イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアでの前首相

La Nuova di Venezia 紙は、ヴェネツィアでヴァカンスを楽しむ前首相の動向を伝えています。護衛の人達に囲まれた行動で、思いっきり楽しめるという風にはいかない風情ですが……。昨日の新聞の記事の一部は次のようです。

「ヴェネツィアでの、マーリオ・モンティ前首相のヴァカンスは、また次の日、サン・マルコ大聖堂でのお昼のミサ参加で始まった。上院議員の息子や孫達は朝、三ッ星ペンションから町見物に出掛けていた。モンティ氏と妻は電話連絡を済ました後、遅れて宿を出た。

彼は、護衛の人達に囲まれて、アッカデーミア橋を渡り、サン・マルコ寺院までの広場や小広場を抜けて行った。道中、イタリア人観光客や外人客の注視の的で、教授と彼の妻は携帯電話のカメラで何度も被写体になった。彼の顔を知る、あるアメリカ人観光客が彼に大きな声で挨拶した。《グッド・モーニング・ミスター・モンティ》 ……」

次のサイトLa Nuova 《2la Nuovaのキャプションをクリックすると色々写真を見ることが出来ます。

一年間、文字だらけのブログに付き合って頂き、有り難うございました。
いいお年を迎えられますように、祈念いたします。
  1. 2012/12/31(月) 10:57:41|
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ヴェネツィアの建物: コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館(P.Contarini dalle Figure)

モチェニーゴ館の右隣はモチェニーゴ通りを挟んで、コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館です。ファサードは三つの部分に分けられ、イーストリア(イストラ半島)石による建築で、2階の中央は三角形のペディメントを乗せた四連窓です。エレガントな浅浮彫りが両脇の二つの窓の間の壁面を飾っています。
古モチェニーゴ館[右、コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ(デッレ・フィグーレとも)館]  R. ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を述べています。[この本は《C.dalle F.》ではなく《C.delle F.》としています]

「2階ピアーノ・ノービレの装飾の自然主義者的特徴、品格のある武具を際立たせる銅材、木の幹で支えられた戦勝記念品類、そうした物の存在が、ジョン・ラスキンが憂鬱な調子でこの邸宅について語る時、それは宜なるかなと思わせる。それはこの芸術家がゴシック芸術の消えていこうとする自然主義のイメージを我々に教えようとしているかのようだからである、《……秋が来た。緑なす樹葉は落葉していく……ルネサンスの氷結が到来したのである。全ては死滅する》。[ラスキンはゴシック主義者で、ルネサンスを嫌悪したそうです。]

ラスキンの考え方とは、それ以前に存在していたゴシック様式の建物の上に、調和に満ちたファサードの建物が1504~46年に再構築されたのだが、そうしたこととは対立する。設計はスカルパニーノと通称されるアントーニオ・アッボンディであり、自然主義という装飾的要素、マニエリスティックな彫刻、中央四連窓を立ち上げるティンパヌム等は、スカルパニーノのルネサンスの各種の文化的特徴を覗かせている。

館の名前は、主となる露台下に置かれた二つの彫刻から来ている。よく知られた伝説によれば、ある極く普通の人物が賭博で、妻を含めて全財産を失い、絶望のあまり怒髪天を衝く姿を表すもので、もう一つの彫刻は怒り狂った妻の姿であるという。
[この挿話は G.Nissati がG.タッシーニの『ヴェネツィア興味津々』から抽出した『Aneddoti storici veneziani』の中にあり、情報源は『ヴェネツィア興味津々』だと知れました。]

この館について記憶されている事は、有名な研究者であったヤーコポ・コンタリーニと特に繋がっている。彼の興味は、芸術から植物学まで、建築から数学にまで及んでいた。彼の絵画の収集品にはバッサーノ、ティツィアーノ、ティントレット、パルマ・イル・ジョーヴァネ等の作品が含まれており、図書室には科学の本、古い寺院、アーチ、数学で使用する用具のデッサン等があった。更に庭園には、各種の熱帯植物が植えられていることで有名であった。

