イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――アルド・パラッツェスキ(Aldo Palazzeschi)

下掲の本によれば伊人アルド・パラッツェスキ(1885.02.02フィレンツェ~1974.08.17ローマ)は、Aldo Palazzeschi著『La Piramide』(Mondadori、1926)の中でヴェネツィアについて次のように書いているそうです。
アルド・パラッツェスキ像はイタリアのサイトから借用。『Venezia』この本に引用されたものからの訳です。
「昼となく夜となくゴンドラで大運河を行く、複雑に入り組んだ狭小のリーオから、大運河に抜け出ていくのを見る、その素晴らしい広大な大運河はラグーナに溢れ注いでいく、静寂の中でゴンドリエーレ達、また彼らの叫びが木魂し、唖然たる騒擾である。

目に迫りくる、はたまた春宵一刻値千金のサルーテ教会の丸屋根の影の背後から、ナーポリやスペインの楽しげなカンツォーネが耳を愛撫する。

ファサードにレース飾りを施した邸館が顔を出す、サン・マルコ小広場は陽光の下、薔薇のような黄金色に輝いて、そしてまた月光の下、白銀の光を発して眼前にある。

街灯が、大理石の中に埋め込まれた豆電球のように点滅しながら街衢を映し出す、賑わいのある、繁華な通りをお喋りに興じながら行く、メルチェリーア通りでヴェネツィア人の現代生活の中にそっと紛れ込む……。

サン・ジョヴァンニ・エ・パーオロ[引用文は“サンティ”ではなく“サン”と書いてあります]教会、フラーリ教会、スカルツィ(跣足派)教会、一つの曲がり角、更にまた曲がり角、ポルティコの傍を、そしてその下を通り、数え切れない様々な橋を上り下り、昇降し、ゴルドーニ劇場あるいはマーリブラン劇場に行く……。

カッフェ・クァードリあるいはフロリアーンでジェラートを注文し、楽団の演奏に腰を下ろして何時間も耳を傾け、散歩の人達に目をやり、それからスキアヴォーニ海岸通りへ向かう。

セポルクロ、ピエタ、更にヴィーノ、パーリャの素晴らしい橋をゆっくりと昇っては降り、カ・ディ・ディーオその先のジャルディーニ(公園)まで赴く。……」
[Ca' di Dio(神の館)とは、スキアヴォーニ海岸に面している、巡礼者のために13世紀に建てられたものです。サンソヴィーノによって1545年に再建されましたが、その後貴族あるいは正当市民階級の女性を収容する施設となりました。現在は女性の救護施設です。]
『イタリア文学史』『イタリア文学史』(岩倉具忠、清水純一、西本晃二、米川良夫著、東京大学出版会、1985年7月10日)はパラッツェスキについて次のように述べています。

「アルド・パラッツェスキも、長い生涯の最晩年まで、衰えを知らぬ才能を示した。詩集『白い馬』(1905)と『提燈』(1907)で、伝統的な詩的抒情の不可能を告げた後、未来派への参加とともに小詩篇『放火者』(1910)を発表し、グロテスクとナンセンスの哄笑による詩人の叛乱を宣言した。

最初の小説『ペレラーの法典』(1911)も、煙=人間を主人公として、現代の不条理を大胆痛烈に諷刺する。のちにかれは、パピーニらとともにマリネッティを批判するが、かれが執筆した宣言「反=苦悩(コントロ=ドローリ)」(1914)は、未来派の夥しい宣言のなかでももっとも辛辣である。

両大戦間には一転して、旧世界の慎ましい事物や貧しい小市民の生活に寄せる皮肉な共感を、リアリスティックな手法で、多くの短篇および長篇作品に表す(代表作『マテラッシ姉妹』(1934))が、本来のみずみずしく皮肉な好奇心と空想力はいささかも衰えず、六〇年代の《新前衛派》興隆の気運に際しては、ファンタスティックな小説『統領(ドージェ)』(1967)、『ステファニーノ』(1969)や、詩集『ぼくの心』(1968)、『百星の道』(1972)等をつぎつぎと発表して、人々を驚かせた。……」
  1. 2013/06/29(土) 00:03:17|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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鳥瞰的ヴェネツィア

