イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: グリマーニ館(2)

「アントーニオは1434年に生まれた。彼は父が庶民の女と結婚したため、他の貴族と比べると不如意な状態にあった。その事で彼は頼りになる家族関係という恩恵に与っていなかった。その上一家は貧乏暮らしだった。

しかし活発な知性を柔軟に駆使して豊かになっていき、ロレダーン家の娘との間に生まれた息子ドメーニコに、枢機卿帽を保証する3万ドゥカートの巨大な額を工面出来るまでになった。当時の年代記に書かれたことは、商人達は《グリマーニが売ると売り、売り控えると売り控えた。彼のやる事なす事全てが幸運を指し示していたからである……。彼が手にした土地もゴミさえも黄金になった。》と。
……
艦隊司令長官時代、スルタン・バヤジト2世(sultano Bajazet Ⅱ)のトルコ軍との戦闘で、レーパントを失う結果(1499年)に終わった。そしてヴェネツィアはその失敗を許さず、彼を裏切者として糾弾し、流罪にした。しかしその後、名誉が挽回されて呼び戻され、1521年には正式に総督宮殿の門を潜った。

彼の総督時代はフランス王フランソワ1世と皇帝カール5世の紛争のため特に困難だった。彼らの戦場がイタリアだったからである。しかし総督は、非常な能力を発揮して、セレニッシマに対して危険が及ばないように彼らと等距離を保つよう努めた。

息子のドメーニコはアクイレーイアの総大司教になった。彼は大文化人にして、文芸・学術の大保護者であり、サンタ・マリーア・フォルモーザのグリマーニ館に収められた骨董品や芸術品の収集家であった。
[2010.03.20日にサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場で書きましたように、フォルモーザ広場のグリマーニ館は修復なって、現在見学出来るようになっています。先日BS朝日で《ヨーロッパ路地裏紀行――ベネチア・ジュッファ通り》というTV番組がありましたが、このグリマーニ館はフォルモーザ広場からこのジュッファ通りに入って直ぐ左の奥です。
またここの一家は、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ(1635)、サン・サムエーレ(1655)、サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ(1677)、サン・ベネデット(1755)の各劇場を建てたことでも知られています。サン・サムエーレ劇場傍のマリピエーロ通り(Cl.Malipiero)にはカザノーヴァが生まれたことを示す碑が掲げられ(母親ザネッタも父もこの劇場の舞台にも立っています)、劇場所有者ミケーレ・グリマーニが彼の実父だと言われています。]
ヴェネツィア地図フォルモーザ広場のグリマーニ館は、《G3》の広場東の外れ。グリマーニ館脇道グリマーニ通りどん詰まりのグリマーニ館
箱に納められた『グリマーニの聖務日課』『グリマーニの聖務日課』10月の仕事[サイトから借用] 一家の分家は19世紀には消滅してしまったが、書籍の豊富な図書館を所持しており、彼が《グリマーニの座右の書(聖務日課書)》と呼んだ金泥写本は有名である。[右《10月の労働》挿図]
……
どこの家族にもあるように、この一家にもあまり褒められないことがあった。というのは1658年共和国は、色々罪を犯した兄弟2人を追放したことがあった。彼らはヴィンチェンツォ・グリマーニとマリーナ・カレルジの息子で、母親所有のヴェンドラミーン館に住んでいた。年代記作者の判断では、グリマーニ兄弟の手に負えない粗野な性格は、母親譲りのものであったに違いない、と。

実際、クレタ島から来た裕福なカレルジ家には、1400年代ジョルジョという名だたるはぐれ者がいた。彼は海賊行為にのめり込んでいたのである。海上でピエートロ・ロレダーンに逮捕され、ガレー船の艫(とも)で処刑されるのに、一般船員達の前を嫌がり、公務の役人達の面前での処刑という貴族に許される特権を要求した。

