イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴィットーレ・カルパッチョ(4)

ヴェネツィアに足を運ぶようになって特に好きになった画家、ヴェネツィア人も大変愛していると思われるのですが、それがカルパッチョ[1465頃ヴェネツィア~1526カポディーストリア(現イストラ半島、スロヴェニアのコーペル)]です。『ヴェネツィア人物辞典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Marcello Brusegan著、Newton Compton Editori、2006.11)によれば、彼の生涯は下記のようです。
『ヴェネツィア人物事典』生没年については他の資料では、《1455-65ヴェネツィア~1525/26ヴェネツィア/カポディーストリア》ともありますし、ダルマツィア地方出身ではないかとも言われています。

「ヴィットーレ・カルパッチョは1465年頃ヴェネツィアに生まれた。1400年代後半のヴェネツィアの人文主義的環境の中で人間形成をし、非常に個性的なスタイルを発展させながらも、この期の最も時代に沿った潮流からは距離を置いていた。事実、謎に満ちた生活を送った画家であり、現在もはっきりしない教育環境に育った。

多くの評論家達は、ジェンティーレ・ベッリーニ、ラッザロ・バスティアーニ、ジャンベッリーノの影響下にヴェネツィアでの画家人生を始めたと考えている。しかし確かと考えられることは、彼の作品に秘められた複雑に暗示するものから、アントネッラ・ダ・メッシーナと関わりがあったということと、マンテーニャの作品とピエーロ・デッラ・フランチェスカのフェッラーラのシリーズを具に検討したであろうと思われることである。

聖人達の物語を描いた沢山のキャンバス作品から言えるように、とりわけ物語性のある画家として成長した。彼の最初のキャンバスのシリーズは『聖女ウルスラの物語(Storie di Sant'Orsola)』を描いたもの(現在アッカデーミア美術館に収蔵)で、1490年からサントルソラ同信会館[Scuola とは小学館の伊和辞典の第6番目の意味にあるように信者会(またその集会所)の意で、ここでは同信会館と訳しています。学校ではありません。この組織は言わば、信仰を同じくする互助会的な組織で、ドイツなどのギルド的な、職人的な集まりのことです]の礼拝堂のために描かれた。
サントルソラ同信会館[サン・ザニポーロ広場に面した旧サントルソラ同信会館(Scuola di sant'Orsola)は、別名サン・ザニポーロ(サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ)教会の同信会館でした。]

それらは『聖女ウルスラの殉教(Martirio di sant'Orsola)』『イギリス大使の帰還(Ritorno degli ambasciatori inglesi)』『聖女ウルスラと王子エテリウス[『黄金伝説』(下記に紹介)では Ereo はアエテレウス]の暇乞いと巡礼への出発(Commiato di sant'Orsola ed Ereo e partenza dei pellegrini)』『ローマ到着(Arrivo a Roma)』等である。

これらの作品ではその場面は、あるヴェネツィアが場面設定されているのだが、それは実景ではなく想像的に描かれている。当時のヴェネツィアの実際の建物ではなく、それらによく似た姿で描いたということである。その上そのシーンの中には、水晶のように透明な、乾いて澄んだ遠近法的空間が満ち溢れている。

1501-02年頃ベッリーニの下で総督宮殿の元老院と大議会の間に描いた幾つかのキャンバス画は、残念ながら1571年の大火によって焼失してしまった。
サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館[サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館] その後サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館に描いた『聖ゲオルギウス、聖ヒエロニムス、聖トリフォンの物語(Storie di san Giorgio, san Gerolamo, san Trifone)』と2点の福音史家の物語『聖マタイの召命(Vocazione di san Matteo)』『ゲッセマネ(菜園)の祈り(La preghiera nell'orto)』そして同じ年に他にも沢山の作品を描いた。いわゆる『2人のヴェネツィア貴婦人(以前は"Cortigiane"と言われていた)』や『騎士の肖像(Ritratto di Cavaliere)』等である。

最も後期の作品は地方から注文されたものである。例えばムラーノ島のサン・ピエートロ・マルティレ教会[作品は現在、シュトゥットガルトに在]やフェッラーラのサンタ・マリーア・イン・ヴァード教会の祭壇画である。

