イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアを撮影した映画(3)

これまでに見たイタリアのヴェネツィア映画を、アト・ランダムに挙げてみます。『ある女の存在証明』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)では、最終場面主人公達は結論を見出そうとヴェネツィアに行くのですが、解決らしいものは見付かりません。ホテル・グリッティ・パレス(館名は P.Gritti-Pisani)のサロンから対岸のサルーテ教会隣のカ・ジェノヴェーゼを映しながら、男女は決定的に分かれるのです。

『女テロリストの秘密』(ジュゼッペ・ベルトリッチ監督)は、冒頭サン・マルコ湾からカメラは回り、サン・トロヴァーゾ教会前と覚しき広場で主人公の女テロリストが2人の男を射殺します。しかしこれら2本の映画は《ヴェネツィア映画》と称するには余りにもその場面が過少です。

『鍵』(ティント・ブラス監督)は、谷崎潤一郎の小説『鍵』の舞台をジュデッカ島に設定した映画で、『イタリア式離婚狂想曲』(ピエートロ・ジェルミ監督)で日本初お目見えのあの可憐だったステファーニア・サンドレッリが、惜しげもなくその見事な全裸を披露しています。監督ティント・ブラスの故でしょう。

『薔薇の貴婦人』(マーウロ・ボロニーニ監督)は、ヴェネツィア語で書かれた16世紀の喜劇の映画化で、イタリアの百科事典はその原題である《Venexiana, La (o, Veniexiana)》の項目を次のように書いています。

「1500年代に書かれた作者不詳の喜劇で、大部分がヴェネツィア語で書かれ、全イタリア劇作品の中でも最も著名なものの一つである。1928年エミーリオ・ロヴァリーニに発見され、彼は成立年代を16世紀初頭の作とした。近年G.パドアーンがアレティーノのための詩人作家の集まりで復活上演した。現実に起きた事から書き起こされたものと思われ、著者はロレンツォ・ヴェニエールやも知れぬと仮説を提出した(この喜劇の中に窺える大胆な政治性・宗教性故、また序文で表明された意見と、高名な医者・詩人として詩学的発想で著述したと思われることから、ロヴァリーニはジローラモ・フラカストーロ作の可能性を示唆している)。」
『ヴェネツィア女』『La Veniexiana』(Giorgio Padoan序、Marsilio Editore、1994)
ラーウラ・アントネッリ扮する未亡人の住む館として、美しいソランツォ=ヴァン・アクセル館が何度も登場します。かつての《乳房橋》近辺の遊郭の雰囲気、あるいはまた中世の昔のヴェネツィアはこうであったかと知りました。

『家庭教師』(アルド・ラード監督)は、テッラ・フェルマ(本土)の若者とクェリーニ・スタンパーリア館付近のお屋敷に住む金持ちの少女との恋物語で、この街の現風景がふんだんに現れ、何とも楽しい映画でした。

『ヴェネツィアのノスフェラトゥ』(アウグースト・カミニート監督)は、英語版でしたが、クラウス・キンスキが吸血鬼となって街中を駆けずり回ります。サン・マルコ小広場で吸血鬼が溜息の橋を背にして、裸の恋人を抱いて歩く場面は多くの物見高い観光客を避けて、ノスフェラトゥには適合した丑三つ時の撮影だったと思われます。