実際、共和国はグリマーニ兄弟を追放したのみならず、庭に面した館(ヴェンドラミーン・カレルジ館)の翼の部分を取り壊させたということで、悪名の烙印を押したのである。2人の追放者の一人である聖職者のヴェットーレは、辛辣な詩句でその刑に仕返しをした。
 Anca mi so qualcosa in materia de corni(私もまた総督帽に関しては何ものかであったのだ)
 che in 'sto mestier go speso e bezzi e giorni.(この職にお金や日時を浪費した)
 Ma dentro a quel Consegio ghe ne e` de giovani e vechi(しかしあの大議会の中には老いも若きもあって)
 che se lor mi han bandito, mi li ho fati bechi.(彼らは私を追放し、私は彼らを山羊(コキュ)にしてやった)
[ヴェンドラミーン・カレルジ館(現在市営賭博場)の翼は、17世紀初頭にヴィンチェンツォ・スカモッツィにより大運河に面した庭を包み込むように大きな翼が作られたのですが、兄弟達の犯した罪により総督府により取り壊しが命じられました。しかしその後間もなく、無名の建築家により現在見るように、飾らない簡素な形で再建されたのでした。]

しかしながらカンディア(クレタ島)戦争が勃発し、莫大な戦費が掛かることとなり、共和国はなり振り構わず出来るだけの金を掻き集めなければならず、それ故《もし自分を追放地から呼び戻してくれるなら、私のお金で丸一ヶ月に200人の兵士を戦場に送り込めるぞ》というヴェットーレの提案を政庁が受け入れ、彼は故郷に帰還出来た。

グリマーニ家は大金持ちではあったが、大変簡素な生活振りだった。事実、国の異端裁判所のスパイであったペドリーニ神父は1787年に報告している。グリマーニ財務官は元老院に登庁前、非常に質素な朝食をした。立ったままポレンタ1切れを食べた、と。……」
 ――『大運河』(E.& W.Eleodori著、1993)より
 
[トウモロコシの粉に水を加えて火に掛け、練り上げた polenta 料理は、かつては特に北イタリアの貧しい庶民の主食だったそうです。イタリア南部の人は北部人を悪く言う時、polentone(ポレンタ喰らい=のろま)と吐き捨てるそうです。ルイージ・コメンチーニ監督の映画『パンと恋と夢』(ロロブリージダとデ・シーカ主演)の中でも、ヴェーネト出身の若い巡査を tonto(間抜け)と揶揄していました。
それは伊語のようにメリハリのある、撥ねるような発音と異なって、ずるずると引き摺るように聞こえるヴェーネト方言故かも知れません。polenta は、ヴェネツィア語では母音間の“l”は無音のことが多いので《ポエンタ》と発音するかも知れません。脱皮したばかりの柔らかい甲羅の蟹 mollecca(伊語)は、moleca となり、発音はモエーカ(moeca とも綴る)です。またヴェネツィア語の schila(小蟹)も s-chie`(スキエ)と複数形で使うようです。gondola は、ゴンドヤと聞こえます。]

現在この館は la Corte d'Appello(控訴裁判所)となっています。控訴裁判所とは、第二審を扱う、日本で言う高等裁判所のことで、民事の控訴院と刑事の重罪控訴院があるそうです。
  1. 2012/06/30(土) 00:02:25|
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ヴェネツィアの建物: コルネール・ヴァルマラーナ館(P.Coener Valmarana)とグリマーニ館(P.Grimani)

コルネール・マルティネンゴ・ラヴァ館から更に下(しも―サン・マルコ方面)へ移ると、コルネール・ヴァルマラーナ館が右隣にあります。この16世紀ルネサンス様式の建物は、2階3階の中央のセルリアーナ式窓の上部がアーチになった三連窓で、三連窓両脇に一面窓2面を従え、窓の間に彩色された大楯型や円形の装飾で飾られています。19世紀に修復されたそうです。
コルネール・マルティネンゴ館とグリマーニ館[コルネール・ヴァルマラーナ館とグリマーニ館] グリマーニ館について『大運河』(1993)は次のような事を述べています。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)「ルネサンス様式の大建造物は、ミケーレ・サンミケーリ(1484San Michele Extra~1559Verona)の作品。コンタリーニの旧建物跡にジョヴァンニ・グリマーニの希望で建設され、工事は1556~57年に始まり、ジャン・ジャーコモ・デイ・グリージ[ベルガモの名のある建築家 Guglielmo dei Grigi の息子]の監督の下、1575年に完成した。

