イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの海との結婚式(1)

ヴェネツィアが海外貿易で発展した共和国であったことを如実に示す事象の一つに《海との結婚式》があります。毎年5月のセンサの日(復活祭から40日後の木曜日の御昇天の祝日)に祝われていた祭りの日の伝説について、Marcello Brusegan『Miti e leggende di Venezia(ヴェネツィアの神話と伝説)』(Newton Compton Editori、2007.10)が語っています。その概略をこの本で辿ってみます。

「991年の公会議で総督 Menio(Tribuno Memmo のこと)は、12年間の無味乾燥な政治活動の後、退位せざるを得なかった。公式には病気だとされ、実際には国民がオルセーオロ家に新しい指導者を見出していたからであり、その人物の旗の元に殆どの人民が集まってきたからであった。

誇り高き総督ピエートロ2世オルセーオロによって状況は大きく変わった。新総督は直ぐ様外交的成功を収めた。最初の成功は、ビザンツ帝国皇帝バシレイオス2世(伊語Basilio Ⅱ、括弧内以下同)とコンスタンティノス8世(Costantino Ⅷ)から992年に得た有名な金印勅書(bolla d'oro)である。これはヴェネツィア商人にとっては、敵のサラセンに対してサン・マルコ艦隊が支援することの代償として他のどこの国の商人よりも絶対有利の扱いを保証されるというものだった。

第2のものは、同じ年の992年イタリア地域内での大量の交易可能な商業特権の、皇帝オットー3世の側からの再確認があったということである。

更に重要な事は、一千年という里程標(999~1001)を挟んだ期間に軍事的成功を見たことである。その時大艦隊は武装し、安全にダルマツィア方面に踏み込んだのだった。総督自身は軍旗の下、海軍の先陣に立ち、ヴェネツィア軍は何百ものスラヴ海賊を捕え、殲滅した。艦隊はあらゆる島・入江・洞窟を虱潰しに平定した。従わない者は容赦なく粛清したのである。

総督は商人達やヴェネツィアの商品を自由に輸送させ、行き来させるために、アドリア海の海賊との交渉事は一切断絶する意向だった。こうしてプーラ(Pola)からドゥブローヴニーク(Ragusa)まで[現在のクロアティア海岸都市]の全ダルマツィア海岸が安全となった。

ポレチュ(Parenzo)、ツレス島(Cherso)、オソル(Ossero)、ザダル(Zara)、トロギール(Traù)、ラブ島(Arbe)、クルク島(Veglia)、コールチュラ島(Curzola)、ラストヴォ(Lagosta)、ドゥブローヴニーク(Ragusa)の町は、力、自由、富のシンボルであるサン・マルコの旗が翻るのを見ることになる。

イーストラ(Istria)半島人、ダルマツィア人、スラヴ人、ナレンターニ人[narentaniとはダルマツィアのネレトヴァ河(Narenta)周辺に7世紀頃やってきた南スラヴ人]等全ては、その時地中海の覇者として登場した男によって導かれるアドリア海の新しい秩序に従うべく、《ヴェネツィアとダルマツィアの総督》という称号を帯びたヴェネツィアの総督に敬意を表さねばならなかった。
カナレット画『センサの日、サン・マルコ小広場に帰還したブチントーロ船』[カナレット画『センサの日、サン・マルコ広場に帰還したブチントーロ船』]  この大いなる戦争の記憶として、ヴェネツィアと自由な海とのシンボリックな結び付きである《海との結婚》という祝祭は始まった。そしてその時以来、毎年センサ(伊語Ascensione)の日、即ち5月18日のキリスト昇天祭の日、総督と総大司教は海を祝福するためにリード港の外洋に赴くことが布告された。単純で簡素な式次第による贖罪の儀式である。 ……」 (2に続く)
   ――マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton Editori)より
  1. 2013/04/27(土) 00:05:39|
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フリードリヒ・ニーチェ(3)

