イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: チヴラーン・バドエール・バロッツィ館

ジュスティニアーン=ロリーン館を過ぎるとその右は庭のあるチヴラーン・バドエール・バロッツィ館となり、更にサン・ヴィターレ(S.Vidal)運河があり、その右はもうアッカデーミア橋です。この館のノービレ階(中心となる階)には三連窓が中央にあり、1500年代の建物ですが、後に上の階が建て増しされたそうです。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はバドエール家について次のように述べています。
チヴラーン・バドエール・バロッツィ館「……最古の家系の一つであるバドエール家は、ヴェネツィアの黎明期にパルテチパーツィオという有名な名前で頭角を現す家系である。この一家で最初に選ばれた総督アニェッロの時代、政庁はマラモッコからリアルトへ移された。810~939年にこの一族から7人の総督が選ばれた[アニェッロ・パルテチパーツィオ(810~827)、ジュスティニアーノ・P.(827~829)、ジョヴァンニ1世・P.(829~836)、オルセ1世・P.(864~881)、ジョヴァンニ2世・P.(881~887)、オルセ2世・P.(912~932)、ピエートロ・P.(939~942)の総督]が、自分の王国を作りたかったのだと非難される程である。

12世紀にマリーノがミラーノ(Mirano―大都市 Milano ではありません)とストラ(Stra')の間のトレヴィーゾの辺境の地の王となるが、それはペラーガ公の娘、妻となったバルザネッラの婚資としてもたらされたものであった。

バドエール家は数多くの将軍、サン・マルコ財務官、外交官、文学者らを輩出したが、家業の中心は、特に商業であった。ヴェネツィアの古い教会はこの一家によって建設された物が多い。伝承によれば総督宮殿の最初の基礎は、814年頃、パルテチパーツィオ家の者によって築かれたのだという。一家の中心となっていた分家が消滅してしまった。」
  1. 2013/07/27(土) 00:02:31|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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レデントーレ教会、夜宮の花火

本日のLa Nuova紙を見ると、昨日土曜日夜、ヴェネツィア人が最も心待ちにしている、レデントーレの祝日の夜宮で行われた恒例の花火大会の模様が、ヴィデオと写真で楽しめます。数日前の天気予報では、週末は快晴との予報で昨日は最高だったようです。それに先立って行われる筈だったレガッタは、揉めて、操舵手が叛旗を翻し、最終的にはレガッタは行われたのか、そうでなかったか。

花火大会の模様は、新聞紙面写真下の1番目のキャプションはニュース記事、2・3番目キャプションはヴィデオ動画、その下の4~6番目キャプションは写真です。各キャプションをクリックしてご覧下さい。
レデントーレの花火大会《La Nuova》紙から借用。ヴェネツィア語の foghi(花火―単数 fogo)=伊語 fuochi d'artificio のようです。
  1. 2013/07/21(日) 20:55:28|
  2. ヴェネツィアの行事
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ピエタ養育院

今までヴィヴァルディの事を書いた時、若干なりとも触れてきましたが、彼が音楽教師となり、そこの女生徒達をヨーロッパ随一の合奏団に育て上げたと言われているピエタ養育院について、 Aldo Bova『Venezia―I luoghi della musica(音楽する土地、ヴェネツィア)』(Scuola di Musica Antica Venezia、Banca Popolare di Novara、1995)を参考にまとめてみます。
ピエタ教会とその養育院ピエタ養育院ピエタ養育院のヴィヴァルディについての碑左、中央のセポルクロ橋左脇の養育院とその左のピエタ教会。中央、ピエタ養育院(イタリアのサイトから拝借)。右、ピエタ通りの養育院の壁に掲げられた碑「この場所にはピエタ養育院の音楽堂が建っていた。当時その才能は十全に理解されていなかったが、ここでアントーニオ・ヴィヴァルディが1703~40年の間《コンサート・マスター》として作曲し、ヴェネツィアそして全世界に比類なき豊饒の音楽を提供した。中でも『四季』は音楽の精華である。彼の時代が今や訪れた。」

「1348年ピエルッツォ・ダッシージにより設立、1700年代には1000もの人が収容された。最初は他の養育院同様、寄進が僅かだったので、元老院は寄附集めに音楽家達を町に送り出した(1525)。

娘達のヴァイオリン教師としてのアントーニオ・ヴィヴァルディ師は、1703~38年まで色々の資格で娘達を教えたが、彼の他には1701~13年フランチェスコ・ガスパリーニはチェンバロ教師、音楽理論教師としてドメーニコ・スカルラッティ、ベネデット・マルチェッロ、ベネデット・プラッティ、ヨーハン・ヨアヒム・クヴァンツ等がいた。生徒達は音楽院傍の教師の屋敷に勉強に行った。

