イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

カテリーナ・コルナーロ(2)

「キプロスとアルメニアの王ジャック2世ルジニャン[Lusignano Giacomo Ⅱ――ヴェネツィア人は彼をザーコ(Zaco)王と呼んだそうです]に、カテリーナは子供時代を少しく経て嫁ぐことになった。1468年、彼女がやっと14歳になった時、ザーコ王の親友だった叔父のアンドレーアの事業がうまくゆき、父マルコが代理で許嫁を約束したのである。
持参金は黄金1000リッブラ[=300㎏]だった! 許嫁になる前に彼女が見たこともない金の量であった。彼には4年後会うことになる。1472年ヴェネツィアの船がキプロス(Cipro)のファマグスタ(Famagosta)に彼女を連れていった時である。

この結婚は一家の力の程を我々に見せ付ける。この出来事が何世紀にも渡って、キプロスでの共和国の経済的優位を確立した。この事によってセレニッシマの商人貴族は、王冠というものに辿り付いた訳である。この結婚はコルネール家に益したのみならず、共和国にとっても更なる政治的重要性を帯びることになった。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』[ティツィアーノ・ヴィチェッリオ画『カテリーナ・コルネールの肖像』] そしてそのヴェネツィアが王の死に際しては、第一の役割を担うことが出来たのである。事実、島でのその後の行動のように、東地中海で戦略的に非常に拡充した、絶好の位置を獲得する。こうしてこの地域の支配を強化した。勝ったり負けたりが交互にあったにせよ、オスマン・トルコの圧力をますます感じるようにはなったのだが。

しかしルジニャンは共和国に強い関心を抱いていた。ジャック2世が非嫡男だったので、サヴォーイア公ルドヴィーコに嫁いだ姉妹のカルロッタ[彼を私生児(bastardo)呼ばわりして罵っていた]が色々な口実で要求を突き付けるのに、ヴェネツィアの力がブレーキを掛けるのに役立ったからである。

しかしジャックは結婚1年後、カテリーナが妊娠中ほんの33歳で亡くなってしまった。ファマグスタで亡くなるやカルロッタに追随する者達が騒動を引き起こした。その時、人々の予想通りの事が起きたのであり、ヴェネツィアは警戒を怠ってはおらず、直ぐ事件に介入した。

王子が誕生するやジャック3世の名前で直ぐに公表されていた。しかし突然の王の死のため、若い女王はニコシア[キプロスの首都]の大司教やナーポリ王アラゴンのフェルナンド1世(FerdinandoⅠd'Aragona)に後押しされた島の有力者に翻弄されるがままだった。彼らの意図はザーコ王の庶出の娘をナーポリの王冠の相続人アラゴンのアロンソ(Alfonso d'Aragona)に嫁がせるということであった。この事はこの島に対して、途轍もなく大きな食指が動いているということであった。

1473年11月14日夜、恐ろしい事件が発生した。何人かの刺客が大司教の手引きで王宮に侵入し、カテリーナの部屋に乱入するや医者とお付の者を無残に刺殺した。王宮の外では彼女の叔父が命を奪われたが、マルコ・ベンボらヴェネツィア貴族が救助に駆け付けた。殺し屋達は全ての宝石や指輪類と王の印璽は手にしたが、可哀想な女王は王宮に打ち捨てて行かざるを得ず、生後数ヶ月の子供は連れ去った。

しかしこの悲劇はヴェネツィアにとっては有利に終始したのである。カテリーナは独りでは敵に刃向うことなどとても出来なかったから、彼女が生きていたということは言わば幸運と言ってよかった。

11月23日、ヴェネツィア艦隊司令長官ピエートロ・モチェニーゴは事の発生を知るや、即、ファマグスタに艦隊を発進させ、反逆者を捕え、全員縛り首に処した。

そして女王の置かれている危険な状況を考慮、2人の相談役と1人の施政官を任命した。こうしてヴェネツィアは、この悲劇的状況をうまく利用し、島の統治を間接的に行うようになったのである。

カテリーナの苦悩は終わらなかった。1474年8月26日、1年ちょっとして王となった息子が亡くなったため、カテリーナがキプロス女王となった。一人で統治を進めたが、ヴェネツィアの下心ある熱心な協力あってのことだった。ますますヴェネツィアから監視され、後見された。

