イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ドキュメントに表れたヴェネツィア――アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ(2) 書籍

2011.06.04~06.25日の印刷・出版(1~4)で、15~16世紀に活躍したアルド・マヌーツィオの事を通して、ヴェネツィアの印刷・出版事情について簡単に書きました。
『そのとき、本が生まれた』この本『そのとき、本が生まれた(L'ALBA DEI LIBRI―Quando Venezia ha fatto leggere il mondo)』(アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著、清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日――ダルツォ・マーニョ(1)も参照されたし)は、この著名な出版人の事績を中心にヴェネツィアに関わる当時のその出版・印刷事情を、あらゆる分野の書籍を多角的に詳述することで、15~16世紀のヴェネツィアとはどんな町であったかを浮かび上がらせようとしています。

第1章はヴェネツィアの書籍事情全般、第2章はアルド・マヌーツィオの事、第3~11章はユダヤ人のタルムード、イスラムのコーラン、アルメニア語とギリシア語の本、東欧言語の本、地図、楽譜、医学・美容・美食等の本、作家ピエートロ・アレティーノの誕生、最後にヴェネツィアの印刷・出版は何故衰微したのか、が語られます。
ピエートロ・アレティーノの肖像[ティツィアーノ画『ピエートロ・アレティーノの肖像』] 《消えたコーラン》の章は、ヴェネツィアで刷られた世界初のコーラン(パガニーニ社)の近年の発見に至る過程が、推理小説を読むような趣で、読書の醍醐味でした[ヴェネツィアで印刷された、最古のコーランはカステッロ区のサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会で保存されています―Alberto Toso Fei著『I segreti del Canal Grande』より]。この著書の中身については実際に本と接して頂くこととして、私なりの恣意的引用を若干試みてみます。

「その活況たるや、それより65年ほど前の1452~55年にかけてグーテンベルクが聖書を印刷したドイツを凌ぐほどだった。実際16世紀前半のヴェネツィアでは、ヨーロッパ中で出版された本のじつに半数が印刷されていた。さらには数だけではなく品質にもすぐれ、《彼の地の印刷者のつくる本は豪華で美しかった。》

16世紀のヴェネツィアで出版業が栄えていなかったらこんにち私たちが手にしている本も、ふつうに話しているイタリア語も、この世に存在しなかったかもしれない。

現在のイタリア語はトスカーナ出身のダンテやペトラルカの作品に基づいているが、その事実を現代にまで知らしめているのが、ヴェネツィアにおいて人文主義のピエトロ・ベンボが監修し、学術出版の祖と呼ばれるアルド・マヌーツィオが印刷した版である。」――ベンボについては2012.01.14日のベンボ館で触れています。
ティツィアーノ『ピエートロ・ベンボの肖像』[ティツィアーノ画『ピエートロ・ベンボの肖像』] 「……文房具店は掛け取引を行うようになり、複式簿記の使用が普及した。これは13~14世紀前半にかけて、ジェノヴァとフィレンツェとヴェネツィアの3国で採用された計算方法である。この複式簿記を最初に理論化したのは――実質的には《発明者》――ラグーサ(ドブロヴニク)の商人ベネデット・コトルリ(クロアチア語でBenko Kotruljic')だった。長らくナポリ王国の裁判官を務めた彼は、15世紀後半に著書を記し、死後百年以上たった1573年にヴェネツィアの《デッレファンテ》社から出版された。

その『商売技術と完全な商人』によって、ヨーロッパに複式簿記が広まり、のちにルカ・パチョーリ[アレッツォ県ボルゴ・サン・セポルクロの人]によってまとめられることになる。いずれにしても、ルネサンス時代のヨーロッパでは複式簿記と商業と印刷の普及においてヴェネツィアは群を抜いた存在だった。」
ルーカ・パチョーリ[ヤーコポ・デ・バルバリ画『ルーカ・パチョーリの肖像』。イタリア・ウィキペディアから借用] 「同じ時期の個人の図書室は蔵書が2千冊を超えることはめったになく、図書館でさえ蔵書は豊富という状態には程遠かった。ウィーンの帝立図書館の蔵書が8万冊に達したのは、1665年になってからのことである(現在の蔵書は300万冊、大英図書館は1400万冊、アメリカの議会図書館に至っては3300万冊)。