1720年のヴァイオリン教師はアントーニオ・ヴィヴァルディ、1742~43年はニコーラ・ポルポラが音楽教師、1744~50年にはロレンツォ・カルミナーティがコンチェルトの教師をした。娘達の演奏服の色は赤であった。オラトリオの演奏は1683~1820年続いた。1673年にはヴァイオリン教師としてボナヴェントゥーラ・スパーダが雇われた。ヴィヴァルディの雇用もこの期間である。

1707年合唱隊の編成は13人だった(ソプラノ5、コントラルト4、テノール3、バス1。何人かの娘は非常に低い音域で歌唱出来、あるいはオクターヴ上の声域で歌唱可能だった)。オーケストラは14人編成であった(ヴァイオリン4、ヴィオラ3、チェロ2、ティオルボ[大型リュート]1、ヴィオローネ[コントラバスの祖]1、鍵盤楽器3)。

1716年ヴィヴァルディは対トルコ戦争の寓意詩であるオラトリオ『勝利のユディタ』を作曲、指揮した。
1735年養育院は毎日10台の鍵盤楽器の調律師に支払いをした。
1738年バイエルンのフェルディナント公に敬意を表し、ヴィヴァルディは5重唱『漁民の唄(Mopso)』を作曲、指揮した。
1739年シャルル・ド・ブロスは娘達が演奏中、耳に花束を挿し、その上指揮者が女性であるのを見、大変驚いた。
1741年ザルツブルクから、最もイタリア的な感性で歌うことを教育出来る女性を欲しいという要望が届いた。
1753年謝肉祭に観客が仮面を被らないという条件で、娘達が音楽劇を演奏することの認可が下りた。
1777年オスペダレット養育院の娘がピエタ養育院のオルガン教師の下で学ぶために送られて来た。

ヴェネツィアの最小の養育院の、この古い教会はスキアヴォーニ海岸通りにあり、奥行20m、幅10m、高さ10mである(大きさと音響効果について考える時、この寸法のサン・バッソ教会[サン・マルコ寺院左のレオーニ小広場前にある]に行ってみるがよい)。壁面に板が張られ、周囲の壁際には椅子が設けられ、聖歌隊席は大祭壇の上部、金鍍金した鉄格子で囲われていた。

1723年両脇に張り出した小聖歌隊席が作られ、娘達はリズムを取る指揮者をよく見ることが出来るようになった。左の小聖歌隊席には第2オルガンが設置された。時々特別の音響効果が得られるように教会の四隅に合奏団が配置された。非常に稀なことであったが、娘達は聴衆の所に下りてきて歌った(1688年3月トスカーナ公に敬意を表してのことだった)。

ヴェネツィアで最大の養育院になった新教会は、1745年に建てられた(演奏する娘達のためにより適した形態が採用された)。そして1760年9月14日献堂された。合唱の娘達は二つのオルガンの聖歌隊席で歌い、他の娘達は3階のロッジャで、聴衆は教会の席で、高位の人達は2階のルネッタの席でそれを聞いた(入口上の聖歌隊席は中央ヨーロッパの修道院に作られた王室用ボックス席を彷彿とさせる)。

教会内部の規模と形状は、音楽を聞くに適した音響効果を確保するよう設計された。ファサードは1900年代初頭に完成した。

ナッキーニ・オルガン(1759)は1面の鍵盤と19のオルガン・ストップを備えている(オルガン製作者は右の聖歌隊席にもう1台のオルガンを作っていたが、失われた)。

天井にはジャンバッティスタ・ティエーポロの『聖母マリアの戴冠』が描かれている。その中にはティオルボ(大型のリュート――共鳴版の上に三つの薔薇が浮き上がるように描かれている)、ヴィオローネ(コントラバスの祖)、ヴァイオリン、喇叭、ティンパニ、ホルン、オーボエ、ヴィオラ、オルガン、歌手達が描き込まれている。

現在県立の子供のための協会には、古文書や娘達のために養育院が1700年代に購入した楽器の収集がある――中でもヴェネツィア人マッテーオ・ゴッフリレールのヴァイオリンとチェロ、アンドレーア・コイーン(1770)の作ったホルン等。」
ティツィアーノ・スカルパ『スターバト・マーテル』2011.12.17日に書きました文学に表れたヴェネツィア―ティツィアーノ・スカルパを参考までにどうぞ。ティツィアーノ・スカルパがピエタ養育院を小説にしています。
  1. 2013/07/20(土) 00:11:29|
  2. 音楽
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文学に表れたヴェネツィア――モンテスキュー