15年間ヨーロッパの外交交渉の中で仕組まれる冷酷とも言える、策略的状況の中で、ヴェネツィアの保護国として王国を支えてきた。キプロスの富という好餌が示すものとはそれほどまでに食欲をそそるものであり、1488年10月には、再び島を支配したいと切望するスペイン人の企んだ陰謀が発覚した。

その時彼女をキプロスの女王として戴き、何年も支えてきたセレニッシマは、彼女が国のために身を挺して犠牲となり、公式に王国を共和国に併合することを決めた。こうしてカテリーナは1489年2月26日ヴェネツィア共和国のために退位し、続く3月14日にはあらゆる敬意と栄誉に送られてキプロスを出帆し、6月10日ヴェネツィアに到着した。

人々の歓呼の叫びの中、総督と政庁の人々から豪奢な式典で迎えられた。今日の、毎年のレガータ・ストーリカがこの式典を思い起こさせるのである。」
 ――Bruno Rosada『Donne veneziane』(Corbo Fiore Editori)より。(3)に続く。
  1. 2013/03/30(土) 00:04:01|
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キプロスの女王カテリーナ・コルナーロ(1)

ヴェネツィアの歴史の中で、一番有名な女性は誰だったのでしょうか。Bruno Rosada『Donne veneziane―amori e valori』(Corbo e Fiore Editori)の劈頭を飾るのは、カテリーナ・コルネール(伊語―コルナーロ)ですが、やはり彼女ではないでしょうか? この本から彼女の生涯を辿ってみます。本をそのまま正確に訳すのは著作権に抵触すると思われますので、抄訳と誤訳で記してみます[森口いずみ先生に訳文を読まれたら日本語ではないと叱られるでしょう]。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』「毎年9月第1日曜日は、ヴェネツィアでは歴史的大レガッタ(Grande Regata storica)が行われる。競艇は一つだけという訳ではない。かつてモーターが登場するまで使われていた、商品等を運ぶための6本櫂の頑丈な船である、カオルリーネ(caorlina―単数)のレガッタがある。それからラグーナ(ヴェーネト潟)で使用されるもう一つのタイプの船、2本櫂の軽いサンドリ(sandolo―単数)の一種であるマスカレーテ(mascareta―単数)による女性のレガッタがある。

それから更に後ろの艫が少し持ち上がっていて、その上で漕ぎ手の一人(漕ぎ手は総勢2人だったり4人だったりする)が漕ぐサンドロの一種で、また別のタイプのプッパリーニ(pupparin/puparin―単数)による若者のレガッタがある(しかしこれらサンドロ、マスカレータ、プッパリーンそれぞれは、通常一人漕ぎであり、それがヴェーネト漕法の一大特徴である)。

しかし最重要の競艇、チャンピオン・シップを賭けたレガッタは2人漕ぎの非常に小さなゴンドラ形のゴンドリーニ(gondolino―単数)によるレガッタである(この舟はこの競艇でしか使われない)。[船については2011.02.26日のを、歴史的レガッタについては2011.03.12日の年中行事(9)も参照までに]。

実の所レガータ・ストーリカという競技にはストーリカ(storica―歴史的)と呼べる事は何もないのである。ヴェネツィアでは他の全ての海港都市のように、何か事あるごとにいつもレガッタ(伊語ではレガータregata)という船の競争が行われていた、即ち王侯のヴェネツィア訪問や宗教的・市民的民間儀式の挙行の度ごとに、である。

そして今日においてもヴェネツィアでは色々な行事の度ごとに、数多くの競艇が行われているが、毎年9月第1日曜日に《ストーリカ》という形容詞を冠して行われるレガッタは、ヴェネツィア美術ビエンナーレの第3回目、1899年の時に初めて行われた[ビエンナーレ第1回は1895年、第2回目1897年の特別展では日本の各種の工芸品が展示されました]。当時の市長フィリッポ・グリマーニの強い意向でこのように命名された。