ヴェネツィアに話を戻すと、1523年には有力貴族出身のドメニコ・グリマーニ枢機卿の図書室に15000冊(この数字に裏付けはない)、歴史家のマリン・サヌードは6000冊を超える蔵書を所有していたという。《ヴェネツィアでは、18世紀まではこのサヌードほどの個人収集家は存在しなかった。》」
……
「マヌーツィオは現代で言う初の出版人でもあった。それ以前の時代には、印刷工というのは印刷機を扱う作業者に過ぎず、本に対する知識も関心もなく、単なる商品としてしか見なしていなかった。その証拠に、マヌーツィオが活躍する以前の本は誤植だらけだった。
アルド・マヌーツィオ『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』中面[左、アルド・マヌーツィオ。右、彼の出版した出版物の中で最も有名な『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』の中面[通称『ポリフィーロの夢』と言われるこの物語については、『澁澤龍彦全集』13巻(河出書房新社)の中の、《ポリュフィルス狂恋夢》の章で知ることが出来ます]。

……マヌーツィオは知識人で、出版する本も売れ筋の作品だけでなく、きちんと内容を見て選んだ。彼は文化的な教養と技術、そして市場が求めているものを理解する直観を併せ持った稀有な人物で、出版界はこの時代を境に大きく発展する。したがって、さまざまな分野の第一人者がマヌーツィオに協力したのも当然と言えよう。」
……
「有力な商人には、情報が欠かせなかったが、16世紀には現代のような新聞はまだ存在しなかった。その代わり、ヴェネツィア共和国は近代的な外交術によって情報を入手していた。大使や領事によるネットワークは他に類がなく、のちに、イギリスが手本とするほどだった(イタリアは見習わなかった)。

世界初の常設の大使館はヴェネツィアのもので、1431年教皇にエウゲニウス4世(本名ガブリエーレ・コンドゥルマーロ、ヴェネツィア出身)が選出されたのを機にローマに設置され、ヴェネツィア共和国の代表団はヴェネツィア宮に駐在した。

このバルコニーからベニート・ムッソリーニが演説をしたために、不幸にも世界中に名を知られることになった建物である。」
 ――アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著『そのとき、本が生まれた』(清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日)より
  1. 2013/08/31(土) 00:02:10|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ドキュメントに表れたヴェネツィア――アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ(1) ゴンドラ

去る17日の新聞La Nuova紙に次の記事が掲載されました。

リアルトで衝突事故。アチティヴのヴァポレットが客を満載したゴンドラを転覆させた。ミュンヘン大学のヨアヒム・ラインハルト・フォーゲル刑法学正教授50歳は、岸に上げられた時には意識はあったが、病院で13時20分息を引き取った。3歳の娘は顔に深い損傷を受けた。副検事ロベルト・テルツォはヴァポレットの運転手とゴンドリエーレの過失を認め、過失致死罪の調べを開始。オルソーニ市長は交通再検討の会議を直ぐに開催するという。」

下記の書によればゴンドラの事故は今まで幾つかあったそうですが、死亡事故は今回初めてのようです。新聞のキャプションをクリックすると映像をご覧になれます。

アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ(Alessandro Marzo Magno、1962.09.ヴェネツィア~現ミラーノ在住)著『ゴンドラの文化史――運河をとおして見るヴェネツィア(La carrozza di Venezia Storia della gondola)』(和栗珠理訳、白水社、2010年8月30日)を、2011.05.21日ヴェネツィアの事について触れた本(3)の一覧にリストアップしましたが、本年4月、同著者の『そのとき、本が生まれた』(清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日)が更に刊行されました。どちらも大変面白い本ですので、今回は前者を紹介します。
アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『ゴンドラの文化史』ゴンドラ雪を被ったゴンドラ係留のゴンドラこの本はゴンドラという言葉がどうして生まれたのかに始まって、その成立ち・構造から、世界での受容へ、歴史的視点から現状に至るまで、系統的にあらゆる面について述べたもので、大変興味をそそられました。ヴェネツィアに行かれる方の一読をお勧めします。