2009.02.14日に書きました文学に表れたヴェネツィア―フリードリヒ・ニーチェ の中の詩も、訳者が変われば次のようになります。

「   《ヴェニス(87)
先頃(さきつころ)、われ 鳶色の一夜、
橋の辺(へ)に佇(たたず)みしことあり。
遠きより歌声の流れ来て、
黄金色(こがねいろ)なす水のしずく
打ち震(ふる)う水面(みのも)に湧きては 流れ去りたり。
ゴンドラと 燈火(あかり)と 音楽と――
なべては酔(え)いて、漂(ただよ)い出(い)でては 小闇(さやみ)のなかにまぎれ離(さ)かりぬ……
そのとき、わが魂(たま) 弦(いと)の調(しら)べのごと、
ひとり、見えぬ手に奏(かな)でられつつ、
秘めやかにゴンドラの歌うたいたり、
目も綾(あや)な至福にしも打ち震えつつ。
――誰(たれ)か その歌に耳傾けし者ありや? ……」

同じヴェネツィアを歌った次の詩もどうぞ。
「   《わが幸福!(88)
 サン・マルコの鳩たちと われ 今ふたたび 相見(まみ)えぬ、
広場は 寂(しず)けくたたずまい、午前は 憩(いこ)いてそこにあり。
やわらなる涼気を衝(つ)いて つれづれに 歌をぞ われは送るなる、
舞い上(のぼ)る群鳩(むらばと)のごと、碧空(あおぞら)へ――
 然(さ)してまた、上(のぼ)りし歌を招き寄せ、
なお一聯(ひとつら)の歌 羽に 懸(か)くるなり、
――わが幸福! わが幸福!

 汝、静かなる天穹よ、淡き青色(あお)して 絹布(きぬ)のごとく、
目も文(あや)な伽藍の上を 漂いて 蔽うが如く 懸(かか)るなり、
わが――何ごとぞ――愛し、畏怖(おそ)れ、妬みてやまぬ伽藍の 上に……。
(げ)にわれは かの伽藍より 霊気をば飲まんと 望むなり!
 なれど、何(なに)とて 飲みたるものを返却(かえ)すことの あり得ん? ――
否なり、こはひとり われと汝(なれ)の秘密なり、汝、眼の 不思議なる悦びよ!
――わが幸福! わが幸福!

 汝、毅然たる塔よ、獅子の気迫もて
ここにそそり立つ、かちどきあげて いと軽々と!
また深き音色(ねいろ)もて 広場の上に ひびきてわたる――、
その姿、フランス語の 鋭音記号(アクサン・テギュ)にてもあらんこと。
 若しわれにして 汝が如く 永くここに留(とど)まるを得ば、
(な)が内の、絹のごとくやわらなる 必然の力を 知り得んに……
――わが幸福! わが幸福!

 去れよ迅(と)く、去れよかし 音楽よ! 先ず影の濃きを増し、
ついに鳶色(とびいろ)の 温(ぬる)き夜となるを 待て!
今はなお、調べには早き 日中(ひるなか)なり、黄金(おうごん)
飾り具も 未(いま)だ 灯火(ともしび)の バラ色なす絢爛(けんらん)に 煌(きら)めきてあらず、
 今はなお、日中(ひるなか)の あり余りて残れるなり、
(うた)作り、忍び歩き、はた孤独なる密談にこそふさわしき 日中(ひるなか)の、
――わが幸福! わが幸福!」
詩の注(87)と(88)の詩の注
   ――『ニーチェ全集』第十六巻(書簡集・詩集)(塚越敏・中島義生訳、理想社、昭和45年5月25日)より 
  1. 2013/04/20(土) 00:03:28|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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フェニーチェ歌劇場日本公演

本日10時20分頃東京で震度3の地震がありましたが、昨日は淡路島付近を震源に、阪神大地震以来の大揺れの震度6弱の地震がありました。震度6、というと恐怖です。3.11のことを思い出します。