建築界での知り合いとして、アンドレーア・パッラーディオとの友情は貴重である。パッラーディオはヴェネツィア滞在時、ほとんどいつもこの館に宿泊し、1570年には永続的にここに越してきたのである。建築の設計図がコンタリーニ館に大量に残された。そして今日ではロンドンの、英国王立建築研究所に保管されている。

フランスのアンリ3世のヴェネツィア訪問時、ヤーコポは歓迎の組織委員会の任務を託された。パッラーディオにリード島の真向かいに Settimio Severo(セッティーミオ・セヴェーロ)の凱旋門[ローマのフォーロ・ロマーノにあるセプティミウス・セヴェ(ウェ)ルス帝の凱旋門]にヒントを得た凱旋門を、ティントレットにはブチントーロ船に王の肖像画を描くよう注文した。
ガブリエール・ベッラ『アンリ3世の入市』パッラーディオ設計のアンリ3世歓迎門[左、ガブリエール・ベッラ画『アンリ3世入市時の歓迎の模様』、右、リード島正面に設えたアンリ3世歓迎の、パッラーディオ設計の歓迎門と歓迎ポルティコ]

1577年元老院は大議会の間と投票の間に掲げる絵の企画を彼に委ねたが、大火のために焼失した。
『エウローパの略奪』[総督宮殿のヴェロネーゼ画『エウローパの略奪』]  最後の相続人ベルトゥッチ・コンタリーニは1712年亡くなった。芸術作品は総督宮殿に運ばれた――その中にはヴェロネーゼの有名な『エウローパの略奪』がある――そして建物は共和国政府の所有となった。

次いで19世紀、邸館はグイッチョリ侯爵の所有となった。バイロン卿の最後の大恋愛の相手となった、有名なテレーザの夫であるアレッサンドロ・グイッチョリの一族の建物である。館は今日個人の所有となり、アパートとして分割されている。」
  ――ラッファエッラ・ルッソ『ヴェネツィアの建物』(1998)より
『岩倉使節団とイタリア』『ヴェネツィアと日本』左の本(1997年刊)を読むと、1873年5月ヴェネツィアに設けられたイタリア最初の日本領事館は《パラッツォ・グィッチョーリ》に設置され、その館はバルナボ館[現在通常マリピエーロ(or カッペッロ・マリピエーロ・バルナボ)館と通称されている]というサン・サムエーレ教会の大運河沿いの右隣の建物としています。右の本(1999年刊)は最初の日本領事館をこのコンタリーニ・デレ・フィグーレ邸としていますが、やはり《グイッチョーリ》家と書いています。
『DOP発音辞典』しかし『Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia(DOP発音辞典)』(ERI studio Edizioni RAI)にあるように、あるいは又次のサイトTeresa Guiccioliにもあるように“イ”にアクセントがあり、グイッチョリ(Guiccioli)のようです。

私は2000年語学学校通学のため隣の古モチェニーゴ館でアパート生活をしながら、明治の領事館員はここで1年足らずで領事館がミラーノに移動するまでの間、コンタリーニの有名な庭園を眺め勤務していたのではないかと、ドアの隙間から庭を窺いながら思ったことでした。
  1. 2012/12/29(土) 00:02:44|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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モチェニーゴ家(4)

モチェニーゴ家はヴェネツィア名門貴族40家の内、後で加わった《新しい家系》16家の内の一つだったそうですが、そのモチェニーゴ一族から総督になった、トンマーゾ(1414~23)、ピエートロ(1474~76)、ジョヴァンニ(1478~85)、アルヴィーゼ1世(1570~77)、アルヴィーゼ2世(1700~09)、アルヴィーゼ3世(1722-23)、アルヴィーゼ4世(1763~79)の7人の内、代表して一人だけその生涯を述べてみます。
『総督ジョヴァンニ・モチェニーゴの肖像』[ジョヴァンニ・ベッリーニ画『総督ジョヴァンニ・モチェニーゴの肖像』。昨年の『ヴェネツィア展』で来日] ジョヴァンニ・ベッリーニが描いた『肖像画』で有名なジョヴァンニ・モチェニーゴ(1409頃ヴェネツィア~1485.09.14ヴェネツィア)について、『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Marcello Brusegan)から訳してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「第72代総督。故アンドレーア・ヴェンドラミーンの跡を継いで、1478年5月18日70歳の時、国の最高職に選ばれた。レオナルド・モチェニーゴとフランチェスカ・モリーンの2番目の息子で、総督ピエートロ・モチェニーゴの弟であり、総督トンマーゾ・モチェニーゴの孫である。

