イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

聖パトリックの井戸

2008.12.06日で書きましたサン・マルティーノの祝日で、固有名詞を使った熟語を列挙しました。その中で、essere il pozzo di San Patrizio(アイルランドの聖パトリックの井戸)=底なしに強欲である。尽きることのない財産(着想)である、との意を辞書から転写しました。

ローマの北100kmにオルヴィエートがあります。この町ではオルヴィエート大聖堂が先ず有名だと思われますが、他にも教皇館やポーポロ館等の13世紀の邸館が数多く残っているそうです、更にまたエトルリアのコレクション等。

この町は標高300mの地点にあるため、干魃の時などのため深い井戸が掘られ(教皇の意向だったとか)、NHK・TVのカメラが入り、井戸内部の《まいまい井戸》の様子を放映したことがありました。veneziafilo の私はあまり記憶していないのですが、百科事典によりますとこの《聖パトリック井》は次のようです。

「オルビエト市の聖パトリック井は特殊な構造のまいまい井戸で、1527年から10年掛けて凝灰岩中に掘られた。竪井戸は直径4.7m、深さ58.4mで、螺旋状に回って12まわりを248段の階段で下り、もう一つ別の階段で上ることができる。」

この百科事典の記述で、《聖パトリック井》と名付けられた井戸から essere il pozzo di san Patrizio という諺言が生まれたと早とちりしていました。《尽きることのない着想》の源泉はここだと。[この井戸の名前はアイルランドの聖パトリックの洞窟に似ているとして命名されたことを後に知りました。]

しかしケルト族のアイルランド各地に教会を建て、人々をカトリックに改宗させ、アイルランドの教会をカトリック教会の一員として組み立て、死後アイルランドの守護聖人となった聖パトリック(c389~c461)と聖パトリックの井戸との関連が今一つ明確ではありませんでした。

『名前辞典』を読んで見ました。聖パトリックには生前から多くの伝説や奇跡があったと言われているそうですが、そうした伝説の一つに、有名な《聖パトリックの井戸》というのがあるそうです。アイルランドのある小さな島(Lough Derg)に洞窟があって、キリストが聖パトリックをそこが煉獄の入口だとして案内したといいます。その洞窟の奥まで入るとあらゆる罪の許しが得られるというのです。
名前辞典『Duizionario dei Nomi italiani』しかしそこまで入ると、人々はもう光を見ることは出来ません。その事から essere il pozzo di san Patrizio という俚諺が生まれたのだそうです。それは、結果の事など頓着せず、大金を注ぎ込み、行動にのめり込む人々や物事を指すようになった、ということだそうです。

イタリアでは Patrick の伊語の男性形 Patrizio はあまり普及せず、女性形 Patrizia の使用が定着し、映画・テレビの影響などで流行りの名前となったようです。アイルランドでの守護聖人の祝日3月17日が、この名を持つ人の聖名祝日となります。
  1. 2012/09/29(土) 00:01:16|
  2. 神話伝説
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ヴェネツィア室内合奏団(インテルプレティ・ヴェネツィアーニ)(2)

今まで何回か書きましたヴェネツィアの《インテルプレティ・ヴェネツィアーニ》合奏団(2008.07.15日にインテルプレティ・ヴェネツィアーニを書きました)が、今年も来日します。初めての来日(2000年)から今年で何回目になるでしょう? 私が聞きに行った前回の横浜演奏会は、2008年でした。今回は、来月10月6日(土)午後14.00~から、イタリア文化会館のアニェッリ・ホールで開催されます(関西でも演奏会があるそうです)。
ヴェネツィア室内合奏団ヴェネツィア室内合奏団(ソーニア)  ヴェネツィア室内合奏団インテルプレティ・ヴェネツィアーニ私が唯一口を利いたことのある、チェロ奏者ダーヴィデ・アマディーオさんは、今回は姉上のソーニアさん(ヴィオラ)とヴィヴァルディの『ヴィオラとチェロのための協奏曲RV.531』を演奏されるそうです。ヴェネツィアに行けば、サント・ステーファノ広場の一角のサン・ヴィターレ教会で定期的に演奏を聴くことが出来ます。以前はそこに楽団の仕事でダーヴィデの奥様のクラウディアさん(団長コニョラートさんの妹)がおられ、券を買うとダーヴィデの前の席をリザーヴして頂きました(姉妹達6人で行った時など助かりました)。しかしマリアーノ君の誕生で引退されてしまいました。

