イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

フェリックス・ジアン

ヴェネツィアで知り合った仏人ベアトリスは、何年かのヴェネツィアでの本の修復の仕事が終わるとフランスに帰国し、故郷のボルドーではなく、マルセーユに定住しました。パリに行った時には、わざわざマルセーユから会いに来てくれました。その彼女がヴェネツィアで会いたいね、と誘いの手紙を呉れた封筒の中に、次のような絵葉書が入っていました。
Felix Ziem《Canal a' Venise》1884[Félix Ziem『Canal à Venise』(1884)] そうした訳で日本ではあまり知られていないと思われる仏人画家フェリックス・ジアン(Félix-François Georges Philibert Ziem――1821.02.25ボーヌ(コート・ドール県)~1911.11.10パリ)を知りました。バルビゾン派の東洋主義の画家で、海洋画やコンスタンティノープルの風景、特にヴェネツィアの風景を描いたことで有名なのだそうです。PCの次のサイトFélix Ziemで、彼の絵画を見ることが出来ます。次にフランス・ウィキペディアで彼の生涯を辿ってみます。

「フェリックス・ジアンは、父がアルメニア出身でポーランドから到来し洋服の仕立てを業としていたジョルジュ・バルテレミ・ジアン、母がブルゴーニュのニュイ・サン・ジョルジュ出身のアンヌ=マリ・グードである。父はナポレオン戦争の、プロイセン軍の戦争捕虜としてフランスにやって来た。

フェリックスはブルゴーニュで成長し、ディジョンで建築を学んだ。1839年ディジョンの美術学校ともめ事を起こして町を離れ、兄弟のいるマルセーユへ移った。その地で彼はマルセーユに水を送るロクファヴール水道橋の建設で、建築家として仕事を始めた。

オルレアン伯との偶然の出会いがあり、デザイナーの仕事に対する関心から彼は仕事を変え、ヴィユー=ポールにデザイン学校を開いた。彼の評判は高まり、生徒の数も増えた。1840年にはマルティーグ[マルセーユの西、ローヌ川河口、ベール湖岸でカロント運河が通じ、プロヴァンスのヴェネツィアと呼ばれる]の町を発見し、1860年にはアトリエを設けるために戻ってくることになる。

1841年マルセーユを出発し、イタリアへ向かった。途中、彼の顧客となる金持ちのイギリス人やロシア人の滞在するイタリアのニッツァ[ピエモンテは統一イタリアを達成した時(イタリア王国)、それを承認してもらう代償としてこの地をナポレオン3世の懇望により1860年割譲せざるを得ず仏領ニースとなる]に立ち寄った。1842年彼は初めてイタリアを発見する。特にヴェネツィアは彼の絵画のインスピレーションの主たる源泉となる。1842年から47年にかけて全イタリアと南フランスをくまなく歩き回った。

1849年パリに居を構え、パリの中心とフォンテンブローの森との間を行ったり来たりする。フォンテンブローではテオドール・ルソーやジャン=フランソワ・ミレーと友達になる。その時彼は現代生活、肖像画、バルビゾン派と彼を結び付ける田園風景を描いている。

1849年初めてパリのサロンに出品した。そして時々ではあるが《常連》画家となった。1859年モンマルトルへ引っ越した。エコール・ド・パリの気違い染みた熱狂以前のことである。そしてアンプルール[皇帝]通り(ルピック通りに変わる)に居を構えたが、バルビゾンの原点をいつも見据えていた。

孤独で、同じ世代の画家と付き合うこともなく、生徒を作ることもなく、レッスンに時間を割くこともなかった。1850年から80年にかけてオリエント(コンスタンティノープル、アルジェリア等)を巡り、イギリスからオランダへなどヨーロッパをくまなく回ったが、とりわけヴェネツィアには少なくとも年に2度は滞在した。