人生最後の年は、カポディーストリア(スロヴェニアのコーペル)大聖堂の主祭壇画とオルガンの開き扉絵である。1526年彼はこの地で亡くなった。

1504~08年と推定される素晴らしい6枚の作品がある。アルバニア・シリーズとしての『聖母マリアの物語(Le storie di Maria)』は有名で、1808年までアルバニア人同信会館のアルベルゴの間(ま)を飾っていた。そしてヴェネツィアの同信会館がナポレオンの命令で廃止の憂き目にあったその日付(1808)の日から、ロンバルディーア・ヴェーネトのフランス人副王が勝手に振る舞い、それらの作品を他の美術館等にばら撒いてしまった。
アルバニア人同信会館[サン・マウリツィオ教会左隣、ピオヴァーン通りの旧アルバニア人同信会館。現在は弁護士さんの住居となっています]
その内今日ヴェネツィアで見ることの出来るのは3点である。2点はカ・ドーロのフランケッティ美術館の『受胎告知(Annunciazione)』『聖母子(Madonna col Bambino)』、1点はコッレール美術館の『聖母マリアの聖エリザベツ訪問(Visitazione)』。他にヴェネツィアで見ることの出来る重要な作品は、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の『竜を退治する聖ゲオルギウス(San Giorgio in lotta col drago)』(1516、油絵具、画布)、サン・ヴィターレ(S.Vidal)教会の『馬上の聖ヴィタリスと聖母を崇める4聖人(Gloria di San Vitale)』(1514、油絵具、板絵)、そして総督宮殿の『サン・マルコの獅子(Leone di San Marco)』(1516、油絵具、画布)である。」
  ――Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物辞典』(Newton Compton Editori)より
『受胎告知』馬上の聖ヴィタリス『サン・マルコのライオン』[左、『受胎告知』。中はサント・ステーファノ広場一角のサン・ヴィターレ教会祭壇画『馬上の聖ヴィタリス』。右は総督宮殿の『サン・マルコの獅子』(『ヴェネツィア展』で来日)]
リアルトのサン・サルヴァトーレ(S.Salvador)教会の『エメイウスでの晩餐』という祭壇画は、2004年頃カルパッチョ作品と同定され、作品の説明板にカルパッチョという訂正札が貼られていましたが、やはり彼の物ではないらしく、最近確認すると訂正札が剥されていました。またヴェネツィアの隣町キオッジャ港近くのサン・ドメーニコ教会(Santuario S.Domenico)にも『聖パウロ(S.Paolo stigmatizzato)』(1520)という作品があります。
エメイウスでの晩餐カルパッチョの『S.Paolo stigmatizzato』『エメイウスでの晩餐』と『聖パウロ』
『黄金伝説』[聖女ウルスラ(Sant'Orsola)や聖ゲオルギウス(S.Giorgio)、聖ヴィタリス(orウィタリス―S.Vitale)という聖人達の事績については『黄金伝説』全4巻(ヤコブス・デ・ウォラギネ著、前田啓作他訳、人文書院、1979~1987年)/再版、平凡社ライブラリー『黄金伝説』全4巻(前田啓作・今村孝・山口裕・西井武・山中知子訳、2006年5月10日~)にあります。]

カルパッチョの絵画作品については、次のサイトをご覧下さい。Vittore Carpaccio。尚、昨年9月23日東京会場から始まった『ヴェネツィア展』は、名古屋、宮城、愛媛、京都と1年かけて日本を回り、現在最終展示が広島会場(~11月25日まで)で行われています。日本でカルパッチョの作品を鑑賞出来る最後の機会です。
  1. 2012/10/27(土) 00:04:52|
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アントーニオ・ヴィゼンティーニ(2)

この『Le prospettive di Venezia――Dipinte da Canaletto e incise da Antonio Visentini』(Dario Succi著、Grafiche Vianello srl/Vianello Libri)は、下記のような文で解説が始まります。
『Le prospettive di Venezia』 カナレットとヴィゼンティーニの画像ヴィゼンティーニ版画集第1巻大扉[中図版、左カナレットと右ヴィゼンティーニ、右、第一集(~第三集)の大扉] 