私がこの楽団を初めて聴いたのは、1994年サント・ステーファノ教会での演奏会でした。2年後の96年サン・サムエーレ教会でも聴きました。ダーヴィデと初めて口を利いたのはリアルト橋傍のサン・バルトロメーオ教会が演奏会場の時でした。'94年のパンフレットではこの楽団生誕の理由等が書かれていましたが、今年のパンフレットを読んでみると大分内容が変更になっています。その紹介記事を訳してみます。
インテルプレティ・ヴェネツィアーニの1996年1996年のパンフレットInterpreti VenezianiStagione ConcertisticaStagione Concertistica(2)「ヴェネツィアは、写本に書かれたはるか昔のヴェネツィア誕生時代に始まり、他の町と混同しようのない、世界でも唯一独特の町である。事実今日でも、かつて黄金とイストラ半島石で作られたそのままの姿が目の当たりにあり、その独特のモニュメントは芸術家をこの地に招きよせ、その技、霊感、才能を育み続けている。

セレニッシマ共和国のありし時代、この国は素晴らしい芸術工房であった。非凡な精神は邸館や教会を設計して築き上げ、練り上げられた技芸はその内部を高価な画布やフレスコ画で飾り、弦楽器工房ではヴァイオリンやヴィオラ・ダ・ガンバを産み出し、サロンや劇場等ではシンフォニーやオペラ、歌曲を人々に提供した。

20世紀になると、音楽は現代生活のサウンド・トラックとなり、誇らかに流れて、その素晴らしさを自ら歌うようになった。その後闇の時期が来た。もし建築や絵画がそれ自体の在り様でその時代に逆らったのなら、顫動する音楽の方は雲散霧消して、ヴェネツィアを訳の分からない地へ放り出していたかも知れない。

インテルプレティ・ヴェネツィアーニのコンサート・シーズンは、新旧のハーモニーのある素晴らしい場を提供しようと、歴史と美のある環境で、素晴らしい楽器の音色を紡ぎだす芸術を再生させたいと望んだ。一つずつ形成される二つの要素の共存関係を生み出すその完成の瞬間を創造するために、音楽と詩神ミューズ達との出会いを作り出すのである。

ハーモニー(音楽)の町へ、ようこそ!」
 更に
「1987年に生まれたインテルプレティ・ヴェネツィアーニは、《演奏を特徴づけるイタリアの若さ溢れる活力》を直ぐ様示した。世界音楽を展望する中、インテルプレティ・ヴェネツィアーニはヴェネツィアにおいて第24回目のコンサート・シーズンを開始した。そこでは世界各国から到来する、年に6万人以上の聴衆のコンセンサスを得ている。

このグループの大いなる力量は、バロック、クラシック、モダンのレパートリーをヴィルトゥオーゾで表現し、演奏が内包する感性や多様性が演奏の度ごとに聴衆や評者の称賛を勝ち得ている。

評価を受けた主たるものには、“メルボルン音楽祭”、“バイロイト音楽祭”への参加、ストックホルム王宮でのコンサート、“サンクト・ペテルブルグ市として旧名復活した[レニングラードを改名]”記念で、キーロフ劇場での衛星放送による“テレビマラソン”への参加、日本でラジオ実況放送が行われた大阪の“シンフォニー・ホール”でのコンサート、東京の“サントリー・ホール”と“紀尾井ホール”でのコンサート等がある。

2011年には、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、チリ、アルゼンチン、ブラジルの主要劇場でのツアー公演、更に合衆国でのツアーがあった。今年(2012)は日本、オーストラリア、カナダへ行く予定である。