1860年彼はマルティーグにアトリエを作った。そこにはベール湖(ブーシュ・デュ・ローヌ――ローヌ河口)に至る釣りの港用の運河が出来、彼に多くの作品の霊感を与えた(マルティーグが《プロヴァンスのヴェネツィア》と綽名されるのは、一部彼のお蔭である)。1880年彼はニースにもう一つアトリエを作った。その時以来、パリにいない時にはそこで多くの時を過ごした。彼は1904年5月16日ニースでトレーユ嬢と結婚した。

1908年『1901年4月、仏伊艦隊の長官エミール・ルーベが訪れたトゥーロン港』の素描による絵画の贈与により、マルティーグ市はジアン美術館を創立した。彼は1万点以上という多大の作品を描いた。1911年11月に亡くなった。彼の絵は評価され、1910年ショシャール遺産として生存中にも拘らずルーヴルに入った最初の画家である。」――フランス・ウィキペディア
  1. 2012/11/24(土) 00:01:10|
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ジョゼフ・ターナー

サンタ・マリーア・フォルモーザ広場から北東に向かうロンガ・サンタ・マリーア・フォルモーザ(Longa S.Maria Formosa)通りを行くと、途中右にマスカロン(Al Mascaron)というオステリーア(オマール海老のスパゲッティが大変美味しい)があり、そこを通り越して次のカヴァーニス橋(P.Cavagnis)の手前左にちょっとしたコルテ(Corte)があります。

本屋さんらしいので入ってみますと知った顔の店主ルイージさんがいたので、以前サンタ・マリーア・ノーヴァ(S.Maria Nova)広場に店があったでしょうと言うと、近年こちらに越してきたのだと言います。サンタ・マリーア・ノーヴァ広場に店があった頃、ヴェネツィア関連の本を大変取り揃えていたのでよく立ち寄りました。ヘミングウェイの伊語版の『河を渡って木立の中へ(Di là dal fiume e tra gli alberi)』もここで購いました。
ルイージの本屋さん書店の中のルイージゴンドラ上の本[ 左、書店入口。中、書店の中のルイージさん。右、高潮時に備えてゴンドラに乗せられた古本達]  ある時声を掛けられ、付いてくるように言われて行くと、ノーヴァ広場の裏通りにこの店の倉庫があり、鍵を置いていくから好きなだけ見ていいよとフリーにして頂きました。結局本2冊を選んで鍵を返しに店に行ったのですが、信用出来るか出来ないか分からない外人に全く鷹揚な店主でした。こんな風に遇されたのは日本人というのは信頼出来るからだ、ということなのでしょうか。

ヴェネツィアの人達は人を信頼するとこうなるのでしょうか。ローマやミラーノではバールでワインやカッフェを頼むとその度にその場でコインをカウンターにピシャリト置きますが、ヴェネツィアでは例えばバーカロで飲食すれば最後に清算します。狭い島なのでいわば全島人が顔見知り、全てが信頼の上に成り立っているということなのでしょうか。観光客だらけのサン・マルコ広場近辺はミラーノやローマと同じで違う領域と思われます。知り合った仏人ベアは電気製品をアパートに届けてもらい、その場で支払いを済ませようとすると、後でと言われ、清算は1ヶ月以上後だった、パリではこんな事絶対にあり得ない、と言っていました。
『Venise』[『Venise――Aquarelles de Turner』(Préface: Andrew Wilton、Bibliothèque de l'Image、1995)]  この店で上掲のターナーの画集の仏語版を買いました。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775.04.23ロンドン~1851.12.19チェルシー)の生涯については次のサイトジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーでどうぞ。この本の仏語訳の解説は次のように始まります。

「ジョゼフ・ターナーはその《近代性》において、彼の同時代の画家とは異なり、その枠外にいると考えられている。イギリス絵画が18世紀の《グランド・スタイル》と言われる技巧時代を経ることもなしに、19世紀中盤のリアリズムという細密さを強迫的なまでに追い求める時代に移っていくのに反して、ターナーは偏に独り、自分のヴィジョンを追究している。