「ヴィゼンティーニは、《アントーニオ・ペッレグリーニから描く技術を学び、建築の研究に勤しみ、自らも建築の最良の教師の一人、そしてまた遠近法についてのエキスパートとなった。銅版に蝕刻することを準備し、賞賛に値する理解力と精確さでもって大衆に提供する作品を作った、特にサン・マルコ寺院の平面投影の内面図である。

それ以外に現在は、イギリス領事ジョゼフ・スミス氏の所有となったアントーニオ・カナールの40点の絵や沢山のヴェネツィア景観画を大いに賞賛されながら銅版に陰刻した、その色々の作品の中で、注意深く、念入りに、精確に、根気よく仕事をし、ヴェネツィアで評価され、その知識と能力で尊敬され、謙虚さで愛され、それ以外の素晴らしい才能故に特別の尊敬と名誉を受けた。》

この適切なプロフィールはオルランディの『絵画入門』書の追記の中で、ピエートロ・グァリエンティが60年代後に多彩なプロ的才や人間としての与えられた能力のその際立った面に光を与えた。遠近法画家、建築家、教師、銅版画家としてアントーニオ・ヴィゼンティーニは……ジャンアントーニオ・ペッレグリーニの学校で修練を積んだのである。

結果的には、肖像画家、歴史画家でもあった、その例証が見当たらないが。既に1711年彼の名は画家として Fraglia 一覧の中に表れている。1708年からパードヴァ大学の天文学の正教授であったジョヴァンニ・ポレーニ侯爵のために働いた後、1717年頃から、共和国の将来のイギリス領事となるジョゼフ・スミスと関係を持つようになった。トーマス・コークのためのスミスの注文作品で、事実この年25ゼッキーノがヴィゼンティーニに支払われた。

アントーニオ・カナールにとってそうであったようにヴィゼンティーニにとっても、この積極的なイギリスの収集家との出会いは彼の芸術活動の発展のために、非常に重要なものであったに違いない。1726年頃スミスは行政官ジローラモ・カナールからモリアーノ地区のヴィッラを借り、1731年にはそれを手に入れ、その広大な敷地を美しく、より良いものにしたいと、教会や鳩舍に至るまでを含めてのその仕事をヴィゼンティーニに任せた。

ヴィゼンティーニの最初のグラフィック・アートの記録は1722年に始まる。その年の8月12日の通達で元老院は、サン・マルコ寺院やその他の教会の平面図や断面図の販売の、10年間の特権を彼に許した。モスキーニはヴィゼンティーニが『Iconografia della Chiesa Ducale di S. Marco』と題するサン・マルコ寺院の平面図や内面図の図版を出版したことを記憶している。そして芸術家は《素晴らしい床面も同様に版刻したかったが、何故かは分からないが、辛抱ならず途中で放棄してしまった》と追記している……。」
カナレットのクロッキーカナレットの芸術カナレット『Canaletto Drawings at Windsor Castle』(K.T.Parker著、Nuova Alfa Editoriale)や『Canaletto』(Dorothea Terpitz著、Koenemann)、『Canaletto』(Filippo Pedrocco著、Giunti)等のカナレットの景観画とヴィゼンティーニの版画を並べて、彼のエッチングの秘密に迫ります。
大運河に向いたサン・ヴィーオ広場大運河に向いたサン・ヴィーオ広場  大運河のベンボ館とヴェンドラミーン・カレルジ館大運河に向いたベンボ館とヴェンドラミーン・カレルジ館左、大運河とサン・ヴィーオ広場。右、大運河とヴェンドラミーン・カレルジ館  
カナレットのリアルト橋の西側ヴィゼンティーニのリアルト橋  カナレットのリアルト橋ヴィゼンティーニ『東側のリアルト橋』左、リアルト橋の西側。右、リアルト橋の東側
カナレットの最初のスケッチ(イギリス、ウィンザー城蔵)カナレット画『センサの日、サン・マルコ小広場に帰還したブチントーロ船』ヴィゼンティーニ板刻画『ブチントーロ船のサン・マルコ広場への帰還』   カナレット画『センサの日、サン・マルコ広場に帰還するブチントーロ船』センサの日、サン・マルコ小広場に帰還したブチントーロ船
サン・ロッコ大同信会館サン・ロッコ大同信会館  サンティ・アポーストリ教会サンティ・アポーストリ教会広場左、サン・ロッコ大同信会館。右、サンティ・アポーストリ教会
サント・ステーファノ広場サント・ステーファノ広場Antonio Visentini のサント・ステーファノ広場  サンタ・マリーア・フォルモーザ広場カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』ヴィゼンティーニ板刻のフォルモーザ広場左3点、左からカナレットのクロッキー、中カナレットの甥ベルナルド・ベッロット画、右ヴィゼンティーニ版画のサント・ステーファノ広場。右3点、サンタ・マリーア・フォルモーザ広場
サン・ジェミニアーノ教会サン・ジェミニアーノ教会  サン・マルコ広場サン・マルコ広場左、ナポレオンに破壊されたサン・ジェミニアーノ教会とピアッツァ。右、サン・マルコ寺院とピアッツァ
『サンタ・マリア・サルーテ聖堂』現在開催されているニューヨークのメトロポリタン美術館展にカナレットの景観画『サンタ・マリア・サルーテ聖堂』が展示されていました。左の絵です(2012.10.31追記)。
  1. 2012/10/20(土) 00:04:16|
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アントーニオ・ヴィゼンティーニ(Antonio Visentini)(1)

