ)》 ≪Sarà quel che sarà.(Chissà che cosa ci riserva il domani.)≫
《賽は投げられた》 ≪Il dado è tratto.(Alea iacta est.)≫
《王手!》 ≪Scacco al re!≫
《まさか! もうどうしようもない》 ≪Ma va! Non ce la faccio più.≫≪Non so dove sbattere la testa.≫
《万事休す! 詰んだ!》 ≪Tutto è perduto! È scacco matto!≫
《後は野となれ山となれ(行方が分からなくなった)》 ≪Chi s'è visto s'è visto.≫(持ってけ泥棒)
《それが人生だ!》 ≪Questa sì che è vita!≫
《めでたし、めでたし!》≪E vissero felici e contenti.≫[童話の始まり:C'erano una volta~に対応する童話の終り(そして幸せに暮らしましたとさ。)]
《喜劇は終わった!》 ≪La commedia è finita!≫[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ作のオペラ『道化師(I Pagliacci)』の中の最終場面で、カーニオが呟く最後の台詞]
  1. 2012/03/10(土) 00:01:02|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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食(2)

前回のブログ《食(1)》で書いたフォークについて、『食のイタリア文化史』(アルベルト・カパッティ、マッシモ・モンタナーリ著、柴野均訳、岩波書店、2011年2月25日)は次のように触れています。
『食のイタリア文化史』「……十四世紀のレシピ集のなかでただひとつ、ナポリの『リベル・デ・コクィーナ』にはラザーニャの料理法と味付けについて、次のようなこと細かな説明がある。発酵させた(これは例外的なものか、それともふつうなのか?)パスタの生地を薄く延ばして、指三本(の長さ)の四角形に切り分ける。これを茹でてから何層にも重ねながら、おろしチーズと(好みで)香辛料をふって味付けする。最後に、先を尖らせた木の道具で食べるようにという助言があるが、これはイタリアで早くからフォークが使われるようになっていたことをうかがわせる記述である。

イタリアでは十四世紀以後フォークはふつうに使われるようになっていたが、他のヨーロッパ諸国では十七、十八世紀になっても指を使う伝統を捨て去ることへの抵抗が残った。イタリアでフォークの普及が早かったのは、少なくともひとつにはパスタのように滑りやすく、また危険なほど熱くて《食べにくい》料理が食大系に組み込まれたことによるのだろう。……」

ヴェネツィアに関連しては次のような記述があります。
「ポーランドでの戦争を終えたアンリ3世を迎えてヴェネツィアの人々が準備した祝祭では、正餐のメニューについては何も伝わっていないが、砂糖細工に関する記述が残っている。全艦隊、きらびやかな旗、馬、ライオン、虎、主君を迎える大勢の人々、《教皇、王、枢機卿、統領》の胸像など、砂糖で作られた二百以上の細工物が二つのテーブルを占領した。

これは食べ物が会席者に記念として贈られるオブジェへと進化していった最終段階であった。砂糖やパイ生地、マジパンなどで作られた細工物は、地上のすべての産物に対する君主の政治権力を表現していただけでなく、俗世の空間、さらに歴史、神話、全ての創造物に対する君主の象徴的な支配を表していたのだ。……」
[2010.09.11日のフォースカリ館と2010.10.09日の文学に表れたヴェネツィア―ヴェローニカ・フランコで、ヴェネツィアでのアンリ3世について触れました。]

また最終章で肥満について次のように述べています。
「食に関する議論のなかで、肉体のもつ食欲が中心におかれていた時代がごく最近まであった。たくましい食欲とそれを十二分に満たすことのできる能力こそが、社会的威信のしるしであると同時に、健康の最上のしるし(と同時に手段)とされてきたのである。

栄養が行きとどいて丸みを帯びた腹は健康と豊かさおよび安定を伝えるものとされた。ある食卓を《脂ぎった(グラッソ)》と呼ぶのは、幸せな食卓と同じ意味だった。……」

しかし現在ではこの考え方は変化し、食養生学と医学から来る健康志向により、
「地中海式ダイエットなどの新しい神話を生み出した……消費者はどちらを向いてよいのかわからない。勘を頼りにカロリーやタンパク質、ビタミンの量を計算し、一週間ずっとリンゴを食べつづけたかと思えば、次の週にはバターを断ったりする。

その後そうしたダイエットにうんざりすると、たくさん食べることが健康につながっていた良き時代の素晴らしいバランスを思い出す。……」
  ――アルベルト・カパッティ、マッシモ・モンタナーリ著『食のイタリア文化史』(柴野均訳、岩波書店、2011年2月25日)より。

著者2人は食文化大学で教鞭を執り、スロー・フード運動に関わっている先生方だそうです。
台所単語集(1)台所単語集(2)料理用語単語集ガストロノミーア(gastronomia―料理法、食道楽)という伊語について。
1801年仏詩人 Joseph de Berchoux が『Gastronomie(美食術)』と題する長文詩を発表しました。古代ギリシア語《ガストロス(胃)》と《ノモス(規範)》を組み合わせて造語したのだそうです。その詩がエリダニオ・チェノマーノにより翻訳され、1825年『La Gastronomia ovvero arte di bel pranzare』として刊行されたことから、イタリアでもこの言葉の使用が始まったそうです。
  1. 2012/03/03(土) 00:02:47|
  2. ヴェネツィアの食
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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