イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ファブリッツィオ・ボッソ

昨日曜日、丸の内の《コットン・クラブ》にジャズを聞きに行ってきました。下がそのチラシです。
ファブリッツィオ・ボッソファブリッツィオ・ボッソ・クァルテットこのファブリッツィオ・ボッソ・クァルテットのリーダーは、類いまれなテクニックとアドリブで聴衆を呻らせます。例えば、トランペットを吹きながら息を吸い、何分もの息継ぎのない演奏だとか、喇叭の音と思えない音を囁くように吹き上げたり、そうした演奏が楽しいアドリブの中に散りばめられていました。

今やイタリア・ジャズ界のトランペット第一人者のトリネーゼ、ファブリッツィオの演奏を初めて聞いたのは、3年前、南青山の《ブルー・ノート》ででした。その時彼の virtuosita' にひどく驚嘆感動しました。演奏後、サインを貰おうと並び、彼に話しかけると、気軽に応じてくれ、メンバー4人と喋りましたが、陽気なイタリア人でした。

今回も娘がCDを購入し、サインを貰おうと並んでいると、やって来たファブリッツィオが私を目敏く見つけて、《覚えているよ》と言いながら握手をしてくれました。3年前の初来日で、一介の他国の聴衆の一人を、少し立ち話をしたとはいえ、覚えている彼の記憶力の素晴らしさに非常に感動しました。イタリア語を知らない娘も驚いたようです。

ジャズを聞き始めて何十年ですが、沢山あるお好みの中から二つだけ Youtube から選出してみました。一つはヘレン・メリル、このレコードが日本初登場の時、ヘレンの唄にぞっこんとなり、友人にも聞くよう勧めましたが、実は共演の25歳という若さで事故死したクリフォード・ブラウンのラッパのアドリブが素晴らしいのです。二つ目はウィントン・ケリー、この "Softly…"は限りなく軽やかにソフトリーにピアノがテーマに突入します。ジャズって本当に楽しいと実感します。

ファブリッツィオの音の美しさの一端を、Youtubeファブリッツィオ・ボッソでどうぞ(後半6分以後は空白です)。
  1. 2013/05/27(月) 21:00:08|
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ヴェネツィアの建物: カ・デル・ドゥーカ(Ca` del Duca)館

マリピエーロ・カッペッロ館を過ぎ、19世紀のテッキオ・マーモリ館の右にデル・ドゥーカ館が登場します。E.&W.Eleodori『大運河』(1993)はデル・ドゥーカ館について次のように言っています。
デル・ドゥーカ館「右角の柱の大きな柱身、ダイヤモンドの角を持つ浮き出し飾りのある石積みの力強い壁面等は、1450年頃バルトロメーオ・ボン(カ・ドーロの建築家)に建築が依頼された時、マルコ・コルネールが望んだと同じ建造物であるという思いを抱かせる。

それ故彼の娘のカテリーナがキプロス(Cipro)女王になった時、彼は自分の階級に相応しい、総督宮殿のそれよりずっと広い中央大サロンを備えた住いを建てさせるつもりだった。

しかし1461年、敷地は傭兵隊長だったミラーノ公フランチェスコ・スフォルツァに譲られた――その事のためにCa` del Duca(公の館)という名前は来ている――多分通称フィラレーテと呼ばれたアントーニオ・アヴェルリーノの建築案によって仕事が進められる予定だった。

しかし館の建築は中断されたままとなり、その壮大さとヴェネツィア的でないその建物の性格はラグーナの伝統の品位と尺度といった意味で、明白に異質なものと言ってよかった。紆余曲折の後、建築は決定的に中止され、そのため建物は見栄えのしない、地味なものとして完成した。

1513年にはティツィアーノがこの館にアトリエを設け、そこで総督宮殿のために大きなキャンバス画を完成させたが、その後館の火災で灰燼に帰した。

その後館は、ナーニ=モチェニーゴ家の手に渡った。 ……」

G.Lorenzetti『ヴェネツィアとその入江』(1926)によれば、
「……その後1961年、この上に近代的な建物が増築され、マリーノ・ナーニ=モチェニーゴ伯爵により、その妻カテリーナ・ヴェッルーティ・ナーニ=モチェニーゴの思い出のために、東洋美術のコレクション、珍しい、貴重な1700年代の陶磁器の興味深いコレクションが展示された。」

