イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: クェリーニ・ベンゾーン(Querini Benzon)館(1)

更に大運河を遡上します。ヴィアーリオ・マルティネンゴ・ヴォルピ館からトラゲット・ディ・サン・ベネデット(Tragheto de San Beneto)通りを過ぎ、19世紀のマリノーニの家、20世紀のデ・スピルトの家を越すとベンゾーン(Benzon)通りの次にクェリーニ・ベンゾーン館が現れます。
クェリーニ・ベンゾーン館これは1700年代の建物で、1800年代には改築されたそうです。ファサードはあまり飾り立てず、ヴェネツィアの建築ではよくあるように、中央部にアーチ形の四連窓が露台付きで姿を見せます。R. Russo『ヴェネツィアの館』(1998)は次のような事を述べています。

「有名なヴェネツィア民謡『La biondina in gondoleta(ゴンドラの金髪美人)』はマリーナ・クェリーニ・ベンゾーン[1757.07.28コルフ島~1839.03.01ヴェネツィア―1777年ピエートロ・ジョヴァンニ・ベンゾーンと結婚]に敬意を表して、ヴェネツィアの詩人アントーニオ・ランベルティが作詞したものである[作曲はシモーネ・マイル]。彼女はこの大運河に面した館に住み、1700年代の最も著名な文学サロンの一つを開いていた。

パリの最も輝かしいサロンも、ベンゾーン夫人のサロンに比べれば《馬鹿馬鹿しくて無味乾燥》とスタンダールは書いた。18世紀前半に建てられたこの館には、スタンダール以外にもジョージ・バイロン卿、トーマス・ムーア[『バイロン伝』を書いたアイルランドの詩人]、フランソワ・ルネ・シャトーブリアン、ウーゴ・フォスコロ等が集まった。フォスコロとは1797年《自由の木》の周りをセミヌードで踊った。
[その他詩人ルイージ・カッレール、彫刻家アントーニオ・カノーヴァ、ヴェローナの詩人イッポーリト・ピンデモンテ、貴族ヤーコポ・フォスカリーニ等がいます――《自由の木》はナポレオンに共和国が滅亡させられた時(彼女は40歳)、サン・マルコ広場に立てられたデモクラシーの象徴 albero della Liberta`(自由の木)の回りを興奮した革命派の人々と一緒に(その中にフォスコロもいた)、肌も露わに踊り狂ったことが全ヴェネツィア人の顰蹙を買ったそうです。]

バイロン卿やスタンダールはこの館で大変楽しんだと語っているが、シャトーブリアンは活気溢れるこの館の女主人の夜会に参加しても、あまりにも内気が過ぎて楽しむ段にはならなかった。《半ば眠ったような蛇の眼をした黒い貴婦人の視線の下、魅了され、身体を戦慄かせ》、彼は部屋の片隅に一人ぽつねんと座っていた。そしてマリーナ伯爵夫人の懇ろな励ましにも拘わらず、興味を抱くことの出来る signora を見出せなかった。詩人は深夜、《静かに独りゴンドラで》ホテル・ヨーロッパへ帰っていった。

マリーナ・クェリーニ・ベンゾーンは、たまたま目にした美青年にでも招待状を送ることに躊躇はなかったと言われている。彼女は結核で若くして亡くした息子ヴィットーレと近親相姦関係にあったと咎められているし、息子の死の日にさえサロンを閉めなかったと非難されている。

老齢に達し、《stramazzo desponta`(綻びてしまったマットレス)》という渾名を頂戴するほど肥大した。……」

この貴婦人の近親相姦について Bruno Rosada は、『Donne veneziane(ヴェネツィア女達)――amori e valori』(Corbo e Fiori Editori)の中の《マリーナ・クェリーニ・ベンゾーン》の章で次のようなことを述べています。

