イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

アドルフォ・ファルサーリ

幕末から明治にかけて来日したイタリアの写真家達は、開港した横浜に居を構え、写真に手彩色で色を施すという素晴らしい技術で活躍し、横浜の日本人写真家達を牽引したということは日本写真史ではよく知られたことです。その2人が期せずして、イタリア北東部ヴェーネト地方出身であったことは、私には不思議な感慨があります。

昨年3~5月、東京都写真美術館で《フェリーチェ・ベアトの東洋》展がありましたが、今年は《日本におけるイタリア2013》年の一環として、《アドルフォ・ファルサーリ写真展》が九段のイタリア文化会館で2月23日~3月23日(入場無料)開催されており、記念講演もあるというので行ってきました。
アドルフォ・ファルサーリ写真展フェリーチェ・ベアートの写真展では、彼が1832年ヴェネツィアに生まれ[以前は、1834年ケルキラ(Corfu)島生まれと言われていました。一家はこの年にケルキラに越したようです]、後半生については1887年ビルマのマンダレーで写真館を経営し、1909年1月29日フィレンツェで没した、等の彼の新しいデータの発見(2009)等を受けての展覧会だったのでしょうか。ベアートについては2012.03.24日に書いたフェリーチェ・ベアートと2010.02.06日のフェリーチェ・ベアートも参考にして下さい。

一方、アドルフォ・ファルサーリの写真展については東京大学の小佐野重利先生方がヴィチェンツァに調査に行かれ、新しいデータやアドルフォが家族に送っていた彼特製の写真集(大変状態のいい)等も発見されたりし、今回はその発見された写真集を中心に手彩色された美しい写真等が展示されています。ヴィチェンツァに生まれ、死んだ彼の生涯の概略は2010.02.13日に書いたアドルフォ・ファルサーリも参照して下さい。
『アドルフォ・ファルサーリ写真展』図録.展覧会図録 アドルフォ・ファルサーリの自写上、アドルフォの横浜の事務所での自写
詳しいデータは展覧会図録に譲りますが、アドルフォと一緒に帰郷した娘の《菊》(イタリアでは、Rosa とか Rosina と呼ばれたそうです。日本では Nakasima Kiku)は、ドロテア女子修道院で教育を受け、修道院を出た後は教師として一生を終えたそうです。結婚はしなかったそうですから、子供はいませんのでファルサーリ家の血は彼女の死で絶えました。残念ながら日本の血は繋がりませんでした。
娘”菊”ほか彼女のこの写真集等の遺産はこの修道院に保管されていたのだそうです。
  1. 2013/02/26(火) 20:30:20|
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飢饉(2)

ジョヴァンニ・ディステーファノ『ヴェネツィア史 1400-1599』(Supernova)は1528年の項にこの飢饉のことについて次のように簡単に述べています。

「1528年: 《大飢饉は1568年にも繰り返されることになる。テッラフェルマ(本土)から大挙して貧民達が物乞いしながらヴェネツィアに押し寄せた。食糧倉庫の門前では余りの人に何人かが踏み躙られ、死んだ。貴族のジェローラモ・エメリアーニの慈善活動は際立っていた。1531年ソマースキ神父の要請の下、当局の無為の中、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会に人々を収容する活動を自ら買って出て、自分の財産で救護活動に励んだ。」

大運河左岸、サンタ・ルチーア駅に近い、トルコ人商館(Fontego dei Turchi)の左隣にメージョ運河を挟んで、メージョ倉庫(Depositi del Megio)という共和国の公共の穀物倉庫だった建物があります。G.Lorenzetti『ヴェネツィアとその入江』(1926)は次のように言っています。
メージョ倉庫[左、メージョ倉庫、右、トルコ人商館]  「1400年代のこの建物は、かつて公共の穀物倉庫であり、メージョ運河通り(Fdm.del Megio)に建っている。煉瓦による特徴的なファサードには狭い明り取り窓、階上には狭間飾りがあり、共和国が滅亡した時に剥がし取られた、シンボルの獅子像の痕跡が1900年代初頭まで残っていた。

現在の獅子像は、彫刻家カルロ・ロレンツェッティの作品で、モニュメント友の会の肝煎りによる現代の作品である。……」
[Megio(ヴェ語)とはMiglio(伊語―粟、黍)のことで、穀類の意味。共和国は穀類が欠乏しないように常に気を配っていました。そのため専門の係官が貯蔵量を常にチェックし、飢饉の時には、市民に対する公平無私の、常々の現実直視の判断で、食糧調達のためには、海賊行為にさえ向かったようです。]