インテルプレティ・ヴェネツィアーニ合奏団のレコーディング活動は、ジュゼッペ・タルティーニ作品をレコード会社 Musikstrasse 制作による、初めてのCDで評価を受けたことに始まった。その後、レコード会社 InVeNiceSound により、18種のCDが制作された。」
山形由美とヴェネツィアの仲間たちこんな形の演奏会もありました(パンフレットのアマーディオは間違いです。人名は失礼のないように正しく、《アマディーオ》さんです)。[9月26日に知ったことですが、前日の10月5日(金)19.00~から紀尾井ホールで、再び山形由美(フルート)さんと今回はヴェネツィア室内合奏団全員とのコラボレーションがあることを知りました。中鉢聡さんの歌でカンツォーネ等も披露されるとかで、大変楽しいコラボな一夜となりそうです。]

You Tube でサント・ステーファノ教会広場のサン・ヴィターレ(ヴェ語S.Vidal)教会での、ダーヴィデ・アマディーオさんの Vivaldi の『チェロ協奏曲第2番(ヴィオラとチェロのための協奏曲)ト短調』の演奏が見つかりました。是非お聴きになって下さい。次のサイトです。Vivaldi RV531。ダーヴィデさん(チェロ)、ソーニアさん(ヴィオラ―彼の姉上)、後ろでコントラバスを弾くのは父君のジャンニさん。背後の教会正面祭壇画はヴィットーレ・カルパッチョの『馬上の聖ヴィタリス』。
このグループを紹介する You Tubegli Interpreti venezianiもどうぞ。

音楽という言葉を口にする時、私には忘れられない言葉が思い浮かびます。2009.02.14日に書いたフリードリヒ・ニーチェもご覧下さい。
  1. 2012/09/25(火) 00:02:20|
  2. 音楽
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文学に表れたヴェネツィア――ピエートロ・ブラッティ(2)

「詩人は自分がはまり込んでいる道の危険なことは自覚しており、この長詩の序言で彼自身がその事を述べている。今や妻や子供達もいることだから、それを平穏裏に置いてくれるようにミューズに頼んでいる。しかしそれは《北風は自分の好み》ということを彼から奪い、自分を抑えることが出来ず、英雄詩の典型的な詩節である104節の8行詩を一気にものにする。
Pietro Buratti『Elefanteide』しかし彼はごく少数の親しい者にだけは、この危険な詩句を知らせようとした。その詩句で当局を執拗に嘲ったのである。そしてハプスブルク皇帝フランツ1世(フランス人はヴェネツィアとヴェーネトをオーストリア人に譲り渡していた)までかなりいいように扱った。

ところが長詩はひどく流布してしまった。パーオロ・ステッラとかいうパン屋が《数時間》手稿を貸してくれないかと詩人に頼んだ。その《数時間》にこっそり4部コピーを作り、悪意で貴族のジローラモ・セミテーコロ、ニコロ・プリウーリ、フィリッポ・モリーンそしてロドヴィーコ・ソランツォに渡した。皆、《有名なラッパ手(吹聴家)》であった。

二日後ヴェネツィアはコピーの洪水だった。その内の一部が警察本部の詳細な報告書と共に政府の重鎮インザーギ伯爵の手元に届くのは避けられなかった。

そしてブラッティは司法当局により猥褻と冒瀆の罪で、更に1ヶ月間出身地の牢獄の煮え湯を飲むことになった。それから傷つき疲れて、テッラーリオのサンブゲ荘を手に入れ、そこに埋葬されることを願った。
……
数年後、再犯ということで更に罪が重くなる、同じような危険を伴った新しい事件が持ち上がった。ヴェローナで印刷された『ヴェネツィア人ピエートロ・ブラッティの詩と諷刺』と題された本の出現である。それはカバーに《アムステルダム、J. Loocheとその息子出版、1823年》、更に《ad usum delphini(若者用改訂版)》と皮肉な言葉が付け加えられていた。

詩はブラッティのものであり、出版は彼もついぞ知らぬもので、被害が及ぶと予測された。沢山いる敵の悪巧みだった。無罪だと三つの点を提示して身の潔白を証明するために警察署長に手紙を書かねばならなかった。

出版を許したことはなかった、むしろ作家の神聖なる著作権が侵害されていることが見てとれる。これらの詩句は《パルナッソス山上で禁断の木の実を摘み取ろうとして……豊饒と上機嫌が絡まり合った時》、その青春時代の行き過ぎの過ちだった。今や《家庭の平穏のために》更にそのような新しい事に邁進しようと、《年齢も環境も冷静さも》放り出しては、生きているとは言えない、と。