この時点までの、光と色彩で思いもよらぬ表現をする世界を渉猟するに、彼はフランスの印象主義の先を行っているのである。太陽の光の中で、彼の光り輝く風景はフォルムが壊れていく。この画家は20世紀の抽象絵画さえ予知しており、より明確な形態の表現を拒絶するのに夢中である。

画家としてのコンセプションが肝要なのである。一つのイメージは近代主義者の理論と全く合致するものであるのだが、その理論とは全ての大芸術家が歴史を通じて関わっており、現代芸術に先行するものであった。

しかしこの場合実際は少々異なっている。ターナーの天才とは非常に素晴らしいものであり、我々が時にそれについて安易に考察するといった態の手法とは丸で違う。

彼は1775年に生まれた。25歳になるや早熟の青年として風景画家として恵まれた表現テクニックを身に付けた。18世紀の物自体を熟視する手法を身に付け、芸術として許される理論で、最大限にそれを絵画に取り込み始めた。……」
サン・マルコ図書館と総督宮殿 布告門 スキアヴォーニ海岸通り総督宮殿[左は1827年の作品。中左、1833年の布告門。右、1840年のスキアヴォーニ海岸通りと総督宮殿]
2本の柱のあるピアツェッタサルーテ教会を望む大運河サルーテ教会遠景ヴェネツィアの夜明け[1840年作品。左、2本の柱の立つピアッツェッタ、中左、サルーテ教会の見える大運河、中右、サルーテ教会遠景、右、ヴェネツィアの夜明け(フォルムは形を成さなくなっていき、色だけの世界に移行していくようです)。]  その他のターナーの絵画作品については次のサイトでどうぞ。Joseph Mallord William Turner
MJQ『No Sun in Venice』『サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む』左は、モダン・ジャズ・カルテットの『No Sun in Venice』のレコード・ジャケットに使われた絵です。まだTVのなかった時代、そしてまだアート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズが初来日するずっと前でモダン・ジャズという言葉が耳新しかった頃、NHK第2放送で油井正一さんの解説でこのMJQの『たそがれのベニス』を聴きました。仏人監督ロジェ・ヴァディムの映画『大運河(Sait-on jamais)』のサウンド・トラックになるということでした。数年後上京し、この映画を数回見(例えば映画ジェリー・マリガンの『私は死にたくない』、マイルス・デイヴィスの『死刑台のエレベーター』の公開と同時代)、レコードを買いました。映画の中では、大運河をゴンドラの Cortège(葬式の船列)が進むシーンが私のモダン・ジャズの礎石になりました。YouTube でCortegeをどうぞ。

上右の絵はこの度の東京都美術館での、ニューヨークのメトロポリタン美術館展で展示されたターナーの『サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む』です。色の美しさに感動しました。最初ターナーは大運河の上手と下手からサルーテ教会の二つの絵を描いたと思いました。……両者の絵をつぶさに見て気付きました。50年ほど前発売された左のレコード・ジャケットのターナーの青かぶりした絵は色も違うので別の絵と思われそうですが、右の絵の左右逆版だということが分かったのです。私も半世紀も経って気付いたのでした。逆版をターナーの絵と言っていいのでしょうか。
2013年『ターナー展』予定チラシ『ターナー展』[来年もターナーのヴェネツィア絵画が来日するとか。]  ロジェ・ヴァディムの映画『大運河』(1959年公開)は、ヴェネツィア・ロッスィーニ映画館内で劇中の漫画映画上映シーンから始まり、漫画の終了で観客が外へ出るとロッスィーニ映画館前のテアートロ橋近辺の、かつての映画全盛期の賑いを映すという形で、映画が進行しました。その後映画が下火になり、この映画館が見捨てられ、長い間廃墟同然になっていました。映画館に変わる前のオペラ劇場時代については、サン・ベネデット劇場でどうぞ。