本日のLa Nuova紙に、リモート・コントロールで操作する、小さな軽飛行機にマイクロ・カメラを搭載して、鳥の目線で撮影したヴェネツィアの風景が、ビデオで見れるようにアップされていました。ヘリコプターの視線ではなく、水面近くを飛んだりする鳥の目線です。人間のアングルでは不可能な、ヴェネツィアの風景が楽しめます。
  1. 2013/06/22(土) 18:15:40|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの建物: ファリエール・カノッサ館(P. Falier Canossa)

左岸を Ca' del Duca から更に下るとドゥーカ運河の右にファリエール・カノッサ館が現れます。大運河では異例の作りの15世紀ゴシック建築です。大運河に面して中央に庭、その両側にバルコニー付のロッジャが突出し、上の階の多連窓のある正面ファサードは庭の背後という構成です。Raffaella Russo『ヴェネツィアの館』(Arsenale Editrice、1998)はこの館について次のように述べています。
ファリエール・カノッサ館とジュスティニアーン・ロリーン館ファリエール・カノッサ館「1094年の聖マルコの遺骸の奇跡的再発見(ティントレットが描いたものがある)は、ファリエール家の著名な先祖ヴィターレ総督(1084~96在位)時代のことであった。

一家の館は1400年代前半に建てられた(ロッジャ風の両側の突出部はその後に追加されたもの)。そして20世紀の一家の消滅までその居宅であった。1492年にはフランチェスコ・ファリエールが住んだが、その年彼はキプロス島に左遷された。

実は以前、十人委員会にそれを必要とする貴族達に年に100ドゥカートを援助すると申し出ていた。十人委員会の計算によれば、その額は年70万ドゥカートにも上り破産しそうな額と思われた。1800の貴族が優に1225ドゥカートの救援金を受けるといった状態なのである。フランチェスコは急遽ヴェネツィアに戻り、十人委員会の長となった。

また別のフランチェスコの父ジョヴァンニはアントーニオ・カノーヴァ研究に功績があった。少年時代からカノーヴァはアーゾロのプラダッツィのファリエール家別荘で、台所の使用人として雇われていた。そしてある日ジョヴァンニは、カノーヴァがバターでライオンを彫ったのを見て、彼をヴェネツィアに送り付けたようである。

カノーヴァが彫刻した『ダイダロスとイカルスの群像』は、ジョヴァンニ・ファリエールのために作られたのであり、現在はコッレール美術館にある。

1860年代この建物の中2階がアパートとして貸し出され、若いアメリカ人文学者 William Dean Howells が借りた。彼はエイブラハム・リンカーンによってヴェネツィアの合衆国領事として派遣されたのだった。

1865年までこの館に滞在し、その後“Venetian Life”という本を出版したのが当時のベストセラーとなった。右脇のヴィットゥーリ通りに面した建物右のロッジャの壁面にハウエルズ滞在を記念する文言がある。」
 ――ラッファエッラ・ルッソ『ヴェネツィアの館』(1998)より

その碑の文言は以下のようです。《In questa casa dimora' / lo scrittore americano / William Dean Howells / console degli Stati Uniti a Venezia / dal 1861 al 1865 / furono quelli gli anni in cui si formo' il suo genio letterario / 2 dicembre 1961.》[この館に、米国の作家ウィリアム・ディーン・ハウエルズが1861~1865年合衆国の領事として住んだ。その間自らの文学的才を実りあるものとした。1961年12月2日]

ヴェネツィアでは随分前から馬の使用は制限されていましたが、18世紀になっても輸出用に馬車を作っていたことはミケーレ・マリエスキの銅版画で知られるそうです。ハウエルズがサンテーレナ島の公園の厩舎について書いていることから、19世紀半ばにもヴェネツィアに馬がいたことが分かるそうです。

日本でハウエルズの作品は《毎日がクリスマス》が、『贈り物』(三枝祐士訳、角川文庫)、更に『クリスマス物語集』(中村妙子訳、偕成社)の形で、また『ニューヨーク拝見』(白水社)の中に『新興成金の奇禍』(常盤新平訳)があるそうです。
  1. 2013/06/22(土) 00:01:15|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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Gli Ospedali(養育院)