彼は信じられ、自ら田舎に逃げるように移り住んだことでそれ以上の悪化がないということで、その後始末には苦しまずに済んだ。しかしながら1832年10月20日、彼が突如亡くなった時、警察は丁度、詩人の家を急襲しようとしていた時だった。警察は手稿を袋詰めして持ち出し、全てを焼却した。

幸いなことにピエートロ・ブラッティは、友人マッテーオ・ダ・モストの献身的な援助を全面的に受けており、彼は15巻という膨大な著作を収集し、転写しており、現在それはコッレール市立博物館の図書館に保存されている。……」
  ――Tiziano Rizzo の前書きの解説より

参考までに endecasillabo(1行11音節詩行)の ottava(8行詩節)が104連続く長詩の第一 ottava を掲げます。
第一オッターヴァ
  Finissila una volta, Buzzarona!
Voi la mia pase, astu capi`o? la vogio;
Za pur tropo in paese se tontona
Che posso i corni urtar in qualche sco`gio;
Son stalon de fame'gia, idest mona,
Go un per de fioli, e presto el terzo imbrogio
Minacia la mugie`r, sgionfa la panza
De la poca semenza che m'avanza.
……」
   ――Pietro Buratti『Elefanteide』(Filippi Editori Venezia、1988)より
  1. 2012/09/22(土) 00:02:31|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ピエートロ・ブラッティ(1)

前々回紹介したピエートロ・ブラッティ(生没年、1772.10.13ヴェネツィア~1832.10.20サンブゲ)の『Elefanteide(象殺し―ヴェ語)――真に本当の象の話』(Filippi Editore Venezia、1988)の前書きの解説に面白い実話が書かれています。
Pietro Buratti『Elefanteide』ピエートロ・ロンギ画集、解説[ロンギ画集に1774年の見世物に出た象の絵の説明が205にあります]  「1819年春の事、ヴェネツィアで稀に見る、劇的とも言える出来事が発生した。カーニヴァルのアトラクションの一つとしてスキアヴォーニ海岸通り[今日でもその期間(年末から)、回転木馬や見世物小屋等の設置場所です]の大きな小屋で見世物に供されていた象が激高して、象使いの制止を振り切り、全速力で海岸通りから脇の小路へ逃げ走り、人々を恐怖に陥れた。
サンタントニーン教会玄関サンタントニーン教会[サンタントニーン教会]  ロヴィーゴ出身のカミッロ・ローザという若い象使いが偶々目前の頃合いの場所にいたので、象はその強力な長い鼻で彼を巻き上げ、空中で振り回し、地面に叩き付け、殺してしまった。武装警官が制止しようと、象に怪我はさせないようにと銃を発砲した。象は驚いて猛り狂い、サンタントニーン教会の中まで逃げ込んでいった。内部での捕獲作戦はうまくいかず、大砲を2発撃ち込んだ。」
ピエートロ・ロンギ画の「象」ピエートロ・ロンギ画の「犀」『ライオンの見世物小屋』[ピエートロ・ロンギが描いた見世物の《象》(1774){ヴィチェンツァのレオーニ・モンタナーリ館美術館(内部は大変美しい)にはロンギのコレクションがあり、その内の1点でした}、その他見世物の《犀》(1751)、《ライオン》(1762)]  この事件のこの説明は非常に簡単です。次のブログが大変詳細に調べておられます。是非ともご覧下さい。Venezia の芸術に囲まれてです。

「当時のガゼッタ紙は大きく紙面を割いているが、その模様はピエートロ・ブラッティの風刺的インスピレーションを大変刺激した。彼は豊饒の才能を持つ詩人であり、1800年代最大の傑出した詩人であった。

彼はボローニャの裕福な商人の一家の子として、1772年ヴェネツィアで生まれた。オランダから渡ってきた一族である。早熟な才能を早々と現し、辛辣な詩句を書き、だらしない恋愛沙汰、博識と活発な活動で社会に頭角を現した。

