イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ダンドロ=ファルセッティ館(P.Dandolo-Farsetti)

E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はロレダーン館に隣合うファルセッティ館について次のように述べています。
ダンドロ=ファルセッティ館「隣合うロレダーン館同様、12~13世紀の典型的な商館邸宅であり、後に手が入り、3・4階が建て増しされた。この建物もまた、1階部分は柱廊であり、2階は連続する露台とほっそりした二対の柱から立ち上がるアーチを戴いた単独窓に特徴がある。

ここにアンドレーア・ダンドロが住まい、1343年総督に選出された。1670年“お金”で貴族になったファルセッティ家が手に入れた。そして修道院長であったフィリッポは芸術のパトロンで、彫刻や絵画を収集し、若い芸術家にギャラリーを開放し、彼らに仕事さえ提供した。

若かりし頃のカノーヴァがここで彫刻を学び、感謝の印に若き日の作品をこの一家に寄贈した。即ち、大理石の、籠の中の果物2作品が現在コッレール美術館にある。

しかしこの館は、この一家が設立したアカデミーでも有名である。その始まりは、ほんの冗談だった。元老院議員のダニエーレと兄弟のトンマーゾ、フィリッポの従兄弟達がサン・ドメーニコ修道院で全く馬鹿馬鹿しい説教を聞いたのは1747年のことだった。彼らはこの思い上がった説教師に悪戯を仕掛けようと考えた。

ご高説がとても感動的でございましたので、文学アカデミーなぞ設立したく思いました、就きましてはその会長に就任して頂きたく参上つかまつりました、と言上したのであった。しかし私ども会員の面々がいつも参集しておりますカッフェ・メネガッツィまでご来駕頂ければ幸甚にございます、と。仲間達が彼の才を確認出来るようにということであった。

こうして何も知らない、自惚れだけは人一倍強いジュゼッペ・サッケッラーリは公の場所で、それも皆の笑い物になりながら、自分の詩句を朗唱した。そして大玉ちゃん(Granelleri)アカデミーの“極大玉ちゃん(Arcigranellone)”公に選ばれたのだった。そのアカデミーのバッジには、鈎爪の両脚の間にしっかりと押っ立てた二つの玉々ちゃん(granelli)を誇示する梟が彫り込まれていた。こんな風にしてアカデミーは誕生した。
……
ダニエーレの息子は祖父達と全く別種の人間で、1778年には借金で首が回らなくなり、美術館は閉鎖し、館の全芸術作品を売り払ってしまった。1826年館は市の物となり、総督宮殿にあった古い市の事務所はそのままにこちらに越してきた。」

一方、R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は、また違った話を載せています。
「……フランチェスコ・ペトラルカの友人であり、人文主義者であり、歴史家であり、法律家でもあったアンドレーアは、ヨーロッパの多くの碩学達と関係を持っていた。彼は粋で感じのいい人物で、ミラーノ公ルキーノ・ヴィスコンティの妻イザベッラ・フィエースキが、1347年ヴェネツィアを訪れた時、すっかり彼の虜になってしまった。

1524年12月3日、館はヴェネツィアの大火のため、すっかり破壊されそうになったが、幸運にも屋根が崩れ落ちて火を消し止めた。この免れた大過の後、マリーノ・ダンドロは教会広場側ではなく大運河に面して、メイン・ファサードを再建した。

17世紀の半ば頃、邸宅はアントーン・フランチェスコ・ファルセッティの手に渡った。ファルセッティ家はトスカーナ出身で、芸術品の収集や文芸保護に励んだ教養豊かな一族であった。修道院長であったフィリッポ・ビンチェンツォは、古い有名な彫刻の石膏の原型等を集め(現在はアッカデーミア美術館にある)、若い芸術家達に自由に見せ、最もそれに値すると思われた彫刻家達の助けとなるように、給料を払って雇った。

そんな若者の一人がアントーニオ・カノーヴァで市の博物館に移される前に、大階段両脇に彼の初期作品、大理石の、果実が盛られた二つの籠がそこに見られた。

ファルセッティ家の最後の人物はアントーン・フランチェスコで、全財産を蕩尽した。共和国が滅亡した時、一家のコレクションの絵画作品を売却し、サンクト・ペテルブルグに幸運を探しに出かけて行き、1808年その地で亡くなった。

次いで何年間か館はホテルになっていたが、1826年市が獲得し、市庁舎になった。」
  1. 2012/05/26(土) 00:01:00|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: コルネール=ロレダーン・ピスコーピア館(3)