イタリアにはヴェネツィアを舞台に選ぶと、その映画は当たらないというジンクスがあるという話を聞いたことがあります。『ベニスで恋して(Pane e tulipani)』(スィルヴィオ・ソルディーニ(Silvio Soldini)監督)については2007.10.28日に―《Campo Do Pozzi》―で、この映画についても触れましたように、このジンクスを書き換えました。監督の高々観客2万の予想が大幅に外れて130万超の大当りとなったのです。
「ベニスで恋して」パンフレット「ベニスで恋して」場面1「ベニスで恋して」場面2  スィルヴィオ・ソルディーニ「ベニスで恋して」左、映画パンフレットより(3点)。右、『Pane e tulipani』台本(Silvio Soldini/Doriana Leondeff、Marsilio、2000.07)                        
この映画は劇場で見、ビデオ屋さんからテープを借りてきて何度も見ました。2007.10.28日のブログでも書きましたように、語学学校通学のため、語学学校のマッシモ先生の家を借りてのことで、家はアルセナーレ直ぐ西側の《二つの井戸広場》(Cp.Do Pozzi―Do(ヴェ語)=“二つ”の意)から北上するマーニョ通り(Cl.Magno)にありました。通学にはこのド・ポッツィ広場を通り抜け、停留所アルセナーレからカ・レッツォーニコまでヴァポレットです。

そのような理由で、Do Pozzi 広場のバーカロ、通り道のオステリーア・アイ・フォルネーリには毎日コーヒーやオンブラを飲みに立ち寄りました。ですから映画の中で、ロザルバ(リーチャ・マリェッタ―Licia Maglietta)とコスタンティーノ探偵(Giuseppe Battiston)が出会いの場所として C.Do Pozzi(字幕は「井戸広場」。Do の意が判らなかったのでしょう)を指定して出会った場面を見た時、直にそこと分かりました。

この映画を見てからヴェネツィアに行った時、アイ・フォルネーリを訪ねました。ご主人に『Pane e tulipani』を見ましたよと言うと、撮影時の色々の話を聞かせてくれました。このバーカロの内部から窓を透して井戸の方へ向けてカメラを回したシーンもあったけれど、後で映画を見ると、映画にはその場面が入ってなくて残念だった等。

ロザルバが借りることになったフェルナンド(Bruno Ganz)の部屋、そして友人となるグラーツィア(Marina Massironi)が住むそのアパートの玄関のドアはアーチ状で、ヴェネツィアでも独特なのでしょう。その台所の窓からトロンケットの港付近が見える設定になっていたので、サン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会近くのアルゼレ運河通り(Fdm.de l'Arzere)等の近辺を歩いてみました。いずれにしても2人の追っかけっこの場面等、観光客など殆ど見かけないあの Do Pozzi 広場界隈の複雑な道を色々使っているのが分かり、懐かしさに胸が熱くなりました。
Grana 軒下通りとOchio Grosso 通り映画で追っかけっこの場面に使われたド・ポッツィ広場傍の Grana 軒下通りとl'Ochio Grosso 通り
サンタ・マリーア・ノーヴァ(S.Maria Nova)広場(この広場では定期的(?)に骨董市が開かれます)の骨董屋さんで骨董雑器を買った時、女主人にこの映画を見たことを話すと、追っかけっこの末、ミラーコリ小広場(Cpl.dei Miracoli)に設置された花屋に逃げ帰ったロザルバを見張るために、ミラーコリ教会の裏側に隠れたコスタンティーノ探偵のことなど、撮影時の模様を話してくれました。そして次回ヴェネツィアに来る時はアパートを紹介するから電話して、と名刺まで渡されました。
[二つの井戸広場からミラーコリ小広場まで走って逃げるには離れ過ぎています。非現実的だから映画は奇想天外で楽しいです。例えば『ベニスに死す』でもフェニーチェ劇場裏のフェニーチェ橋をタッジオらがマリーア・カッラス運河通り側に渡りますが、その先は劇場で行き止まり、通り抜けは出来ません]。

そして映画のフィナーレは、フェルナンドの歌うタンゴで皆がこのミラーコリ小広場で踊り始め、サンタ・マリーア・ノーヴァ広場へと踊りの輪を広げる人々の楽しい踊りで大団円です。コンメーディア・デッラルテの終演のように≪ものみな踊りで終わる(Tutto finisce con i balli.)≫のです。
[友達になったファビさまから、友人のヴェネツィアのダンス・サークルの人達が踊りの練習をサルーテ教会の門前でするから見に行こうと誘われて、見に行きました。その踊りは格好いいタンゴでした。ヴェネツィアの人達はタンゴに夢中のようでした。]