目次を読めば、全体の構成が一目瞭然ですが、その間に散りばめられた小話やエピソード等がゴンドラのみに固執することなくヴェネツィアという町をより興味深くし、旅を盛り立ててくれる内容となっていました(ヴェネツィア旅行をされる方は殆どゴンドラに乗られます。私も二度体験があります、トラゲットは別にして)。
例えば、
「……フラーリ広場を描いた1743年のミケーレ・マリエスキの銅版画には1台の馬車が見える。18世紀のヴェネツィアでは、馬はもはや移動手段ではなくなっていたが、明らかに、ヴェネツィアの馬車製造人はまだ名声を保っており、輸出用に馬車をつくっていた(実際には、19世紀半ばにもヴェネツィアに馬がいたことが、アメリカ領事ウィリアム・ディーン・ハウエルズがサンテレーナ[サンテーレナ島のこと]の公園の厩舎についての記録を残していることからわかる。

そこでは1時間1フィオリーノで馬を借りることができ、乗馬者のほとんどすべてが――なぜかはわからないが――ユダヤ人だったということである)。」(《ゴンドラは馬車である》の章)
……
「数十年前まで、ヴェネツィア人は結婚式と葬式の時しかゴンドラに乗らないと言われていた。今日では、そのような機会にさえ乗ることはない。かなり前から、ヴェネツィア市の葬儀事業では、共同墓地のあるサン・ミケーレ島に死者を運ぶのにモーターボートが使われている。また教会や市役所内の結婚式場へ向かうのに、豪華な調度で飾られ、白いお仕着せに赤い帯をしたゴンドリエーレが漕ぐゴンドラを選ぶ者は、もはや誰ひとりとしていない。嘆かわしいことだ。
ゴンドリエーレの結婚式衣装ゴンドリエーレの結婚式の正装[正装の《白いお仕着せに赤い帯をした》前後2名のゴンドリエーリが正式のようです――この写真はこの本掲載ではありません]
もっとも、現在営業している425人のゴンドリエーレ(プラス100人ほどの補欠人員)にとって、婚礼の仕事は厄介なだけで、金をたんまり持った観光客のグループを乗せるほうが好ましいだろう。
……
ゴンドラがいつ生まれたかはわからないが、その名前が史料に初めて現れた年は正確にわかる。1094年、ヴィターレ・フェリエールがドージェであったころに書かれた羊皮紙文書に、ロレオの住民に対してこの種の小舟をヴェネツィアに提供する義務を免除する、との記述がある(《汝らはいかなるゴンドラも我らにつくらずともよい》)。……
……
……ヴェネツィア共和国は、1797年5月12日に滅亡した。その歴史は、古代ローマの歴史よりも長い。ヴェネツィアの始まりは、滅亡の1200年前、ローマ帝国の遺産を略奪して回る蛮族が迫ったときのことだった。今度は、迫りくるナポレオン軍を前に、ヴェネツィア貴族の集会である大評議会は、自主的解散とドージェの廃位を可決した。

ナポレオンは、1万5000点の美術品を奪い、国立造船所(アルセナーレ)を破壊し、そこにあった船体と大砲の類いを持ち去り、気まぐれで10点ほどの聖堂を取り壊し、385のスクォーラ(信仰と慈善のための団体)を閉鎖し、想像できないほどの芸術的財産を散逸させた。 ……」等々。
 ――『ゴンドラの文化史――運河をとおして見るヴェネツィア』(和栗珠理訳、白水社、2010年8月30日)から

次の新聞La Nuovaの2009.06.26日、La Nuova 2の2010.08.13日の記事に、ゴンドリエーレ史上初の女性ゴンドリエーラとして免許取得試験に受かった、2人の子供のマンマであるジョルジャ・ボースコロ(23歳)さんのことが記事になっています。900年も男社会であったゴンドリエーレ達の仲間に加わった女性第1号です。

Youtube にフランツ・リストの曲『悲しみのゴンドラ』Lugubre gondolaという素晴らしいピアノ曲がありました。
日本ではゴンドラを、森鷗外は《軽舸》、木下杢太郎は《画舫》と訳しています。
  1. 2013/08/24(土) 00:03:59|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの建物: グッソーニ-カヴァッリ-フランケッティ館