ジョヴァンニ・ディステーファノ『ヴェネツィア史 1100-1399』(Supernova)の1322年の項には次のような話が載っています。この年にも飢饉があったのでしょう。

「1322年: 長い飢饉の後、食糧を大量に備蓄し、新しく発生する危機に対処し、更にパンの値段をコントロールすべく、Terranova 穀物倉庫が建てられた。しかしナポレオン軍占領中(1808~14)王の庭園を作るために取り壊されてしまうことになる。

新しい飢饉に対処するために、サン・グレゴーリオの古い塩倉庫が穀物倉庫に変えられた。多量の穀類を貯蔵する目的で、1400年代にメージョ倉庫(Fontego del Megio)が建てられた。そして建物は特に megio、製粉した穀類を蓄えるための物となったし、人民に抑えた価格で配給出来る公共のパンを製造するためにも使われた。

この倉庫(fontego)は、1559年の飢饉の時、公定価格を定め、闇市場を撃退するのにも有効だった。共和国は粟(miglio)の粉を毎日の一人分の量を無料で支給したのだった。」

テッラノーヴァ(Terranova)穀物倉庫があった場所は、現在サン・マルコ新行政官の南の、大運河に面した《王の庭園(Giardini Reali)》がその取り壊された跡です。ナポレオンは占領地を統治する執務室を新行政官に定め、その窓からの展望を遮る Terranova 穀物倉庫を取り壊させたそうです。ヨーロッパ最大の4棟の倉庫だったそうです。
王の庭園、左王の庭園、右fontego(伊語fondaco)はアラビア語の fonduq(住まい、一階の宿)から来たもので、ヴェネツィアでは商館や倉庫の意で使っているようです。
  1. 2013/02/23(土) 00:03:18|
  2. ヴェネツィアの災害
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ヴェネツィアを歌った詩人達

fumie 賛江

平川祐弘著『藝術にあらわれたヴェネチア』(内田老鶴圃、昭和三十七年十月二十日)は、ヴェネツィアに関わる文芸作品等を知る上で大変参考になる貴重な著作でした。例えば成島柳北の次のような漢詩が掲載されています。
漕渠百道入江流
畫舫雕渠鐃裏浮
女件売花郎弄笛
春風揺曳小瀛洲。――柳北がヴェネツィアを訪ねた時の作品だそうです(読み下しはこれから研究です)。

そしてまた斉藤茂吉の短歌が引用されていましたので、『齋藤茂吉全集』第一巻(岩波書店、昭和四十八年一月十三日)を繙いてみました。第四歌集『遠遊』の中に、《伊太利亜の旅》として下にコピーとして掲げた歌がありました。彼が精神病学の勉強のために1922年1月13日~1923年7月19日ウィーンにあった間、ヨーロッパ各地を旅して回った時の作品です。
頁1頁2頁3頁4頁5
頁6頁7ヴェネツィアの芸術作品を歌った、そのものずばりというものは中々ないもののようです。
また詩人としては、例えば西脇順三郎は詩集『あむばるわりあ』中、『あとの日の物語』の中で『ヴェニスの商人』のシャイロックやアントウニオの事を歌っています。また彼には、『トリトンの噴水』という長編の散文詩もあります。
アントウニオシャイロックあとの日の物語頁は右から左へ
寸毫の努力では、願ったり叶ったりの目標には中々近付けませんが、書は万巻とはいえ的が見えたところではあるいは、とも思えます。文章の狭間に一行なり四行なりの詩歌を嵌め込んだ異国の旅の記録が有り得ぬべからざるとも思われるからです。向後の道標です。図版を添付しましたので、こちらにご返事として書きました。 
  1. 2013/02/19(火) 13:00:44|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの、飢饉(1)・ペスト