1797年の共和国の滅亡に際して、ボローニャで家業を継ぐことを拒否し、後年投獄されることになるヴェネツィアへの思いに従った。『1813~14年の封鎖の年におけるヴェネツィア長官の嘆き』の中で、自分の言葉を抑えることが出来ず、教会の大破壊者にして芸術作品の大略奪者であったナポレオンに対して"beco da rapina"(強奪者のコキュ野郎め)と罵った。それはフランス軍占領の最後の日々であった。一ヶ月間という投獄は、予測された日数の中で最少のものだった。

諷刺や卑猥な話という危険を伴う道は捨て、悲歌に専念すると決めた。毎秋田舎暮らしを繰り返している(プレガンツィオル、ゼーロ・ブランコ、サルツァーノにかなりの広さの土地を持っていた)という曖昧な理由では、人間形成をしてきた家族への義務もあり、勝手に決定する訳にはいかなかった。

象の殺戮の事件が生じた。その事件自体は単なる悲劇だったが、ブラッティは霊感に満ちた詩人として、二つのミューズを自由に羽ばたかすために過剰なばかりの刺激と空想を示したのだった。一つは放蕩的で卑猥なミューズであり、もう一つは苛立たせるような、パロディー的皮肉のこもったミューズである。

前者のミューズは彼に奇妙な仮説を暗示した。それは温和しい厚皮動物が、自分の意志で動き回ることを阻止されたがために猛り狂ったというものであり、後者は、貴族や中産階級の連中、カッフェ・フロリアーンに集まる杓子定規の分からず屋の常連、よりはっきり直接的に言えば、町でもよく知られた人物、トロメーイ(プトレマイオス)憲兵隊の長官マルッツィ侯爵に対してで、彼は構えて武装する。

可哀想な象のことではなく、この動物を虐待した凡庸で虚栄心ばかり強い人間に対立する高貴な英雄の姿を描いたのである。ピエートロ・ブラッティの厳しい諷刺の対象になっているのは、この1800年代初頭サン・マルコ広場のカッフェに四六時中集まって陰口ばかり叩いている連中が正にその象徴となっているのである。」
  ――ピエートロ・ブラッティ『象殺し』(Filippi Editore Venezia、1988)の Tiziano Rizzo の解説より
  1. 2012/09/15(土) 00:03:26|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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《自由の木(L'Albero della Liberta`)》

先日2012.08.25日に触れました《自由の木》とはフランス革命後、革命派の人々が1790年パリに植えた樹木が始まりで、その後フランス、スイス、イタリアとその風潮が広がり、各地の町の中心広場に革命の象徴の木が植えられたそうです。

1792年フランス国民公会から《自由の木》の使用法と飾り付けについて通達が出され、樹木が棒に変更になり、革命のシンボルだった赤いフリジア帽と棒の上部にはためく旗は飾り化したものとなります。町の儀式や祝祭などの時、《自由の木》の回りで篝火を焚き、革命時流行ったカルマニョル革命歌を歌い、カルマニョル踊りを輪舞します。
ゲーテ『自由の木』ゲーテの『自由の木』。イタリア Wikipedia から借用。1793年ゲーテが水彩で描いた《自由の木》はマインツ共和国国境に立てられたものだそうです。

1797年ナポレオンに滅亡させられたヴェネツィア共和国のサン・マルコ広場で、《自由の木》の周りでマリーナ・クェリーニ・ベンゾーンが踊った踊りは、このカルマニョル踊りだったようです。また当時植樹された《自由の木》は革命騒ぎが沈静化したその後、大半が広場から引き抜かれてしまったそうですが、抜かれず現存する木も若干残っていると言われています。

ヴェネツィアに立てられた、このデモクラシーを象徴する《自由の木》について、Giuseppe Tassiniの『Curiosita` Veneziane(ヴェネツィア興味津々)』は次のような逸話を載せています。

「サン・マルコ広場についての挿話の中でも、1797年6月3日のいわゆる《自由の木》の建立の話は是非語りたいものである。その木の周りには芸術・科学といった色々のシンボルが取り巻いていたが、中でも《自由・平等》を象徴する2つの像が立てられていた。その像は僭主政を示すあらゆるものを焼き尽くすための松明を手にしていた。
ナポレオン像とサン・マルコ広場のその様子市当局は偉大なるフランス人とその軍隊と共に儀式に参列し、哀れな元総督ロドヴィーコ・マニーンから総督としての印、ケープ、コルノ帽等を取り上げに赴いた。そしてそれらは《自由の木》の下で、黄金文書(Libro d'oro)と共に焼かれた。そしてサン・マルコ寺院で総督代理の者によって厳かにテ・デウムが歌われた。