総督宮殿の門をくぐることになる血族関係は重要で、色々な可能性を秘めていた。何故なら政治家としての前歴はレベルがそれほど高くなく、議会の長老職と外交官職に就いただけで、総督職に就くためのサン・マルコ財務官には任命されたことがなかったからである。

こうした理由で、第8回目の開票で25ポイントの賛成票を得てのこの選出は、驚きを引き起こした。しかし同時代人が書き記しているように、《穏やかで自由闊達、如才ないが正義の人》であるとして、好意をもって受け入れられた。

ジョヴァンニ・モチェニーゴの総督期間は、大変難しい時期であった。その初年、既にしてトルコとの戦争という重大な局面に対面しなければならなかった(ヴェネツィアにとって非常に厳しい条項となった平和条約に1749年1月25日サインをすることになった)。そして猖獗を極めたペストの襲来があり、妻タッデーア・ミキエールが感染して亡くなった。

しかし新総督は引き続き、更に困難な問題に立ち向かわねばならなかった。それは他のイタリアや諸外国がヴェネツィアの領土をますます不審の目で見始めたという、軍略的地勢の問題だった。

あらゆる関心が、イタリアの地勢的モザイク模様に注がれており、ヴェネツィアの拡張主義が恐怖を呼んでいた。火花一つで、敵意が破壊的に勃発するやも知れなかった。戦争を引き起こすのは、教皇庁の家臣であるエステ家のエルコレ1世のフェッラーラとの繋がりをヴェネツィアがどうするかに係っていた。

時はヴェネツィアに有利に傾いていた。教皇シクトゥス4世はヴェネツィアを敵視しておらず、仇敵のジェーノヴァさえスフォルツァの軛を脱して自由になったばかりで、彼らは同盟を結んだ。しかしヴェネツィアが軍を進めるや、スフォルツァ軍、メーディチ軍、マントヴァ軍、ナーポリ王の軍隊が戦場に出てきた。

一方教皇は、そんな同盟から急いで離れようとしていた。というより1年後の1482年、反ヴェネツィア同盟に加わった。そして教皇は共和国を破門するまでになり(1483)、アラゴンのフェルナンド[伊語ではフェルディナンド]1世を介して、何と!トルコに直接介入するようにとまで企みさえした。

まさに大変な難局に直面していた。敵の包囲網を切り崩す必要があった。ヴェネツィアの外交交渉大作戦が始まり、フランスに援助を求めた、先ず最初ミラーノ公国に権利を有するシャルル・ドルレアンに、次にアンジョイーニの相続者としてナーポリ王国に権利を有するフランス王シャルル8世に。

そうした交渉事は、イタリアの地に外国の軍隊を呼び込む危険性があったものの、結果は良好であった。1484年8月7日休戦条約が署名され、ヴェネツィアは最終的にポレージネ[ポレジーネではありません]を得たのである。

ジョヴァンニ・モチェニーゴは1483年9月14日から、総督宮殿の大火事のため、宮殿を後にしなければならなかったし、1485年9月14日には多分ペストのため亡くなり、そのためサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会に大急ぎで葬られた。」

モチェニーゴを冠する建物はヴェネツィアに沢山あるようです。例えばサン・ポーロ広場西隅の、コルネール・モチェニーゴ館は現在は財務警察の建物[サン・ポーロ運河を挟んで対岸のアマルテーア(Amaltea)小広場から美しい姿が望めます――2009.06.06日に書いたウィリアム・ロルフが住んだ館でもあります]ですし、サン・スターエ教会裏のモチェニーゴ館は現在、1700年代の華麗な貴族の館の例として一般公開されています。私も初めて訪れたその後、偶々次のオペラをここの大広間[座席150?ほど]で見たことがありました。
『Serva Padrona』のポスターこのペルゴレージの幕間劇『奥様女中』鑑賞直後、門の外に貼ってあるポスターを旅の記念に貰っていいか、と係員に尋ねると、館内の破れていないのを持って行きなさい、と頂戴しました。
  1. 2012/12/22(土) 00:01:01|
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ヴェネツィアの建物: 古モチェニーゴ館(3)