R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は、この館に関して次のような興味深い話を載せています。

「この館はパルマ出身のボッカージ(Boccasi)一族(1400年代には消滅してしまった)によって13世紀にヴェーネト・ビザンティン様式で建てられた。続いて建物の所有はズィアーニ家の手に渡ったが、その中でも最も著名な人物が総督セバスティアーノ・ズィアーニで、1177年ヴェネツィアで教皇アレクサンデル3世とフリードリヒ赤髯王との和平交渉を取り仕切った。
[彼はサン・マルコ寺院において、教皇権のアレクサンデル3世と皇帝権のフリードリヒ1世バルバロッサとの媾和をヨーロッパ諸公参列の中、実現させました。ヴェネツィアが新しい制度により初めて選出したこの総督ズィアーニは、1063~94年のサン・マルコ寺院の再建後、寺院前を走っていたバターリオ(Batario)運河を埋め立てたり、総督宮殿を始め寺院周辺の整備・美麗化に努め、以前より遥かに美しい広場・建築群を現出させていた、そんな中でこの和平が締結されました。]

14世紀には、当時のヴェネツィア共和国で最も富裕になったフェデリーコ・コルネールがこの建物を手に入れた。商業と工業の事業を営み、全てレヴァントで利益を上げた。1366年には兄弟と共にトルコの脅威に曝されていたキプロス島のリュジニャン王ピエールⅡ世(Pietro Ⅱ di Lusignano)に莫大な貸し付けをした。
[フランス出身のギー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan)の王家であるので、ピエールⅡ世とする。あるいは現在希語圏であるので希語式にペトロス?とすべきでしょうか?]

フェデリーコは大運河のこの館に王を招き、王からキプロス島のピスコーピアの封土を譲与された。その地で関税その他の税を免除され、砂糖の栽培・精製の許可を得た。
[コルネール家は貸し付けの抵当に島の南のEpiskopi(エピスコピ=伊語ピスコーピア)地方を手に入れ、その地を灌漑し、砂糖黍農園を経営し、精製して販売(無税の特権を得た)、多大の利益を上げ、共和国一裕福になったそうです―ここに来てようやくピスコーピアの名前の由来が分かりました]。

その上ピエール(ピエートロ)王は彼を騎士団(Ordine della Spada)[キプロスは、Jacques Ⅱ世(Giacomo Ⅱ)が聖ヨハネ騎士団に領地を与え、騎士団の基地となっていた]のシュヴァリエ(cavaliere―騎士)に任命した。その事は現在でも見られる寓意的な装飾紋章として、この館のファサードに彫り込まれている。即ち、Davide と Golia[ゴリアテ(ペリシテ人の巨人戦士)はダーヴィデに石を投げられ殺された―フィレンツェ・アッカデーミア美術館のミケランジェロのダーヴィデ像]、Giustizia と Fortezza[キリスト教の四つの枢要徳(virtu` cardinali)中の正義と剛毅。他にPrudenza(賢明)、Temperanza(節制)]、リュジニャン王家とコルネール家の紋章である。
……
この館は、特にジョヴァンニ・バッティスタ・コルネールと彼の娘のエーレナ・ルクレーツィアの思い出と深く繋がっている。

サン・マルコ財務官であったジョヴァンニ・バッティスタ(Giovanni Battista)は、全く謙虚さも控え目なところもない階層の女と再婚を決めて、スキャンダルが生じた。新婦のザネッタ・ボーニ(Zanetta Boni)はロンバルディーアのヴェネツィア領から遠く離れたヴァルサッビア出身で、ボルデッリ兄弟が最低の高級娼婦の一人としてヴェネツィアに連れてきた女だった。

結婚後、財務官夫人と呼ばせようとし、昔の仲間から大いに妬まれた。上流階級夫人達は誰も彼女を相手にしなかったし、貴族の黄金名簿の管理者である共和国司法長官(Avogadori di Comun[advocatores Communis])は、この結婚をこの貴族紳士名鑑に書き入れることを拒否した。

その結果、彼の息子のフランチェスコとジローラモは大議会から閉め出され、ということは貴族社会からも排除された。1664年になって、第4回目の請願書と15万ドゥカートの提供により、ようやくにして貴族と認められた。