ヴェネツィアを襲った災厄として、地震、アックァ・アルタ(洪水)、ラグーナの凍結、火事等を書きましたが、飢饉やペストの襲来もありました。永井三明著『ヴェネツィア貴族の世界―社会と意識―』(刀水書房、1994年2月4日)によりますと、1527~29年に北イタリアを飢饉と黒死病が襲いました。カンブレー同盟戦争後のヴェネツィア共和国の最悪の時代だったようです。
『ヴェネツィア貴族の世界―社会と意識』「……飢饉は、収穫物を徴発したり蹂躙した侵入軍により引金をひかれたが、もとはといえばヴェネト地方は旱魃と洪水の大被害を受けていたのであった。しかも当時の国際情勢は豊作のオーストリア領から穀類を搬入することを許さなかった。
……
5月初めの5日間は昼夜をわかたず容赦ない激しい雨が降りつづき、ブレンタ川からの洪水はヴェネツィアの運河に真水を注ぎこんだ。ポレシーネ[アーディジェ川とポー川に挟まれたデルタ地帯のポレージネのことでしょうか?]全体が水没し収穫物は壊滅した。たとえとうもろこしが確保されたところで、洪水のため水車小屋での製粉は不可能であった。
……
ヴェネツィアは地方の飢えた農民をひきつけた。なぜならこの都市には、北イタリアや東地中海からの輸入食糧が集中したからである。ヴェネツィア自体が飢えた時は、東地中海からの食糧を北イタリアに移動するのを禁止した。中央ヨーロッパが切断された今となっては、救済の望みは海上からのみであった。したがってキプロス植民地からの穀物運搬船の役割は大きかった。

しかし1528年4月中ごろ、キプロスの食糧不足が急迫し、シリアで高価な穀物を買付けねばならなかった。あるいはアレクサンドリアからのとうもろこしや豆類の輸入がヴェネツィアの飢饉を緩和することになった。

1528年11月アレクサンドリアからの豆を満載した船が到着していらい、約半年間にわたって定期的に入荷した。にもかかわらず1529年6月17日、ヴェネツィアの倉庫は空になり、サン・マルコの倉庫の扉には《貸し家》Caxa d'Afitarと書かれていた。以上の飢饉の間のサヌート[ヴェ語=マリーン・サヌード]の『日記』はなまなましい描写を提供する。
……
1528年2月20日: 《たいへんなことを記録しなければならない。この都市の大飢饉を永久に記憶しておきたいものだ。この都市出身で街路でわめいている貧乏人は別として、連中はブラーノ島からやって来た。その多くは頭の上に衣類をのせ、手に子供を抱きかかえ、おめぐみを呼びかける。またヴィチェンツァやブレシア方面から多くの人々がやって来た。

おどろくべきことだ。ミサに出かけるなら、必ず10人もの貧民が慈悲を乞うのに出会う。なにかを買おうとして財布を開けば、貧民が小銭をねだる。夜おそく連中はドアをたたいて街路から叫ぶ。『腹がへって死にそうなんです』と。だが、これにたいして政府は何の手だても講じていないのだ》。

黒死病は飢饉の必然の結果だった。飢饉による栄養不良と、食糧を求めての人員の移動が伝染の原動と考えられよう。そして腺ペストは、奇妙なことに、貴族により大きな打撃を与えたという。……いずれにせよ黒死病のほかに、チフスと飢えが死亡者を増大させたはずである。……」 

この本の巻末のヴェネツィア年表から、ペスト・疫病の発生を拾い出してみました。
1343(ペスト)、1348(大ペスト)、1350(ペスト)、1357(ペスト)、1372(ペスト)、1382(大ペスト)、1388(ペスト)、1393(大ペスト)、1397(大ペスト)、1400(ペスト)、1424(疫病)、1427(疫病)、1428(ペスト)、1447(大ペスト)、1456(疫病)、1468(ペスト)、1484(大ペスト)、1485(疫病)、1506(熱病)、1510(ペスト)、1528(ペストとチフス)、1536(疫病)、1556(ペスト)、1575-76(大ペスト)、1630(~16ヶ月間)と大変な頻度の伝染病の発生です。

1575-76年の時には、沈静化を神に感謝してジュデッカ島にレデントーレ教会が建立されましたし、16ヶ月間続き死者4万6490人[ヴェネツィアの統計数字は10台までの正確さがあり、他の地方では100台だそうです]を出した1630年のペストの沈静化の際には、サルーテ教会が献堂されました。レデントーレ教会については、2011.03.05日のヴェネツィア年中行事(8)を、サルーテ教会については、2012.08.11日の文学に表れたヴェネツィア―パトリシア・ハイスミスをご参照下さい。
《飢饉》(2)に続きます。
  1. 2013/02/16(土) 00:03:10|
  2. ヴェネツィアの災害
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ヴェネツィアの火事