追記: ジョニー・デップ主演の米映画『ツーリスト』を見たことがありました。現在まだ見ていない『ヴェネツィア・コード』(ティム・ディスニー監督――劇場未公開)という映画を、ビデオ屋さんから借りたいと思っています。ジョルジョーネの『テンペスタ(嵐)』に纏わる話だそうです。
尚、2010.05.01日に―《文学に表れたヴェネツィア―ダ・ポンテ(1)》―にロレンツォ・ダ・ポンテがヴェネツィアで活躍した時代を含めて撮影した映画『ドン・ジョヴァンニ―天才劇作家とモーツァルトの出会い』の事も書いています。
  1. 2012/04/28(土) 00:01:57|
  2. ヴェネツィアに関する映画
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ヴェネツィアを撮影した映画(2)

ヴェネツィアが決定的に印象づけられた映画はルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』でした。塩野七生さんの『海の都の物語』と共に、この街を訪ねてみたい気にさせられた最右翼です。そんな気持ちになっていた1990年、NHKがテレビとラジオでイタリア語講座を始めました。講座を視聴しながらその思いが嵩じました。
ヴィスコンティ映画祭ベニスに死す(1)ベニスに死す(2)ベニスに死す(3)映画祭パンフレットより。タッジオを求めて《タッジオを求めて》の新聞記事
トーマス・マンの原作『ヴェニスに死す』はトリエステからアドリア海を経て、ヴェネツィアの正面玄関口サン・マルコ小広場へ到達する設定になっていますので、この中世以来の正統のヴェネツィア入り、どうすれば映画のように船でサン・マルコ小広場に直接着岸出来るかに大変拘りました。
ブローデル著『都市ヴェネツィア』ですから初めてのヴェネツィア行を企図する者にとっては、『都市ヴェネツィア』(岩崎力訳、岩波書店、1986年8月11日)の著者、地中海学者フェルナン・ブローデルの、「……ラグーザ(ドゥブロヴニク)からの小さな船で。妻と私は眠りこんでいたので、朝まだき目をさました時、船はすでにドガーナ・ダ・マールの埠頭に接岸していた。……」の遥か上級の行動様式や、あるいはまた映画『旅情』はオリエント急行でヴェネツィア入りする設定ですので参考には出来ませんでした。

2009.09.12~09.19日に書いた―《文学に表れたヴェネツィア――トーマス・マン―で、船で直接サン・マルコ小広場に至った経緯を書きました。映画で船がサン・マルコに接岸するまでのバックグラウンド・ミュージックとしてグスタフ・マーラーの交響曲第5番4楽章のアダージェットが流されます。You Tube で―《Morte a Venezia―、また『タッジオを求めて』の―Alla ricerca di Tadzio―をどうぞ。

ヴェネツィアに行くようになってビデオ屋さんを探し回り、ヴェネツィアを撮った映画を借りてきました。アト・ランダムに挙げてみます。先ず英米映画では『赤い影』(ニコラス・ローグ監督)、英国人がヴェネツィアでおどろおどろした不気味な体験をする怨霊映画ですが、ヴェネツィアが美しいです。
『迷宮のヴェニス』(米人ポール・シュレイダー監督)は、早川書房から出た『異邦人たちの慰め』(イアン・マキューアン著、宮脇孝雄訳、1994.03)を映画化したもの。この結末も恐ろしい。