モンテスキュー(Charles=Louis de Secondat, Baron de la Brède et de Montesquieu―1689.01.18ボルドー~1755.02.10パリ)と言えば、高校時代の世界史で『法の精神』を書いた啓蒙思想家と教わりましたが、事典によれば次のようです。

「1714年ボルドー高等法院判事、16年同院長。『ペルシア人の手紙』を21年出版、文名が高まる。27年アカデミー・フランセーズ会員。28年ヨーロッパ中を遊学。実証的・社会学的方法論で書かれた『法の精神』(1748)を出版、権力の分立・抑制理論を展開して近代の政治原理の基礎を構築した。政治的自由とは法を尊重することにより獲得されるものであるが、それは国家の立法・行政・司法の三権分立によって保証されるべきである」と。
モンテスキュー『Venezia』[左、サイトから借用。右、彼のヨーロッパ遊学中の『イタリア旅行記』(1729)ヴェネツィア編が、伊語訳(Viaggio in Italia)で上掲の本にありましたので、その伊訳から訳してみます。]
「……ヴェネツィアの館はファサードが狭苦しく、軒を連ねているのだが、ファサードそのものは美しい。素晴らしい建築家がいたのだ。パッラーディオであり、サンソヴィーノである。教会のクーポラは美しいが、木製である。土地が重い建造物には耐え難いからだ。他所の土地では無駄なことはしない……。

古い館には絵が沢山ある。
ゴルジは、ヴェネツィアを自分の家財を売り払ってしまう年老いた娼婦に比較していた。
絵が教会で何時までも保存されるのはよろしくない。一つには湿気、二つには埋葬された遺骸が発する瘴気が駄目にしてしまうのだ。

ヴェネツィア以上に大理石に満ちた町というのはない。ヴェネツィア人はコンスタンティノープルを占領して、沢山の円柱を持ち出した。更にギリシアの島々や群島を獲得し、直ぐ後にはオリエントの王達を屈服させ、欲しいだけ大理石を手に入れた。

聖イグナティウス(伊語S.Ignazio di Loyola―イグナティウス・デ・ロヨラ)が暫くの間ヴェネツィアに滞在したことがあった。修道会の最高のものを作り出したと言われており、イエズス会士のカラーと僧服は当時の僧達のカラーと酷似している。バルナバ会修道士を御覧じろ。

イエズス会は元老院議員を信者にした。だからヴェネツィアでしたいように出来ることになる。何という斎日であったことか。そしてヴェネツィアの法律を、良心という掟が邪魔立てする。彼らは結婚するために、それまでの内縁関係など重視しないのである。

ヴェネツィアには軽妙なゴシック建築が数多く存在する。例えば総督宮殿。ゴシック様式というのは他の建造物より教会がよりお似合いと思われる。
……
サン・マルコ広場の一方は旧行政館であり、真向かいは新行政館である。新行政館はヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計であり、1583年に建設が始まった。旧行政館より高く、3様式を持つ。即ち、ドーリア式、イオニア式、コリント式である。専門家の意見は、建築は新旧の間で統一性がない、と。広場の奥は……。
サン・ジェミニアーノ教会サン・ジェミニアーノ教会[ナポレオンが1807年ナポレオン翼(Ala napoleonica)を作るために取り壊させたサン・ジェミニアーノ教会が広場奥に見えます。左、カナレット画、右、その絵をヴィゼンティーニがエッチングにした物。教会左が新行政館、右が旧行政館。]

大運河のグリマーニ館は、ヴェネツィアで最も美しい建物の一つである。斜めに建設されたのは、土地のコーナーを有効利用するためであった。正にそう見える。パッラーディオの手によるものである。ティエーポロ館はその向かいにある。サンソヴィーノが手掛けた。単純だが非常に美しい。

ヴェネツィアは150の島から成っている。各島には沢山の道がある。例えば Biri 地区の島は3本の運河と海に囲まれており、56本の通りを数えた。
[カンナレージョ区のサン・カンチャーノ(S.Canzian)教会の東に、現在 Rio terà dei Biri(ビーリ埋立通り)o del Parsemolo という通りがあり、Rio de Ca' Widmann と Rio de la Panada の二つの運河と Laguna(潟)で囲まれた地区があります。モンテスキューの訪ヴェネツィア時は、このビーリ埋立通りはまだ運河だったと思われます。]