「……彼女についての噂話の中で、最も罪の軽いのは夫に対して不倫をあちこちで働いたということであるが、最も恥ずべきは自分の息子ヴィットーレとベッドに行ったというものである。しかしこの事は、この息子が彼女の弟ステーファノとの近親相姦の結果だとすることから派生した、性的倒錯の一局面でしかないかも知れない。
ピエートロ・ロンギ画集ピエートロ・ロンギ画集、解説ロンギ描くクェリーニ家の人々。200=マティルデ・クェリーニ・ダ・ポンテ(母親)、201=ステーファノ・クェリーニ(弟)、202=マリーナ・クェリーニ・ベンゾーン(本人)

更にきびしい陰口を叩かれたのは、大金持ちのくせに、最下級の売春宿に行き、無報酬に近い値で身を販いだというものである。
……
人は真実なのか、誹謗中傷なのか、伝説なのかと問う。この話はよく知られた噂話なのだが、しかし一体全体何故に、と問わざるを得ない。……我々がどうして知ることになったか、証拠はあるのか、その証拠内容は告発に値するのかどうか、検討してみよう。

告発は詩人ピエートロ・ブラッティから始まる。彼は『Streffeide』と題した詩の中ではっきり書いている。
se vol che in antidata (知りたいのか、古い書き付けの中にある)
fusse rota per incesto (深鍋が、貴婦人の近親相姦故に)
de la dama la pignata (壊れてしまったということを)
e che el primo so putin(そしてまた貴婦人の長男は)
nato sia dal fradelin. (彼女の弟との間に生まれたことを)

そして叔父と彼女の息子は酷似(髭がそっくり)しており、法律上の父親とは似たところが丸でない、と書き、更に冷静に、el puto(その息子)は la prima desgrezada……co la mare.(母親から……最初に感化)を受ける。」
 ――Bruno Rosada『Donne veneziane――amori e valori』(Corvo e Fiore Editori)から引用。続きは次回に。
  1. 2012/08/25(土) 00:29:40|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィア料理: Castradina S'ciavona(カストラディーナ・スチャヴォーナ――去勢雄羊煮込み料理)

語学学校のヴェネツィア学院(Istituto Venezia)から、毎月のようにE-mailで、当校で学びメールアドレスを学校に残してきた世界の生徒達に、ヴェネツィアに関する色々の本からの抜粋やニュース等を伊語の解説付きで、イタリア語を忘れないようにとの意味を込めてでしょう、送ってくれます。ヴェネツィア好きには嬉しい限りです。

そんな中で珍しく、文字化けのないテキストがありましたので、訳してみました。Carla Coco 著『ヴェネツィアの料理 Venezia in cucina』からの抜粋で、題して『La Castradina S'ciavona(ラ・カストラディーナ・スチャヴォーナ――スラヴォニア地方の去勢羊肉の煮込み料理)』[サルーテ教会のお祭りの時に食べる]だそうです。
カストラディーナの料理[イタリアのカストラディーナのサイトから借用] 「アドリア海全域からやって来る人達が集まるスキアヴォーニ(スチャヴォーニ)海岸通り[マルコ・ポーロ家もそうした一家の一つだったでしょう]を考えてみよう。そこで trabacoli[伊語trabaccoli――2本マストの漁船]――典型的な小型貨物船――から船荷を陸揚げしたものである。彼らはスラヴォニア、即ちその国境が明確でないダルマツィア、ボスニア、アルバニアを含む地域からやって来た。沿岸航法による船足の速い船で、現代の運搬業者にも比せられる、いわゆる“旦那衆”はその時代大量の積荷を扱った。

共和国が決めた関税免除のお陰でスラヴォニア人達は大量の農産物を運んだので、ヴェネツィア人は少しずつではあったが、確実に味覚の変化を起こすことになる。ラグーナ(潟)の多くの料理は、“risi in cavroman(リージ・イン・カヴロマーン――賽子状に切った去勢羊肉と米のシチュー)”から“castra' in umido con patate(ジャガ芋入りの去勢羊肉の煮込み)”までダルマツィアの香りがし、バターと牛乳と共に脂をよく塗り込み焼き上げたオリエント風子羊肉にまで及んでいく。