しかしその日のスペクタクルは競艇というより、昔の装いで豪華に着飾った人達が乗った8本櫂の、これまた豪奢に艤装した《ビッソーネ(bissone)》の船列が主役であった。その船列に無数の個人の船が付き従った。2人の貴族に護衛されたサン・マルコ旗を掲げた船が船列に割って入り、3人のラッパ手と4人の鼓手の船が付き従う。
「レガータ・ストーリカ」ガイドそれからそれぞれがサン・マルコの旗を掲げる8人の貴族、10人の元老院議員そして総督の休息時の被り物を赤いビロードのクッションに置き、捧げ持った小姓の船が来る。そして総督自身、トゥニカと赤と黄金色の大きなマントを羽織り、歴史的な総督帽[Corno ducale, Acidaro, Acidario, camauro 等]を頭に、マントと剣を支える2人の小姓を従えて続く。

4人のオリエントからの大使達(シリア、ペルシャ、エジプト、トルコ)、そして8人の乙女がキプロスの女王カテリーナ・コルナーロを守護する。女王は8人のムーア人奴隷に担がれた輿に座し、6人のキプロスからの特使が侍る。行列のしんがりでは《海の提督》が武装したダルマツィア出身の兵士達に命令を下す。この船列はカテリーナ・コルナーロがヴェネツィアに帰還し、セレニッシマ共和国に自分の王国を譲り渡した時の、歓迎の凱旋式を蘇らせる。

しかしカテリーナ・コルナーロとは何者? コルネール家、あるいはコルナーロ家、はたまたコルネーリオ家(何故こうではないのか)。もし人々に信じられているように、ローマ出身のコルネーリアという家柄にまで遡る伝説に信を置きたいのなら、この一族は途方もなく富裕であったし、少なくともその住宅用の館の建つ場所によって、サン・マウリーツィオ教区にあるカ・グランダのコルネール、サン・ポーロのコルネール、サン・カッスィアーノ教区にあるレジーナのコルネールと呼ばれる3家が一番重要である(しかしより遠縁で貧しい分家は枚挙に遑がない)。

カテリーナはサン・カッスィアーノの家系に属していた。この家系は非常に裕福だったので彼女の兄弟のジョルジョは、ヴェネツィアでも余りに金持ち過ぎると思われ、財産分与の意味からも3人の息子達全員結婚させざるを得なかった。
[ヴェネツィアでは、一家の財産を守るために家督相続は嫡男にのみ渡し、他の息子は司教等にするなどの道を拓くのが通例でした]

一家の歴史では4人の総督、7人の枢機卿、4人の司教、4人のサン・マルコ財務官、その他色々の役職に就いた。そしてキプロス島での砂糖と木綿の製造販売で富を得た。この島で広大な敷地を自由に出来たのであった。 ……」
 ――Bruno Rosada『Donne veneziane』(Corbo e Fiore Editori)より。《カテリーナ・コルナーロ(2)》に続く。
  1. 2013/03/23(土) 00:02:22|
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蛙を持った少年

蛙を持つ少年税関岬右は街灯があった時の税関岬
今年の1月の次の新聞La Nuovaによれば、税関岬に設置されていた《蛙を持った少年》像がこの3月18日で撤去されて、別の場所に収納されるとありました。

4年間この場所に展示された、米国人芸術家 Charles Ray の像は、何故かヴェネツィア市民にはあまり評判がよくなかったらしく、移動後は以前のように街灯(1800年代様式)が置かれるようです。白い少年像は汚されないように24時間監視員が駐在し、費用もかかったのも原因のようです。

その後のニュースをまだ見ていませんが、どうなったのでしょうか。
追記: 蛙を持った少年2013.05.09日のLa Nuova 2は、昨日2013.05.08日《蛙を持った少年》が税関岬から撤去される様子の写真を14枚掲げました。
  1. 2013/03/22(金) 01:42:48|
  2. ヴェネツィアの彫刻
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ヴェネツィアの食

食の細い私も、野菜と魚には興味があって伊語でどう言うか等、必死で覚えましたが、ヴェネツィアの伝統料理には言葉の問題もあって目を逸らしてきました。
Ricetta venezianaヴェネツィア料理大全『ヴェネツィア料理大全―食の共和国からのおくりもの―』(アルヴィーゼ・ゾルジ序文、ピーニ・アゴスティーニのレシピ、ルカ・ステッフェノーニ写真、中山悦子訳、JICC出版局、1993年1月5日)を知り、読んでみました。序文の中でゾルジの、16世紀、フランスのアンリ3世到来時のヴェネツィア人の料理での接待の描写が白眉ですが、ここでは現代に近い、食の事情を引用してみます。