今迄何回かヴェネツィアの Ospedale(オスペダーレ――養育院、慈善院、救護院等、現在は病院の意)について触れましたが、ここで養育院とは何か、を Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola Musica Antica Venezia、1975)に則って書いてみます。
ヴェネツィアの音楽養育院というものが最初に誕生したのは939年で、共和国滅亡時(1797)までに915院が設置されたそうです。収容者は、巡礼者、病人、貧困者、孤児、老人、船員、色々の年齢・境遇の女(少女、未婚女性、老女、貴族婦人、子供のない寡婦、偏屈な宗教固辞女、元娼婦)。収容者の生活は偏に寄進に頼っていました(音楽家アードリアン・ヴィラールトは養育院に1600ドゥカートを、と遺言状を残しました)。

最大かつ最重要な養育院は、ピエタ、インクラービリ、オスペダレット、メンディカンティの4養育院。これらが次第に音楽を教えるコンセルヴァトワールの体裁を帯びることになったのは、寄付で成り立つ養育院経営に必要な資金を集めるのに、音楽が功を奏することが次第に分かってきたからだそうです。

合唱団員としての少女達に、音楽理論、歌唱、各種の楽器を教えます。ヴェネツィアには、教皇庁や他のイタリアが真似の出来ないことがありました。例えばヴェネツィア以外では、教会では女性の歌唱は禁じられていました。

一方少年達は色々の職人達の手職を仕込まれ、若い内に養育院を出されました。

音楽を選択すると、先ず単旋聖歌から始まって多声音楽へ、更に各種楽器演奏へと進みます。それは、少女達の教育完成のため、また価値ある活動に就かせるために、若い内から音楽活動で成功の喜びを体感させるためでした。

教会は信者で一杯になり、席は献納金が集まる場所です。殊更そういう席を増やそうともしたようです。更に席でのオラトリオの小冊子の売り上げは充分に達成出来(教会外でも販売)、音楽家への支払いや楽器の購入費用を可能にします(スピネット、クラヴィチェンバロ、室内用オルガン、弦楽器と吹奏楽器)。生徒に才能があり、楽器が良くなれば彼女の技量は更に高まるでしょう。

養育院の経営責任者は、例えばメンディカンティの場合貴族・上流市民各12人で、音楽教育完成のために非常に意を注ぎます。中でも意を用いたのは曲そのものに現代的センスが溢れていること、音響効果が宙空の合唱団席の配置等でより良くなること、秀でた生徒達が練習し過ぎで登場出来ないことがないこと、教師が教育的にも芸術的にも優れていること、等であったと言います。

少女達はソルフェージュ、歌唱法、そして週に4日は楽器演奏のレッスンを受けますが、言わば外出禁止の監禁状態での生活であり、極く稀にしか外出は許されませんでした。旅としても年1回ブルキエッロ号に乗船し、控え目で目立たないように出来るだけ閉じ籠り、日課の祈祷やお祈りに励みます。それは健康祈願であり、将来結婚出来ますように、であり、修道女になれますように、であり、何か行事の行列や重要な演奏に参加出来ますように、でありました。そうした少女の一人ラーウラ・ロンバルディーニ(オスペダレット養育院の)は、非常に優秀であったので、パードヴァのジュゼッペ・タルティーニの元にヴァイオリンの勉強のために送られます。

こうした厳しい外出禁止令からは、不服従とか鬱病の蔓延という逸話が生まれます。1739年オスペダレットの少女達は、《何度もやる気をなくし、殆どの少女の表情は冴えず、不機嫌な様子が彼女達の傷んだ心の状態の証明として表情にはっきりと表れていた》そうです。

彼女達には一生劇場で歌うことは禁じられていました(1781年1月30日デレリッティ(オスペダレット)養育院の少女達はサン・ベネデット劇場の催し物に例外として出演したことがありました)。

成功して有名になった者は孤児ではなく、音楽の勉強のために例えばザルツブルク等の外国から来た《教育ある娘達》でした。また最優秀の少女は《貴族階級》の娘にプライヴェート・レッスンを施すこともありました。

ある少女は、結婚後劇場でのキャリアーを積むことが出来ました(1700年代末、メンディカンティ養育院の合唱団にいた娘レーリアは、オスペダレット養育院の教師ピエートロ・アレッサンドロ・グリエルミとの結婚後、ロンドンとウィーンの劇場で大成功を得ます)。

1600、1700年代のヴェネツィアの養育院では、女性が各種の楽器を演奏し、人に教え、オーケストラを指揮出来る、ヨーロッパで唯一の土地でした。パリ、ロンドン、ベルリンの最初のコンセルヴァトワール(音楽学校)は、このヴェネツィアの養育院を範に出来たものでした。