サンミケーリは基本として古代ローマに立ち戻り、入口のポルティコに凱旋門的発想を取り込み、2階3階の中央部にもそのアイデアを盛り込んだ。1階は縦溝装飾の角柱がセットされた濃密な調子が際立ち、角柱が連続するバルコニーを持つ力強い楣式(まぐさしき)構造が支え、2階3階へと次第に融け合いながら、上層階では滑らかな円柱に輝きが増し、アーチ状の大きな開口部が一際目を引く。
……
伝説が述べるところによれば、グリマーニ家の若者がある時、ティエーポロ家の娘を嫁に所望したが、要求はその若者が大運河に邸宅を所持していないからと断られた。恋する若者は恨みに思い、復讐心を胸に秘め、我が家の窓がティエーポロ家の玄関口を睥睨出来るような屋敷を作ることを誓ったのではないだろうか。
[大運河を挟んでグリマーニ館とティエーポロ館は向かい合っています。]
……
ここで1597年、総督マリーノ・グリマーニの妻モロジーナ・モロジーニの戴冠[dogaressa(総督夫人)になったこと]を祝う豪華なパーティが開かれた。ブチントーロ船が各種同業組合や団体が設えた大船列や貴族達のゴンドラの行列を従えて、彼女を迎えにやって来た。40人の貴紳、400人の貴婦人が儀仗隊となった。
……
グリマーニ家はまた音楽の大変な愛好家で、ヴェネツィアに有名な劇場を所持していた。知られている事は、もし音楽家であれば、使用人として雇い入れ、この館に住まわせた。契約は要求があればそこでいつでも演奏するということ。そして館は1805年まで一家の居宅であった。

グリマーニ家は10世紀から知られた家柄で、現在も存続している。旧い家系(case vecchie)には入っていないし、セッラータ(Serrata―貴族閉鎖、下記参照)前の黄金名鑑(Libro d'Oro)にも登録されていない。それ故新しい家系(case nuove)と考えられている。1400年代に頭角を現し、共和国の色々の分野で著名な人物を輩出し、3人の突出した総督アントーニオ(1521~23)、マリーノ(1595~1605)、ピエートロ(1741~52)を生んだ。」

[serrata――1297年と1307年に大議会の議員資格が特定の家柄に限定され、その家柄の全ての成年男子(25歳以上)は非嫡出や合法的に廃嫡された者を除き、大議会に議席を持ち、貴族と規定された――『ヴェネツィア貴族の世界』(永井三明著、刀水書房、1994年2月4日)より]
続きは次回です。
  1. 2012/06/23(土) 00:01:01|
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鷗外の『獨逸日記』から

森鷗外の『獨逸日記』[『鷗外全集』第三十五巻(岩波書店、昭和五十年一月二十二日)]に目を通すように勧められ、読んでみました。

鷗外は津和野藩亀井家の典医の家系出です。蘭学者、医学者、教育者の緒方洪庵には7男6女があり、洪庵の息子の惟準(これよし)(第4子次男)や收二郎(第13子六男)らと友達であったことがこの日記から分かります。

「十五日。家書至る。石黑緒方兩軍醫監の書も亦至る。小山内建、淸水郁太郎の病歿、緒方收二郎の結婚を知る。……」(明治十八年四月十五日)

「二十日。……始て獨逸國軍醫總監兼侍醫ラウエル Lauer と相見る。白頭にして鬚髯なし。軀幹長大、面痩せ顋(あご)出ず。其動作略々緒方惟準に肖たり。……」(明治十九年二月二十日)

そしてヴェネツィアに夭折した緒方家第10子五男の惟直(これなお)のことについて次のようなことが書かれています。鷗外がライプツィヒからミュンヘンに移り、ペンテンコオフェルについて衛生学を学んでいる時です。

