イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: バルバロ・クルティス館(P.Barbaro Curtis)

グッソーニ・カヴァッリ・フランケッティ館の右に来るのは、オルソ運河(r.dell'Orso)の右にバルバロ・クルティス館が登場します。R.ルッソ 著『ヴェネツィアの建物』(1998)はこの建物を次のように紹介しています。
バルバロ・クルティス館「かつては大運河に面したバルバロ家の居宅であったパラッツォは、二つの建物を繋がった物として建てられ、ゴシックの方はジョヴァンニ・ボンに帰属し、バロックの物はアントーニオ・ガースパリの作品とされた。

1700年代の舞踏室はジャンバッティスタ・ティエーポロによって天井画が描かれたことで名高く、現在それはニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵となっている。また図書室も著名で、それはバルバロ家のような、文学者、好事家、美術愛好者を生んだ一家にとって必要欠くべからざるものであった。

有名な文献学者であり、大プリニウスの注解者であり、アリストテレースの研究者であったエルモラーオ・バルバロは、1491年アクイレーイアの総大司教に任ぜられた。こうして彼の曾孫がそうであったように、彼は哲学者であり、数学者であり、天文学愛好家であり、ウィトルウィウスの翻訳者であった。

キプロス戦争中コンスタンティノープルの大使であった弟のマルカントーニオと共に、1560年アンドレーア・パッラーディオに、パーオロ・ヴェロネーゼが壁面を飾ったマゼールの有名なヴィッラを注文した。2人の芸術家はお互い親友であり、2人の兄弟のお気に入りであった。
マゼールのヴィッラ・バルバロ[マゼールのヴィッラ・バルバロ。個人住宅故、内部はヴェロネーゼの絵等は見学のみで、撮影禁止でした。]
サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロの修道士達のために、非常に世俗的な『最後の晩餐』を描いたために、検邪聖省から不敬であると糾弾された時、ヴェロネーゼを救ったのは、正にマルカントーニオであった。実際にはヴェロネーゼは『最後の晩餐』というタイトルを『レヴィ家の饗宴』と変更しただけだった。

輝かしき1700年代の後、共和国は滅亡し、バルバロ家は窮乏零落し、邸宅を売却せざるを得なかった。1885年米国のボストン人、教養豊かで洗練されたカーティス(Curtis)夫妻が館を購入し、新しい所有者となった。

カ・バルバロに Curtis 夫妻は文学者や芸術家を迎えた: ロバート・ブラウニング、ジョン・シンガー・サージェント[米人画家]、イザベラ・スチュワート・ガードナー[米人の芸術家のパトロン]、ヘンリー・ジェイムズ[彼の何度かある長期滞在期間のある時期にこの館で『アスパンの恋文』を書いた]、1908年の秋にはクロード・モネと妻アリスが滞在した。
黄昏、ヴェネツィア[クロード・モネ画『黄昏、ヴェネツィア』(ブリジストン美術館蔵)] 《南側の夏の熱気は、高い所まで装飾された部屋や素晴らしいホールの中に何時までも愚図ついていた。ぎっしり敷き詰められた床は清々しく、何百もの輝きの中で物影を映し出し、さざ波の立つ水面に照り返されて、陽光は震えるように開けた窓まで昇ってきて、壮麗な天井に映し出された陰影を弄ぶかのようだった。》――こんな風にジェイムズは小説『鳩の翼』の中でこの館を描写した。ここには今でも Curtis 家の子孫の人々が生活しているのである。」
[Curtis はヴェネツィアでは伊語式にクルティス or 英語式にカーティスと読むべきでしょうか?]
  1. 2013/09/28(土) 00:01:48|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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メンディカンティ養育院