養育院のレパートリーは、カーニヴァル中、音楽劇の演奏があったという記述があったとしても、偏にオラトリオ、カンタータ、コンチェルトが原則だったそうです。カーニヴァル中は1606年以来、マスク(伊語maschera――マスケラ)等を被って扮装した人はヴェネツィアの全教会には入ることは出来ませんでした。

1700年代後半、新しい後援者を見つけ出し、義捐金を集めたいという意向の下、著名な招待者のためにプライヴェートなコンサートを開く傾向が生まれます。この目的のために、それ用のコンサート・ホールが設置され装飾され、客達はお喋りをしたり、チョコレートを飲んだりしながら、アカデミックな演奏を聞くことが出来ました。

養育院は同じ院内の人からの銀行預金も預かったそうです(フランチェスコ・ガスパリーニはピエタ養育院に利率3.5%で200ドゥカートを貸し付けたといいます)。1700年代末には利子が膨らみ手酷い損害を被ることにもなりました(アードルフ・ハッセはインクラービリ養育院に自分の貯えを全て預けていて、破産したそうです)。――[2007.12.06日に0spedaleでも触れました。]――
  1. 2013/06/15(土) 00:01:03|
  2. 音楽
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ロザルバ・カッリエーラ

10年以上前初めてヴェネツィアに行った時、訪れたたいと思った場所が4ヶ所ありました。マルコ・ポーロとゴルドーニの家、クェリーニ・スタンパーリア美術館、そして《18世紀美術館》としてのカ・レッツォーニコ館でした。この館の正面階段を昇り、最初の部屋に入ると予期せぬ肖像画『ファウスティーナ・ボルドーニの肖像』があり、閨秀画家の名前ロザルバ・カッリエーラ(1675.10.07ヴェネツィア~1757.04.15ヴェネツィア)が頭に染み込みました。
『ロザルバ・カッリエーラ自画像』カ・レッツォーニコ館ロザルバ・カッリエーラの部屋ロザルバ・カッリエーラ画『ファウスティーナ・ボルドーニ・ハッセの肖像』 左、『ロザルバ・カッリエーラ自画像』。中左、カ・レッツォーニコ館。中右、館内のロザルバの部屋。右、『ファウスティーナ・ボルドーニの肖像』(彼女については2007.12.25日のCa' Rezzonicoも参考までに)。
バロック・オペラ好きだった私にとってボルドーニの名前は、当時ロンドンでヘンデルやG.ボノンチーニのイタリア・オペラを歌う歌姫としてフランチェスカ・クッツォーニとトップを争うプリマ・ドンナの一人でした。文字に書かれた歴史だけでなく、こうした絵画の形で目の前に現れると、名状し難い感慨を覚えました。

ここでロザルバの人生を辿ってみることにしました。Marcello Bruseganの『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton Editori)から何とか日本語として理解出来るように変換してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「ロザルバ・カッリエーラは有能にして頭脳明晰、内向的で孤独癖があり、憂鬱に沈みがちであった。また意志堅固の上、大いなる独創力に長けていた。美人ではなかったものの魅力に溢れ、彼女の絵画の優雅さや多才な天分によって、当時の最高の肖像画家として一世を風靡し、若くして国際的な名声を得て、ヨーロッパ中の有名な宮廷から度々お呼びが掛かり、特にパリとヴェネツィア間を往復した。

描く技量のみならず、ヴァイオリン奏者として、また歌手としても卓越しており、当時の教養人の集まりに対して王宮や貴族の館が門戸を開いており、そこで他の画家達と同等に競うことが出来たのだが、彼女はそこではプリマ・ドンナだった。

1675年10月7日サン・バジーリオ教区[後この教区は廃止]に生まれた。子供の頃から彼女の天職の成長を妨害するものは何もなかった、というより、ラッザリやディアマンティーニのような画家、細密画の手法を伝授したバレーストラやステーヴェ[一家の友人フェリーチェ・ラメッリの説もある]のような教師の下、彼女を画家の道に進ませようとする父の愛情で勇気づけられた[彼女の祖父が画家だった。ティントレットが娘マリエッタに対した態度とは丸で異なる。彼の時代は娘に対しては厳しいものだった]。