私が初めてヴェネツィアの語学学校に通ったのは、偶々この建物の一室をアパートに借りてのことでしたので、モチェニーゴと聞くと殊更感慨が込み上げてきます。古モチェニーゴ館は次のような歴史を持っているようです。
古モチェニーゴ館古モチェニーゴ館  1623~25年フランチェスコ・コンティーンによって完全に手が加えられたこの館は、モチェニーゴ一族の最も古い一家のために、当時のゴシック様式で建てられた1400年代の建物である。モチェニーゴ家はミラーノ出身で、コルネリーイ(Cornelii)の古いローマの血筋を引いているようである。

1574年、ミュールベルクとサン・クィンティーノの戦いで勝利を収めたサヴォイアのエマヌエーレ・フィリベルトがこの館に滞在した。出立に際して当家の女主人に、中央に大きな宝玉が埋め込まれ、4個の真珠が嵌め込まれた30の黄金の薔薇で飾られた帯を贈呈した。

1591-92年、ジョヴァンニ・モチェニーゴはこの屋敷にローマの教会の迫害を逃れてヴェネツィアに隠れ潜んでいた哲学者のジョルダーノ・ブルーノを招いた。しかしブルーノが錬金術と魔術の秘密を伝授出来ないことに失望して(ジョヴァンニは《哲学者が記憶している色々の素晴らしい秘術を教えてくれることを》期待していたのである)、ジョヴァンニは、彼が異端であるという厳しい告訴状を書き、ヴェネツィアの異端審問所に告発した。

事実哲学者は、《自分はミサを敵視している》《いかなる宗教も好きでない》とジョヴァンニに話してしまう手抜かりをしていた。更に《キリストは邪悪である》し、もし彼が人々を安心させようと《褒められもしないどうでもいいような事》をしていれば、直ぐにでも彼自身が処刑されるかも知れないと予測出来た筈だ、と言っていた。

元老院は彼をローマに送付することを決定した。ローマでは7年の刑で起訴された。ブルーノは自分の信条を捨てるつもりは全くなく、拷問を受け、その異端とされた教えは有罪とされ、1600年2月、ローマのカンポ・デイ・フィオーリ広場で火刑に処された[現在、この広場に彼の銅像が建っていますが、市場が立ち、楽しい広場です]。

言い伝えによると、彼の霊は最初客人として歓迎し、その後裏切った人間の家、古モチェニーゴ館に住み続けているのだと。そして今日でも毎年彼の2月の忌日に、この館の中庭に哲学者は亡霊となって現れると言われている。

1824年この一族が消滅した後、邸館の所有者は何度も変わった。そして幾つかのアパートに分割された。」
  ――ラッファエッラ・ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)より

[ブルーノは1576年ナーポリの修道院から逃亡し、北イタリアからジュネーヴ、パリ、ロンドン、ウィッテンベルク、プラハ、フランクフルトと15年余りヨーロッパを放浪し、教皇としばしば確執のあったヴェネツィアは比較的安全と見たのか(?)1591年到来し、自宅に招いてくれたジョヴァンニ・モチェニーゴ本人によって裏切られたのでした。また焚刑に処される時も《宣告を受けた私より宣告を下したあなた方の方が、真理の前に恐れ戦いているのではないか》と言葉を残したそうです。]

語学学校通学時2000年2月17日、このアパートで明日の予習をしながら携帯ラジオを聴いていると、ジョルダーノ・ブルーノの名前が何度も聞かれました。その日は彼の命日で特集番組が組まれていたのです。後でよくよく考えてみれば、彼がローマで火炙りの刑で亡くなったのは1600年。この日は2000年の大聖年でブルーノの400年回忌の当日だったのです。
旧モチェニーゴ館の中庭(1).jpg旧モチェニーゴ館の中庭(2).旧モチェニーゴ館中庭(3).[古モチェニーゴ館の中庭]  この夜、この館の中庭の前にある1階の私のアパートの一室で、赤ワインを口にしながら朝まで庭の変化に目を凝らしていました(広い中庭は時々落ち葉を掃いたりの掃除に来る人がいましたが、あまり手入れが行き届いているとは言えず、やや荒れ模様でした)。結局翌日は寝不足で登校出来ませんでした。何が起きたのでしょうか?