全ての食品の中で現在でも残っている物の一つで、過去の歴史の中にその根源があり、ヴェネツィア人の宗教的シンボルとなっている物として、“castradina s'ciavona”がある。海の向こうの失われてしまった領土を呼び起こす料理として、所有していた領土というより、むしろそれは“もう一つのヴェネツィア”だったと考えられる。

アドリア海沿岸にあった、ヴェネツィア的であったものについて語る時、この長いお話は、遥か昔に引き戻してくれるかもしれない。息づかいがセレニッシマ共和国時代の領土と波長が同調してしまう。
……
とにかく我らが castradina に話題を戻そう。この料理は共和国が1631年、マドンナ・デッラ・サルーテ教会の祝日を決めた時以来、毎年11月21日に食されてきた。健康であるということをヴェネツィア人は真面目に考えた。ペストの終焉に際して、どんなに疲労困憊していようと、祈願のために神に捧げる寺院を建立することは責務だった。考えてもみて欲しい。太らすために去勢した若い雄羊の塩漬け・燻製・ 乾燥した肉をダルマツィアから運ばせることがもし問題であったなら、問題視するのも可笑しな事である。

実際検疫の期間を無事に乗り越えられるように、また普段の健康時の火急の場合にもそうであるように、当時知られた凝縮した良き保存法があった。
[ヴェネツィアでは、ペスト等の疫病が町に入り込まないように、共和国の領域の港では、外国航路から来る船は入港前の40日間(quarantena)は港外で待機させ、安全を確認するように定めていたそうです。ペストの恐ろしさは身に沁みていたのです。そのため quarantena という言葉は検疫の意味となり、quarantaine(仏語)、quarantine(英)、Quarantaene(独)等の形でヨーロッパに流布したようです。]

これは健康のために病を駆逐する厄除けの意味を込めた外国渡来の食品である。1928年刊の『ヴェネツィアの食堂(Osterie veneziane)』にエーリオ・ゾルズィの料理の記述がある。
《カストラディーナについては、共和国の最も古い記録の一つの中で語られている。1173年の総督バスティアーノ・ズィアーニの公定価格表の中にはカストラディーナという名前は入っていないが、ルーマニアやスラヴォニアの乾いた肉(sicce carnis de romania et sciavinia)について語っている。事実カストラディーナとは、先ず塩漬けし、次に燻製にして、天日で乾燥させ、最後にヴェネツィアの商館や船倉で熟成させた雄羊の肉を半分の長さに切った物である。》

このバルカン半島の典型的な食品が、ヴェネツィア人に大変お気に召して、宗教上の祝祭にどのようにして、また何時入り込んできたのか明言するのは至難である。しかし色々ヴァライエティに富んだレシピが伝わっている。その間にもダルマツィアの商人の船は到来していたのである。
……
チリメンキャベツとカストラディーナの料理は調理にとりわけ時間を要する。肉を丸一日水に漬けておき、その後賽の目に切り、オリーヴ・オイルを振り掛け(ラードは駄目)、火に掛ける。黒チリメンキャベツを入れ、ゆっくりと煮る。肉が固くならないように注意。
……
茹で肉のスープのような物で、バルカン半島風羊肉シチューである。この材料は塩、ジュニパー、ローズマリー、ローリエ、コリアンダー、玉葱、人参等を使った古い保存法で現在でもやっている。

肉はもうダルマツィアからではなく、Sauris(ヴェネツィア・フリウーリ・ジューリア州の西の州境)から到来する。生ハムに適したこの地の空気が若い雄羊の腿肉にも適している。ゾルズィの言を認めざるを得ない。ヴェネツィアにはレヴァントの国との絆はなくなってしまったが、カストラディーナはヴェネツィア共和国の伝統として最後に残る食品である。」
 ――ヴェネツィア学院、マッシモ先生からのメール便より
  1. 2012/08/18(土) 00:08:20|
  2. 食品
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文学に表れたヴェネツィア――パトリシア・ハイスミス