2007.11.10日に書きましたHotelや2009.10.24日に書きましたヴェネツィアと日本との関わりで触れましたように、アントーニオ・ヴィゼンティーニ(1688.11.21ヴェネツィア~1782.06.26ヴェネツィア)について知ったのは、ヴェネツィアの語学学校に通っている時、偶々知り合った仏人、本の修復師ベア(Be'atrice)がアパートの自室に持ってきていた、仏国で出版された大部の浮世絵本の中で、歌川豊春が描いた大運河の絵を指し示して教えてくれたのです。

以後の経緯を再確認してみますと、その本では神戸市立美術館蔵となっていたので、帰国してから電話するとこちらでは常設展示していないので国立東京博物館に尋ねるようにと言われ、東博に問い合わせるとやはり常設していないのでアダチ版画研究所を推薦されました。

赤坂のアダチを訪ねると、当時の技法で覆刻再版した、豊春の正にその『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』がありました。その浮絵がヴィセンティーニ(Vicentini)の版画を元に描かれたものであることを教わり、イタリア文化会館の図書室で Vicentini について調べてみました。

文化会館で大部の美術辞典を繙きましたが、Vicentini は見当たらず、発想を変え、Visentini(ヴィゼンティーニ――ヴェネツィアでは濁音)を引くとありました。読んでみると、カナレットの veduta(都市景観画)をエッチングに蝕刻した版画家でした。
カナレットの元のスケッチ大運河とサンタ・クローチェ教会ヴィゼンティーニの『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』[左から、カナレットのデッサン、その完成画(カナレットの甥ベルナルド・ベッロットの絵?)、更にヴィゼンティーニの銅版画、それを歌川豊春が浮絵(prospettiva)の勉強のために模写したようです。]

翌年再びヴェネツィアの語学学校に通学した時、妻がベアから語学学校のあるサンタ・マルゲリータ広場の一角の骨董屋を教わったというので行ってみました。訪れてみると沢山のヴィゼンティーニの版画の中に《それ》がありました。店主の話では、今ではヴェネツィアには彼の版画はほとんどなく、これらは北の国から探してきたものだとのこと。《それ》があったのは僥倖でした。その用紙にはヴェネツィアを意味するのでしょうか《SV》の字が大きく透かし文字で入っています。