ジョルダーノ・ブルーノの伝記を撮ったイタリア映画を、YouTube で見ることが出来ます。次のアドレスでどうぞ。Giordano Bruno。映画はアルセナーレ前から始まります。追記: Youtubeから削除されたので、次をどうぞ。ジョルダーノ・ブルーノ

追記=年表によりますと、1488.12.17日錬金術を行うことを禁ずる通達が出ていますし、1587.10.16日フランチェスコ・バロッツィという人が占星術と魔術のかどで終身入牢になっていますから、ヴェネツィア政庁の考えは分かります。ジョヴァンニ・モチェニーゴの真意は何だったのでしょうか。
  1. 2012/12/15(土) 00:02:33|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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アントーニオ・フォスカリーニ

先日2012年12月8日に書きました《モチェニーゴ館(2)》の最後で、Antonio Foscarini(1570.08.27ヴェネツィア~1622.04.20ヴェネツィア)について触れました。どんな人物であったか、Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton Editori、2006)は次のような事を述べています。
『ヴェネツィア人物事典』「……ニコロとマリーアのバルバリーゴ夫妻の第三男として生を受けたが、5歳で父を亡くし、1582年には悲しくも母も自殺で亡くしたので、学業を終えるためにも何年間かパードヴァに越した。

1597年、初めて Ordini の委員[若者が政治活動を始めるのに5人の海事委員(savi agli Ordeni)の一人として開始することが16世紀には多かったとか]として公職に就く。それはより正確には外交職であった。1607年仏国での通常の外交官に選ばれたが、セレニッシマがヨーロッパの強国との国際的な政治関係を保っていられるように、アンリ4世との良好な関係を維持するという強い任務があった。

1610年7月5日、イギリスでの通常外交官に任命するという通達が届いた。その地でフォスカリーニはイギリスの外交的政治システムの中に容易に潜り込み、宮廷と個人的に良き関係を構築して念入りな情報収集を開始した。

しかし5年後の1615年、彼の個人的な、少々礼儀を重んじる丁重な態度がご機嫌取りで曰くありそうだとする噂に任務を辞めたかった(パリ時代も既にそんなあらぬ噂に苦しんでいた)。1616年ヴェネツィアに帰還し、国家機密漏洩罪で逮捕された。1618年の最後の尋問では完全に無罪が証明された。

新しい重要な任務を伴う公職を再開したが、1622年4月8日色々な混乱の中、1618年に彼を苦しめた同じ名誉棄損の罪で十人委員会の命で再度逮捕された。それは外国の要人の使節と秘かに会い、国家機密を手渡し、その情報の見返りに利を得ていたとするものであった。

判決は恐ろしいものであった。1622年4月20日フォスカリーニは夜間処刑された。明け方、サン・マルコ小広場の2本の柱の間に設けられた絞首台に彼の体は、頭を下に、脚から吊り下げられて揺れていた。

1年後(1623年)、十人委員会は全ヨーロッパの宮廷に対して親書を送った。《哀れなるアントーニオ・フォスカリーニの名誉は挽回された。事は国家異端審問所のスパイであったジェローラモ・ヴァーノと僧パーオロ・ダ・ヴェネツィアの両名が、殊更不正に中傷し、彼を誣告したものであった》と。

非常に厳しく恐れられたこの十人委員会の勇気ある威厳を持ったこの態度は、今日でも清廉の良き例であり、ヴェネツィアの政治家達による政治活動の中での気配りの例である。全ヨーロッパに非常な驚きと称賛で受け入れられた態度は、無実のアントーニオ・フォスカリーニに新たな命を再び与えることは出来なかったが。」
コッチーナ・ジュンティ・フォスカリーニ・ジョヴァネッリ館アントーニオ・フォスカリーニが誕生した館は、大運河右岸カ・ペーザロ館右、サン・スターエ教会左に今でも存在し、現在はP.Coccina Foscarini とか P.Foscarini-Giovanelli とか呼ばれている写真中央の建物がそれです。1700年代になり、マルコ・フォスカリーニ(在位1762-63)が総督に選出されます。
  1. 2012/12/12(水) 00:05:40|
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ヴェネツィアの建物: モチェニーゴ館(2)