最近ヴェネツィア・ニュースを見ていますと(La Nuova)、市がこの映画館の再生を図り、この10月9日にオルソーニ市長らのテープ・カットで再利用が始動したのです。
新しいバーカロ旧ロッスィーニ劇場[2014.03.11日追記=新しく出来た左隣のオステリーアとスーパー“プント”。ここへのアクセスは、マニーン広場からサンタンジェロ広場に向かうコルテジーア通りを行き、一本目の右横丁へ曲がり、直ぐ突き当たりがプントの裏口です]  映画館の外観を傷付けずに、更に建物を保持出来るようにと、内部では基礎となる柱を地中に330本も打ち込み、その上に鉄筋コンクリートの建物を新しく建築するといった式で内部から外壁を保護し、1階はスーパーやレストラン等の商業的セクション、階上は多目的ホール、映画も見れる300人収容の1ホールと110人収容の2ホールが出来たのだそうです。次の機会にこの辺りを歩くのがまた楽しみになりそうです。
ターナー画『サン・ルーカ教会を望む』2013.12.17日追記=2013年の《ターナー展》で、左の絵が来日しました。『サン・ルカ運河よりサン・ルカ教会とグリマーニ宮の背面を望む』とありますが、ロッスィーニ劇場前にキャンバスを立てて、目前の劇場橋(P.del Teatro)を透して描かれたようです。
  1. 2012/11/17(土) 00:02:43|
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ヴィットーレ・カルパッチョ(6)

フランスの哲学者ミッシェル・セールは『カルパッチョ――美学的探求』(阿部宏慈訳、法政大学出版局、2009年7月15日)の中で、サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館にカルパッチョが描いた聖ゲオルギウスの物語について次のようなイメージを語っています。
ミッシェル・セール著『カルパッチョ』「英雄聖ゲオルギウスは黒い鎧に身を包んでいる。〔彼は〕色彩に対する否(ノン)、黒い否、であり、空間に対する否である鎧に身を包んでいる。それは限定的否定である。境界線、縁取り、国境線そして閉鎖による限定である。デッサンの囲いのなかの、色彩の欠如による限定である。市壁による、銃眼を穿たれた城壁による、城塞都市の城壁による、島による、艦船による、塔と鎧による否定(ネガシオン)。

否定的な昆虫の節くれだったキチン質。それは黒い。平面を色と呼んでいたピュタゴラス学派以来、デカルト、バークレー、フッサール以来、そして通常の感覚からしても、われわれは、空間があって初めて色彩があるということを知っている。一方は他方の不変更であるのだ。空間は常に色彩をもち、色彩は常に空間的である。

空間を否定してみたまえ。色彩も否定することになる。箱の蓋を閉めるならそれは黒い箱(ブラック・ボックス)となる。炉を閉じてみたまえ。そこから発する光は黒い光となる。二度ではなく一度で十分である。そして鎧は黒いのだ。
……
泣くよりもまず笑いたまえ。ゲオルギウスは竜を切り刻みはしなかった。スキヤヴォーニの同信会館であなた方は、この絵から一歩先に行ったところで、竜がつながれているのを目にするだろう。竜ならとても元気ですよ、どうもありがとう、頸と頭の傷もふさがりかけている。

これらの人々、男や女、王子や王女たち、赤い長衣や赤い巻衣(トーガ)をまとい、太鼓やラッパを手にした人々も、竜がいなければどうしたらいいかわからないのではないだろうか。抑圧されたものが定期的に回帰してこなかったとしたら。亡霊(ルヴナン――戻り来る者)の論理。そんなことになったら、彼らの否定のもって行き所がないではないか。

竜がいなければ、壁のうちに閉じこもり剣を鍛える理由などどこにあろう。『聖ゲオルギウスの勝利』において、そのゴムの怪物が、いかにして円天蓋つきの六角形の寺院の礎石になるかを見るがいい。尖った剣と閉ざされた建物の下で。それはまるで戦いが終わるや色彩が逆転する、否定の二形態の条件でもあるかのようだ。そこでは黒いのは剣であり、赤いのは屋根である。
……
……つまり、私は生産する、私は限定する、私は創立する、私は生じさせる。ひとことで言うなら私は支持主張し、展開するのである。ひとつの空間を描出すること、それが第一の限定である。その空間に均衡を、闘争の諸変異のあいだに不変更をもたらすこと、それが第二の限定である。