『ベルボーイ狂想曲』(マーク・ハーマン監督)は、マニーン広場から路地奥に入った所にあるコンタリーニ・デル・ボーヴォロ館の、有名な螺旋階段での追っかけっこがあったりする楽しいドタバタ喜劇です。
『リトル・ロマンス』(ジョージ・ロイ・ヒル監督)は、小さな恋人達がヴェネツィアにやって来て、溜息の橋の下をゴンドラで潜りながら、自分達の恋を誓います。
『鳩の翼』『鳩の翼』(イアン・ソフトリー監督)は、原作者のヘンリー・ジェイムズのヴェネツィア好きをそのまま反映して、稀に見るヴェネツィア賛歌の映画です。カーニヴァルで狂ったように踊り回る庶民達の熱狂を撮して、ヴェネツィア好きでなければ撮れない映画と合点しました。サンタ・マリーア・フォルモーザ広場での撮影でしょうか。2009.04.04~04.11日の―《文学に表れたヴェネツィア――ジェイムズ(1)(2)―にこのジェイムズの『鳩の翼』のことなどを書きました。

『世界中がアイ・ラヴ・ユー』(ウッディ・アレン監督)は、ニューヨーク以外では映画を撮ることは殆どないと言われている監督が、ヴェネツィアで楽しそうにカメラの被写体になっていました。ジュリア・ロバーツとのコラボレイションです。彼は1996年1月29日炎上してしまったフェニーチェ劇場でジャズ・コンサートをする予定でしたが、劇場炎上で別の場所での公演になりました。彼が公演の収益からラ・フェニーチェ再建のために多大の寄付をしたことは知られています。

『ヴェニスの商人』(マイケル・ラドフォード監督)は、シャイロックがアル・パチーノで大変楽しく、面白く見ました。しかし2010.07.10日の―《文学に表れたヴェネツィア――シェイクスピア》―に書きましたように、シェイクスピアの描くヴェニス人は商人としては愚か過ぎ、世界に冠たるヴェネツィア共和国を作り上げたヴェネツィア商人としては落第生だと思われます。

20年近く前、初めてヴェネツィアのゲットに行った時、人気はなく、住んでいるユダヤ人も10家族以下という話でした。最近はゲット広場も賑やかになり、キッパを被った黒尽くめの男性の姿をよく見かけるようになりました。この町からユダヤを世界に発信している感じです。例えばスペインは財産収奪目的で、1492年ユダヤ人を国から追い出しましたが、ヴェネツィア共和国は1516年、逆の経済目的でユダヤ人の定住を公式に認めた国です。他にも例えばフェッラーラにユダヤ人が定住することをウルバヌス8世が認め、1624年《ゲットー》に閉じ込めます。フェッラーラにユダヤ人が住み着いた記録は1275年に遡るそうです。

最近2011年3月に見たスリラー映画『ツーリスト』(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)では、ヴェネツィアの色々の際立った景観を勝手に繋げて映画編集をしているので、実際の道順には繋がりません(大抵の映画がそうです)が、逆にクロスワード・パズルの絵解きをする面白さが発生します。その回答を得るにはもっともっとこの街を歩き、目に風景を刻印しなければならないと自戒しました。
ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』『浴室』(仏人ジョン・ルヴォフ監督)は、白黒の奇妙な印象が残った映画です。バスタブに住みついた男がある日バスタブを出ると、何故かヴェネツィアに行く不思議な物語です。映画の印象は『本当の話』(ソフィ・カル著、野崎歓訳、平凡社)の中の《ヴェネツィア組曲》のような味わいです。原作はジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』(野崎歓訳、集英社文庫、1994年11月25日)で、彼は自作『ムッシュー』『カメラ』(両著、集英社文庫あり)を自ら監督して映画化しているそうです。
年下のひと『年下のひと』(ディアーヌ・キュリス監督)は、アルフレッド・ド・ミュッセとジョルジュ・サンドのヴェネツィアでの恋を描いたものです。2009.11.12~12.19日に―《文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(1)(2)》―と2010.12.11日にも―《ジョルジュ・サンド》―を書いています。そちらも参考にして下さい。
月曜日に乾杯!仏映画『月曜日に乾杯!』(オタール・イオセルアーニ監督)は、突如仕事も家庭も放擲して旅に出た主人公はヴェネツィアに向かうのです。
逢いたくてヴェニス独映画『逢いたくてヴェニス』(ヴィヴィアン・ネーフェ監督)は、夫の浮気相手の旦那を引っさらい、2人の子供も連れて、浮気者達が居るはずのヴェネツィアに乗り込みます。ヴェネツィアがよく描かれている映画でした。
幸せになるためのイタリア語講座デンマーク映画『幸せになるためのイタリア語講座』(ロネ・シェルフィグ監督)は、趣味で伊語を学ぶ仲間達が友好のためにヴェネツィア観光をすることになり、恋人達はこの地で結ばれます。