パトリシア・ハイスミス著『ヴェネツィアで消えた男』(富永和子訳、扶桑社ミステリー文庫、1997年2月26日)を読んでみました。これはアラン・ドロン主演の仏映画『太陽がいっぱい』の原作を書いた作家の作品です。ミステリー研究家小山正氏の、この本のあとがきの《解説》によれば、ミステリー作家スタンリイ・エリンはミステリーを“logical and unexpected”な文学形式だと言ったそうです。
『ヴェネツィアで消えた男』しかしこの作品はミステリーと呼ぶほどの謎解き性は希薄で、ペギーという妻に自殺された夫レイと、娘婿レイが娘を自殺に追いやったと思い、恨みに思う父親コールマンとの確執がヴェネツィアという街で進行するというエンターテインメントです。ハイスミスはヴェネツィアを描くためにそんな筋立てを考えたものと思われます。

「……彼はサン・マルコ広場の回廊にある煙草屋に寄り、切手を買って、二通とも店の表にあるポストに投函した。まだ約束の時間には十分ある。広場をのんびり歩いていると、やがて小柄で均整のとれたイネズの姿が目に入った。ハイヒールを鳴らしながらサン・モイセ通り角からこちらにやってくる。
《おはよう!》彼はイネズがまだ彼に気がつかないうちに声をかけた。
……
レイは四時ごろ医者に行った。その診療所は時計塔の裏のフィウベラ通りに面した埃っぽい古い建物の中にあった。医者はレイの体温を測り、熱があるといったが、ペニシリンはくれず、かわりに大きな白い錠剤の袋をくれて家に帰って休めといった。
……
レイは少し離れてそのあとをつけた。彼女は右に曲がり、ヴァラレッソ小路に入った。そこの角には〈ハリーズ・バー〉があり、突きあたりには水上バスの停留所がある。どうやら彼女は船に乗るつもりらしかった。桟橋には何人か水上バスを待っていた。
……
彼らはサン・トゥロヴァソ運河に沿ってザッテレ埠頭のほうに歩いていった。どちらがザッテレに向かったわけでもなく、なんとなく曲がっているうちにその道に出たのだった。このあたりの歩道は細かく、曲がりくねっていて、ヴェネツィアのほかの場所より古く素朴で貧しく見えた。
……
レイは四十五分ほどでホテルへ行くと答えた。それから再び本土に渡り、デラ・サルーテのひとつ先のジーリオに行った。このあたりはヴェネツィアでもとくに美しいところだった。スキャヴォーニ埠頭、水を隔ててすぐそこにドゥカーレ宮殿とサン・マルコの鐘塔が見えるデラ・サルーテ。

デラ・サルーテ停留所では、偉大な教会が急にいちだんと大きくなり、ちっぽけな水上バスにのしかかってくるように思える。その次がグリッティ・パレス・ホテルだった。コールマンは生きている、レイはそう感じた。
……
イネズは彼の膝を見るといいはり、タオルで冷やしたほうがいいといって、水に濡らしたタオルを浴室から持ってくると、ベッドが濡れないようにもう一枚をその下に敷いた。今日はデラ・サルーテで、このヴェネツィアを千六百年のあいだ天然痘から守ってくれた神に感謝するお祭りがあったの、彼女はそういった。そもそも、それがサンタ・マリア・デラ・サルーテ寺院建立の理由だったのだ。 ……」
 ――パトリシア・ハイスミス『ヴェネツィアで消えた男』(富永和子訳、扶桑社ミステリー文庫、1997年2月26日)より

サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会は2009.06.20日の総大主教のセミナーリオでも若干触れましたように、ヴェネツィアで猛威を振るったペストの鎮静化に感謝して、1630年10月22日元老院は聖母マリアに捧げる教会を建てることを決めました。建築はバルダッサーレ・ロンゲーナに依嘱され、1631年4月1日から1687年まで掛かりました。ロンゲーナが1682年に亡くなった後は、アントーニオ・ガースパリの手で完成に漕ぎ着けます。