「十五日。長沼守敬伊國ヱネチヤ Venezia より來る。余問ひて曰く。君伊國に在りしならば、必ず緒方惟直君の事を知るならん。僕の東京を發するや其舍弟にして僕の親友たる收二郎より、惟直君の墳墓のことを聞き、僕の足其地を躡()むことあらば必ずこれを弔せんと約したり。願くは其詳なるを語れと。

長沼の曰く。惟直君の墳墓は予の領事館[館の正字はPCにないので代用]の吏輩と議して建つる所なり。其地はチミテロ、サン、ミキエル Cimitero St.Michiell [伊語 Cimitero di S.Michele]と曰ふ。業成る後之を日本に報じたりしが、果々しき返事も無し。惟直と惟準とは何如なる親疎の關係あるにか。墳墓は兎まれ角まれ、困難なるは惟直君の遺胤の事なりと。

余驚き問ひて曰く。遺胤とは何如。長沼の曰く。惟直君はこれを日本政府に秘したれども、伊太利の一女子と宗門上立派なる結婚の式を行へり。旣にして一女兒を擧ぐ。今母と共に存す。

惟直君の歿するや、母子若干の遺金を得たり。而れども是金も亦盡[立偏に旁、盡の字]きたれば、窮困の狀見るに忍びず。遺子の面貌は太だ惟直君に似たりと。

余長沼に問ふに母子の居を以てす。曰く。家の番號などは記せざれどプゴ橋 Ponte di Pugno [サン・バルナバ広場の拳骨橋(ponte dei Pugni―複数形)]といへる橋を渡り、牧生女 Leratrice の家を問ふべし。母子此に寓せり。

然れども君其貧苦の狀を見ば、必ず盤纏(ばんてん―旅費のこと)を輕くするならんと。日本人の歐洲に在りて兒を生ませしは、獨り惟直氏のみならず。……」(明治十九年七月十五日)
 ――『鷗外全集』第三十五巻[『獨逸日記』(明治十七年十月十二日~明治二十一年五月十四日)](岩波書店、昭和五十年一月二十二日)より

こういう日記を読むと大変身近なことに感じられます。長沼守敬(もりよし)はヴェネツィア王立商業高等学校第二代日本語教師だった緒方惟直の後、第四代目の日本語教師としてヴェネツィアで彫刻を学びながら日本語を教えた彫刻家でした。サン・ミケーレ島の墓地にある惟直の彫刻された美しい墓石は彼の手になる物だそうです。長沼痛恨のミスは、惟直を維直と勘違いし、生年(1853年)を1855年と刻んでしまったことでしょう。

[長沼守敬は御雇(おやとい)外国人の一人、日本の紙幣や印紙等の印刷の指導をしたエドアルド・キオッソーネにイタリア語を学び、明治14年、第3代駐日イタリア公使ラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニ伯爵{バルボラーニについては2010.02.06日のイタリアと日本との関わりで触れました}が勤務を終えて帰国の際、同行してイタリアに渡り、ヴェネツィア王立美術研究所で Luigi Ferrari や Antonio Dal Zotto らに彫刻を学びながら日本語を教えたのだそうです。長沼の在伊時代の活動については石井元彰著『ヴェネツィアと日本――美術をめぐる交流』(ブリュッケ社、1999年10月23日)が詳しいです。サン・バルトロメーオ広場の『カルロ・ゴルドーニ像』は、アントーニオ・ダル・ゾット作。]
『ヴェネツィアと日本』いずれにしても、惟直が住んでいた場所は有名な《拳骨橋》の近くらしいと思われます。ヴェネツィアで長い間絵を描いておられた別府貫一郎画伯は、彼のアパートを突き止められたそうで、ヴェネツィア観光をした日本人が画伯に案内されてその建物を見たと書いておられました。画伯の案内でNHKも取材し、何十年か前放映されたそうです。