[近年運河を疾走するモーターボートが活躍する映画(『ミニミニ大作戦』という題名だそうです)もあったようですが、見ていません。また『オックスフォード オペラ史』(ロジャー・パーカー編、大崎滋生監訳、平凡社、1999年3月25日)の文中に「……スタンリー・キューブリックの映画『バリー・リンドン』(1975)での、ロウソクに照らされたヴェネツィアのカジノのシーン……」とあり、映画を見てみましたが、蠟燭の明かりの中でのギャンブルのシーンはヴェネツィアではなく、アルプスの北の町のお城のようでした。]
  1. 2012/04/21(土) 00:04:36|
  2. ヴェネツィアに関する映画
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ヴェネツィアを撮影した映画(1)

《日本におけるイタリア2001》年に始まった《イタリア映画祭》が、今年も5月連休に開催されます。今年、特別上映される『シュン・リーと詩人(仮題)』は、ヴェネツィア対岸にある、小さなヴェネツィアとも呼称されるキオッジャが舞台のようです。見逃す訳にはいきません。
イタリア映画祭2012イタリア映画祭内容イタリア映画祭内容 イタリア映画祭2001図録2001年映画祭図録 イタリア映画祭広告1980年代のイタリア映画祭1980年代に始まったイタリア・ブーム中、渋谷や六本木、大森など数ヶ所の映画館で行われた《イタリア映画祭》があり、何本か見た作品の中に題名は記憶から抜け落ちてしまいましたが、ヴェネツィアが舞台だったものもありました。また例えば1986年の映画祭の作品を列挙してみれば、『マカロニ』(エットレ・スコーラ監督)『女たちのテーブル』(マーリオ・モニチェッリ監督)『女テロリストの秘密』(ジュゼッペ・ベルトルッチ監督)『ドレスの下はからっぽ』(カルロ・ヴァンツィーナ監督)等、12作品が上演され、『マカロニ』の上映ではエットレ・スコーラの舞台挨拶があったように記憶します。

今回ナンニ・モレッティ監督『ローマ法王の休日』が上映されますが、モレッティと言えば熱烈なファンが沢山あり、次のようなファンクラブ冊子や映画会がありました。
ナンニ・モレッティ会報シネマ通信シネマ通信後記モレッティ映画会チラシ  チネテーカ・イタリアーナ無声映画『カサノヴァ回顧録』解説またイタリア文化会館で1980年代《チネテーカ・イタリアーナ》と題して数年間定期的に上映されていた映画の中に、ヴェネツィアを舞台にしたものもありました。記憶にあるのは、ルイージ・コメンチーニ監督(『ブーベの恋人』『天使の詩』等)の『カサノヴァ回顧録(ヴェネツィア人ジャコモ・カサノヴァの幼年期及び天職と青春体験)』(1969)です。少年時代のカザノーヴァの成長していく模様がヴェネツィアの現風景の中で描かれていました。

同じカザノーヴァを描いても、フェデリーコ・フェッリーニ監督の『カサノバ』では現実のヴェネツィアの街は使われていません。我々が目にするのは想像力豊かなチネチッタのセットです。大変面白かったマーシャル・ハースコヴィッツ監督の『娼婦ベロニカ』では、アンリ3世がヴェローニカの家に訪れるシーン等、運河の場面が何度も登場しましたが、これもチネチッタのセットでした。ヴェローニカ・フランコについては、2010.09.18~10.09日に―《文学に表れたヴェネツィア―ヴェローニカ・フランコ(1)~(4)》―で触れています。

