イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コルネール・コンタリーニ・ダイ・カヴァッリ館、トローン館、ヴィアーリオ・マルティネンゴ・ヴォルピ館

G.ロレンツェッティ著『ヴェネツィアと入江』(1926)は、グリマーニ館右のサン・ルーカ運河を挟んだ隣のコルネール・コンタリーニ・ダイ・カヴァッリ館(P.Corner Contarini dai Cavalli)を次のように描出しています。
コルネール・コンタリーニ・ダイ・カヴァッリ館ほか「ファサードの左右両脇の紋章飾りの、兜の頂き飾りの中に2頭の馬が彫られているため、dai Cavalli(馬の、の意)と呼ばれている。盛期ゴシック様式建築で、中央部の六連窓は豊饒な四葉模様が、優雅な透かし細工で入り組んでおり、迫り出した露台で殊更際立っている。」

その右の建物トローン館(Palazzetto e Palazzo Tron)について、E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)によれば次のようです。

「……小さな建物の右、中央部にゴシック様式の四連窓を持つ建物は1400年代前半の物で、柱頭に大きな葉飾りを持つ。1階と4階は後世に改作。……」
 
更に右隣のヴィアーリオ・マルティネンゴ・ヴォルピ(Viario Martinengo Volpi)館については、3階中央部の柱が支えるアーチになった四連窓と、2面の一面窓の間に大きな紋章飾りがある16世紀半ば頃の建物? とした上で、マルティネンゴ家について語っています。

「……マルティネンゴ家は、ブレッシャの伯爵でヴェネツィア政府に金で雇われた一家であった。例えばジェローラモは、コルフ[現ケルキラ]島、次いでカンディア[クレタ]島の長官になったし、ネーストレはファマゴスタ[キプロス島のファマグスタ]の守備隊の一員(悲惨な運命を辿る)だった。

各種の軍記が、当時最も有名だった砲術家であり攻略の専門家であったガブリエーリについて語っている。1522年スレイマン大帝がロードス島(Rodi)を我が物にしようと決めた時、ロードス[この島はヨハネス騎士団のものだった]の騎士団の団長はマルティネンゴに助けを求めた。

彼はヴェネツィアのために、クレタ島で快適に仕事をこなしていたが、ロードス騎士団の重要性を鑑み、困難至極の守備の仕事を引き受けることにした。

彼の百発百中という優れた砲術の才は、トルコ軍を甚く脅威に陥れたし、城壁の下にトンネルを掘り、巧妙に城内に侵入しようとする敵のあらゆる試みを、長期に渡って粉砕したのは彼だった。

例えば、抗トンネル装置を発明して待ち伏せした。ピーンと張り切った太鼓の革の震えで地下の振動を感知し、トルコ軍の工兵がどの方向に坑道を掘っているかを察知した。そしてその場所に弾薬樽を転がしていき、導火線に点火し、避難した。

しかし怒濤のようなトルコ軍が、最終的にこの疲弊した守備中隊を屈服させた時には、マルティネンゴは深く傷ついていた。敵の動静を狭間から窺っていた時、眼を撃たれたのだった。

スレイマン1世は被った大損失による怒りにも拘わらず、生き残った者達が島を捨てて立ち去ることを許した。……」
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より

この館は、Volpi di Misurata 家の物となり、ヴォルピ・ディ・ミズラータ館とも称されています。
  1. 2012/07/28(土) 00:03:16|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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芸術書に表れたヴェネツィア――ジョン・ラスキン

ジョン・ラスキン(1819.02.08ロンドン~1900.01.20ブラントウッド)が『The Stones of Venice(Le pietre di Venezia)』(全3巻)を世に出したのは1851~53年のことです。日本語訳『ヴェネツィアの石――建築・装飾とゴシック精神』(内藤史朗訳、宝藏館、2006年10月20日)を読んでみました。
ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石』伊語版『ヴェネツィアの石』[日本語版と伊語版の『The Stones of Venice』。日本語版のカバーに使われている写真は、パーリア橋の頂上に立って総督宮殿を見ると目の前の宮殿右角、海側から運河側にかけて彫刻があり、ノアが大洪水以後、葡萄栽培を始め、葡萄酒を痛飲して酔った時の場面の一つ、《ノアの泥酔》も彫られています。旧約聖書《創世記》9章終わり近くに次の文言があります。《ここにノア農夫となりて葡萄園を植(つく)ることを始めしが、葡萄酒を飲みて酔ひ天幕の中にありて裸になれり。》と]
酔えるノア「ヴェネツィア史を通してのヴェネツィアの勝利と、その多くの時期でのヴェネツィアの安全は、個人の英雄的行為によって獲得された。国中を高揚させ、国を救った人物は往々にして一人の王(総督)であり一人の貴族であり一人の市民であった。そのことはその人物にとっても国にとっても大した問題ではなかった。