「……第一次大戦後は、さまざまな新しい食習慣や食事時間がもたらされた。全国共通のものとなるスパゲッティなどのパスタ類やミラノ風カツレツをヴェネツィアでも食べるようになる。だが、いくつかの習慣は残った。

筆者が子供の頃に楽しみにしていたのはサン・マルティーノの日の“ペルセガーダ”(固いマルメロ・ジャム)である。この聖人の祝日(11月11日)には、騎馬姿の聖人をかたどったお菓子を子供たちに贈る。ヴェネツィアではそれをマルメロ・ジャムで作り、銀色の砂糖玉で飾るのである(香料入りケーキ、パンペパートで作ることもあった)。

それから11月2日の故人の日に食べたソラマメ型の《故人のソラマメ》は、乾いてパリッとしたアーモンド菓子である。焼きナシのほか小ダコなども、背中に銅製の大鍋を背負った行商人が、「熱いよっ、ゆでたてのアツアツ!」と声を上げて売り歩いたものだ(今ではこの銅鍋は骨董品ものなのだそうである)。

焼き栗や焼きイモも、よく道端で売っていた。リドの海岸で遊んでいて、カラメル売りの姿が見えると、我々子供たちは大騒ぎだった。「子供たち! カラメルのベーピが来たよ!」 これにははしゃがずにはいられなかった。果物を砂糖のカラメルでくるんだこの菓子は、今も道端で売っているが、贅沢な晩餐の飾りにも使われるそうである。

道で売っているものといえば、ほかにも“カラゴイ"(海の小カタツムリ)や“ガルーゾイ”(海のカタツムリ)などの美味な貝があった。これは、健康管理にうるさい、尊敬すべきヴィヴァンテ教授の指揮する市の衛生局が、やっとのことで追い払った。

その頃のヴェネツィアのトラットリアの多くはまだ、面白い発見の場であり続けた。歴史的に見ても、芸術、文学、そして料理の点からでもである。有名な《タヴェルナ・ラ・フェニーチェ》は、これまた有名なオッターヴィオ・ゾッピがやっていたが、マルセル・プルーストが友人の画家キース・ヴァン・ドンゲンとともに寄ったところである。

一方、“マガゼン”も“バスティオン”も失った庶民たちは、荒削りのトラーニを飲ませる“バカロ”に足を運んだ。 ……」
 ――『ヴェネツィア料理大全』(中山悦子訳、JICC出版局、1993年1月5日)より

一例《グリーンピースのリゾット》のレシピをどうぞ。
グリンピースのリゾットグリンピースのリゾットの写真  料理一覧料理一覧 2料理一覧 3ワインリスト
[上記ペルセガーダ(Persegada―ヴェ語)とは、甘い桃(persica(伊語)=persega(ヴェ語))の代わりに、かつてはヴェーネト一帯の農家の畑によくあったマルメロ(生食不適、marmelo葡語=cotogno伊語)で代用してジャムとして作られたため、名前だけが残ったものだそうです。2008.12.08日のS.Martinoも参考までに。]
  1. 2013/03/16(土) 00:02:19|
  2. ヴェネツィアの食
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ヴェネツィアの建物: モーロ=リーン(Moro-Lin)館とグラッシ(Grassi)館

ダ・レッゼ館から更に右へ進むと極端に窓の多いモーロ=リーン館が現れます。R.Russo『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を書いています。
モーロ・リーン館「《12の窓の館》はトスカーナの画家セバスティアーノ・マッツォーニによって建てられた。彼は中央の窓を中心に、以前にあったゴシック様式の建物を繋いで一つの建物に造り替えたのだった。

最初の所有者はピエートロ・リーベリという波瀾に富んだ生活を送った画家だった。パードヴァに生まれ、何年かパドヴァニーノの工房で見習い修業をした後、コンスタンティノープル(Costantinopoli)に向けて出発した。しかしレスボス島のミティリーニ(Mitilene)でトルコ人に奴隷にさせられた。8ヶ月投獄された後、出獄出来てマルタ島に逃げ、シチーリアに渡った。