今朝の地震を感じながら、偶々ヴェネツィアの新聞La Nuovaを見ていました。その中に《日本におけるイタリア2013》の一環として8年ぶりに来日公演しているチョン・ミョンフン指揮のフェニーチェ歌劇場の人々が、大阪で体験した模様が記事になっていました。そのLa Nuovaの記事を次に訳してみます。

「 《大阪ツアーで、地震がフェニーチェ座員をベッドから放り出す
現地時間5時33分(イタリア時間22時33分)マグニチュード6.3の揺れで、日本ツアー第6日目のフェニーチェの楽員と合唱団員はベッドから叩き起こされた。震源は神戸市近くで被害はそれほどでもなかったが、その地は、新しいフェスティバルホール(2700収容)で水曜日(10日)、フェニーチェ座がコンサートの夕べで公演を開始した大阪から30㎞ほど離れた場所である。265人の団員、楽員、合唱団員の間に数秒の恐怖が走ったが、再びすぐに眠りに就いた。

全世界を股にかけてツアーを行うフェニーチェ座の職人衆にとって、これは初めての予期せぬ出来事ではない。事実1996年1月29日はポーランドのワルシャワにいた、その夜フェニーチェ劇場が炎に包まれた。2010年4月はアイスランドにいた、その時火山の爆発でヨーロッパの空半分が飛行不能になった。

フェニーチェの“歴史を経験した”合唱団員であるジャンパーオロ・バルディーンは哲学的表現をする: 《我々が行動に移る時、世界は心配の種になるかも知れない。しかし結局、こうした“不都合な出来事”は我々にいつも幸運をもたらした》と。」
1792年のフェニーチェ1837年のフェニーチェ劇場1977年のフェニーチェ劇場フェニーチェ劇場図録左、1792年ジュゼッペ・サルディが印刷したフェニーチェ劇場正面。中左、1837年ジョヴァンニ・ピヴィドールによる、ジョヴァンニ・ブザートの幕の見えるフェニーチェ劇場内部。中右、1977年の焼失前の、フェニーチェ劇場舞台風景。右、焼失前のフェニーチェの最終図録(1996年刊)。
[今回の大阪公演はヴェルディ生誕200年記念公演として、第51回大阪国際フェスティバルでリニューアル・オープンしたフェスティバルホールの杮落とし公演であり、13日(土)の地震の日も《特別コンサート》が行われたようです。また本日14日は名古屋で『オテロ』公演、東京では4月17・19日『オテロ』、18日《特別コンサート》の上演があるそうです。]
  1. 2013/04/14(日) 15:10:53|
  2. ヴェネツィアの劇場
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書簡に表れたヴェネツィア――フリードリヒ・ニーチェ(2)

2009.02.14日に文学に表れたヴェネツィア―フリードリヒ・ニーチェを書きました。若き日ヴァーグネリアンだった彼は、例えば後年1885年3月13日のマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク宛の書簡で次のように書いています。

「……音楽に関して申しますと、昨秋のことですが、今R.ヴァーグナーの音楽について自分がどのように考えているか、真面目な気持ちで、また好奇心を懐きながら、実験をやってみたのです。なんとどんよりとして、重苦しく、なによりも役者ぶって自惚れた音楽、虫の好かぬものです! 

その虫の好かないことと申したら、ちょうど、そう、そう沢山ありますが、たとえばショーペンハウァーの哲学のようなものです。それはひとりの出来そこないの音楽家にして人間の音楽、しかし偉大な役者の音楽です――断固として私はそう確信いたします。

私は、私の弟子でもあり友人でもありますペーター・ガストの、この本物の音楽家の、勇敢で無垢の音楽を賞賛いたします。……」と。

そんな彼は『この人を見よ』(1888年脱稿)以前の書簡で度々ヴェネツィアの事に触れています。例えば1885年4月には妹のエリーザベト宛の書簡で
「……いま僕が住みたいと思うところはヴェネチア以外にはない。ただし九十パーセントという高湿の空気が僕を苦しめる。……」と。
1887年9月8日には、音楽家ペーター・ガスト[ニーチェが病を得てヴェネツィアから帰国する時、彼に付き添った人]宛に次のような手紙を認めています。