緒方惟直のサン・ミケーレ島の墓地について2010.08.14日文学に表れたヴェネツィア―パウンドとサン・ミケーレ島等に書きました。
墓地地図緒方惟直の墓墓の在所は、略図左上隅区画の2°(第2チェゼーナ)内の右下壁です[略図は右下の教会方向が北です]。墓地入口は以前は11°Emiciclo[教会]の建物前にヴァポレット停留所がありましたが、現在は同側右上に変わっています。入って直ぐ左に事務所があります。

鷗外のこの日記を読むと次のような興味深い事がありました。
「……ダンテ Dante の神曲 Comedia は幽昧にして恍惚、ギヨオテ Goethe の全集は宏壯にして偉大なり。誰か來りて余が樂を分つ者ぞ。」(明治十八年八月十三日)と、『卽興詩人』(1892~1901)の翻訳の前に、鷗外は既に『Divina Commedia(ヂヰナ・コメヂア――鷗外表記)』を『神曲』と訳していたのです。

ダンテはこの作品を『Comedia(コメディーア)』としていたのだそうですが、ヴェネツィアで1555年に出版された時、『Divina Commedia(ディヴィーナ・コンメーディア)』と《神の divino/a》の語が追加され、爾来この Divina+の表記が踏襲されているそうです。ヴェネツィアを世界に冠たる印刷出版王国にしたアルド・マヌーツィオ(羅典式 Aldus Pius Manutius――1449バッシアーノ~1515.02.06ヴェネツィア)等から40年経たこの頃も、いまだ世界に冠たる出版王国の時代だったということでしょうか。

[鷗外の日記は正字・旧字で書かれ、PCには之繞など点が一つの漢字しかないなど正字・旧字が少ない上に、誤記等もあるやも知れず引用は中途半端です。]
  1. 2012/06/16(土) 00:07:29|
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映画『テルマエ・ロマエ』とラテン語

映画『テルマエ・ロマエ』を先日新宿で見て来ました。大変楽しく、面白く笑って見ました。顔の平べったい私は、同族のかくも平たい顔族を掻き集めている《笑撃映像》に大笑いしたことでした。イタリアでの公開も決まったそうなので、古代ローマ人の子孫達も笑って楽しんでくれるでしょう。全ての道(笑い)はローマに通じます(Tutte le strade portano a Roma.)。
ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』帯それにしても主演の阿部寛さんの分厚い胸の盛り上がった裸体は西洋人に劣らぬ立派なもので惚れ惚れ見ました。何しろ1時間以上前に映画館に到着したのに、全席満席でたまたま空いていた一番前の席で見たものですから大迫力です。この近年、一般公開映画で満席というのは初体験でした。かつて映画全盛期は、立ち席で人影から画面を覗くのは当たり前でしたが。

和製ローマ人の濃い顔1位に選ばれた北村一輝さんが登場するNHK・TVイタリア語講座番組では、ローマのフィルムを楽しんでいます。映画でルシウスが喋った“Lusius sum.”[私はルシウスです]の台詞が聞こえ、何度も挫折したラテン(羅典)語学習に再挑戦する気力を貰いました。名詞の格変化の多さに意欲を削がれっぱなしだったのです。そこで次の本を読んでみました。
國原吉之助編著『新版 中世ラテン語入門』ジュゼッペ・パトータ『イタリア語の起源』今まで羅典語の発音は、イタリア人が自分達の言語の読み方に合わせて都合よく発音しているに違いないと、真に浅く思い込んでいました。ところがそうではなくキケロ等の古典羅典語(書き言葉)の時代から中世羅典語の時代へと言葉が変化し、特に話し言葉としての俗語ラテン語はより変化が激しく、今のイタリア語等に変化していったので、イタリアで話されるラテン語は、イタリア語になる直前のラテン語の発音だということのようです。