大運河は町を2分する。六つの地区に分かれ、各々7教区があり、25の修道士と36の修道女の教会がある、救貧院や小礼拝堂、同信会館は勘定に入れないでである。

これらの島々には500の橋(殆どが石橋)がある。リアルト橋は大運河に架かる唯一のアーチ状の橋で、48軒の店と3本の通りが通じている。造幣所(Zecca)とサン・ジョルジョ島を含めて市の周囲は7マイルに及び、造船所(Arsenale)だけでも2マイルの広さがある。

ヴェネツィアは大きいが車庫も厩舎も庭も公園もない。ムラーノ島には2万人の住民がいるというが、ヴェネツィアの住民の数を私は言うことが出来ない。言える事はサン・マルコ広場周辺より他の地区は、人口密度が少ないということである。ムラーノとヴェネツィアを総合して、16万人を数えると聞いた。……」

1700年代前半は、現在の町の様子と大分違っていたように思われます。
  1. 2013/07/13(土) 00:04:22|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: ジュスティニアーン=ロリーン館(P.Giustinian-Lolin)

大運河右岸ファリエール・カノッサ館の右隣はジュスティニアーン・ロリーン館です。R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(Arsenale Editrice、1998)は次のように紹介しています。
ファリエール・カノッサ館とジュスティニアーン・ロリーン館「1623年ジョヴァンニ・ロリーンがこの大運河沿いの建物を孫のジョヴァンニ・ジュスティニアーンに遺した時は建物は改築中だった。1300年代の古い建物から当世風への模様替えは、まだ若いバルダッサッレ・ロンゲーナに任され、彼はその意に沿ってファサードを再デザインした。

共和国滅亡時、建物はフランチェスコ・アッリェッティの所有するところとなり、稀覯本の収集家であったこの著名な医師は1836年までここに居住した。

その後この住まいは、バレリーナのマリーア・タッリォーニの所有へと移った。続いてブルボン家のマリーア・カロリーナの娘で、カルロ3世ブルボンの妻であった、パルマ公夫人マリーア・ルイーザの手に渡った。ルイーザはジュスティニアーン・ロリーン館で年に数ヶ月過ごし、Wartegg(スイス)の居宅と交互に住んだ。1864年大運河に面した部屋で亡くなる。

息子のバルディ伯エンリーコは館を銀行家のウーゴ・レーヴィに売却し、ヴェンドラミーン・カレルジ館に引っ越した。楽譜等の収集家で大音楽通のウーゴ・レーヴィは妻オルガ共々芸術文化に意を注ぎ、館購入時、ヴェネツィアで最も著名な音楽サロンを開いた。コンサートがあった後、大演奏家達がレーヴィ家に招かれ、招待客の前で独奏家の即興演奏が披露されることがよくあった。

《我が息子ウーゴ(Ugo mio fio)》という愛称で知られたそのあだ名は、父親が目論んだものであった。父と息子はブルジョア階級の集会所になっていた商売用の事務所があるサン・マルコ広場から、あるいはまたカッフェ・フロリアーンから一緒に帰宅することがあった。その時上着の一方のポケットは空っぽで、もう一方のポケットはインゲン豆で一杯だった。

2人の内のどちらかが誰か知人に出会うとその度に、インゲン豆を一方のポケットから反対のポケットに1粒移動させた。サント・ステーファノ広場の《ゴーボ・バール》に着いた時、インゲン豆の数を勘定してみた。人に会って、インゲン豆を移動させるということがなければ、アペリティフ一杯をその人に振る舞うということもない。

オルガ・レーヴィはトリエステ生まれで、エレガントな美人、その上非常に洗練されたと評判だった。詩人のガブリエーレ・ダンヌンツィオが彼女にご執心だったと言われている。彼女と知り合った夜、既にしてセレナータを彼女に捧ぐべく、楽師や歌手をゴンドラに配置して彼女の窓辺に居たという。

ダンヌンツィオはレーヴィ家サロンに入り浸りとなり、ウーゴに音楽を聞かせてくれるよう、またピアノを弾いてくれるよう願った。オルガに心酔するダンヌンツィオは直ぐに彼女に色々の愛称を呈した。中でも彼のお気に入りは、《ヴェントゥリーナ》で、鋼玉のように眼の色が変幻自在なのである。

しかしオルガは、友人として家族としての温かさを持って彼と付き合った。この友情は沢山の書簡で証明される。

今日、館はウーゴ・オルガ・レーヴィ財団が入っている。それは音楽研究センターであり、ウーゴの残した豊富な音楽図書館として機能している。」
  1. 2013/07/06(土) 00:05:09|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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