「……フォン・ザーリス嬢は友だちのキム嬢といっしょに夏をここで過ごしていたが(歴史学の博士としてね)、昨日ここを発った。こちらは雨が降っている。兄のほうも降っているのじゃないかね?――察するところ、この秋は、以前に体験したときのように悪い秋になりそうだ。

今までのところ、まだヴェネチアの計画はそのままになっている。ヴェネチアの大運河(カナル・グランド)の婦人は気にいらないね、僕は機嫌をそこねてしまうことだろう。カッサ・ペトラルカでは、月にどれほどかかるのだろう? それとも、兄はなにかニュースを見つけたかね?――珍しいこともあるもので、ローマの計画は、僕が最近予想していたような仕方で、ぐらついている。

もしかすると、ローマは僕にとって無意味かもしれない? またニースへ這っていくことにしようか? せめて兄がニースにいてくれたら! ニースの夏は、兄にとって、ヴェネチアとは比較にならないほど快適であること受けあいなしだ(朝の十時から五時までは海風。その後はもっと涼しい山おろし。夜の外出には外套を着る)。 ……」
[書簡中、《兄》と言っているのはヴェネツィアの音楽家ペーター・ガストへの呼び掛けです。]
   ――『ニーチェ全集』第十六巻(書簡集・詩集)(塚越敏・中島義生訳、理想社、昭和45年5月25日)より
  1. 2013/04/13(土) 00:02:24|
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『橋を昇ったり降ったり大会(Su e Zo per i Ponti)』

2008.04.25日に書いた『Su e Zo per i Ponti』(1)や2008.05.16日の『Su e Zo per i Ponti』(2)で書きましたように、昨日曜日、今年度の大会が行われたようです。

そのニュースLa Nuovaの記事をどうぞ。赤字の《Foto》をクリックすると写真が見れます。記事を訳してみました。

「――計器を落とさないようにしっかり身に着けた、沢山の競歩選手以外は、燦々とした陽光の下、健康に歩くのに邁進した――

運動靴、スポーツウエアか防水ジャケットで出発、狭い路地へ向けて矢のように飛んでいく。第35回大会の今回、かなり早い競歩選手に道(街)を譲ったのは観光客の方である。

この太陽が、悪天候を心配していた人の考えを変えさせた。長距離走者は8千を数え、大会の《邪魔になるような人、割り込み者(infiltrati)》も含めて、ヴェネツィアに1万人が集まったと思われる。登録者以外の、一番“邪魔になった”人は、極少数の、微笑を浮かべて並走する人、走る子供達の両親や同じ階級の人達である。

合言葉は《勝負ではなく、参加することに意義がある》であるが、万歩計、心拍数計、走行時間計を腕に巻いた、選手としての走者が多かった。

しかし多くの人は暖かな太陽の下で歩きを楽しみ、涼しい風が戦ぐのも満喫したのだった。」
  1. 2013/04/08(月) 21:56:29|
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カテリーナ・コルナーロ(3)

「……カテリーナは封土として受けたアーゾロでの洗練された隠遁生活を送ることになる。公式活動の中で、女王の称号と身分を守りながら、1489年10月11日実際の領国となった全領地(元々は総督が保有していた)をもってアーゾロの君主として任じられた。そして総督の庇護と敬意の下、共和国で決められた百名の兵を従えることになった。
アーゾロ案内ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』[ジェンティーレ・ベッリーニ画『カテリーナ・コルネールの肖像』] そしてカテリーナはアーゾロで、有力なる君主として20年を生き、宮廷を営み、貴族や知識人を招いた。ピエートロ・ベンボは、1505年アルド・マヌーツィオによって出版された愛の対話の3巻本を『アゾラーニ(アーゾロの人々)』(カテリーナのヴィッラでの3日間と考えられる)と題して発刊した。          