2012.11.03日に書いたヴィットーレ・カルパッチョの中のアッリーゴ・チプリアーニ著『ハリーズ・バー』に登場するナーニ・モチェニーゴ伯爵夫人の邸宅とはここでしょうか?
  1. 2013/05/25(土) 00:03:46|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの人口(1)

かつてのヴェネツィアの人口は、文庫クセジュの『ヴェネツィア史』(クリスチャン・ベック著、仙北谷芽戸訳、白水社、二〇〇〇年三月三〇日)の巻末に以下のように掲載されています。
『ヴェネツィア史』ヴェネツィア人口推移本年2013年1月4日のLa Nuova紙は、次のような事を書いていました。即ち《昨年1年で722名の住民がヴェネツィアから減少し、58,269人となった。2013年中には58,000を割るだろう……》と。

以前、2009年9月28日には60,041人いた住民が、2009年10月23日には6万人の大台を割り、ヴェネツィアの人口減少は悪夢である。今や自らの葬儀を準備しなければならないとLa Nuova 1紙は報じました。

そして今月2013年5月9日のLa Nuova 2紙は、更に58,000人を割ったと書きました。以下がその記事の頭の部分です。

「5万8千人を割ったヴェネツィア市。4ヶ月ほど前、心理的にも我慢の限界を超えるような、人口統計上、歯止めの利かない下落傾向について述べた。市の統計局のデータでは、この5月7日に5万8千という一つの限界を突き抜けてしまったということである。

年初、我々住民は58,269人いた。しかしこの間住民は、270名減少した。2012年のトータルな落下していく勢いは、722名の減少に達していた。

こういう風に2013年も推移するだろう。ヴェネツィア市(メーストレも含めて)の全人口の減少は、年初頭269,643人であったものが、現在268,974人である。 ……」
  1. 2013/05/22(水) 16:03:54|
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ヴェネツィアの建物: マリピエーロ・カッペッロ館

グラッシ館、サン・サムエーレ広場を過ぎると右にマリピエーロ・カッペッロ館があります。E.&W.Eleodori『大運河』(Corbo e Fiore Editori、1993)は、マリピエーロ・カッペッロ館について次のような事を書いています。
マリピエーロ・カッペッロ館「この建物は1622年、マリピエーロ家の求めで再建されたもので、サン・サムエーレ広場に面するファサードの窓と大門だけはカッペッロによって残された、ゴシック様式の建物である。スタイルはごく単純だが、中心線がやや右寄りになっており、二つの相似形の大門の上の階の五連窓を強調している。

アレッサンドロ・ヴィットーリアの教えを記憶に留めるバロック様式の要素はバルダッサ-レ・ロンゲーナの若き日の作品の面影を偲ばせる。素晴らしい庭が我々を喜ばせる。

マリピエーロ家は《新しい家》に数えられる一家であるが、908年から大議会に参加し、総督2名を輩出したが、その分家は19世紀には消滅してしまった。

クロアツィアのザダル(Zara)の反乱を鎮圧した最初の総督オルト(1178~92)は、イスラエルのアクル(Acre)[古くはAcco、伊語San Giovanni d'Acri]の攻略に赴いた第3次十字軍に参加した。しかし14年間の政治家としての仕事の後、1192年一介の修道僧としてサンタ・クローチェ修道院での生活を選び退位した。

2番目の総督パスクァーレ(1457~62)はフォースカリ[最長の総督Francesco(1423~57)]の後を継いだが、一家の他の人達と同じように輝かしい外交官であり、勇猛なる戦士ではあったが、何よりも先ず女性にとって素晴らしい伴侶であったと年代記には書かれている。

15世紀、本土(terraferma)とレヴァンテ(地中海東岸地域)でヴェネツィアは絶え間なく戦争行為を続けていたが、観光業は花開き、慎重に管理処理されていた宿泊施設は重要な産業と思われ、それ故、既に1341年にはある年代記は次のように述べている。