店主のオジさんは気さくな人で、孫が丸でヴェネツィア語を話さないのでまことに残念だ、とか、この版画の紙は麻が材料で、新しい麻の材料では繊維が硬すぎて紙になりにくく、使い古した麻の布、古着から布巾の類までが meglio(beter) で、そうした使い古しを買い集めて回る職業もあった、など話してくれました。その上店の資料に置いてあったヴィゼンティーニの大きな版画集を好きなだけコピーするようにと、一見の日本人に気軽に貸してくれたのです(サン・ルーカ広場に今でもコピー屋さんがあります)。遠い外国の地でこんなに信用されたのは初めてのことでした。

後年ヴェネツィアの書店で、ヴィゼンティーニがカナレットの景観画を模刻したこの全版画を集めた、版画集の本が販売されているのを知り、購入しました。『Le prospettive di Venezia――Dipinte da Canaletto e incise da Antonio Visentini』(Grafiche Vianello srl/VianelloLibri)です。
ヴィゼンティーニについての本   カナレットの碑ペリーナ小広場のカナレットの生家[右写真2点、カナレットが生活した家はリアルトからサン・マルコ広場に向かうサン・リーオ大通り(Salizada S.Lio)のサン・リーオ教会を通り過ぎ、右の軒下通りの脇道から入ったペリーナ小広場(Ct.Perina)にあります。カナレットの絵画は次のサイトでどうぞ。Canaletto。]

ヴィゼンティーニについて、『ヴェネツィア人物辞典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Marcello Brusegan著、Newton Compton Editori、2006.11.)は次のように言っています。
『ヴェネツィア人物事典』「メルキオッレの息子。絵画の師はアントーニオ・ペッレグリーニ。ロザルバ・カッリエーラとは義兄弟である。建築家、画家、美術アカデミーでは遠近法の教師、本の挿絵画家。エッチング(腐食銅版画)の名手であり、収集家であった。

彼の大グラフィック・アート『Urbis Venetiarum Prospectus Celebriores ex Antonii Canal tabulis XL. Aere Expressi ab Antonio Vicentini』[Vicentiniのc は、誤植でしょうか?]は、彼の版画家として名は記憶されるべきものであり、カナレットの有名なヴェドゥータ(都市景観画)の数々を収めたその作品群は、1700~1800年代を通じて度々再版された。それは光り輝く、曇りなきヴェネツィアのイメージを世界に流布したし、今日においても然りである。芸術家というより有能な遂行者であり、翻訳者と考えられ、しばしば過小評価されたが、当時のヴェネツィアにおいて特筆すべき役割を担っていた。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館ミアーニ・チェレッティ・ジュスティ館、カ・ドーロ マンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館[左、カ・ドーロ左隣のヴィゼンティーニ建築のミアーニ・コレッティ・ジュスティ館(現在、右隣のカ・ドーロと共にフランケッティ美術館になっています)。中央はその絵。右、リアルト野菜市場真向かいの彼の建築になるマンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館、最上階はフェニーチェ劇場を建てたジャン・アントーニオ・セルヴァが増築したそうです。]

事実、イギリス領事ジョゼフ・スミスとの関係があり、彼のためには建築家として仕事をした(上掲の写真のように大運河に邸館を建築)し、パスクァーリ出版のためには挿絵画家として活躍、サン・マルコ寺院についての重要な研究を導入(それは1726年『Iconografia della ducal basilica dell'evangelista Marco』として出版)し、フランチェスコ・グィッチャルディーニが1738~39年に出版した全20巻の『Della Istoria d'Italia』という非常に洗練された挿絵集もある。

フレスコ画家としても、ヴィチェンツァのヴァルマラーナ・アイ・ナーニ館の客室(1757)、ノヴェンタ・パドヴァーナのグリマーニ館(1777)に作品がある。

93歳で没。80歳代に全財産を鷹揚に寄進してしまったために極貧の中での死であった。サン・カッスィアーノ教区に葬られた。彼が集めた大コレクションは死と共に失せてしまった。」

次のサイトAntonio Visentiniでヴィゼンティーニ作品をお楽しみ下さい。
  1. 2012/10/13(土) 00:03:41|
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ヴェネツィアの建物: Casa Tornielli から Palazzo Corner Gheltof まで