G.Nissati『Aneddoti storici veneziani(ヴェネツィア奇聞)』によれば火災の記述は次のようです。

「ヴェネツィアの火災の歴史は、428年の火事、リアルトのサン・ジャーコモ教会の建設を促す原因となったことに始まる。総督ピエートロ・カンディアーノ4世に謀反を企んだ人々が976年総督宮殿に放火した。

サンティ・アポーストリのダンドロ家から出火した1105年の火災は、幾つかの地域を炎に巻き込んだことで特に有名である。その、ほんの48日前の1月に発生した火事はザンターニ館から出火し、シーヴォス(Scivos)の年代記によれば16の島[ヴェネツィアは118の島から形成、と伊百科事典にあります]、ドルソドゥーロの殆ど全域が炎に包まれた。

16世紀の火災の中でも、1569年のアルセナーレの火災が際立っている。チェレスティーアの教会と修道院も灰になってしまった。また1574年の火災では総督宮殿を炎上させた。

17世紀にはサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロのバルバリーア・デッレ・トーレから出火した1683年と1686年の二つの火事がある。現在でも存在する Calle Prima と Calle Seconda del Brusa` という通り名で記憶されている。

前世期[本の執筆時は1800年代]には、1735年のサンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモの火事、1709年のターリャピエートラ小広場近くのサンティ・エルマゴーラ・エ・フォルトゥナート[サン・マルクオーラのこと]のものが有名である。この火事は本にも書かれたし、詩でも歌われた。

火事に関して共和国が公布した法律は色々ある。
1450年6月10日、ワイン樽の運び屋や娼婦らに消火に尽力するよう、罰金刑の名の下に命令を下した。1454年には教区司祭に、バケツや梯子、船その他を常備しておくよう依頼し、火勢を抑えるべく荷物の運び屋や山村出身者らに助力を受けるよう、全ヴェネツィア人に周知を図った。

1519年、予防と消火のために2人の行政官が選ばれた。1759年5月16日の通達では、全6区は消防長を持ち、職人達はその命令に従って行動すること、とある。1776年にはボナヴェントゥーラ・ベンヴェヌーティ製作の、ヴェネツィアで初めての吸い上げ式ポンプが元老院にお披露目された。そして1777年1月22日ようやく、常設の消防団が組織され、その長に技師で建築家のフィリッポ・ロッシが任命された。」

これらの火事の中から1686年6月2日の火事について、ジョヴァンニ・ディステーファノ『ヴェネツィア史 1400~1599』から訳出してみます。

「カステッロ区の Barbaria de le Tole のバルバリーア向けの木材倉庫から火事が発生した[バルバリーアあるいはバルベリーアとは、北アフリカの地中海側でエジプトの西端からサハラ砂漠を経て大西洋にかけて、紀元前からベルベル諸語の民族が住んだ、日本で言う、バーバリ地方のこと――Tole(ヴェ語)=tavola の複数]。

年代記作者は書いている。《火は猛烈な勢いで燃え上がり、24時間のうちにサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロの全地域からヌオーヴェ海岸通りまで燃え広がった。アルセナロッティが鎮火に駆け付け、貴族達も水を運んだ。そして人々は大火が鎮まることを神に願って、祈願行列を行った。》

この火事で何人か焼死し、70軒が焼失した。《1軒の家がその時運よく焼失を免れたと言われており、それは聖アントニウス[パードヴァのイル・サント教会の]の奇跡だ、とされている》。出火した場所は Corte del Brusa` として地名が伝承されている。」
地図地図『Calli, Campielli e Canal』では、上左丸数字62がサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会でその広場から東へサン・ザニポーロ大通り、Barbaria de le Tole 通りが走っています。その南にSc.Media A.Vivaldi(アントーニオ・ヴィヴァルディ中学校)を挟んで左に Calle del Primo Brusa`(1683年)と右に Ramo del Secondo Brusa`(1686年)があります。[Brusa`(ヴェ語)=brucciato(伊語―焼失)]。
フェニーチェ劇場前の消火活動炎上するフェニーチェ劇場(1)炎上するフェニーチェ劇場(2)フェニーチェ劇場焼失翌朝写真は1996年1月29日深夜のフェニーチェ劇場炎上から
  1. 2013/02/09(土) 00:44:41|
  2. ヴェネツィアの災害
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ラグーナの氷結