ですから中世に作詞作曲された、教会で歌われる聖歌等はその時代の発音(カトリック式ラテン語)だということです。音楽事典によりますと、例えばラテン語聖歌 Magnificat(聖母マリアの頌歌)は《マニフィカト》の発音であり(小学館の『伊和中辞典』には、マグニフィカトとありますが)、Regina caeli(天の元后)は《レジナ・チェリ》であり(レギナ・カエリではなく)、Dies irae(怒りの日)は《ディエス・イレ》(ディエス・イラエではなく)、Agnus Dei(神の子羊)は《アニュス・デイ》である(アグヌス・デイではなく)と書かれています。

そうすると『テルマエ・ロマエ(Thermae Romae―女性複数形)』は、中世俗語では《テルメ・ローメ》と発音されたのでしょうか。《テルメ》という発音で気付くのは、伊語の terme(複数形)と同じ発音で、現在意味は《温泉》ですが、古代ローマでは《公衆浴場》の意とあります。thermae → terme と中世ラテン語の発音が伊語にそのまま残ったようです。古典羅典語で発音していると気付かないところです。

フランスの哲学者デカルト(1596~1650)の《コーギトー、エルゴー・スム(Cogito, ergo sum)》は、高校の世界史で《我思う、故に我在り》と教わりました。最近仏語辞典を引いてみますと、《Cogito(コジト)》と発音記号が書いてありました。フランスでも当時“gi”を《ジ》と発音していたと思われますが、日本ではコギトと読むことになっているようです。戦前《蝶々》を歴史的仮名遣いで《てふてふ》と書き、《ちょうちょう》と発音していたのが思い起こされます。古典羅典語式発音で、《てふてふ》とそのまま発声したら、誰も分かって呉れないでしょう。                       

この中世ラテン語俗語の発音(イタリア語式)で羅典語を勉強してみると、ラテン語が伊語にそのままの形で残っている単語が沢山ありそうなことに気付きました。しかし casa 等、伊語の casa と異なって capanna と若干意を異にするような言葉もあるのでしょうが、それにしても同じような単語が沢山あるというのは、伊語を学習する者にとっては非常に取っ付き易く思われます。この発音でアタックすれば伊語との共通項がかなりあり、とけ込み易く、伊語の理解も深まりそうに思われます。因みに Zanichelli 社の『新ズィンガレッリ(Zingarelli)伊伊辞典』には、その言葉がどんな羅典語から来たのかの記述があります。

ヴェネツィアやローマに行った時、ラテン語の碑文が建物正面に掛けてあったりして、読めなくて残念な思いをしたのはいつものことでした。次回の渡伊の時、何とか読めて理解出来るようになりたいと 愛着の湧いたイタリア語式で挑戦すれば勉強も続くかもしれません。いずれにしてもローマでアウグストゥスのアラ・パキス(Ara Pacis Augustae)を《アラ・パチス》と発音すれば直ぐに現地の人に分かってもらえると期待しています。郷に入っては郷に従え(Quando a Roma vai, fa' come vedrai.)です。
〈カトリック式ラテン語〉[NHK《日本語における外国語の表記と発音》(昭和37年8月)より] 発音方法は左の《カトリック式ラテン語》が参考になります。イタリア語を勉強している方へのイタリア語式発音による、ラテン語へのお勧めでした。
  1. 2012/06/09(土) 00:05:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: コルネール=マルティネンゴ・ラヴァ館(P.Corner-Martinengo Rava`)

ダンドロ=ファルセッティ館から更に右へ進むとコルネール=マルティネンゴ・ラヴァ館です。G.Lorenzetti『ヴェネツィアと入江』(1926)は簡単に次のようなことを述べています。
コルネール=マルティネンゴ・ラヴァ館[中央左の褐色の建物] 「かつてカヴァッリという一家が住んでいたので、建物前の運河通りや左脇の道はカヴァッリの名前を冠している。1838年イギリスの小説家フェニモア・クーパー[James Fenimore Cooper(1789.09.15ニュージャージー州バーリントン~1851.09.14ニューヨーク州クーパーズタウン――彼はイギリス人ではなく、アメリカの流行作家で、日本では『モヒカン族の最後』等で知られています。]が住んだ。