ジョヴァンニ・バッティスタの娘のエーレナ・ルクレーツィアは1646年に生まれた[ジョヴァンニとザネッタの間に生まれた7子の5番目]。彼女を古典の勉学に進ませるように進言したのは、家庭教師であった司祭のジャンバッティスタ・ファブリスだった。彼女は、サン・マルコ図書館の管理を任されていた大変著名な学者アルヴィーゼ・アンブロージョ・グラデニーゴの手に委ねられ、彼は羅典語、希語、仏語、西語、数学、音楽と彼女を教えた。数学者のカルロ・リナルディーニは、エーレナの弁証法、哲学、神学、そして占星術に至るまでの完璧な知識に驚きを禁じ得なかった。
エーレナ・ルクレーツィア・コルネール・ピスコーピア[ウィキペディアより借用。画家不明『エーレナ・コルナーロの肖像』(ミラーノ、アンブロジアーナ図書館蔵)] ゲットの律法学者(ラビ)とヘブライ語で話し、31歳の時にはものの分かる聴衆を前にして、羅典語と希語で哲学論争を堂々と渡り合った。1678年6月25日、パードヴァ大聖堂で卒業弁論が開陳された。一人の女が、ドクターの資格を得たのは史上初のことである。結局研究活動にのめり込み、38歳の時、パードヴァのコルネール家の館で亡くなった。

1703年この館は、ジローラモの娘ルクレーツィアとジョヴァンニ・バッティスタ・ロレダーンとの結婚により、ロレダーン家の手に渡った。館が売却され、ホテルに改変された1800年代初頭までは、ロレダーン家の所有であった。

その後、ヴェローナの伯爵夫人カンパーニャ・ペッカーナに売り渡され、彼女は館を修復した。最終的には1864年ヴェネツィア市が獲得し、今日では市庁舎となっている。」
  ――ラッファエッラ・ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(Arsenale Editrice、Marzo 1998)より
  1. 2012/05/19(土) 00:02:05|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: コルネール=ロレダーン館(2)

(続き)
「最も苦労多き期間に、アゴスティーノ・バルバリーゴに次いでレオナルド(在位1501~21)は総督になったが、いずれにしてもこの時期は共和国にとっては大変な時期だった。第一に、彼が総督職に就くやトルコとの関係がまたまた悪化し、一触即発の戦争の危機となった。結局、1503年領土上の夥しい損失があったものの、トルコとの和平が成立した。当然、海上貿易上の更なる損失も生じた。

第二には、カンブレー同盟に連合したヨーロッパ諸国が、ヴェネツィアに敵対したカンブレー戦争という、本土で直面した戦いの出費である。しかし柔軟な外交活動のお陰で、対仏神聖同盟[1511年スペイン、イギリス、スイス、ヴェネツィアが、仏軍をイタリアから撤退させるために結んだ同盟]の一員に加わり、ヴェネツィアはヨーロッパでの信望と力を取り戻すことが出来たが、それは偏に妥協の産物だった。
……
ピエートロ(1481~1570)は1567年に総督に選ばれ、トレント公会議[1545~63年]の通達を認めることを拒んで、当時における強力な教皇庁と公然と確執を醸し、一家のエネルギーを蓄え、安定性を強化した。彼を激しく打ちのめしたのは、再びトルコ側から起こされたキプロス攻撃であった。彼は既に老齢[88歳]で、1570年には心配のあまり亡くなった。

フランチェスコは1752~62年総督を勤めたが、それはもうヴェネツィア共和国が落ち目の時期だった。

この一家の幸運は商業を基本に据えたことであった。1300年代の半ば以来、ジョヴァンニ・ロレダーンの足跡が中国に見られる。彼は実り多かった商業活動の末、1338年には同族の他の2人とインドに向けて出発している。我々が現代ジェット機で旅行をするように、当時ヴェネツィアと家族から何年間も離れて、同じような旅をしたということである。

こうした商人貴族達は、帳簿を完全な形で整理・保存した。ヤーコポ・ロレダーンの記録の中には、フォースカリ家とこの一家の不和に起因するゾッとするような悲劇的な記述が残されている。

1423年、父ピエートロ・ロレダーンとフランチェスコ・フォースカリは総督選出の選挙戦に巻き込まれ、フォースカリが勝ち、こうして以前から燻っていた憎しみが再点火された。そのあとピエートロが突如不可解な死を遂げ、更にその直後彼の兄弟のマルコが同じような奇異な死を迎えた。フォースカリの誰か友人が毒を盛ったという噂が流れた。
……
数十年後の1457年、フランチェスコ・フォースカリは一家の不幸な生活と彼自身の政治上のあらゆる不手際のため免職させられ、失意の中で他界した。[2010.09.11日の―《フォースカリ館》―をご参照下さい。]