彼女は演劇に関して特別の関心があり、1507年9月23日彼女の宮廷で演じられたプラウトゥス(前254頃~前184頃の古代ローマの喜劇作家)の喜劇『メナエクスム兄弟(Menaechmi)』の上演が忘れられぬものとしてある。

しかし明らかに制限の多い統治権だった。いかなる種類であれ、住民に税を掛けることは出来なかったし、ヴェネツィア政府の司法当局により、隠遁所を欲しがる者に譲ることは出来なかった。

1509年彼女が亡くなる少し前、カンブレー同盟戦争への悲しい推移の結果、彼女は故郷へ突き返されることになった。それはヴェネツィア史の中で、一番悲劇的だった時代であり、ヨーロッパの半分が彼女に対して連合を組んでおり、敵軍はメーストレまで来ていた。

独軍に放逐された後、短期間アーゾロに戻れたがヴェネツィアに直ぐ帰郷し、1510年6月10日サン・カッスィアーノの館で亡くなった。当時のその館は現在見られるようなものではなく、1300年代のゴシック様式の物だったと思われる。しかしその隣接した地域を含めて拡張された。
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」[左の巨館、コルネール・デッラ・レジーナ館。右、ペーザロ館]  今日の建物は1724年の建造で、建築家ドメーニコ・ロッシの作品である。教皇ピウス7世に遺産として残された後、彼もまた Padri Cavanis[カヴァニスの教父――1772.01.16日アントーニオとマルコ兄弟がヴェネツィアに作った教団]達にそれを譲ったのだが、結局ヴェネツィア市が獲得するところとなった。続いてヴェネツィア・ビエンナーレの現代美術の歴史資料館となり2005年には修復されることとなった。

彼女の葬儀の時の文言がある。それはヴェネツィア語"Adì 11 lujo…"で始まる、1500年代の卓越した歴史家マリーン・サヌードの日記である[ヴェ語概略―6月11日風雨の激しい大嵐の中、2人の僧と十字架、2枝の燭台に伴われて彼女の亡骸を納めた棺が静々進んだ]。これが女王の葬儀だったと考えてはいけない。共和国は自分達がやらなくてはならない事は知っていた。……。

その後《[ヴェ語で]リアルトのペスカリーアから対岸のサンタ・ソフィーアへ渡るため大運河にブルキエッロという平底の渡し船の上に浮橋が作られ》、キプロス女王、共和国の娘であるカテリーナ・コルナーロは、マーウロ・コドゥッチにより、少し前にサンティ・アポーストリ教会に作られた一家の礼拝堂に手厚く葬られた。[石のリアルト橋の完成は、後の1591年のこと。]

しかし今日では、カテリーナ・コルナーロはサン・サルヴァトーレ教会(S.Salvador)に眠っている。この教会に1525年以来コルネール家は葬儀用モニュメントを二つ建てるべく翼廊正面を獲得していた。キプロス女王カテリーナのためと一家で最初の枢機卿となったマルコのためである。

ジャンマリーア・ファルコネットによって練られた設計は半世紀の間、紙上のものでしかなかったが、ベルナルディーノ・コンティーノが彫刻と円柱で飾った、相似の双子の建造物として完成を見た。カテリーナ・コルネールのモニュメントは右翼廊正面にある。

一家の紋章を支え持つプット達の間の中央の浅浮彫りは有名な事件について語っている。キプロス女王がヴェネツィア総督に王冠を授けるという図である。モニュメントの足下の大きな石棺には次のような意味のラテン語の文言がある――キプロス、イェルサレム、そしてアルメニアの女王カテリーナ・コルネールの遺体。この墓の作製に当たって、1700年代半ば修道院長デ・グランディが準備を整えた。 ……。」
  ――ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女達(Donne veneziane―amori e valori)』(Corbo e Fiore Editori)より
  1. 2013/04/06(土) 00:01:45|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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