《新しい魚市場に“カンパーナ”という名の宿屋がある。下に小さな店が並ぶ。しかしそこから年に800ドゥカート以上の賃借料の収入がある、素晴らしいことである……とてもいい場所なので一軒の宿屋から250ドゥカートが支払われる……》。マリピエーロ一族のある一家のプリアーモは、こうした食事も出来る宿を10軒ほど所有していた。

この頃の事として言われていることは、大議会がこうした安宿から娼婦を排除するよう命じたということである。しかし多くの貴族のそうした宿の所有者は、客がいなくなり、商売が上がったりになるとして、通告に反旗を翻し、上訴したということである。そして旧態依然に復した。

アンジェロ・マリピエーロとかいう人は、ヴェネツィア共和国が滅亡した1797年に追放刑になり、ジュデッカ島に閉じ込められた。彼は錯乱のあまり気が違った。数ヶ月後帰郷出来る自由を得た時、十人委員会が自分を追放刑に処したのだから、ちゃんとした通告だけが自分を自由にすることが出来るのだと言って動こうとしなかった。

そこで家族は、彼に帰るように命じるために、簡単に言えば、指揮官に扮した人間を送り込んだ。そしてアンジェロは先祖伝来の我が家に戻り、今でも旧共和国の臣民であることを納得し、1826年その地で死んだ。

この世紀、傍系のマリピエーロ家が著名であった。即ち大音楽家であったジャンフランチェスコ、その従兄弟のリッカルドとその一家の息子達、チェロ奏者であったもう一人のリッカルドである。」
  1. 2013/05/18(土) 00:09:10|
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海との結婚式(4)

本日2013.05.13日の La Nuova 紙を見ますと、昨日2013.05.12日(日)に行われた、今年のセンサの海との結婚式の記事がトップに出ています。次のLa Nuovaの写真下のキャプションをクリックするとそれぞれビデオと写真が見られます。
海との結婚式1海との結婚式2写真は新聞から。新聞の記事は次のようです。
「何千もの人が《海との結婚》の行事に参加した。漕ぎ手の船やサン・ニコロ海岸からは、市長、総大司教、司法長官共々に、1000年続く伝統行事に大歓声が沸いた。

セレニッシマの歴史的祭礼の中でも、第一番の伝統行事であり、観光と無関係のものがセンサである。結婚式として、海に金の指輪を投げ、総督が《海よ、お前と結婚する》と宣言する。サンタンドレーアとサン・ニコロの要塞の間の港の入口の前で、千年も行われてきた、同じ言葉であり、同じやり方である。

今日でも何千ものヴェネツィア市民にとってどうしても欠かせないのは、センサであり、リードのサン・ニコロ教会前でヴェネツィア共和国国歌《サン・マルコの歌》を歌うことである。 ……」

《La Nuova》紙掲載の写真より。この伝統行事は、ヴェネツィア共和国を滅ぼした、ナポレオン(文化遺産の略奪破壊は激し過ぎ表現するも困難)によってブチントーロ船を破壊されて以来、途絶えていた《海との結婚》式を1978年再開してから続くものですが、復活祭から40日後(日曜は数えない)の木曜日のセンサ祭(伊語 ascensione)直後の日曜日に執り行われることになりました。海に投げる黄金の指輪も、写真でも分かりますように月桂樹の葉の首飾りに変わりました。
  1. 2013/05/13(月) 17:04:17|
  2. ヴェネツィアの行事
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海との結婚式(3)