私が初めて映画の中でヴェネツィアの街を見たのは、高三の時、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『夏の嵐』(1954)の中ででした。ずっと後にビデオ屋さんからテープを借りてきて見ると、完全に忘れていたヴェネツィアのシーンが少しずつ蘇ってくる思いでした。この映画の原作は、音楽家でオペラ『メフィストーフェレ』の作があり、ヴェルディの『オテッロ』『ファルスタッフ』の台本の協力者となったアッリーゴ・ボーイトの兄、建築家のカミッロ・ボーイトが書いた『Senso(感覚、官能とも)』です。2010.03.27日に―《文学に表れたヴェネツィア――ボーイト―を書いています。
夏の嵐(1)夏の嵐(2)夏の嵐(3)[2004年ヴィスコンティ映画祭パンフレット] 同じ頃、NHKラジオ第二放送で週一度午後ジャズやタンゴ、シャンソン(蘆原英了氏担当)等の音楽紹介の時間があり、ジャズ評論家油井正一氏が、モダン・ジャズを紹介しました。そこで初めてモダン・ジャズ・カルテットの音楽を聞いたのです。アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが来日するずっと前のことで、まだモダン・ジャズという言葉が耳新しい頃でしたが、映画『グレン・ミラー物語』でジャズの洗礼は受けていました。それがM.J.Q.の“No Sun in Venice”でした。

ジョン・ルイスが、仏人監督ロジェ・ヴァディムの映画『大運河』用に、そのシノプシスだけを渡され作曲したもので、放送から何年も後に(1956年)東京でも一般公開され、このM.J.Q.の『たそがれのベニス』を映画の中で聞きました。冒頭“The Golden Striker”が聞こえます。映画画面の始まりは、ヴェネツィアの当時既に映画館となっていたロッスィーニ・オペラ劇場前の劇場橋(P.del Teatro)からです。当時のこの近辺の賑わいが感じられました。劇場は現在は廃墟同然です。2007.11.17日に―《Campo S.Luca》―と2009.01.03日に―《サン・ベネデット劇場》―と関連記事を書いています。You Tube でどうぞ―《The golden striker》―。

キャサリン・ヘップバーン主演、デヴィッド・リーン監督の『旅情』(1955)を見たのも同じ頃だったでしょうか。ヴェネツィアに行くようになり、このテープをビデオ屋さんから何度も借りて見ました。ヴェネツィアを見せるために、リーン監督のワザは大変なもので、ヘップバーンがサン・マルコ大聖堂を目にするに至る道程の描き方は本当に考え抜かれた演出と感心しました。

見る度に新しい発見があったりします。最近もヘップバーンとロッサーノ・ブラッツィの恋が成就し、一夜を過ごしにある館に入っていくのですが、ヴェネツィアに唯一残存する欄干のない橋として有名な《キオード橋》を渡って入館するという設定になっていました。2011.08.20日に―《ヴェネツィアの橋(2)》―として、《キオード橋》と『旅情』の原作にも触れました。

映画でも登場するサン・バルナバ運河の、船の八百屋さんは拳骨の橋の下にあり、日本でも知られていますが、昨年など船上が空でした。以前傍の語学学校に通っていましたので、時々帰宅途中ここで野菜や果物を買いました。特徴のある顔の男性(双子or兄弟?)が交代で店に居たので記憶にありました。船が空になり、直前の陸の八百屋を見ると特徴のあるその顔がありました。船での八百屋は辞めたのかなと思っていましたら、次のブログに出会いました。―《船上の八百屋さん》―をご覧下さい。

ヴェネツィアの総督宮殿の、潟側の左の角の彫刻[フィリッポ・カレンダーリオ制作の『アダムとエヴァ』の彫刻――総督マリーノ・ファリエールの陰謀事件に連座して絞首刑になった10人の一人]からカメラは左のサン・マルコ小広場へ向かってパンして行くことで始まり、終わりにはまた、カメラが小広場側から角の彫刻に戻っていくというカメラ・ワークで終わる映画、米人監督ジョセフ・ロージーの仏映画『エヴァの匂い』は、ジャンヌ・モロー演じるエヴァの悪女振りに驚嘆刮目しました。