総括的には、命題(テーゼ)は否定的である。措定された固定的な命題、肯定的に述べられた命題は、現に二重に否定的なのであり、さらに、検討されたあらゆるモデルにおいて否定的なのである。それこそがここにおいてまさに論証されるべきことがらであったのだ。

テーゼとアンチテーゼとを対とするのは、聖ゲオルギウスと竜という永遠に存在を欠いた神話的名称と同様に錯覚でしかないのであって、あるのはアンチテーゼだけなのだ。

あるのは剣によって、オッカムの剃刀によって切り取られた幾つかの場所だけなのだ。剣の陰の下にあるカルパッチョ流の天国。イスラムへの門としてのヴェネツィア。それはまさにおのれ自身のためにひとつの空間を裁断する人馬宮(サジテール――射手座)である。縁取りの線それ自体は連続的なものだが、それはまた空間の広がりを傷つけるものである。 ……」
  ――ミッシェル・セール著『カルパッチョ――美学的探求』(阿部宏慈訳、法政大学出版局、2009年7月15日)より
『竜と戦う聖ゲオルギウス』『竜を退治する聖ゲオルギウス』サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館の『竜を退治する聖ゲオルギウス』。ボケたコピーで申し訳ありませんが、左はAugusto Gentili『Carpaccio』(Giunti)、右は『Carpaccio――Pittore di storie』(Marsilio)より(右の色がより実物に近いです)。
ギュスターヴ・モローの模写ギュスターヴ・モロー画『ヴェネツィア』パリのギュスターヴ・モロー美術館から。左は美術館最上階メイン展示室に掲げられたモローのカルパッチョの聖ゲオルギウスの模写。その模写の克明さから、モローのカルパッチョに対する思いが伝わってきます。右はそのモロー画の『ヴェネツィア』。サン・マルコのライオンが描かれています。
  1. 2012/11/10(土) 00:02:49|
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ヴィットーレ・カルパッチョ(5)

カルパッチョと聞けば、日本人が最初に思い描くのは鮪の赤い刺身などに白いチーズ等をあしらった《カルパッチョ料理》でしょうか。2011.05.21日に紹介したヴェネツィア本の中にハリーズ・バーのオーナー、アリーゴ・チプリアーニ著『ハリーズ・バー』(安西水丸訳、にじゅうに社、1999年2月22日)がありました。その本からの引用を読んでみて下さい。
『ハリーズ・バー』 「ハリーズ・バーと私の父がもたらした発明は、微妙に形を変えながら、数多くの影響を残した。それは、薄くスライスした生肉や生魚を表す料理名となった《カルパッチョ》から、ピンク色のカクテル《ベリーニ》、そして言うまでもなく、店のトレードマークとなった淡い水色のティファニー風メニューに至るまでさまざまだ。
 一九五〇年、ヴェネツィアに紅白の旗がひるがえった。ルネサンス期の画家ヴィットーレ・カルパッチョの大規模な回顧展が、ドゥカーレ宮殿から場所の提供を受けて開かれたのだ。旗は、カルパッチョをまさに有名にした、赤と白のまばゆい色彩に敬意を表したものだった。

 その秋、ハリーズ・バーの常連のひとり、見とれてしまうほど美しいアマーリャ・ナーニ・モチェニーゴ伯爵夫人が、昼食を食べに来た。父のお気に入りの客だ。夫人は父に合図をしてテーブルに呼び寄せると、涙ながらに訴えた。
「お医者さまから、厳しい食事制限を続けなければと、警告されたところですの。これから何週間か、調理した肉は一切口にできないのです」
 この厳しい条件を満たしながら、しかしできることならおいしい料理を考案して、彼女の窮地を救うことはできないだろうか。なかなかの難題だと思いながら、父はにっこり微笑むと、彼女にベリーニをすすめた。
「お任せください。十五分、お待ち願います」