「……海との結婚の祝祭に関わる、ヴェネツィアでも知られた伝説がある。主人公はピエーロという若い漁師と彼が熱愛して止まないカステッロ区の乙女《ブラーゴラで最も美しい》と言われた若い美女イメルダである。彼にとっては若い乙女に近寄るのは容易いことではなかった。乙女は彼のことなど考えたこともなかったし、誰であろうと若い漁師になど目をやる時間もなかった。こうしてピエーロは彼女の気を引くためには何か特別の事が必要だと考えた。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』少女の心を我が物にするためには、センサの日の海との結婚式のお祭りの時が最上ではないか? その日最も頑強壮健な若者達が海へ潜り、総督の投げた指輪の発見確保を張り合う。事実指輪は単に捨てられたのではない、有能な潜り手達により取り戻された。彼らは肺を破裂させそうにしながら、総督にそれを手渡す栄誉を得ようと潜った。総督は彼らを宮殿に招き、彼らの望みを聞いた。

何年もの間に、この回収イヴェントは沢山の参加者を呼ぶ、一種の競技と化していた。彼らは老漁師の号令で、屈強な若者の強烈な意欲で臨み、勝者への轟き渡る拍手喝采を期待して、海へ飛び込む。だからピエーロはセンサの日の競争に参加して、他の若者と海へ飛び込むことを決めた。

一度飛び込むと彼の競争者達は、一度は息継ぎのために水面に顔を出した。しかし誰も指輪を手にしていなかった。最終的にピエーロも浮上したが、総督の投げた宝石をしっかり拳に握っていた。成功したのだ! 競争に勝ったのだ!

翌日ピエーロは総督宮殿に招かれ、指輪を総督に手渡した。そして総督は何か望みはないかと問うた。《晴朗この上なき閣下、一つお願いの儀がございます。イメルダという、とても美しい少女を愛しております。しかし私の事を知ろうともしないのです。お願いです、総督閣下の口から、説得してみて頂けないでしょうか》。総督答えて曰く、《ピエーロ君、難しいこと言うね、総督といえども乙女心を説き伏せるなんてことは出来ないよ。でも、その子に口を利いてみることは約束しよう》。

総督とイメルダとの話し合いを予想するのが容易いように、それは全く無駄な事だった。乙女は決して説得されはしなかったし、可哀想な漁師との結婚など考えたくもなかった。

ピエーロは悄気ることもなく少女を愛し続け、海との結婚の祭日には毎年のように海に飛び込んだ。そして2、3度は指輪を握って浮上し、やはり自分の唯一の願い、美しいカステッロの少女(castellana)を説服してくれるよう総督に頼むのだった。そして同じように総督もやってみようと言うのだが、結果は零だった。彼女は騾馬のように頑固で、若い漁師など興味対象外だった。

しかし彼女がそうであれば、ピエーロも負けずにそうだった。彼はまたまた奇跡的な回収劇を演じた。しかしこの最後の試みは狂気の沙汰だった。というのはその日強風が吹き荒び、1メートル以上の高波が荒れ狂った。水の底は視界零で指輪の回収など全く覚束無かった。一人ひとり競争者全員が状況は最悪だとし、一両日後、嵐が収まったら再開することに決めた。

しかしピエーロは違った、納得しなかったのである。彼には我が物にしたいイメルダの気持ちのことがあった。その時何百もの、度肝を抜かれた人々の緊張した注視の中、海の中へ飛び込んだ。海底まで潜り、探し始める。

海上の船からは何も見えない。こうして次第に時間が経過していくと居合わせた人々はソワソワし始め、十字を切り、祈り始めた。しかし波の間に腕が突き出され、何か握った拳が見えた。《ピエーロだ! やったピエーロ、流石は漁師! ピカ一だ! こんな嵐で指輪を取り戻した。全く凄いぞ!》ピエーロの顔は今や水面に浮かび、波に翻弄されて疲れの色も露だったが、嬉しそうだった。

沢山の手が彼を助けよう、船に引き上げようと差し伸べられた。しかし栄光に包まれようとした瞬間、今まで以上の逆浪が幾つかの船を引っ繰り返し、海中全てが阿鼻叫喚の中に投げ込まれた。投げ出された人々は皆、直ぐ様助け上げられたが、ピエーロは何処に? この逆浪の中では、仮令彼が死んだとしても遺体の発見は困難だった。