真の問題は彼らがもっていた名前とか、委ねられていた権力よりもむしろ、彼らがどのように訓練され、どのようにして克己したか、祖国に殉じたか、不幸に耐え恥辱を乗り越えたかであり、そして、ヴェネツィアが、その国によって投獄された人々の中から救世主を見出した時から、その国の子ども達の声が死との契約に署名するよう命じた時までの変化は何故起こったのかである。
……
これまで私がルネサンス風景画の評判を落とすような説を述べたとしても、いたずらに述べたわけではない。クロードとプーサンによって加えられた弊害は、アンドレア・パラディオとヴィンチェンツォ・スカモッツィとヤコポ・サンソヴィーノによって起こされた被害と比べれば、取るに足りない。
……
私はパラディオに頁を割くことはない。そんなことをしたら、悪罵に満ちた章が続いて読者は退屈するだろう。だが、初期の建築についての私の説明において、そのすべての主要な特徴であるさまざまな形態を、それらが古典趣味によって堕落させられてしまった形態と比較し、その結果において、没落の崖っぷちに立って、崖下の深さが見分けられるや、私は立ち止ざるを得なくなる。……」
[ラスキンは、ルネサンスは中世の宗教的な精神性が欠落して、堕落したものとして、私の好きなティツィアーノやアンドレーア・パッラーディオ、ヤーコポ・サンソヴィーノ等に触れるのも嫌だとしています。]

「ドゥカーレ宮殿は、真ん中が空いている四角形にほぼなっているのを、読者は挿絵図で観察できるだろう。宮殿の一側面は小広場(B)に、もう一つの側面は《奴隷海岸》(RR)にそれぞれ面している、第三の側面は《黒い運河》[Rio de Palazzo o de Canonicaのことでしょう]に沿い、第四の側面はサン・マルコ教会堂に隣接する。……」 [下図版、アルファベット記号は本文に対応]
総督宮殿図[《奴隷海岸》という訳語は、Riva degli Schiavoni の Schiavoni(スキアヴォーニ)を schiavo(奴隷)としてのことでしょう。『ヴェネツィア語辞典』には Schiavon(単数―Schiavoni 複)=Illirico(イリュリア人)とあり、イリュリア人は紀元前バルカン半島西部に定住したスラヴ系人で、古代ローマ軍の武将になった者もいたそうです。19世紀半ばクロアティアに起こった“イリュリア民族再生運動”が知られています。クロアティア、ダルマツィア等の人達は、イリュリア人の後裔と考えられ、長身でがっしりした体躯のため、船漕ぎや戦士として優秀で、多くの人がヴェネツィアにやって来たと思われます。そうした中に、マルコ・ポーロの一家も入るのでしょう。
しかしヴェネツィアは、バルカン半島のスラヴ人海賊をアドリア海等で捕虜にし、奴隷(schiavoという語はスラヴ(slavo)から来ているという)としてオリエントに売却もしていた歴史があるので、この schiavon の語源に関連しているそうです。Schiavoni について『伊和中辞典』(小学館)は、スラボニア地方のスラヴ人とし、「サン・マルコ広場に隣接するこの海岸通りは、古くダルマチアの船員がそこで貨物を陸揚げしたことから名付けられた」とあります。ヴェネツィア語では、S'ciavoni(スチャヴォーニ)とも言うそうです。]

「今や宮殿自体の外観と配置の大ざっぱな観念を得るために話を進めることとしよう。だが、その配置図は、《海の面》《運河の面》の概念を得るためと、内庭を見下ろすために、海に面するその正面の潟海のある地点から上空へ約150フィート昇ったと想定してみれば、よりよく理解されるだろう。