そしてヤーコポは、手短且つ冷徹にそのドラマティックなページのタイトルの下に、ただ2語を書き足した、《清算完了》と。」
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より。
ジョヴァンニ・ベッリーニ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』 ヴィットーレ・カルパッチョ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』[左、ジョヴァンニ・ベッリーニ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』。右は、昨年(2011年)秋の《ヴェネツィア展》に、コッレール美術館から初来日した『二人の貴婦人』『赤いベレー帽を被る貴族の男』等と共にやって来たヴィットーレ・カルパッチョの『総督レオナルド・ロレダンの肖像』(カルパッチョに帰属)です。近年この作品はヴィンチェンツォ・カテーナの手になるのではないかとも言われているそうです。]

アルヴィーゼ・ゾルジ著『ヴェネツィア歴史図鑑』(金原由紀子他訳、東洋書林、2005年4月22日)掲載の、上左の『レオナルド・ロレダーンの肖像』のキャプションは次のようです。

「……ジョヴァンニ・ベッリーニによる(ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)。総督はかつては政治と軍事の最高権力者だった。ところがその特権は何世紀もの間に、選挙で選ばれた主席行政官としての権限にまで縮小されるようになる。
ジョヴァンニ・ベッリーニが威厳と思慮深さをそなえた風貌に描いたレオナルド・ロレダンは(実際にそうした人物であったことは年代記者の記述からも裏付けられる)、ヴェネツィアが《全世界を敵にまわした》時期に総督を務めた。
ヴェネツィアの覇権があまりに突出したため、教皇ユリウス2世、フランス国王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン国王フェルディナンド[Ferdinandoは伊語式の言い方。西語ではアラゴン・カスティリャ連合王国王フェルナンド2世(Fernando Ⅱ)]がカンブレー同盟(1508年)を結成したのである。
ヴェネツィアがイタリア本土に所有していた領土をすべて失いそうになりながらもこの危機的状況を回避できたのは、政府首脳が賢明に立ち回ったお陰だった。」

イタリアのウィキペディアは、上記のヴィンチェンツォ・カテーナについて次のように記述しています。
「Vincenzo Catena は Vincenzo Biagio(1470頃~1531)とも言われ、ルネサンス期のヴェネツィア派画家の一人。名前はジョルジョーネの『ラーウラ』の背景に書き込まれたサインで知られる。生涯についてはあまり知られていない。作品はルーヴルやロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されている。
ジョルジョーネ『ラーウラ』 ヴィンチェンツォ・カテーナ『聖母子と聖人達』[左、ジョルジョーネ画『ラーウラ』、右、カテーナ画『レオナルド・ロレダーンに崇拝される聖母子と聖人達』]
彼の最初の創造性は、1500年代の、後期アントネッラ・メッシーナ派の伝統とした色に色濃く残っている。ベッリーニ風のイコン的要素を取り入れたり、チーマ・ダ・コネリアーノ風の彫塑風の重視など。しかし、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの画法の影響は色濃い。この期の例は、『聖会話』『レオナルド・ロレダーンに崇拝される聖母子と聖人達』(1506)。

第2期は、ベンボやトリッシノのような人文主義者との交流のお陰もあって、ジョルジョーネやティツィアーノの作り上げた芸術的世界と取り組むことになった。パルマ・イル・ヴェッキオの色や形の切磋琢磨した研究のお陰で、色彩の豊かさ、彫像的な形の構成による、意義深い作品を残した。……」
  1. 2012/05/12(土) 00:11:11|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: コルネール=ロレダーン館(P.Corner- Loredan)(1)

サン・マルコ方面は大運河の《上(かみ)》になり、ローマ大広場(Piazzale Roma)方面は《下》となるため、リアルト市場側は左岸と呼ばれ、サン・マルコ側は右岸と呼ばれるようです。また違った言い方もあって、サン・マルコの《こちら側》の意で右岸をラテン語で de citra(羅語前置詞)と言い、左岸をサン・マルコの《向こう側》の意で de ultra と言うそうです。
[2015.07.27日追記: サン・マルコ湾を海と見るのが正しいようで、サン・マルコ側を左岸、リアルト市場側を右岸とするのが正解のようです。『ヴェネツィア 大運河』(ウンベルト・フランツォイ著、陣内秀信監修、中山悦子訳、洋泉社、1994年10月3日)による]