アッカデーミア橋を更に右へ下るとと、左脇に広い庭を大運河に見せるグッソーニ-カヴァッリ-フランケッティ館の姿があります。R.Russo『ヴェネツィアの館』(1998)は次のような事を書いています。
グッソーニ・カヴァッリ・フランケッティ館とバルバロ館グッソーニ・カヴァッリ・フランケッティ館「カヴァッリ家はドイツのバイエルン出身で、古い貴族のグッソーニ家によって15世紀末に建てられたこのゴシック様式の建物を、1500年代初頭に購入した。19世紀の30年代まではカヴァッリ家の所有であったが、アスペルンの戦いでナポレオン軍を降したオーストリア大公カール(arciduca Carlo)の息子、皇太子フリードリヒ(Federico)が獲得するところとなった。
[ナポレオンに対する対仏大同盟のうち、1809年の第5大同盟はオーストリアとイギリスが同盟し、アスペルンとエスリングで戦勝しました。しかしカールはワグラムで破れ、1809年ウィーン(シェーンブルン)の和約を結びます。]

しかしフリードリヒは27歳という若さで亡くなり、大運河の館を満喫することが出来なかった。

この館は、やはり別の王家の手に渡る。ボルドー公(duca di Bordeaux)であり、シャンボール伯(conte di Chambord)の、アルトワ・ブルボン家のアンリ(Enrico di Borbone Artois)である。太陽王やルイ15世の王冠を継ぐことの出来るブルボン一家の中の嫡男として、唯一の相続人であった。

ヴェネツィアではアンリは――パリ時代は、オルレアン公ルイ・フィリップ(Luigi Filippo d'Orle'ans)が君臨していた――モーデナ公の娘、妻のマリーア・テレーザ・デステと共に宮廷の礼式に則り、静かな生活を送っていた。彼女について言われているのは、不恰好でパッとしない上に、聾者であった、と。

しかし重要な事は子供を授からなかったことである。そうしてアンリの、王家の跡継ぎを得たいという最後の望みも途絶えた。

《鳥のサロン》と称する赤いサロンでは、アンリと家族のお気に入りの雰囲気の中で、1850・51年の数ヶ月ルイ16世とマリー・アントワネット(Maria Antonietta)の忘れ形見の娘マリー・テレーズ(Maria Teresa)・ド・フランスがこの館で過ごした。

1866年シャンボール伯一家は最終的に Frohsdorf(フロースドルフ)城に引っ越した。ヴェネツィアの館はライモンディ・フランケッティ男爵の手に帰した。

男爵はアンリ・ド・シャンボールの始めた修復を継続し、カミッロ・ボーイトの案に委ね、彼は当時流行していたネオ・ゴシック様式でファサードも建物全体も再デザインし、庭園に通じる豪華な階段を建設した。現在建物はヴェネツィア金融研究所の所在地である」

[建築家カミッロ・ボーイトはミラーノのブレーラ美術館の修復で有名だそうです。弟のアッリーゴは音楽家・台本作者としてヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』『オテッロ』『ファルスタッフ』の台本に協力しています。カミッロが書いた『Senso, nuove storielle』の《Senso》はルキーノ・ヴィスコンティ監督の『夏の嵐』の原作となった小説です。]

1999年からヴェーネトの科学文学美術研究機関の在所となっています。時に展覧会が催されたりします。
shinkai さんが、次のブログhttp://italiashio.exblog.jp/12672369/でこのフランケッティ館の内部を紹介されています。是非ともご上覧あれ。
  1. 2013/08/17(土) 00:02:09|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアのフラミンゴ

昨日のヴェネツィアの新聞La Nuova紙を読むと、8月10日の次のような記事がありました。
フラミンゴ「 トルチェッロ島、ラグーナにフラミンゴの群れ
――フラミンゴ(紅鶴)の一群がトルチェッロ島近辺のラグーナに適応して、鳥たちは巣作りに励み、夏季を過ごす

フラミンゴの大群がラグーナ北のトルチェッロ島傍で確認された。僅か10人強の住人しかいないトルチェッロ島で、唯一農業を営むパーオロ・アンドリック氏によって、その周辺は守護されている。この鳥たちの優美さを不朽のものとすべく、チェーザレ・セント(©Cesare Sent)氏が写真を提供された。」