クェリーニ・ベンゾーン館から更に遡ると、右隣にはミキエール運河があり、その右隣にトルニエッリ(Tornielli――Tornelliではない)の家があります。2階中央部に楣(まぐさ)式構造の三角形のペディメントを上に載せた三連窓がある、19世紀の新ルネサンス様式の小さな建物です。
クルティ・ヴァルマラーナ館、コルネール・スピネッり館更に右隣のクルティ・ヴァルマラーナ(Curti Valmarana)館は、18世紀に改築された1600年代の建物で、2、3階のファサードは中央に三連窓がそれぞれ脇に片面窓を従えています。3階の三連窓はアーチとなっていますが、2階は角形でそれぞれが露台付きと際立っています。右隣のカ・コルネール運河の次は、ランド・コルネール・スピネッリ(Lando Corner Spinelli)館です。E.&W. エレオドーリ『大運河』(1993)は次のような事を記しています。

「この初期ルネサンス様式の美しい建物は1490年頃建てられ、マーウロ・コドゥッシの建築ではないかとされている。事実、彼の最も成熟したヴェンドゥラミーン・カレルジ館に酷似している。

1階のファサードは完全にイーストリア(イストラ半島)石の浮き出し飾りのある切り石積みで、小さな窓が凸凹とM型に配置されている。2階は装飾が施され、大きなアーチの四連窓が中央にあり、 両脇に二連窓がある。軒蛇腹には花綵(はなづな)飾りを彫り込んだ帯状装飾であり、屋上に天窓がある。

この館はランドのために建てられ、1542年ジョヴァンニ・グリマーニが手に入れると完全に改築しようとミケーレ・サンミケーリが呼ばれた。天井には9点の油絵を描かせようとジョルジョ・ヴァザーリが招かれたが、全て失われてしまった。

1700年代カステルフランコ・ヴェーネトのスピネッリ家が借りたが、1850年舞台芸術家マリーア・タッリオーニの所有となり、入口の階段脇に手摺が付けられたが、カ・ドーロのために移されてしまった。」
テアートロ小広場、バロッチ館、ホテル・サンタンジェロ更に右の19世紀のサローンの家(Casa Salon)、そして次はテアートロ広場で、2011.04.03日のヴィヴァルディの家で書きましたようにアンナ・ジロの住んだ家があった場所です。その右の建物は1804年までサンタンジェロ劇場があった場所で、取り壊された後、バロッチ(Barocci)館が建てられました。現在は右隣のホテル・サンタンジェロと共にそのホテルとなっています。

更に右隣のガルゾーニ運河の隣はガルゾーニ館で、E.&W. エレオドーリ『大運河』(1993)は次のようなことを言っています。
ガルゾーニ館、倉庫、20世紀建築「15世紀のゴシック様式のこの大きな建物はその後改築され、よくあるように、窓は2、3階の中央部に四連窓として集められているが、その窓はシンメトリーな規則性で特徴付けられている。2階の窓の配置は歯飾りのコーニスで飾られ、重要である。1289年にヴェネツィアにやって来たガルゾーニ家が手に入れた。この一家の活動はヴェネツィアに評価され、市民権を得た。」

ガルゾーニ通りを挟んで右隣は1階建ての平屋で倉庫に使われていたようですが、最近は、ビエンナーレ美術展の展示場が市内各地に広がり、そんな展示場の一つに使われています。Magazen 通りを挟んで右隣には20世紀の住宅建築があり、更に右隣にはコルネール・ゲルトフ・アルヴェラ(Corner-Gheltof Alvera`)館があります。E.&W. エレオドーリ『大運河』(1993)は次のように述べています。
コルネール・ゲルトフ館、新モチェニーゴ館「元々ゴシック建築だったが、16~17世紀に改築されたもの。2階はセルリアーナ式の三連窓が中央にあり、3階には四連窓がアーチ型の片面窓を従えている。……Gheltof 家はアムステルダム出身の商人で、1697年貴族を許された。」

そしてモチェニーゴの館と続いていきます。
  1. 2012/10/06(土) 00:01:18|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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