挿絵㊲図はそのような眺望を混乱を避けるために屋根上のすべての細部を省略して大ざっぱに粗描したものである。この挿絵で私達が気づく必要があるのは、右に見える二つの橋の内、黒い運河の挿絵の上方の橋は《溜息の橋》(DS)で、下方のは《藁の橋》(PP―ラスキンの命名)であり、この運河は桟橋から桟橋へと定期的に船によってつながれた、水路の大通りであるということである。

この橋の上方に聳えている宮殿の角隅(そこは《海の面》と《運河の面》が出会う角である)は《葡萄の角隅》と称される。なぜなら、それはノアの飲酒の彫刻によって装飾されているからである。宮殿の反対の角隅は、人間の堕落の彫刻が飾られているから、《イチジク(木)の角隅》と称される。

長く狭い建物の列――その屋根がこの角隅の背後に見通される――は小広場に面した宮殿の一部である。列の端の二つの小尖塔の内、左側の小尖塔の下の角隅は、やがて述べられる理由のために《審判の角隅》と称される。建物によって形成される四角い空間の内部に内庭と二つの井戸の一つも見られる。これは小さくて趣きが風変わりなルネサンス期の建物――これは左下方へ傾いている《巨人の階段》に面している――によって行き詰まりになっている。 ……」
  ――『ヴェネツィアの石』(ジョン・ラスキン著、内藤史朗訳、宝藏館、2006年10月20日)より

[《溜息の橋》は、ラスキンは Antonio da Ponte が造ったと書いています。更にその訳注に訳者は《ダ・ポンテの名前は、ponte は“橋”であるから、橋建造の功績によって付けられた。》と述べています。Ponte Capriasca 出身(ヴェネツィア生まれの説も)のアントーニオ・ダ・ポンテは、石製のリアルト橋を完成させた(1591)ことで有名ですが、アンドレーア・パッラーディオのレデントーレ教会の建立に協力し、パッラーディオ没(1580)後教会を完成させています(1592)。訳者の言う、橋建造の功績による命名なら1591年以後の名前です。それ以前はどういう名前で活躍していたのでしょうか?
溜息の橋アントーニオ・ダ・ポンテ像[右、アントーニオ・ダ・ポンテ像。イタリアのダ・ポンテのサイトから借用]  ダ・ポンテ案がスカモッツィに勝ち、総督宮殿の運河側に隣接して新しい牢獄建設が始まりますが、リアルト橋工事の手助けもした、ルガーノ出身のダ・ポンテの甥のアントーニオ・コンティーンが、新牢獄と総督宮殿を結ぶ運河上の橋の設計・建設(1595~1600)をすることになります。“Ponte dei Sospiri(溜息の橋)”は《正義》[四枢要徳の一]の浮彫りと時の総督マリーノ・グリマーニ(在位1595~1605)の紋章で飾られます。橋の命名者は誰なのか、気になります。この橋が世界に知られるようになったのは、バイロン卿が詩に歌ってからだそうです。カナレットが建物の間にちらりと描いた1700年代は世界にはまだ名は知られていなかったようです。]
  1. 2012/07/21(土) 00:01:31|
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文学に表れたヴェネツィア―ミッシェル・ロヴリック&ミンマ・バーリア

ミッシェル・ロヴリック&ミンマ・バーリア著『ヴェネツィアの薔薇――ラスキンの愛の物語』(富士川義之訳、集英社、2002年1月30日)というジョン・ラスキンとローズ・ラ・トゥーシュの恋を描いたエッセー風の物語があります。著者達はラスキンの死後、ローズとの往復書簡が近親者によって焼却されているので、近年の伝記的研究の成果を元にこの恋物語を描いたようです。
ミッシェル・ロヴリック&ミンマ・バーリア『ヴェネツィアの薔薇』「……ふたたび、ヴェネツィアの魔法や街と運河の迷路が、不意打ち的にラスキンをとらえ、頭にガツンと一撃をくらったような歓喜と認識をもたらす。これこそもう一度ぜひ見ておきたかったヴェネツィアなのだ。健康を回復させてくれるヴェネツィアなのだ。

彼はヴェネツィアの美しさや、その街をまたはっきりと認めることができたことにすっかり胸をなでおろしていたから――それに、いま出会ったばかりの美しい聖母マリアそっくりの娘のことを思って気を散らしてもいたから、これから自分がどこへいこうとしているのか、そんなことには無頓着だった。