追記: La Nuova 2によれば、159羽の雛が確認されたそうです。
  1. 2013/08/12(月) 01:19:16|
  2. ヴェネツィアの自然
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文学に表れたヴェネツィア――吉行淳之介

吉行淳之介(1924.04.13岡山~1994.07.26東京)好きだった私は、この吉行淳之介・篠山紀信著『ヴェニス 光と影』(新潮社、五十五年十月二十日)を初めて読んだ時、ヴェネツィア=原色の街といった思い込みで読み始めたように記憶します。ヴェネツィアに行くようになって読み直しました。
『ヴェニス 光と影』「……陸路を経てヴェニスの中央停車場に着くのは、宮殿に入るのにわざわざ裏口を選ぶのと同じだ、とその作品には書いてある。たしかに、海を越えて近寄ってくれば、この石の島の中心部をいきなり見ることができる。

ヴェニスに数日滞在しているうちに、この島の表玄関は、サン・マルコ広場に隣り合わせているドゥカーレ宮殿の前の石甃のスペースであることが分かってくる。

そこの岸には、ある間隔を置いて二本の背の高い円柱が立っている。海から見て左の円柱の頂上にはライオンの彫刻が置かれ、右の円柱の頂には聖者像がある。この円柱のあいだが、表玄関なのである。

私たちはまぎれもなく、海のほうからヴェニス本島の中心部に近づいていった。しかし、そういうものは、何一つとして私の眼には映らなかった。同年輩の小説家アシェンバハは、同じアドリア海の島の一つから、大きな船に乗ってわずか数時間の航海をしただけなのだから、疲労で眼が霞むということはない。好奇心もまだ生き生きしていただろう。

しかし、この島の風物を細密に描き上げるのは、トーマス・マンの企みでもある。末尾に近づくにつれて、そういう美しい風物を、陽画から陰画へとしだいに移行させてゆくのである。
……
運河から海へ出たモーターボートは、しばらく走ってから舳先を左へ向けた。振り返ってヴェニスを見た。

ホテル・ダニエリの左の建物は、牢獄である。そのすぐ左に運河があり、ドゥカーレ宮殿がある。運河の上に、牢獄と宮殿との連結部分があり、あれが溜息橋だ。牢獄に送られる囚人が、入口を兼ねているこの橋を渡るとき、ふっと溜息をつくので、その名が付けられたという。

サン・マルコ広場に、一際高く突出しているのは大鐘楼である。

左へ眼を移すと、海の上に点々と漁船が浮き、遊覧船が一隻、ゆっくり動いている。その向こうに、細長く左右に伸びているのはリド島である。その島には土があり樹木があり砂浜があったが、ヴェニスは石と水だけの島だった。
『不思議な場所にきていたものだ』
ようやく私の心に、そういう感慨がゆっくりと拡がっていった。 ……」
『ヴェニス 光と影』この本は2006年5月25日に装いも新たに、吉行X篠山の対談を追加、更に写真を全面的に差し替えて、魁星出版から再版が発行されました。吉行さんはトーマス・マンの『ヴェニスに死す』(最近は『ヴェネツィアに死す』という新訳も出版されています)と対話しながらこの本を執筆していますが、この本を映画化したルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(1971年一般公開)はご覧になっていないのでしょうか、その事についての記述はありません。
  1. 2013/08/10(土) 00:02:06|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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インクラービリ養育院

Aldo Bova著『ヴェネツィア――音楽に関連した場所』(Scuola Musica Antica Venezia)は、インクラービリ養育院について概ね以下のような事を述べています。

「1522年感染症患者や梅毒患者を収容するために設立された。

最初の音楽的痕跡は1640年に遡る。音楽教師にはカルロ・パッラヴィチーノ(1674~88)、カルロ・フランチェスコ・ポッラローロ(1696~1718)、ニコーラ・ポルポラ(1726~33)、ヨーハン・アードルフ・ハッセ(1733~39、有名な歌手ファウスティーナ・ボルドーニとの結婚が縁で招聘)、ニッコロ・ヨンメッリ(1743~47)、バルダッサーレ・ガルッピ(1768~76、ある財務官が沢山の美しい乙女達に彼が囲まれているのを見て「可愛い娘さん達の中で好いですな」と言うと、「閣下、鼻の欠けた男に仰山なハンカチは似合いません」と。)