モチェニーゴ館  この館は16世紀末、新モチェニーゴ館と古モチェニーゴ館の間に建てられたが、1818~19年イギリス、ロマン派の大詩人ジョージ・バイロン卿が住んだことで知られる。彼は1816年11月10日ヴェネツィアにやって来た。
モチェニーゴ館[同じ姿のファサードを相似的に並べたモチェニーゴ館]  彼はフレッツェリーア通り[サン・マルコ広場傍のオルセーオロ船溜まり(Bacino Orseolo)裏の賑やかな通り]の織布商の家に宿を見付けた。彼がヴェネツィアで最初に関心を抱いた女は、商人の妻マリアンナ・セガーティだった。

しかし少し時間が経って、彼は大運河の建物に越すことに決めた。大運河に沿った豪華なアパートを3年間借りることにした。この館は隣合う二つの館[新・古モチェニーゴ館]の間に建てられ、新しい家系と呼ばれたモチェニーゴ家の人々の居宅であった。総督ジョヴァンニはこの家の系統であり、1571年レーパントの戦いに勝利した時の総督アルヴィーゼ1世もそうである。

館の主人はアルヴィーゼ・フランチェスコ・モチェニーゴで、メンモ・マルティネンゴ館のアンドレーア・メンモの甥である。アルヴィーゼの父は事実、アンドレーアの娘ルチェッタ・メンモと再婚した。ルチェッタは父から相当程度の放蕩的な資質を受け継いだようである。

エフィー・ラスキン[ジョン・ラスキンの最初の妻]は、彼女について、神に感謝する必要があるような装いでいつも着飾り髪飾りをしていると書いた。それはイギリスの婦人達が見っともないと見られないように願っていることだった。その当のルチェッタがバイロンに館を貸したのである。家賃は、家財道具一式、洗濯物含めて年に200ポンドであった。

バイロンは1818年9月に大運河の建物に引っ越した、召使14人、執事とゴンドラ漕ぎ各1名と共に。その上、猿2匹、熊1頭、鸚鵡2羽、狐1匹を引き連れて。《全てのギャング達はそれぞれ自分が主人であるかのように、アパート中をのさばり回っていた》とパーシー・シェリー[バイロンの友人の詩人。リグーリアのラ・スペーツィアのレーリチ湾で1822年遭難死]はヴェネツィア滞在中にメモしている。バイロンは『ドン・ジュアン』冒頭の二歌をここで書いた。

ヴェネツィアでのこのイギリス詩人のアヴァンチュールはあまたである。彼自身が友人のホブハウスとキンネードにその一部始終を書き送っている; 歌手のアルパリーチェ・タッルシェッりは《世界で最も濃艶な酒神バッカスの巫女(淫らな女の意)、ダ・モストはある貴族の専属の娼婦、エレオノーラ、カルロッタ、またボローニャの脇役女優ジュリエッタ、サンタ、その他大勢》。

しかしながら、2年以上に渡って彼に影響を及ぼした女は、パン屋(fornaio)の妻だったので《フォルナリーナ(パン屋の女)》と呼ばれた、有名なマルゲリータ・コーニであった。バイロンと22歳の美女は、バイロンの友人のホブハウスとブレンタ川沿いの道を馬に乗って散策している時、出会った。彼女は喚き散らしてみたり、激しく泣き出したかと思うと、けたたましく笑い転げるような感情の起伏が激しい、野性的な女だったようである。バイロンを心底愛していた。ある日の夕方、バイロンがゴンドラで突然嵐に遭遇し、豪雨と闘いながら帰宅してみると、モチェニーゴ館の玄関階段に蹲って彼を待っている姿で分かるような愛情深さを見せるのだった。

彼はこの館滞在中、ラヴェンナの19歳の伯爵夫人テレーザ・グイッチョリと最後の激しい恋をした。
[1819年ヴェネツィアでの2人の出会い。テレーザは、結婚が3回目である夫アレッサンドロ・グイッチョリと別れて、バイロンが38歳で死亡することになるギリシア独立運動に同行したかったのですが、同行したのは彼女の兄弟でした]。