そして気がついてみると、スクオーラ・ディ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ礼拝堂の前に立っていた。《ああ――と、わたしは独り言を言った。〈小熊像〉がここで立ちどまるようにと言っているのだ。》

礼拝堂の内部は、こぢんまりとして魅力的だった。見るものは一階の低い梁(はり)の下に素朴な、だまし絵(トロンプ・ルイユ)的効果で描かれた聖人伝に基づく連作画である。ラスキンはそれら名品のうち聖ゲオルギウスを描いたカルパッチョを丹念に調べていた。

効果はてきめんだった。言葉がまるで蜜蜂のように彼を満たしはじめたのである。これらの絵は、と彼は書いている。さながら、《どこかの静かな炉床の上の残り火のように》輝き、《夕暮時に、親友たちが来るのを坐って待っている部屋のなかへと持ちこまれたり……あるいは千年前の家庭でクリスマスの夜のために飾られたつづれ織り(タペストリー)を思わせる……》

足もとにローズが膝を丸めて坐り、自分の話す物語にじっと耳を傾けていた遠い昔のことを思い出していた。
……
サン・マルコ広場を横切り、サン・マルコ寺院が見えると、彼はいつもうっとりとしながら深呼吸をする。真珠色の列柱が目に止まり、乳白色の梁(はり)の受け材に目を走らせる。サン・マルコ寺院の正面はモザイク、ブロンズ製の馬像、天使像、柘榴(ざくろ)模様の装飾で覆われている。しかもその内部には! 略奪した珊瑚(さんご)、縞(しま)大理石、それにビザンチンの金細工でできたカササギの巣があるのだ!

サン・マルコ広場は高潮(アックア・アルタ)のため水浸しになっている。ラスキンは水面がぴんと張って反射レンズのようになり、とつぜん二つのサン・マルコ寺院――一方は明るく、他方は青白い――が映るのを見る。二つの鐘楼(カンパニーレ)は大地の腹に釘で打ちつけられているように見える。

すべてのヴェネツィアの鏡と同じく、この水鏡も小さな斑点をつけている。銀白色の水は鳩達の落したちっぽけな白い羽毛だらけになっているのだから。白い羽毛、それはローズが堅信礼のときに着たドレスの上のレースのように白い。 ……」
  ――『ヴェネツィアの薔薇――ラスキンの愛の物語』(ミッシェル・ロヴリック&ミンマ・バーリア著、富士川義之訳)より

ラスキンは何度ヴェネツィアを訪れているのでしょうか。最初は1845年26歳の時と年表にあります。通称エフィー・グレイ(ジョンと離婚しエフィー・ミレーとなる)と結婚する以前のことです。またローズが亡くなったその翌年1876年に最後から2番目となるヴェネツィア行をしています。この物語の設定はその時のことでしょうか。

レデントーレ教会が望めるザッテレ海岸通りのジェズアーティ海岸通り(Fdm.Zattere ai Gesuati)の一角、カルチーナ小広場(Cp.de la Calcina)の781番地に次のようなプレートが掲げられています。
ジョン・ラスキンの碑《ジョン・ラスキンは1877年この家に住んだ。彼はわが町の石造物、我らがサン・マルコ、イタリア中のモニュメントの美の司祭であった。創造者の心、人民の魂と共に、あらゆる大理石、青銅、画布等あらゆる物を探し出し、美とは宗教であり、人間の才能は美を創造するものであると言明し、人々に甚く崇敬された。感謝を込めて、ヴェネツィア市、1900年1月26日。》
  1. 2012/07/14(土) 00:03:16|
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ヴェネツィアの建物: グリマーニ館(3)

この館について G.ロレンツェッティ著『ヴェネツィアとその入江』(1926)は次のように述べています。
『ヴェネツィアとその入江』「古典精神で造形された、霊感に満ちた巨大建築である。ヴェローナの建築家ミケーレ・サンミケーリの傑作である。16世紀前半にサン・マルコ財務官ジローラモ・グリマーニのために建てられたが、1561年にはまだ完成を見ておらず、サン・ルーカ教区のグリマーニと呼ばれたこの一家の邸宅であったのは1806年までで、その年には国家財産となり、郵便局所在地となった。」