今回も Aldo Bova 著『音楽する土地、ヴェネツィア』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)の助けを借りて、最後の一つ、4つ目のメンディカンティ養育院について書いてみます。
ヴェネツィアの音楽「カステッロ区メンディカンティ運河通りにある施設。1246年ハンセン病患者用施設として、サン・ラッザロ島に設立された。1600年物乞いする老人や孤児をも収容するために、フォンダメンタ・ヌオーヴェ(Fondamente Nove)に移転した。

最初の音楽活動は1604年に遡る。音楽の勉強は三つの段階に分けられた。少女達は16歳まではインチピエンテ(incipienti―初級者)、21歳まではプロフィティエンテ(profitienti―修道女になるための誓いを立てた者)、31歳まではエッセルチタンテ(essercitanti―修道鍛錬に勤しむ者)と呼ばれた。

教師には、ジョヴァンニ・ロヴェッタ(1639~42年)、ナターレ・モンフェッラート(1642~76年)、ジョヴァンニ・レグレンツィ(1676~83年、修道女となった元の教え子に《7石のダイヤモンドの……指輪を》と遺言状に遺した)、ロッセット[rossetto 赤毛]と称されたジョヴァン・バッティスタ・ヴィヴァルディ(1689~93年――アントーニオ・ヴィヴァルディ[彼も赤毛と呼ばれた]の父)、アントーニオ・ビッフィ(1699~1730年)、バルダッサーレ・ガルッピ(1740~51年)、フェルディナンド・ベルトーニ(1752~77年)。

オラトリオの演奏は1667~1797年続いた。
 1630年、《いつも使っているトロンボーンが壊れた》ので新品を買うことが決まった。
 1669年、少女達は2台の室内オルガン、1台のスピネッタ、3台のクラヴィチェンバロ、3挺のヴァイオリン、1挺のヴィオラ、1挺のチェロ、2挺のヴィオローネ、2挺のティオルボ、2管のトロンボーン、1管のファゴットを自由に使用していいことになった。
[スピネッタ(spinetta)とはクラヴィチェンバロに似た楽器で、1503年ヴェネツィアでジョヴァンニ・スピネッティ(羅典式Johannes Spinetus)によって考案された。]

 1741年、スピネッタの製造者のジローラモ・メネゴーニは、9台の鍵盤楽器を調律し、整えておくように委託された。
 1744年、ジャン=ジャック・ルソーは歌唱の素晴らしさに魅せられた(「私はこんなにも官能的、且つ感動的なものとは知りもしなかった」)。そして彼女達をどうしても知りたく、ある政庁の役人を説得して、彼女達を晩餐に招待することが出来た。最初出会って、彼女達が美人であるということから程遠いことに愕然とした(「殆ど全員、明確に欠点がないという訳ではなかった」)が、彼女達がそれぞれの魅力を持っていることは認めざるを得なかった。
[2009.03.28日の文学に表れたヴェネツィア――ルソーも参考までにどうぞ。]

 1750年、ガルッピは tromba da caccia の名手、12歳と14歳のマリーア・エリザベットとマリーア・ジローラマ・ロッソーニ姉妹をオーケストラに入れた。
 1767年、マルカントーニオ・モチェニーゴは養育院の理事の一人であったが、ヴュルテンベルク公に《夜の2時に始まり、軽い茶話会を挟んで、5時に終わる、少女達の妙技による演奏と歌唱の演奏会》を提供した。

 1775年3月28日、皇帝ヨーゼフ2世(Giuseppe Ⅱ)はフェルディナンド・オルトーニのオラトリオに参加した。そして音楽の素晴らしさに打たれ、総譜を持って来させた。養育院の長い歴史の中で、この唯一の貴人は少女達と歌い始めた。
 1777年7月1日より《致命的財政破綻に見舞われ、全音楽教師への給与の支払いが中止となった。》1780年ウィリアム・ベックフォードはメンディカンティの少女達の事について書いている。《大きなコントラバスの弦に沿って動くデリケートな白い指、フレンチホルンを吹くピンクに染まった両頬を見たいといった、極当たり前のことがなくなってしまった。ある少女達は年老いて、ギリシア神話のアマゾネスの風貌である。ヴァイオリンという恋人を捨ててしまい、ティンパニを激しく打つのみである。一方貧しい少女はビッコを引き、愛にも見限られて、今やファゴットの前で恰好をつけているだけである。》