初めてミゼリコルディア湾でスケートをする絵を見た時のことです。ラグーナ(ヴェーネタ潟)が氷結するなどとは思いもしなかったので、あり得ない風景と一瞬思い込んでいました。色々ヴェネツィア関連の本を読み、分かってくることがありました。G.タッシーニの『ヴェネツィア興味津々』の著作からG.ニッサーティが抽出した『ヴェネツィア奇聞』の中で《Il Ghiaccio del 1788-1789》と題して凍結したラグーナの話を語っています。
『1708年に凍結したラグーナ』『凍結したラグーナ』[左、作者不詳『1708年に凍結したラグーナ』(『華麗なる18世紀イタリア ヴェネツィア絵画展』図録)より、右、Battaglioli Francesco の弟子『1788年に凍結したラグーナ』(『ヴェネツィア展』図録)より]  「ガッリッチョリ(Galliccioli)は共和国の初めから1796年までの、ヴェネツィア人を苦しめた主たる寒波を表に纏めた。しかしながら1788-89年の寒波を忘れないで欲しい、その寒さは真に厳しいもので、ラグーナ全体が凍り付いた。だからヴェネツィアとメーストレの間、あるいはヴェネツィアとカンパルト(メーストレの郊外)の間が、徒歩は勿論、馬車や牛車という重い車でもお互いに行き来が出来た。

レーヴィ医師はその時の思い出を語っている。
《大勢で楽しく行ったり来たりして、人々が氷を踏み付け、動き回って重量を掛け、はっきりとした道が出来て、夜間でもカンテラを持って迷うことなく歩き回ったものである。その道では小屋掛けかあるいはテントが張られ、オステリーアのような食べ物屋が出現した。

道では子供達がボール遊びやコマ遊びをするのが見られたし、多くの人が氷の堅牢度を試して、氷の上で温めてみたり、火を燃やしてみたり、ガンガン氷を叩いてみたり、またあるいはヴェーネト人の陽気さを大袈裟に現して、先ずニコロッティ達が人間ピラミッドを組み立てたり、更に1789年1月15日には軍隊訓練と称してモレスカ踊り(モリス・ダンス)を披露したりした。それらは真に熟練した巧みなものであった。》

このような場合、ヴェネツィアと本土との間の関税は中止されたので、パンやワイン、肉類は町で自由に売られた。しかし事故というものは起こらざるを得ないというか、災難は付き物であった。あるならず者が夜、サンタ・カテリーナ広場の食堂でしたたかに酔っ払い、翌朝ヌオーヴェ海岸通りで凍え死んでいるのが見付かった。

サン・レオナルド教会の僧は、歩いてサン・セコンドに行きたかったのだが、人の通りから外れた場所を通ったがために、氷結の非常に脆弱な場所で溺れ死んだ。ワイン樽の運び屋が夜間酔って氷下に転落し、自分の体を引き上げられなかった。

ある司祭はラグーナの中にあるアンコネッタ(祭壇の聖母像等の板絵を収める場所)の聖母マリア像に接吻したいと思ったのだが、道から外れるや氷の中に嵌ってしまい、頭から閉じ込められてしまった。上に残されていたのは唯一、三角帽子(tricorno)だけだった。またある夫人も、いわゆるミゼリコルディア湾(Sacca della Misericordia)を横断したいと思い、氷に嵌ってしまった。が、運よく救い上げられた。

1788-89年の凍結はノヴェッロが作曲したカンツォーネで、またヴィエーロが彫った2枚の版画と、もう一つグレーゴがデザインし、スカッターリャが陰刻した版画で人々に記憶されている。」
  ――G.Nissati『ヴェネツィア奇聞』(Filippi Editore Venezia)より

またこの時の寒さについて、ジョヴァンニ・ディステーファノ著『ヴェネツィア史(Atlante storico della Serenissima 1600-1797)』(Supernova)は1788年12月30日の項で次のような記述をしています。
ヴェネツィア史 1600-1797「1788年12月30日: 水の流れが速いジュデッカ運河を除いて全ての運河が凍結した。この現象は1789年1月9日まで続くだろう。そして年代記作者は次のように記す。即ち《夥しい降雪を伴って、月半ばから際立ち始めた今冬の異常なまでの極寒のため、我がラグーナの水は凍結するに至り、この日にメーストレからあるいは逆にこの海洋都市から色々の人達が氷の上を徒歩でラグーナを渡り始めている。》

ラグーナは将来何度も凍結することになる。即ち1800年代には、1808、1809、1811、1820、1864の各年。部分的に凍った厳寒は1830、1858、1880年である。」
  1. 2013/02/02(土) 00:01:51|
  2. ヴェネツィアの自然
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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