完成後1687年11月21日、総督マルカントーニオ・ジュスティニアーン(1684~88)はヴェネツィア市民がペスト終焉を聖母に感謝し、信心の証として毎年この日にサルーテ教会に詣でるようにと、サンタ・マリーア・ゾベニーゴ(伊語、サンタ・マリーア・デル・ジーリオ)教会前のトラゲット広場と対岸のトラゲット通りを結ぶ仮の votivo の橋を、7月のレデントーレ教会の祭日の時のように大運河に架橋しました。
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用Alvise Zorzi『Venezia ritrovata 1895-1939』から借用。左端の館はピザーニ・グリッティ館と呼ばれ、今はホテル・グリッティ・パレスでヘミングウェイが愛用したことで知られます。現在(2012.08.09)建物全体がテントを被り工事中です(壁面だけを残し、内部は空洞だそうです)。
追記(2013.02.05日): 15ヶ月の工事で再オープンしたそうです。次の記事をどうぞ。La Nuova di Venezia

訳文の《水だ! 水を一杯頼む!》のルビに《アクア! ウン・ビツチエレ・ドウ・アクア・ペール・フアヴオーレ!》(ルビは原則全て小字)となっていたので、最初《ビツチエレ》に大変戸惑いました。Acqua! Un bicchiere d'acqua, per favore! のことでしょう。ヴェーネトのワイン valpolicella をヴァルポリツェラとするなど、首を傾げる表記はままあります。
  1. 2012/08/11(土) 00:01:46|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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カッコウとホトトギス

2012.03.10日に Cucu`, cucu`, eccomi![居ない、居ない、バー!]を書きましたが、cucu` は隠れん坊で《鬼さん、こちら、手の鳴る方へ》の意でも使われるそうで、この言葉はカッコウの《ククー、ククー》=《カッコー、カッコー》という鳴き声の意でもあります。

《無能無芸にして只此一筋につながる》のはひたすらヴェネツィアについて(誤りを含めて)書くことですが、先日偶々《ほととぎす》を和伊辞典で引くと《cuculo(カッコウ)》とあり、更に調べてみるとホトトギスは、カッコウ類の一種のホトトギス目ホトトギス科の鳥(カッコウも同目同科同類)であり、伊和辞典ではホトトギスもカッコウも cuculo です、日本の図鑑では別の鳥扱いになっていますが。日本で言うホトトギスはヨーロッパには飛来しないのでしょうか。

伊語 cuculo(or cuculio)は、仏語 coucou、英語 cuckoo、独語 Kuckuck、西語 cuco、ヴェネツィア語 cuco 等です。2012.04.01日に書きましたヴェネツィア映画『旅情』は、原作が『ウェスト・サイド・ストーリー』の作者 Arthur Laurents のヒット劇作品『The Times of the Cuckoo(カッコーの季節)』で、その映画化だそうです(英語ではホトトギスは Eurasian little cuckoo と辞典にあります)。

カッコウもホトトギスも、カッコウ類の鳥には、托卵という習性があるのだそうです。ホトトギスの托卵相手は特に鶯が多く、この鳥は巣作り、抱卵、育雛は一切行わない詐欺師のような怠け者だそうです。卵の色がよく似ており、鶯の巣に卵を置くと代わりにそこにある一卵を飲み込むかくすねて持ち去ります。抱卵で雛が孵るのに自分の卵より日時が長い鳥の巣を狙って托卵するのだそうです。

ホトトギスの雛が先ず誕生するとその雛はそこに在る自分以外の卵一切を巣から排除して、仮親からの餌を独り占めします。同時に2卵が孵った時にはホトトギスの雛とその巣の雛との熾烈な戦いが始まります。というより、体の大きなホトトギスの雛が、一方的に戦う意思のない鶯などの雛を巣から追い出す恰好なのでしょう。当然追い出された雛の運命は明確です。そんな体も大きな雛に鶯の親鳥は餌を与え続けるのが不思議です。
郭公の雛とオオヨシキリ[ウィキペディア《托卵》より借用。郭公の雛に餌を与えるオオヨシキリ] こうした、この鳥の悪辣な生態が判明したのは近年のことなのでしょうから、こんな居直り強盗のような生態を知っていれば、奈良時代の昔からこの鳥を愛でるというということがあり得たでしょうか。