続いてヨーロッパを歩き回った。リスボンからスペイン、フランスと移動した。その後ローマで3年過ごし、その間熱心にミケランジェロとラッファエッロを研究した。ヴェネツィアに帰るや大成功を収めて、画家組合を作った。それは将来アカデミーとなる協会である。

ピエートロ・リーベリ没後、館はベルガモ出身の食料品商リーン家が獲得したが、一家は1686年ヴェネツィア貴族となった。リーン家は最上階を増築し、中央のサロンにフレスコ画を描かせた。1748年にはガースパレ・モーロとイザベッラ・リーンの結婚が祝われ、建物はモーロ家が所有することとなった。

1800年代初頭、モーロ=リーン館にヴェネツィアの画家フランチェスコ・アイエツが住んだ。アトリエはこの館に設けた。その後も洗練された肖像画や古代ギリシア叙事詩に触発された絵画で有名になった画家ロドヴィーコ・リッパリーニが住んだ。彼はこの建物にイタリアや外国の芸術家や文学者達が集まれるアカデミーを作った。

今日、館はアパートに分けられている。」

更に右へ進むと大きなグラッシ館となります。同じく R.Russo『ヴェネツィアの建物』(1998)の説明は次のようです。
グラッシ館「エレガントな古典様式の建物グラッシ館は、ジョルジョ・マッサーリの設計により1749年から建築が始まり、彼の死後に完成を見た。グラッシ家はボローニャ出身で、1720年代ヴェネツィア貴族を許された。

大運河に面した館はアンジェロ・グラッシが建てさせた物である。彼は階段の上に、自分の次のようなモットーをラテン語で刻ませた。《意見の一致があっても些細な不都合は生まれるし、見解の不一致は偉大なる事をも破壊してしまう》。

司祭のカルロ・ズィッリは『ヴェネツィアで生起した事件』という本の中で、自分の父の教えを忠実に守ったジョヴァンニ・グラッシは、妻のマルゲリータ・コンドゥルメールの度々の不倫を許していたと書いている。妻が自分のカヴァリエール・セルヴァンテのバッカラーリオ・ゼーンに捨てられた時、妻と仲直りして欲しいとバッカラーリオに頼み込んだのは、他ならぬ夫のジョヴァンニだった、というのである。

[ヴェネツィアでの cicisbeo(チチズベーオ)あるいは cavalier servante とは、貴婦人達に付き添って、彼女達の外出時など守護する役の騎士です。一家の後継者ではない二、三男等の青年が親族や同じ財力の友人達の集まりで貴婦人の付き添い役に選ばれました。任務は、朝の化粧から散歩等の外出、音楽会や詩の朗読会等にも付き添います。食事時には隣に座り肉を切り分けたり、食後の遊びのテーブルなどにも付き従いました。将来の社会勉強の意味合いもあったようです。
貴夫人と騎士との間には恋愛関係はなかったと言いますが、夫が silenzioso beneplacito(暗黙の了解)で見守る中の関係はあり得たらしく、夫は proprieta' familiari(家族としての絆の元になる帰属関係)を重視し、夫婦の結婚後の元の状態は維持しようとしたとか。譬え不倫があったとしても夫婦関係は堅持するということ]

ここまで夫が礼儀正しく慇懃であってみれば、この町の1800年代のガイドブックも言うように、この貴族夫人は建築家マッサーリが《ミステリアスな恋愛のために》この館に作った秘密の階段を利用することはきっとなくなったに違いない。

グラッシ家は1800年代前半に消滅し、館はトルニエッリ伯爵に相続された。次いでテノール歌手アントーニオ・ポッジが所有した後、旅館になった。それからフランチェスコ・デッリ・アントーニによって始められた、大運河の水を利用する浴槽会社となった。

その後所有者が転々とし、結局1983年自動車会社 Fiat(フィーアト)が獲得するところとなり、国際的にも重要な文化的催し物会場に造り替えるべく、建築家ガーエ・アウレンティとアントーニオ・フォースカリに徹底的な修復が任された。」
[現在は色々の企画展の会場となっていますが、1999年この美術館で、カルパッチョ画のコッレール美術館の『二人の貴婦人』とロサンジェルスのポール・ゲッティ美術館から里帰りした『潟での狩猟』が並べて展示され、本来一つの作品だったものが上下に切り分けられたものであることが確認されました。]
  1. 2013/03/09(土) 00:01:43|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: エーリッツォ・ナーニ=モチェニーゴ館とダ・レッゼ館