この館にはイギリスの元帥トーマス・ダルンデルの妻Anna di Shaftesbury[他の本にShrewsburyの記述もあります]も住んでいた。彼女との友情のためにアントーニオ・フォスカリーニは命を落とした。
[フォスカリーニは外交官で他国と通じたと誣告され、十人委員会によりピアツェッタの2本の柱の間に吊るされました。]
モチェニーゴ館の門[モチェニーゴ館の陸側の門]  モチェニーゴ一族のこの分家は1877年に消滅した。そして幾つかの所有者の手を経た後、アパートとして分割された。」
  ――ラッファエッラ・ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)より
  1. 2012/12/08(土) 00:03:19|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: 新モチェニーゴ館(1)

コルネール・ゲルトフ館から大運河を更にサン・マルコ方面に遡上しますと、4軒が隣合った同じ一族の、左から新モチェニーゴ館、モチェニーゴ館、古モチェニーゴ館が並んでいます。先ず写真中央右の建物が新モチェニーゴ館です。
コルネール・ゲルトフ館、新モチェニーゴ館一族の分家の《カーザ・ヌオーヴァ》と呼ばれるこの建物は、元々ゴシック様式の建物だったそうですが、1579年頃、多分アレッサンドロ・ヴィットーリアの設計により建て直されたそうで、バルビ館との類似性が指摘されています。ファサードはイーストリア(イストラ半島)石、中央部はアーチと三角形の破風によるセルリアーナ式窓(ヴェネツィア風窓)です。二つの大きな大理石の紋章が2階両脇にあります。
モチェニーゴ館2番目3番目の建物は1500年代末、新・古モチェニーゴ館の間に建築されたモチェニーゴ館で、双子のように同形の建物が並んでいます。中央部はセルリアーナ式で窓の上部にはそれぞれ彫刻が施されていますが、元々はベネデット・カリアーリ[ヴェロネーゼの弟]とジュゼッペ・アラバルディのフレスコ画で飾られていたそうです。

4軒目、一番右の建物は、《カーザ・ヴェッキア》と呼ばれ、1623~25年フランチェスコ・コンティーンによって建て直されたそうです。内部の中庭にその面影を残すゴシック様式の建物で、中央部は五連窓、窓の背丈が高いのが見てとれます。Raffaella Russo『ヴェネツィアの館』(1998)はこれらの建物を次のように(1~3)紹介しています。

新モチェニーゴ館  一族はミラーノ出身で、共和国に数多くの将軍や大使、サン・マルコ財務官そして7人の総督を輩出した。トンマーゾ・モチェニーゴは、1395年トルコ軍を打ち破った。ピエートロは1400年代後半に、オリエントやギリシア海岸を掃討して回った。ラッザロは1617年、オスマン・トルコの艦隊を撃破し、ダーダネルス海峡を抑え、コンスタンティノープルを攻撃中、戦死した。アルヴィーゼ(3世)の総督在任中、最後のブチントーロ船が建造(1727)された。それは各種の儀式の折、特に海との結婚式の時、総督が使用した素晴らしいガレー船である。

教皇アレクサンデル3世が1177年、《花婿に従う花嫁のような海であるように》との吉兆を込めて、金の指輪を総督に贈ったのであった。キリスト昇天の祝日にリードから外洋に出た所で、聖水一杯の壺を先ず海に投げ、その後総督は次のような厳かな言葉を発し、指輪を海に投げる。《おゝ海よ、汝と結婚する、永遠の、真の支配の印として(Ti sposiamo, o mare, in segno di vero e perpetuo dominio.)》
コルネール・オ・デル・マガゼーン通りから新モチェニーゴ館へ新モチェニーゴ館入口[Corner o del Magazen 通り奥の新モチェニーゴ館入口]  この館はアレッサンドロ・ヴィットーリアの建築とされ、元々あったゴシック建築の上に1500年代の建物が建てられた。19世紀後半にこの一族が消滅するまで、モチェニーゴの所有であった。」
  1. 2012/12/01(土) 00:02:35|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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