儀式を終えて歓喜の声と共に、人々を扇動するように自由行進が行われた。そして《木》の周りをカルマニョルを踊る人達の姿が見られた。その中にはアテネ風に開いたトゥニカを着た女達や僧侶が首も胸もはだけて踊っていた。中でも目立ったのは、美しい貴族夫人マリーナ・クェリーニ・ベンゾーンであった。」

また『ヴェネツィア史(Atlante storico della Serenissima)』(Giovanni Distefano著、Supernova、2010)の1797.06.04日の項には次のような事が書かれています。
『ヴェネツィア史 1600~1797』「1797年6月4日=《自由の木》がサン・マルコ広場に立てられた。考え方の遅れた人々をより切磋琢磨しようとの願いによるデモクラシー体制に対する大マニフェストである。事実、興味はあるが、賞賛に値するようなことは余りないといった人々の集まり・動きは多々あった。だから偏狭なヴェネツィア主義者であれ、ヴェーネト発展主義者であれ、この事を悲しんだ。良き市民とは静かに見守る人達であったが、声を潜めて呟いた、《4種の馬鹿者がいて、勝手に放言している。》」と。
  1. 2012/09/08(土) 07:28:34|
  2. ニュース
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ヴェネツィアの建物: クェリーニ・ベンゾーン館(2)、とピエートロ・ブラッティ

「ピエートロ・ブラッティは良家の生まれの風格がある。ボローニャ出身の家柄で、ヴェネツィアで1772年10月13日に生まれた。18歳から30歳まで父親の銀行で働いた。

ラシーヌの『エステル』[1689年の聖書に基づく悲劇]のあるヴァージョンの版を出版した。続いてホラティウスの数多くの頌歌、カトゥルスのいくつかの荘重体叙情詩、方言でエウローパ・ディ・モスコの叙情詩、更に市民的気高い感情で生き生きと詩的にも成功した沢山の詩、特にナポレオンの理不尽な奪略行為に対する、勇気ある告発の書である『ヴェネツィア総督の嘆き』の訳業がある。
Pietro Buratti『Elefanteide』Pietro Buratti『Poeta Libertino』ピエートロ・ブラッティのヴェネツィア語詩『エレファンテイデ――象の真実の物語』と『放蕩詩人』
トレヴィーゾのゼーロ・ブランコの農場に長く住み、更にヴェネツィアとトレヴィーゾ間の台地上にあるサンブゲのヴィッラに移り住み、そこで1832年10月20日没した。放蕩的青年時代が欠点であるが、放蕩を知らない、あるいは放蕩的でありたくない青年とは、いかがなものか。

彼は良き文学者として、その事を彼なりに理解し、生真面目な沢山の詩以外に、淫らな詩を残している。そんな詩でマッフィーオ・ヴェニエールからジョルジョ・バッフォに至るヴェネツィアの文学的伝統にあるエロティックで猥褻な詩の系列に並ぶのである。
ジョルジョ・バッフォの家バッフォ小広場サンタ・マリーア・マッダレーナ Giorgio Baffo『Sonetti licenziosi』[左から、ヴェネツィア語で書いたエロティック大詩人ジョルジョ・バッフォが住んだ家に掲げられた碑。少年時代のカザノーヴァの世話をした彼の住んだ家は、サン・マウリーツィオ教会右直前のベッラヴィーテ=ソランツォ=バッフォ館(16世紀半ばの古典様式建築)の壁面にその旨を記したプレートが貼ってあります。その右は、バッフォの名前を冠したカステッロ区の《バッフォ小広場》、更に右、カンナレージョ区の、円形という特徴あるサンタ・マリーア・マッダレーナ教会は1222年バッフォ家によって建立されたそうですが、一族はこうした区域に分散していたのでしょうか。そして彼の詩集『淫蕩なるソネット』。2011.04,16日に書いたヘルマン・ケステン(1)もご参照下さい。]