 1783年、合唱団の娘ラ・フェッラレーゼと称されたアドリアーナ・ガブリエッリは養育院を逃げ出し、ルイージ・デル・ベーネと結婚した。ウィーンではロレンツォ・ダ・ポンテの恋人になり、『フィガロの結婚』の初演の出演者となった(モーツァルトは彼女のために二つのアリア『Aldisio di chi t'adora』[ロンド『あなたを愛している人の望み通り』K.577の事]と『Un moto di gioia』[アリア『私の胸は喜びに踊るの』K.579の事]を追加した)。そして『コジ・ファン・トゥッテ』の初演ではフィオルディリージ役である。
[2010.05.22日のロレンツォ・ダ・ポンテ(4)で、ラ・フェッラレーゼについて触れています。]

 1786年10月3日、ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテはオラトリオに参加し、音楽と歌唱を賞賛した。しかし聖歌隊席の木の格子を、丸めた紙で叩いて拍子を取る指揮者に非常に悩まされた。

カッリード・オルガン(1772)は、バッザーニ(1862)によって鍵盤1列、19ストップに作り直された。両脇の壁面の中央には、四つの大きな木の格子窓が開かれており、その背後に出席者達が男女に分けられて、儀式に参列した。

最初の音楽は、右の格子窓の背後の部屋で演奏された。音が詰まったように聞こえるので、1672年、聖歌隊席を設置することが決められた。最初の二つの祭壇画は、インクラービリ養育院から到来したもの。聖具室には、アントーニオ・ビッフィが葬られており、彼は1702~32年サン・マルコの礼拝堂のマエストロでもあった(墓碑が見つかっていない)。

実際には、教会はカプチン派の神父によって祭式が司宰され、古い養育院は市の救護院全体の一部となっている。」
 ――アルド・ボーヴァ著『音楽する土地 ヴェネツィア』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)より
  1. 2013/09/21(土) 00:03:15|
  2. 音楽
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オスペダレット養育院

少し以前にピエタ養育院とインクラービリ養育院について書きました。残る養育院の一つ、オスペダレット養育院について Aldo Bova『Venezia―I luoghi della musica』は次のように述べています。この養育院は Castello 区 Barbaria de le Tole 6691 にあります。
ヴェネツィアの音楽「ここの活動が始まったのは、1527~28年にかけての冬のことで、疫病が猖獗を極め、障害者や熱病者を収容するための病室が作られた。

養育院に金銭や財産を遺贈した人は、その交換に自分への弔い(追悼)のためにミサを上げてくれることを願った。1700年代になると年に1万2千のミサがここで行われた。リアルト橋のサン・ピエートロの本屋ピエーロ・コレッティは、オスペダレットのために1240リラをその遺言書(1630年8月1日付)に遺した。そこには合唱隊の少女達への感謝の言葉がある。《彼女達の歌を聞くために……その故もあって、私にとって芳しくないと思われる連れ達との同席は避けた。》
……
養育院での音楽についてのニュースの初めは、定旋律に関するもので、1566年に遡る。音楽活動の最初は聖ジローラモ・ズィアーニが、貧しい人達にカトリックの公教要理を教え、喜捨を集めるために小さな宗教行列をする中で歌われた聖歌であった。