ジェイムズ・ハドリー・チェイスの『悪女イブ』(小西宏訳、創元推理文庫、1963年)を原作とするこの映画は、ジャンヌ・モローが若い時、詩人のジャン・コクトーに将来これを演ずるようにと『悪女イブ』を薦められていたのだそうです。長年胸に温めていたこの役を演じるモローは凄絶濃艶です。

エヴァがヴェネツィアのある館の一室で、ベッドに寝そべって聞く、ビリー・ホリデーの歌う“Willow weep for me”には胸がじーんとなります。You Tube で彼女の歌を見つけました。そして長年彼女の歌のピアノ伴奏を勤めたマル・ウォルドロンが、彼女が亡くなった時、その死を悼んで作曲した(追記: そうではなく生前の彼女に贈った曲)“Left Alone”(彼女はその曲に作詞した)もありました。共演のジャッキー・マクリーンの咽ぶようなテナーサックスの叫びは胸に突き刺さります。You Tube でどうぞ。 ―《Willow weep for me》――《Left Alone》―です。

[何年か前ラジオを聞いていると、長い間日本にも住んでいたヘレン・メリルが久し振りに来日し、不思議なテープを聴かせてくれました。それは彼女のデビュー前、ビリー・ホリデーのパーティで、偶々2人がドュエットでジャズをハモって歌うテープでした。曲名は失念しましたが、興奮しました。]
  1. 2012/04/14(土) 00:31:44|
  2. ヴェネツィアに関する映画
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文学に表れたヴェネツィア――ツルゲーネフ

「本稿が考察の対象とするのは,大正時代の流行唄として知られる『ゴンドラの唄』(吉井勇詞,中山晋平曲)である。
 この歌の冒頭に置かれた「〽いのち短し,恋せよ,少女」(今日ではしばしば「命短し,恋せよ乙女」と表記されることもある)という,いささかあざといまでに直截的な一節を覚えている人は少なくないと思われるが,この歌がもともと,島村抱月率いる藝術座(芸術座)によってロシアの文豪ツルゲーネフの小説『その前夜』(1860)が舞台化され,大正4年(1915)の帝劇公演において松井須磨子の主演で上演された際の劇中歌として生まれたことは,それほど知られていないのではなかろうか。……」
と相沢直樹先生は『山形大学紀要』第16巻3号に《『ゴンドラの唄』考》を書き起こされています。

そして当時の新聞記事を次のように引用されています。
「久しく各地を巡業して居た島村抱月氏等の藝術座員は今度暫く振りで東京へ戻つて來て此の廿六日から卅日迄の六日間の帝國劇場で華々しく新劇を開演する事になつた狂言は第一ツルゲエネフ原作 楠山正雄脚色 吉井勇作歌の悲劇「その前夜」。第二中村吉蔵作社會劇「飯」。第三オスカー、ワイルド原作 島村抱月 中村吉蔵合譯の新古典劇「サロメ」。

俳優は例に依て松井須磨子、武田正憲等の顔觸であるが、最初の「その前夜」は、十九世紀中葉頃の露西亞を背景にして稍眼覺かかつた智識階級の生活状態を戯曲的に面白く描いたもので、女主人公はエレエナ。男主人公はインサロフと云て前者は理想的空想的な露西亞の懶惰に倦きて力強い現實を求めてゐる女性、後者はブルガリアの革命家で實際的の手腕家であるが夫が偶々相逢て遂に強い戀に落ち自由結婚する事になつた處折からブルガリアの風雲急を告げて革命の機運が來たので二人は露西亞を後に出發しヴエニスの客窓で便船を待つてる内、インサロフは不治の肺患が重つて志を抱いた儘死し、エレエナは一人寂寥の中に悲しい生を續けて行くといふ筋で、雪に埋もれたモスクワ郊外の別離、伊太利港の客舎邊は泣かせる。俳優も皆達者にやつてゐる。……」
とあり、当時の様子が想像されます。