直ぐに名前が知られるようになり、形式張らないテクニックとデリケートなタッチを兼ね備えた、洗練された肖像画家としてのロザルバは、細密画でもデリケートで、優雅さを持ち合わせたパステル画の名手として、貴族階級とブルジョワ階級が彼女を奪い合うような、イタリアと国際的な画界で絶大な人気を博した。

肖像画とミニアチュールは、デンマークのフレデリク4世(FedericoⅣ)、ザクセンのアウグスト公、モーデナ公、ウィーンの宮廷等から注文があり、ウィーン宮廷は特にメタスタージオの肖像画を求めた。

1720年パリに移動したが、収集家のパリジャン、クロザに招かれ、1721年までその地に滞在し、クロザ本人や当時の最も有力な貴族、王まで描いた。彼女の名声は絶頂となり、ある美術評論家が書いたように《当時のあらゆる貴紳淑女は彼女の前に身を屈したと言えよう。彼女のパステル画は大成功を収めた……。ルイ15世は当時子供であったが、彼女に礼を尽くした最初の人間の一人だった》。

しかしロザルバは、大成功や取り巻く周りの空疎な状況で自分の道を踏み誤ることはなかった。内向的になり、鬱で孤独に浸り込み、家族の愛情を必要としてヴェネツィアに戻った。しかしそこから新しくモーデナへの短い旅、ウィーン滞在へと動き出す。

間断なく描き続けたが、直観に頼ったり、また顔形の表現のみからは遠ざかっていき、表情の内面性を深く掘り下げ、アレゴリックで神話的テーマを追究するようになっていく。

最晩年は愛した姉妹で協力者であったジョヴァンナの死で打ちのめされる。抱えていた重篤の眼病は、最初回復の兆しが見えたものの、良くなることはなく、失明へと進んでいった。ドルソドゥーロ区サン・ヴィーオ教区の大運河に面した館で、1757年4月15日亡くなった。 ……」
カーザ・ビオンデッティ他左端に一部見える白いグッゲンハイム美術館(ヴェニエール・デイ・レオーニ館)右隣の赤茶色の建物が、彼女が生まれ、亡くなった、ビオンデッティ館。
『鳩を持つ少女』.『弦楽器を持つ少年』『タンバリンを持少女』.『ジャンバッティスタ・ティエポロの肖像』『La Primavera(春)』.左、2001年『華麗なる18世紀イタリア――ヴェネツィア絵画展』で来日の『鳩を持つ少女』。中左、2007年『ヴェネツィア絵画のきらめき』で来日の『弦楽器をもつ少年』、中央『タンバリンをもつ少女』、中右『ジャンバッティスタ・ティエポロの肖像』、右、2011年『ヴェネツィア展』で来日の『La Primavera(春)』。――ロザルバ・カッリエーラの絵画、全般については次のサイトでどうぞ。Rosalba Carriera
  1. 2013/06/08(土) 00:05:37|
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ヴェネツィア美化運動

恋人達が愛の固い結び付きを求めて橋の欄干などに施錠し、愛の永遠を誓って鍵は河に放擲するという、フェデリーコ・モッチャの小説からイタリアで流行りだした現象については、先日NHKテレビ・イタリア語講座でも放映されていましたから、ご存知の方は多いでしょう。私もローマの聖天使城前のサンタンジェロ橋で見ました。最近ヴェネツィアの橋でも見掛けるようになっていました。lucchetti dell'amore (愛の錠[愛情])と言われています。

先日ヴェネツィアの新聞《La Nuova》(6月2日)を読んでいましたら、次の記事がありました。La Nuovaです。それによりますと、ヴェネツィアの橋に施錠されたもの全て(?)を電動チェイン・ソーで剪断したそうです。重さは100kgにも及んだと言います。残存している物をPCで知らせてくれるよう市民に呼び掛けているようです。

ヴェネツィアとラグーナ全体は、世界遺産に登録されています。そういう文化遺産に施錠すれば、やはり美観が疵付けられます。この《Fronte》の行動には拍手です。ローマでの初見時は面白がって見たのですが。少し以前になりますが、リアルト橋の落書きを消す、ヴェネツィア美化運動もありました。リアルト橋の美化、キャプションをクリックすると写真が見れます。
  1. 2013/06/05(水) 21:03:24|
  2. ヴェネツィアの行事
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文学に表れたヴェネツィア――アントン・チェーホフ