インクラービリ養育院の少女達は青い衣装を纏った。彼女達のあるファンは「娘達は歌わずとも魅了する」と書いた。
オラトリオの演奏は1677~85年続いた。
1683年2月25日カーニヴァル最後の木曜日(giovedi' grasso)、キリストの受難祭を音楽で盛大に祝った。
1688年全音楽家参列の下、ジョヴァンニ・レグレンツィ指揮により、カルロ・パッラヴィチーノの追悼のためにレクイエムの大ミサ曲が奏された。

1709年ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとドメーニコ・スカルラッティによるオルガンとチェンバロによる有名な競演があった(あるいは2年前のサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場でのことかも知れない。確かな事は、ローマでも行われた。ヴェネツィアでのそれは全音楽史家には受け入れられていない。)

スカルラッティに関して、仮面を被った音楽家がチェンバロを弾くのを聞き、「かの有名なザクセン人か、さもなければ悪魔の申し子だ」と言ったそうである。確実なのはスカルラッティはチェンバロ奏者のトーマス・ロゼインクラーヴェとある館で競演したのであり、トーマスはスカルラッティの virtuosita' に敗れ、その時以来彼の熱狂的応援者となった、ということである。

1728年ソプラノ2、コントラルト2とオーケストラでハッセのミゼレーレが演奏された。この曲は多分1700年代を通じて、ヴェネツィアで最もよく演奏された曲である。

1782年5月18日教皇ピウス6世のヴェネツィア訪問に際し、ガースパロ・ゴッズィ台本、ガルッピ音楽による大聖史劇『トビトの帰還(Il ritorno di Tobia)』が、1400人の聴衆の前、4養育院の娘達の競演で演奏された(年代記は教皇が重大な約束事のため出席出来なかったと書いている)。ガルッピの指揮では、しばしば合唱2、オルガン2を伴う二つのオーケストラで演奏された。

1794年養育院は陸軍当局の所有となった。

教会が修道院の中庭も殆ど全部を占めてしまうことになった。それはヤーコポ・サンソヴィーノの設計で1527~91年に、ヴェネツィアで初めてよりよい音響効果を求めて建てられたものである。彼は長方形の設計図に各隅の角を丸くするといったやり方で設計した。天井としては反響の行き過ぎを和らげるように木材の板を使った(サンソヴィーノはサン・マルコ寺院の音響的欠陥を避けたいと思ったのである。彼の意見では殆どの音楽が交雑した音となり、理解し難く混淆したものとなっているというのである。)

両脇の壁面に沿って寮に直接繋がる二つの大きな傍聴席が作られた。少女達は右の傍聴席で歌い、少年達は左の傍聴席でミサを聞いた。養育院の前部には音楽ホールが作られた。ガルッピのオラトリオ『Tres Pueri Haebrei』の大成功(1774年には約100回演奏された)後、天井に作曲家の作曲中の様子をフレスコ画で描く案が持ち上がった。この案は実現しなかったが、オスペダレット養育院の管理者達に自分達の音楽ホールを飾りたいという気持ちに火を点けた。

教会は1832年に崩れ落ちた。その後養育院は法務省に属した。」
元インクラービリ養育院ヨシフ・ブロツキーの碑旧インクラービリ養育院前の碑現在養育院は、元ピエタ教会のアッカデーミア美術館にあったアッカデーミア美術学校が近年こちらに移転してここが本拠地となったようです。養育院前の通り名は Fondamenta Zattere agli Incurabili で、ヨシフ・ブロツキーの『Watermark(ヴェネツィア)』(集英社)の伊語訳の書名は『Fondamenta degli Incurabili』となり、養育院前に記念の碑が置かれました(彼は死ぬまで毎年ヴェネツィア訪問を欠かさなかったそうです)。彼はニューヨークで亡くなりましたが、墓はヴェネツィアのサン・ミケーレ島にあります。

ブロツキーが Youtube で自詩を露語で、ヴェネツィアの風景の中で朗誦するその力強さをお聞き下さい。Josif Brodskij。彼の『ヴェネツィア』伊語版の朗読は次です。Fondamenta degli Incurabili。尚、2009.11.07~14日にヨシフ・ブロツキー(1~2)を書きました。
  1. 2013/08/03(土) 00:05:28|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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