その大運河右岸の炭運河通り(Riva del Carbon)を進み、ヴィヴァルディが晩年住んだ家の前を通り、ダンドロ館を過ぎると、コルネール=ロレダーン館(現、市庁舎)に至ります。市庁舎のカルボーン通り(Cl.del Carbon)側の壁面に次のような碑文が掲げてあります。
コルネール=ロレダーン館とダンドロ=ファルセッティ館エーレナ・ルクレーツィアの碑《ここでエーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピアは1646年に生まれた。1678年6月26日、女子として世界最初に大学を卒業した。》

パードヴァのボ大学(哲学科)を卒業した、世界初の女性大学卒業生エーレナ・ルクレーツィア・コルネール(コルナーロとも)=ピスコーピアの誕生した邸宅がここのようです。パードヴァのボ大学本館のガリレーオ・ガリレーイが教壇に立ったホールのある2階へ昇る階段下にも、彼女の彫像と共に説明の文言があります。
エーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピアイタリアのエーレナ・コルナーロ・ピスコーピアのサイトから借用。パードヴァ大学にある彼女の彫像
『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』(Piero Pazzi著、Tipografia del Centro Grafico di Noale)によれば、コルネール=ピスコーピア館(Ca' Corner Piscopia)について次のようにあります。
「元々この古い建物は、退位(1275)後の総督ヤーコポ・コンタリーニが、1280年に呼んだパルマのボッカージ一族によって建てられたと思われる。その後1361年、オーストリア公の宮廷を招いたザーネ家の手に渡った。2年後この高名な建物に実際に繋がりを持っていたコルネール家の所有となった。

1363年ここに、フェデリーコ・コルネールがキプロス島の王、ピエートロ・ルジニャーノ[後にカテリーナ・コルネールが嫁入りしたリュジニャン(仏語式呼称)王家]を招いた。7万ドゥカートを融資した見返りにピスコーピア城を譲与された。そのためこの一族はコルネール・ピスコーピアと称される。

1684年、ロレダーン家との婚姻があり、更には1867年にヴェネツィア市が購入し、市庁舎は隣接する市の建物(ファルセッティ館)と陸橋で結ばれて拡張された。」

また2008.09.28日に触れた、サンタ・クローチェ区のナザーリオ・サーウロ広場の呼称の元となった、愛国者ナザーリオ・サーウロの顕彰碑がこの市庁舎の玄関口に掲げてあるようです。

「QUESTE RELIQUIE/ DEL MARTIRIO DI NAZARIO SAURO/ QUI FUGGIASCHE DA POLA/ AFFIDANO GLI ESULI GIULIANI E DALMATI/ ALLA MATERNA PIETA` DI VENEZIA/ PERCHE` SIANO SERBATE AL DI` DEL RITORNO/ X-II-MCMXLVII X-VIII-MCMLIV.(ポーラ[クロアツィアのプーラ]からここに帰還したナザーリオ・サーウロのこれらの殉難碑、ヴェネツィア・ジューリア地方やクロアツィアの亡命者達はヴェネツィアで祖国への愛を信じていた。何故かならば、1947年2月10日の帰国の日まで待ち続けていたのだから。1954年8月10日。[1916年8月10日、当時オーストリア領カポディーストリア生れのサーウロをオーストリア軍は裏切者としてポーラで絞首刑にしました])」

コルネール=ロレダーン館についてE.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。
「宮廷風の優雅なスタイルで、伝統的な商館邸宅を発展させたヴェーネト・ビザンティン様式の素晴らしい例の一つである。元々の1階の回廊と2階全体を覆う酒杯で飾られた、連続する露台を持つ多連窓はそのまま残されて、3階・4階が16世紀に建て増しされた。

その多連窓については、内側の柱の区切りがサロンに採光する中央開口部を区切るように、2ヶ所の2本柱で強調されている。この伝統はパルマ出身のボッカージ一族(Bocassiと誤植してます)の建築で、13世紀に遡る。その後、ズィアーニ家の建物、更に1300年代にはコルネール家の建物となる。1703年ロレダーン家の手に渡り、1867年には市の所有となった。そして右隣のファルセッティ館と共に市庁舎となった。
……
ロレダーン家は“新しい(nuova)"一家で、その出自は11世紀に遡り、幾つかの分家に分かれ、現在もサン・ヴィーオ教区に現存する。一人の素晴らしい人物以外にも、共和国で名を成した一連の政治家や海や陸の著名なキャプテンとなった者、そして3人の総督がいた。」
  ――『大運河』(1993)より。後半は次回(2)です。
  1. 2012/05/05(土) 00:02:43|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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