彼は更に荒海と格闘しようとするにはあまりにも疲労困憊していた。こうしてその未知の届け場所に向かって飛び続ける伝書鳩のように、最終目的地に辿り着けると感じた、正にその時、ピエーロは飛翔し去ったのである、誰もその果ては知らない地へ。彼と共に指輪は失われてしまった。更に悪い事は、美しい愛に対する《夢》というものが砕け散ってしまったことである。 ……」
  ――Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007.10)より
  1. 2013/05/11(土) 00:00:19|
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海との結婚式(2)

「……およそ2世紀後の1177年、教皇アレクサンデル3世が、総督セバスティアーノ・ズィアーニが皇帝赤髭王フリードリヒ(Federico Barbarossa)との和解を手助けしてくれたその感謝の印に黄金の指輪を与え、有名な次の言葉を吐いた。《あなたとあなたの後継者が、永遠に海を統べる印として、この指輪を受け取って頂きたい》と。
[2010.04.24日に書いたアッカデーミア美術館も御参照下さい。]

そして年代記作家マリーン・サヌードによれば、次の文言が付加されたという。《……lo sposasse lo mar si come l'omo sposa la dona per esser so signor(男がその主人として女と結婚するように海と結婚した)》。

その上教皇は続く1週間、サン・マルコ教会に祈りに赴く人全てに罪の免償を授けた(その後の年は2週間となる)。その年から《海との結婚》という海とヴェネツィアが神秘的に結び付いた祝祭の伝統行事が始まった。

祝祭は豪華絢爛たるものであった。総督は総督宮殿の部屋にアルセナーレ造船所の親方衆を迎え、彼ら提供の《merenda remiganti(船漕ぎの点心)》を口にし、喇叭の鳴り響く中、代表達が乗船するブチントーロ船にお付きの者、司祭達、大使達、十人委員会の長達らと乗り込んだ。

帆桁に立てられた総督旗が翻り、アルセナーレの長官は命令を下す。祝祭用に飾り立てられた種々の形・色の、沢山の船列が付き従い、総督の船がリードのサン・ニコロ港に向けて出発する(“海への行進”である)。

船列はサンテーレナ島前で暫しの停船をし、そこの修道院の修道士からお祝いの挨拶を受ける。更にもう一度リード島の傍で停船し、カステッロの司教(1451年以後は総大司教)を船に迎える。司教は全ての上級宗教関係者と共にペアトーナ船(大きな平底船)でブチントーロを待ち受けている。

リード港の入口まで“行進”は進み、サンタンドレーア要塞の前で総大司教が祝福された清めの水を海に注ぎ、総督は舳の窓から金の指輪を、正にその場所に落としながら宣言する。《Desponsamus te, mare nostro,in signum veri perpetuique dominii(我らが海よ、お前と結婚する、未来永劫に渡って統治する印として)》と。

この儀式でセンサ(Sensa=伊語 Ascensione キリスト昇天祭)の祝日は幕を開け、パーティやスペクタクルの催しがあり、イタリア各地から到来する香具師や祭礼演歌師らが町を賑やかにする。サン・マルコ広場では、色々のタイプの全国各地からの産品が、この日のために張られたテントや木造の小屋掛けの屋台に並ぶ。色々の国からやって来た人達が屋台とカフェテリアの間を練り歩く。雰囲気は正に国際色豊かな真の見本市である。
カナレット画『センサの日、サン・マルコ広場に帰還するブチントーロ船』[カナレット画『センサの日、サン・マルコ広場に帰還するブチントーロ船』] 最後に付け加えるべき事は、ヴェネツィア共和国の最後の時代、人々の話によれば、もはや浪費出来る余裕が殆どなくなった時、指輪は直ぐに回収出来るように糸で結び、投げる行為は単なるシンボルになっていた。

1792年5月16日のセンサの祝日の日、新しくフェニーチェ劇場が開場した。ヴェネツィア共和国最後の《海との結婚》は1796年、最後の総督ルドヴィーコ・マニーンが取り仕切った。現在儀式はキリスト昇天祭後の最初の日曜日に伝統に則って行われている。 ……」
  ――マルチェッロ・ブルゼガーン『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori)より
  1. 2013/05/04(土) 00:04:36|
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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