コンタリーニ・デッレ・フィグーレ館から更に右へ行くと、右はエーリッツォ・ナーニ・モチェニーゴ館です。大運河向かいのフォースカリ館の趣味に近付いているような建物です。15世紀末後期ゴシック様式の建物で一部作り変えられました。四連窓の美しい窓が、煉瓦仕上げで際立っています。E.&W.Eleodori『大運河』(1993)は次のようなことを述べています。
エーリッツォ・ナーニ・モチェニーゴ館他[Erizzo Nani-Mocenigo館 と Da Lezze館] 「真向かいのフォースカリ館の趣を持った15世紀末の後期ゴシック様式の建物。部分的に改装された。2階の張り出した露台は念入りに仕上げられた腕木で支えられて、露台の手摺のコーナーは小獅子で飾られ、四角形の歯形飾りで縁取られた窓は、上部が花形装飾の四連窓で際立っている。

ナーニ家は1297年の大議会のセッラータ(serrata)に含まれる家系で、12世紀ヴェネツィアのトルチェッロから越してきた。その後三つの家系に分かれた。いずれも著名であったが、中心となる家系は1700年代末に消滅してしまった。フランチェスコという人物はダルマティアの施政長官(1194)だった人で、総督エンリーコ・ダンドロ(1192~1205)を選出した一人でもあった。

ジョヴァン・バッティスタ(1616~78)はフランス大使であり、枢機卿長マザリーナの個人的友人でもあり、カンディア(クレタ島)の和平条約締結後(1671)、ヴェネツィアとオスマン・トルコ(Osmanli あるいは Ottomani)の境界線をナーニ線と名付けた。

1300年代ピエートロという青年は、ファリエール家の貴婦人の胸から高価な宝石を奪い取ったことがあった(ナーニ家が裕福だったために向こう見ずな悪戯だったことは確かである)が、片手切断の上、絞首台に吊るされるという判決が下った。

1800年代、著名な名前モチェニーゴを引き継ぐことになった。」
[2012.09.09日に書いた、ジュゼッペ・チプリアーノが《カルパッチョ料理》を提供したアマーリア・ナーニ・モチェニーゴ伯爵夫人はここが住いだったのでしょうか。]

更に右隣のダ・レッゼ館について
「15世紀半ば頃と推定し得るゴシック様式建築。窓上部のアーチに特徴がある背丈の高い窓、上の階の中央の二つの窓は四連窓で、露台手摺は現在は鉄製となっている。18世紀に手が加えられたが、特に1階部分が甚だしい。

15世紀そこの施政官だったスクータリ(アルバニア北部のシュコデル)を放棄せざるを得ず、不運な、英雄的なアントーニオ・ダ・レッゼがヴェネツィアに帰還した時、裏切りの罪で投獄され、10年の追放刑を蒙った。

トルコ軍の圧倒的優勢の中で、ただ敵に勝利するという考えは狂気と言ってよかったし、自分の部下達と勇敢に戦ったということも自分のためにしたことではなかった。敵の攻撃は余りにも獰猛だったので、不注意に屋根に上った猫さえ直ぐ様10本程の矢を射掛けられ、射殺されるほどだった。そして町に降ってきた矢は、籠城軍に料理の燃料を補給するほどまで大量だった。……

しかしヴェネツィアは敗北を赦さなかったし、彼は敗れた指揮官達とその気の滅入る、呪わしい運命を共有しなければならなかった。

言い伝えによれば、973年プーリアのレッチェからヴェネツィアに来た《ダ・レッゼ家》に栄光をもたらした数多い将軍や行政官の中には、例えばあのシルヴェストロのように他の貴族の若者と気晴らしを求めてサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ教会へ行き、贖宥のためにそこにやって来ていた娘達のポケットから、ハンカチを抜き取る等といった、悪戯をするような気の置けない人物に事欠かなかった。

共和国はそんな軽はずみは容認しなかったし、厳罰に処した。6ヶ月の投獄と2ヶ年の追放刑を命じた。」
 ――E.&W.Eleodori『大運河』(1993)より
  1. 2013/03/02(土) 00:02:19|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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