音楽教師には次の人々がある。
バルダッサーレ・ドナート(1603年まで)、ジョヴァンニ・バッサーノ(1612年)、ジョヴァンニ・ロヴェッタ(1635~47年)、ジョヴァンニ・レグレンツィ(1670~76年、夥しい曲を作曲、少女達に非常に厳しく練習させたので、彼女達は一斉にちょっとしたストライキを敢行し、他の家事等は免除してくれるよう要求した)、ベネデット・ヴィナッチェージ(1698~1715年)、アントーニオ・ポッラローロ(1716~43年)、カルロ・テッサリーニ(1727年)、アントーニオ・マルティネッリ(1733~65年。弦楽器教師。1746年、時に独奏協奏曲を引き続き作曲するよう要請された)。

ニコーラ・ポルポラ(1744~47年。急を要する遺跡の修復と称してナーポリへ帰ってしまった)、トンマーゾ・トラエッタ(1766~73年)、アントーニオ・サッキーニ(1768~73年)、パスクァーレ・アンフォッシ(1773~82年。1783年ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトがアンフォッシのオペラ『物見高い野次馬(Il curioso indiscreto)』のために四つのアリアを書いてくれた)、ドメーニコ・チマローザ(1782~1801年?)。

オスペダレットの125人の少女達の内、40人が歌手、21人がオーケストラで演奏し、19人が合唱隊に属していた。白い衣装が制服であった。

オラトリオの演奏は1716~91年続いた。
……
 1676年、レグレンツィは《自分に対して立てられた芳しくない評判》に悩んで辞任した。そして辞めるに当たって、6年間に少女達のために書いた《四つのミサ曲、70曲以上の聖歌、80曲以上のモテット、5曲の終禱、頌歌、弦楽用ソナタ、鍵盤用ソナタ》を人々に明示した。
 1713年、ヴィナッチェージは辞任を懇願した。というのは《私にとって大切な課題、慎重に言葉を選べば、深い信仰に関わること》が、450作品を作曲した後で見付かった、のだと。
 1738年、教会の音響効果をよりよくするためにオルガンの背後に木板で反響板を作った。
 1746年、弦楽器のマエーストロ、マルティネッリは給料のアップを要求した。というのは《現代風》の20のコンチェルトとシンフォニーアを作曲するためであった。更にポルポラ作曲の難しい曲の演奏のためで、その曲は《和声的手法で書かれており、殊更、畏敬の思いで演奏することが必要で、彼が書いたことに忠実に接することを避けてはいけない》のだと。
 1748年、腰を下ろせる座席の数が330になり、音響効果上よしとされる指示に従い、合唱席の床面が引き下げられた。
 1776年1月15日、少女達の古い食堂をリハーサルの出来る場所へと模様替えして音楽ホールを作ることが決まった。《何か協奏曲でも聞きたいといった注目すべき意見でも聞かれるに相応しい、また、既に設置されている他の養育院にも適用可能なように》。

音楽ホールは今日、ヴェネツィアの養育院での音楽生活の最も素晴らしい、示唆に富む例証である。入口の門の前にヤーコポ・グァラーナの『少女達のコンチェルト』というフレスコ画がある。アポロンが合唱隊の娘達に囲まれている。彼女達はアンフォッシのオペラ『アンティゴネー(オイディプースの娘)』のアリア『戦かんばかりの運命に抗して共に闘おう』を歌っている。それは1773年サン・ベネデット劇場で上演されたものだった(読みごたえのある歌詞であり、美しい娘によって指揮された)。円柱の背後に丸めた楽譜を持ってテンポを取るアンフォッシの姿が見える。

見せ掛けの格子窓の、右の奥の高みに2人の少女がホールを見ようと好奇心に駆られてカーテンを脇にどかしている姿が垣間見える。入口の門の上には、格子窓が設置されている(多分当時はカーテンで遮られていた)。その後ろには歌手や楽器奏者達がいる小さな部屋があった。

鍵盤1列、18ストップの素晴らしいナッキーニ・オルガン(1751)は、大祭壇上の聖歌隊席の中の、1600年代の装飾で満ちた収納庫に収められている。鍵盤の脇には、多分同じオルガン奏者の手書きの指示板があり、ソナタやミサ曲等の種々の演奏時に使うストップを明示している。