一方 R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を述べています。
ヴェネツィアの邸館「伝説ではグリマーニの若者が、ほぼ真向かいにある館に住むテイエーポロ[グリマーニ館の左前方、艦隊司令長官に許される2塔の obelischi という方尖塔が聳えるコッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館がそれ]の娘に恋をして求婚した。しかし彼の願いはその父に次のように言われて断られた。《Non sara` mai dito vero che mi daga la man de mia fia a un despara` che no ga gnanga palazzo in canal.(大運河に館さえ持たぬ文無しに娘を嫁にやるなんて儂は金輪際言わないぞ)》と。
コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館コルネール・マルティネンゴ館とグリマーニ館[グリマーニ館の高さはティエーポロ館の方尖塔の頂きの高さであり、2階の窓はティエーポロ館の玄関より大きい]
この腹立たしい返答の後、グリマーニ家は大運河に館を造らせた、それもティエーポロ館の表玄関門よりも遙かに大きな窓を備えた館である。そして基礎工事には他のいかなる館のそれよりも有効な、高価な木材を使用したのだと言われている。
……
サン・マルコの財務官であり、騎士[《サン・マルコの騎士》と称される家は、元来コンタリーニ、クェリーニ、モロジーニの3家だったそうです]であったジローラモ[o Gerolamo]・グリマーニのための建物であったが、彼はミケーレ・サンミケーリの着想に全てを委ねた。サンミケーリはパッラーディオのオリジナルの設計に基づいた案で進めた、というのはこの土地の前所有者コンタリーニが投資の事を考え、あるいは簡単にその土地の有効利用のためにその試案を以前にパッラーディオに注文していたからであった。建設は1561年に始まり、1575年に終わったが、その時にはサンミケーリは既に亡くなっていた。[サンミケーリ没(1559)後は同僚のジョヴァンニ・アントーニオ・ルスコーニの手で完成]

大運河に向いたファサードは、凱旋門に似つかわしい豪華な催し事のために、予め建築家が用意したかのようである。1576年マントヴァ公らが招かれ、サンソヴィーノが書き残しているように《夥しい黄金と宝石で全身を着飾り》[『Venetia citta nobilissima et singolare(いとも高貴にして特異なる都市ヴェネツィア)』]、そして白一色に装った、市でもとびきりに美しい貴婦人が100人も参加した栄誉あるパーティが催された。

しかし最高に豪華な宴は、総督マリーノ・グリマーニの妻、モロジーナ・グリマーニ総督夫人戴冠の折に祝われた。1597年5月4日、十人委員会の面々、60人の元老院議員は総督宮殿秘書官・書記官らに随伴され、グリマーニ館へブチントーロ船で向かった。

館ではオフィシャルの官吏達は、大階段を昇り、総督夫人に招かれた2階に到着した。《厄介者と渾名された紳士達(“i detti Signori dell'incommodita` presa”)》がお礼を述べた後、モロジーナ・グリマーニは総督としての決まり――約束、義務、責務の全箇条――を誓約した。そして総督府の参事や書記官長らに黄金の7つの財囊と彼女の肖像入りのメダルを贈った。それから船で総督宮殿まで導かれ、到着するや、歓迎会と祝宴が始まった。

総督夫人の戴冠は全イタリアに感動を呼び、クレメンス8世は《黄金の薔薇(Rosa d'Oro)》を彼女に贈った。それはサン・マルコ寺院の宝物庫に遺贈されることになる。
[《金のバラ》は、カトリック教会に特に貢献した人に教皇が贈る、薔薇の花樹を模した黄金の彫像だそうです]

こうした引き継ぎと祝宴の後、サン・マルコ湾で《イギリス戦艦の盛大な模擬戦》が行われ、ヴェネツィア人の最たる喜びの、幾つかのレガッタが行われた。

共和国滅亡後、建物はオーストリア政府の取得するところとなり、郵便本部の所在地となった。1866年ヴェネツィアがイタリア王国に併合された時、グリマーニ館は控訴裁判所となった。」

[上記『ヴェネツィアとその入江』の《1561年》という年号が何を指しているか分かりません。前々回に紹介した『大運河』はこの建物の建築開始を《1556~57年》としています。『ヴェネツィアの建物』は《1561~75年》の間の建築とし、PC のイタリアのサイトでは《1556年》や《1557年》等があります。些細な問題ですが、どれを選ぶべきでしょうか。それ以外にも総督夫人の贈り物の表現が区々です。]
  1. 2012/07/07(土) 00:01:54|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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