 そう言って、父は厨房に消えた。そしてぴったり十五分後に現れた父の後ろに、料理を持った給仕長が続く。紙のように薄い生のフィレミニョンを扇形に美しく飾り、その上にマヨネーズとマスタードを混ぜたホワイトソースが網の目状にかかっている。
「何というお料理ですの?」
 たずねる夫人に、父は何世紀も前から存在する料理であるかのように答えた。
「ビーフ・カルパッチョでございます」
 本当は今、考えついたばかりだというのに。多くのヴェネツィア人と同じように父はドゥカーレ宮殿を訪れて、名声に違わぬカルパッチョの絵画の素晴らしさに感動していた。その赤と白の色彩にヒントを得て、ビーフのテンダロインとホワイトソースを即座に組み合わせたのだ。

 今日では、パリやニューヨーク、東京の高級レストランで、何千種類ものカルパッチョのイミテーションを見ることができる。もしも、父がもう少し利己的な人間であったり、今で言う“PR志向”が強かったら、この有名な料理はおそらく《チプリアーニ》と呼ばれていたということだ。 ……」

アッリーゴ・チプリアーニ(Arrigo Cipriani)の父ジュゼッペ(Giuseppe)考案による、《薄くスライスした生の牛肉に薄めに削ったチーズとオリーヴオイルドレッシングをかける》というオリジナルの正式な料理法は本の巻末に書かれていますが、現在ではイミテーションの方が幅を利かせて、料理名というより、食材のあしらい方のイメージ用語といった趣です。他の食材を使ったこのイミテーションを《カルパッチョ》と呼ぶように発案した人のアイデアも大きなものと思われます。いずれにしても、この画家の名前はこの時代のヴェネツィアの他のどんな画家よりも知られることになりました。
[英語で Harry という名は Henry の別称で、仏語では Henri、独語では Heinrich、伊語では Enrico です。しかし Arrigo という名は Heinrich と同根の名前だそうですから、アッリーゴ氏は《ハリー》という名を貰ったことになります。]
『ファブリ世界名画集 カルパッチョ』カルパッチョ作品集『カルパッチョ』『ヴェネツィア展』図録『ヴェネツィア展』図録別冊私自身が初めてカルパッチョを知ったのは、イタリアのファッブリ社(Fratelli Fabbri Editori)で印刷・製本された、日本版の『ファブリ世界名画集 72巻 カルパッチョ』(平凡社版)として出版されたワイド版の画集を手に入れてのことでした。その時代の製版・印刷技術、多色写真撮影技術などと比較し、昨近のそれら、例えば昨年の『ヴェネツィア展』の図録等を見れば、雲泥の開きがあるのは歴然と目に映ります。それでも実物が持つ迫力は別格に凄まじい!
『二人の娼婦』『二人の貴婦人』日本ではよく知られた『二人の娼婦』→『二人の貴婦人』の印刷画を比べてみました。左、『ファブリ世界名画集』、右、『ヴェネツィア展』図録より。2011.09.06日に書いた『ヴェネツィア展』も参考までに。

サント・ステーファノ教会前のサント・ステーファノ同信会館、別称ラネーリLaneri(ヴェ語―羊毛職人達)同信会館に描かれた聖ステパノの5点のシリーズはヴェネツィアに残っていません。同信会館が1806年にナポレオンの命令で廃止された時に四散し、現在はベルリンのゲメルデ美術館、パリのルーヴル美術館、ミラーノのブレーラ美術館、シュトゥットガルトの国立美術館にあるそうです。1点は消失したようです。
旧ラネーリ同信会館旧ラネーリ同信会館旧ラネーリ同信会館があったサント・ステーファノ教会前は、現在は一般住宅になっているようです。アーキトレーヴ下に15世紀の聖ステパノを示す浮彫りが残っています。

『黄金伝説』の注によれば、聖ステパノ(Santo Stefano)は「土地によって異なるが、桶屋、馭者、石工、左官、馬丁、織工、仕立屋等の職人の保護聖人」とあります。
  1. 2012/11/03(土) 00:03:47|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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