初夏を告げ、田植えの時期を知らせる鳥として愛されてきたホトトギスは万葉集の昔から、古今集、新古今集等と歌われ続けてきた鳥としても一番多く取り上げられてきた鳥だそうです。日本人に一番愛されてきた鳥だったということでしょうか。

そういう歴史がある故か、ホトトギスの漢字名等は次のように多いのです(辞典以外の書からも、異名、別称を含めて探してみました)。

時鳥、(山)郭公、不如帰、子規、子雋(雋の偏に鳥の旁で作る字―しき)、催帰、帝魂、蜀魂(しょっこん)、霍公鳥、沓手鳥、早苗鳥、卯月鳥、賤子鳥、橘鳥、更に、杜鵑[とけん]、田鵑、盤鵑、杜宇、買危(危の偏に鳥の旁を付けた字―ばいき)、雟周(攜から手偏を取った字―けいしゅう)、沓乞、謝豹、單圭(この2字の單圭にそれぞれ鳥の旁で作る字―たんけい)、そして四手(死出)の田長(しでのたおさ)、冥土の鳥、魂迎え鳥、時つ鳥、鶯の養子、あやめ鳥、夕かげ鳥、いもせ鳥、うない鳥、等。この鳥の歴史の深さを感じます。
[PC には余りにも正字がないので、ない漢字を言葉(偏と旁)で説明してみました。]

日本では千載集から百人一首に選ばれた《ほととぎす鳴きつるかたを眺むれば、ただありあけの月ぞ残れる》という藤原実定の歌が一番人口に膾炙しているだろうと思われます(私が記憶している唯一のホトトギスの歌)。歴史書によく取り上げられる《なかぬなら殺してしまへ時鳥 信長》《鳴かずともなかして見せふ杜鵑 秀吉》《なかぬなら鳴まで待よ郭公 家康》の対比は、知らない人はいないのでは、と思います。
ホトトギス草[ホトトギス(杜鵑草、郭公草、油点草)という草もあるようです] 私にとって伊語の cuculo と言えば、同じホトトギス科カッコウ類のカッコウ(郭公、閑古鳥、呼子鳥、合法(がっぽう)鳥、布穀(ふふ)鳥、かっこ鳥、等)を歌った宮澤賢治の『セロ彈きのゴーシュ』の一節が先ず思い浮かびます。
『宮澤賢治全集 10巻』「……いきなり天井の穴からぽろんと音がして一疋の灰色の鳥が降りて來ました。床へとまったのを見るとそれはくゎくこうでした。
《鳥まで來るなんて。何の用だ。》ゴーシュが云ひました。
《音樂を教はりたいのです。》
 くゎくこう鳥はすまして云ひました。
 ゴーシュは笑って、
《音樂だと。おまへの歌は、かくこう、かくこうといふだけぢゃあないか。》
 するとくゎくこうが大へんまじめに、
《ええ、それなんです。けれどもむづかしいですからねえ。》と云ひました。
《むづかしいもんか。おまへたちのはたくさん啼くのがひどいだけで、なきやうは何でもないぢゃないか。》
《ところがそれがひどいんです。たとへば、かっこう とかうなくのと、かっこう とかうなくのとでは聞いてゐてもよほどちがふでせう。》
《ちがはないね。》
《ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまなら、かっこうと一萬云へば一萬みんなちがふんです。》 ……」
 ――『宮澤賢治全集 10巻』(筑摩書房、昭和四十二年十月二十五日)《セロ彈きのゴーシュ》より

ヴィヴァルディ作曲の『カッコー』(RV335)を YouTube でどうぞ。『カッコー』です。
  1. 2012/08/04(土) 00:36:25|
  2. | コメント:0

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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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