しかし言っておかねばならないのは、ブラッティは他のヴェネツィアのエロティック詩人達が甘美なる猥褻さを表現出来た、その軽妙さや優雅さといったものを持ち合わせていないことである。彼の詩は、特にというより偏に卑猥である。

しばしば怒りが籠もっている。マリーナ・クェリーニ・ベンゾーンを激しく告発するのはこの種の詩句である。彼女は彼の友人であった、と思われる。ヴェネツィアに来れば彼女に会いに行った、いつから2人の友情が始まったかは分からないが。
……
彼女はこれらの詩を読んだだろうか。この告発の前で、寛容に微笑みを浮かべ、面白がったと考えられるか。一方彼はそれを執筆するに当たってどんな激しい怒りを秘め隠していたか。告発の真偽はともかく、それを明白にするのは難しい。全く嘘っぱちで、非常に悪意のある卑猥な誇張とも言える。

二番目の告発は、彼女がその必要性は丸でないのに、それにのめり込まざるを得ない事由があって、売春に勤しんでいたというものである。

ここにまことに重大で、しかし残念ながら信用出来る話がある。この告発の原告側証人は、空想的で愛するが故に失望落胆した詩人ではなく、数多くいた情報提供者の一人である秘密諜報員(カザノーヴァも一時この種の人間だった)で、それはヴェネツィア政府が庶民の動向を監視するために市の至る所に配置していたものである。報告書は全て『1700年代(1705~97)のヴェネツィアの秘密諜報員』で、ジョヴァンニ・コミッソによって言及された。諜報員の姓名はアンジェロ・タミッツォ。

《貴族ピエーロ・ベンゾーン氏(N.H.)の妻マリーナ・クェリーニ・ベンゾーン夫人(N.D.)》は、パレルモ出身のダーヴィド・ラ・ロッカとかいう《女衒を生業としている》男の仲介でテアートロ・ア・サンタンジェロ小広場の住人キアーラ・グラツィアーニ夫人と知り合った。
《前述のダーヴィドは、女達をいわゆる外国人ハウスへ案内し、外国人は楽しみ、たっぷりと支払った、と一般に言われている……。その近所でロッカが彼女達を取り持ち、かの貴夫人(N.D.)をそのハウスで娼婦として斡旋した。夕方彼らが国へ帰るには丁度いいということでもないが、外国人達は一人のヴェネツィアの貴夫人を充分に楽しんで彼女に支払ったとも言われている。》

マリーナ・クェリーニに関する現代の伝記作家ティツィアーノ・リッツォは、ネロの母アグリッピーナの事を思い起こしながら告発の証拠を示し、Giovenale の証言を引用している。
……
最後に大変有名なカンツォーネ、ラグーナで今日でも歌われている舟唄『La biondina in gondoleta』について。これは同時代人で、ニーナ(Marina の愛称)のファンであった詩人アントーン・マリーア・ランベルティが彼女に捧げたもの。彼はブラッティよりもデリケートで、優しく、しっかりした詩人だった。

曲はバイエルン生まれでヴェネツィア人の養子になった、優れた作曲家ヨーハン(ヨハネスとも)・ジーモン・マイヤー[Johann Simon Mayr――イタリアでは Giovanni Simone Mayr(ジョヴァンニ・シモーネ・マイル)で、ベルガモでガエターノ・ドニゼッティの師としても有名]である。 ……」
  ――ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女達(Donne veneziane)』(Corbo e Fiore Editori)より
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』この本にはこの舟唄のヴェネツィア語の全歌詞が掲載されています。歌はYouTubeの次のサイトで聞くことが出来ます。La biondina in gondoleta。ヴェネツィアに行かれたら、是非現地で聞かれますように。一番だけ転写します。
La biondina in gondoleta   (金髪美人をゴンドラに
L'altra sera g'ho mena`;   (昨晩、連れていったのさ、
Dal piaser la povereta    (愛しい彼女は嬉しくて
la s'ha in bota indormenza`. (直ぐに眠ってしまったよ。[in bota=伊語subito]
……
いずれにしても彼女の全盛時代は、言わばヴェネツィア人の maga 的存在で、子供達に授乳するような優しさで18世紀のヴェネツィア人の意気を高揚させるような魔術的な魅惑を醸し出した存在だったようです。
  1. 2012/09/01(土) 00:04:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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