その後レオン・ビアンコ(Leon Bianco)という旅籠になった。美術研究家アルド・ラヴァの持ち物になると、絵画や家具、また陶磁器等、1700年代ヴェネツィアの洗練された調度品で飾られた。」

現在はヴェネツィア市の所有物で、例えば結婚課等もあり、2階はその結婚式場となっています。市が公式行事と認めるヴェネツィア市の結婚はここで執り行われ、その記録は市に永遠に保存されます。教会等で行われる結婚式は私的な事とされるので、挙式後、市に届け出なければ法律的に有効な結婚と看做されません。

例えば、ハワイ等で挙式する日本人の事はよく耳にしますが、ここでも日本人同士の結婚を引き受けてくれます。ただし正式の行事とされるので、その手続きが少し煩雑かもしれませんが、順を追って紹介してみましょう。

① 先ず結婚式の日取りを決め、この建物にある市役所の結婚課に日時を予約します。
② 日本の戸籍謄本、家族全員の住民票を揃え、日本の法務局で、外国で結婚してよろしいという許可証を取得します(簡単)。
③ それらの一括書類の承認を外務省で受けます(簡単)。
④ それらの一括書類をイタリア語に翻訳します。専門用語だらけなので、イタリア文化会館等で慣れた翻訳業者を紹介して貰い、翻訳を依頼します。
⑤ 翻訳成った一括書類を日本のイタリア大使館に持参、承認を受けます(日時が掛ります)。
⑥ イタリア大使館で承認を受けた翻訳書類全てをヴェネツィア市役所結婚課に直接届けるか、あるいは Fax で全てを送付し、予約日の確認をします。[Fax で送った場合は、渡伊後、オリジナルの翻訳書類を挙式日までに結婚課に届けます]
⑦ 挙式1ヶ月前に、結婚課の指定する機関にその結婚費用を振り込みます。

◎ 渡伊後、ヴェネツィアでする事(以下のような交渉事は、日本語の話せる人、ヴェネツィア在住の日本人のコーディネーターのような人がいれば、スムーズに事が運びます)。

⑧ 出来ればホテルから式場まで式服で、ゴンドラを使って移動したいものです。式参加の人数によりゴンドラの艘数等、船頭さんとの交渉があります。あらまほしは、ホテルはゴンドラが横付け出来る運河に面していることです。
⑨ 式場の花飾り、新郎新婦が乗るゴンドラの花飾りはどうするか?
⑩ 一生の記念となる写真のカメラマンは参加者の誰かか、あるいは別に人を頼むのか?
⑪ 花嫁の化粧は自分でするのか、美容院にメイクを頼むのか(結婚式場も美容院も休日は休み)?
⑫ 式後の、お祝いの午餐会はどうするか? もし大運河沿いのホテルのレストラン等でするとなれば、そこまで乗ってきたゴンドラで、式場からレストランまでの華やかな大運河の旅となるでしょう。
⑬ お祝いの会終了時に参加者に渡す記念品等はどうするか?
[ヴェネツィアのスーパー等で、予めイタリア米を買い揃えておき、新郎新婦がこのコルネール=マルティネンゴ館から大運河前に現れた瞬間、彼らの頭から振り掛けましょう、結構な数の鳩が、訳知り顔に待ち構えていたように米粒に突進してくるやも知れませんが。]

⑭ 結婚式最後に、新郎新婦とそれぞれ一名の証人が正式の結婚契約書にサインをして式の終了となります。この署名した書類は永久にヴェネツィア市に保存され、例えば将来生まれた子供達(またその孫達)が、両親の結婚式を確認したいとヴェネツィア市役所に赴き請求すれば、そのサイン入りの契約書を何時でも閲覧させてくれるそうです。
⑮ 一番最後に、日本の役所に提出する書類(証明書)が渡され、帰国してそれを当該の役所に届ければ、何年何月何日イタリアのどこそこで結婚した旨が戸籍原簿の中に書き込まれ、この書き込みも永遠に残ります。
  1. 2012/06/02(土) 00:07:43|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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