『Zeppelin, citta` raccontate da scrittori―Venezia』(I libri di diario というシリーズ本の付録だったようです)という本をボローニャ駅前の屋台の古本屋で見付け、読んでみました。チェーホフのヴェネツィア滞在記が掲載されていました。日本でアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ[1860.01.29タガンログ~1904.07.15バーデンヴァイラー]の翻訳を探してみましたが、チェーホフ全集(中央公論に訳があるようです)を見付けることが出来ませんでしたので、この本の伊語訳からそのチェーホフの和訳を試みてみました。
『Venezia』アントン・チェーホフ[チェーホフ像、ウィキペディアから借用] 「ヴェネツィアに来て、突如胸の痛みに襲われた。多分夕方、サンタ・ルチーア駅からホテル・バウアーまでゴンドラで向かう最中、風邪を引いたに違いない。ヴェネツィア初日からこんな風に、ベッドに潜り込まざるを得なかった。その上2週間もの間であった。

毎朝、病でベッドに臥せっている間、Zina`djda Fjo`dorovna が部屋から見舞いに来てくれて一緒にコーヒーをした。それからウィーンで買った沢山のロシアやフランスの本を読んでくれた。これらの本はずっと前から熟知しているもので、別段興味を呼び覚ますといった類のものではなかったが。

しかし傍で聞いていると、親しい声が耳に心地よく響く。だから結局その語られる事は全て、独特の印象を帯びるのである、それは多様性を帯びたものになるということ。

彼女は散歩に出掛ける、そして明るい灰色の衣装を纏い、春の陽光を一杯浴びて温かくなった、軽快な麦藁帽子を被って帰ってくる。そして私の枕元に腰を下ろし、私の顔を覗き込んで、見てきたヴェネツィアの由無し事をあれこれ話しながら、本を読んでくれるのだった。私は大いに慰められた。

夜は寒さに戦き、おまけに退屈していたが、昼間は生きていることが楽しく感じられた。そんな風に感じていることは他のやり方では表現出来ないかもしれない。燦々と光り輝く、焼けるような陽光が開け放った窓や露台の開き戸に打ち付ける。

階下から飛び込んでくる人の叫び声、櫂を漕ぐシャワシャワという音、鐘楼の鐘の音、お昼に撃たれる大砲の轟音、そして完全に心置きなく自由なのだという思いが、私には何かしら奇跡のように思われた。何処へでも私を運んでくれる大きな力強い、いくつかの翼を両脇に生やしているような感があった。

そして何と魅惑に満ち、はたまた歓びに溢れていることか、私には我が命ともう一つの命が今や轡を並べて闊歩しているかのような思いに囚われた。そして私は若くして美しい、富裕ではあるが、ひ弱で侮蔑に足る、孤独なる、か弱き生物である旅のお供、従者であり守衛であり友であり、はたまた必要にして不可欠なる者なのである。

病に臥せることさえ喜びとなる。そこには誰か人がいて、彼はお祭りのように君の全快を待ち侘びているのだ。ある日ドアの傍で、主治医とひそひそ話すのを聞く、そして泣き腫らした赤い眼で部屋に入ってくるのを見る。凶兆だ! しかしながら感慨いとしげく、心に常ならぬ軽やかさが生まれる。 …… [下写真中、三連窓のデズデーモナの家、コンタリーニ・ファザーン館]。
コンタリーニ・ファザーン館2週間の最初の日は、行きたい所へ行くことから始めた。私は薄日の太陽の下で過ごしたり、意味は分からないがゴンドリエーレが歌うのを聞いたり、何時間もデズデーモナが住んだと言われている館を見て過ごすのが好きだった。軽いレースのように乙女っぽい軽快さを見せる、清げで寂しさを湛えた建物である。片腕でも持ち上げることが出来るとも言えよう。

長い間、カノーヴァの墓の傍にいた。そしてあの悲しみに眩れるライオンから目を逸らさなかった。そしてまた総督宮殿の中庭で、あの天井の片隅で目にした物のことを感じ続けていた。そこには哀れなマリーン・ファリエーロの肖像が黒く塗り潰されていたのだ。 ……」
 ――アントン・チェーホフ著、短編集(1886年)より
  1. 2013/06/01(土) 00:05:20|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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