『決定版 ロシア文学全集 3』(ツルゲーネフ『父と子』『その前夜』『初恋』米川正夫訳、日本ブック・クラブ、1969年9月20日)の『その前夜』を読んで見ました。

モスクワ郊外のヴィッラで恋し合う仲になったエレーナとインサーロフ(ブルガリア人)は、両親に隠れて結婚します。ブルガリアがトルコとの戦争で風雲急を告げ、愛国者インサーロフはエレーナ共に、ウィーンを経てヴェネツィア経由で帰国しようとします。

「……カナレッチイもグワルジイも(近代の画家にいたっては、今さらいうまでもない)あの銀色にふるえるデリケートな空気や、遠ざかるが如くみえて、しかも間近に感じられる遠景も、たとえようのない優美な輪郭の奏でだす驚くべき諧音、溶けて行くような色彩のコーラスも、画布に伝える事ができなかった。すでに己の生涯を終って、人生に打ち砕かれた人間は、ヴェニスを訪れても無意味である。それは青春時代におけるはかない空想の思い出のように、苦い味わいを蔵しているだろう。けれど、まだ生の力が湧き返っている人、自分の生活を平穏無事と感じている人にとっては、これほど甘味な都はないだろう。
[カナレッチイとグワルジイとは、Canaletto と Guardi のことでしょう]
……
 食後二人は劇場へ赴いた。
 劇場ではヴェルディのオペラが演じられていた。それは、正直なところ、かなり俗悪なものだけれど、もうあまねく欧州の劇場に広まって、ロシアでもよく人に知られている歌劇「トラヴィアタ」である。ヴェニスのシーズンはもう終っていたので、歌手はみな凡庸の域を脱しない連中で、誰も彼も根かぎりの声を出して、わめき立てていた。ヴィオレッタの役を勤めていたのは、あまり評判のない女優で、見物の冷淡な態度から見ても、大して人気はなさそうであったが、ある程度まで才能の閃きが認められた。
……
 インサーロフとエレーナの泊まっているホテルは、リヴァ・ディ・スキャヴォーニに面していた。二人はそこまで行き着かないうちにゴンドラを下りて、聖マルコ広場の附近を何度も往復した。無数に並んだアーチの下には小さなカフェーがあって、その前に呑気そうな連中がうようよ集まっていた。 
 
愛する人と一緒に、知らない町で知らない人たちの間を歩くのは、なぜか格別楽しいものである。何もかも美しい意味ありげに思われて、すべての人々にたいして、自分自身を充たしている幸福と平和を祈ってやりたいような気がする。 ……」
 ――『決定版 ロシア文学全集 3』(ツルゲーネフ『父と子』『その前夜』『初恋』米川正夫訳、日本ブック・クラブ、1969年9月20日)より

この直後、インサーロフは既にロシアで兆していた病、肺と動脈癌のためヴェネツィアの宿で客死します。イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818.11.09~1883.09.03)はロシアの Oryol に生まれ、パリ郊外の Bougival で亡くなりました。彼はヴェネツィアに行ったことがあるのでしょうか。
イワン・ツルゲーネフ[wikipedia から借用。ワシーリー・ペロフ画『ツルゲーネフの肖像』(1872)] ヴェルディがヴェネツィアで初演・再演した『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』については、2007.11.17日の Campo S. Luca と2009.01.03日の サン・ベネデット劇場 でも言及しました。フェニーチェ劇場での初演は不首尾に終わりましたが、翌年何の変更もなしに近くのサン・ベネデット劇場で再演し、大成功だったそうです。ヴェルディ自身も不思議がった手紙を残しています。
  1. 2012/04/07(土) 00:05:46|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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