教会内部には、ヴィチェンツァのマエストロ、カルロ・グロッシが1688年に、1779年にはトンマーゾ・トラエッタが葬られている。トラエッタの遺骨は1980年にビトントに改葬された。

アンドレーア・チェレスティの『聖母子と聖人』の中には、四重奏の模様が見られる(リュート、ハープ、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ)。音楽文庫と古文書(オスペダレットとメンディカンティの)は、現在はジュデッカ島のI.R.E.に収蔵されている。

オスペダレット養育院は、救護院・孤児院としての機能と貧窮者の収容を現在まで引き続き継続してきた。」
 ――Aldo Bova 著『音楽する土地、ヴェネツィア』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)より
  1. 2013/09/14(土) 00:02:20|
  2. 音楽
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ヴェネツィアの建物: ボッラーニ・エーリッツォ館

リアルト橋の傍のドイツ人商館を少しばかり左に下った所にある、ボッラーニ・エーリッツォ館について、E.&W.Eleodori『大運河』(1993)は次のように言っています。

「サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ運河の、大運河への流出口左角に建つ、古い建物の再改装建物である。柱で区切られた主要階の2、3階の三連窓のファサード、また入口大玄関は左側に片寄っており、近年最上階が増築された。
ボッラーニ・エーリッツォ館[中央の rio di San Giovanni 運河の、大運河出口左角の三連窓のある、花で飾られた小さな建物がそれです。Palazzetto Dolfin とある建物です]。
この建物は、総督アンドレーア・グリッティにより創案され、1492~1556年ピエートロ・アレティーノが住んだことで知られる。彼はダンドロ館に越す前に、既に辛辣で、刺すような、という評で批評家達に一目置かれていた。」
 ――E.&W.Eleodori著『大運河』(1993)より
ピエートロ・アレティーノの肖像Pietro Aretinoまた『そのとき、本が生まれた』は「(アレティーノが)ヴェネツィアにやってきたのは1527年、ハプスブルク家のカール5世率いるドイツ人傭兵がローマを略奪した2ヶ月後のことだった。アレティーノはこの略奪を予見して、教皇庁に対する敵意からその劫掠を歓迎した。ヴェネツィア政府は最後までこれを傍観し、総督アンドレア・グリッティは賛同の意を示す。

アレティーノ曰く《ヴェネツィアの女性はとても美しく、彼女たちに身を捧げるために同性愛をやめた》というほどだという。35歳にして、ラグーナの街は彼がみずから選んだ故郷となり、リアルトのサン・ジョヴァンニ運河の角にドメニコ・ボラーニから家を借りた。

カナル・グランデのある側の高級な地区で、家はほどなく《デッラレティーノ(アレティーノの家)》と呼ばれ、運河と家の前の通りにも彼の名がつけられる。彼の家の窓から見える光景は、フランチェスコ・グアルディの『カナル・グランデとリアルト橋』と題された絵に残されている。おそらく2階の三連窓からスケッチしたものだろう。
『GUARDI』『リアルト橋とカメルレンギ館』[右、グァルディのサイトから借用した『リアルト橋とカメルレンギ館』。『カナル・グランデとリアルト橋』の絵のアングルと殆ど同じと思われます]。
この建物――カ・ボッラーニ・エリッツォ――は13世紀に建てられ、いももなお運河を見下ろしている。アレティーノの時代の形はとどめていないものの、2階と3階のアーチ型の三連窓は当時のままで、彼はそこから顔を出して、行き交うヴェネツィアの人々の生活を思い描いていた(リアルト橋に集まった彼のファンはその姿を見ることができた)。

1944年には、未来派の祖、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティがしばらくここに住んで、《カンナレージョ5662同盟》を結成している。

アレティーノは22年間ここに住みつづけ、家賃の代わりにソネットを書いて大家に渡していたが、1551年、ついに業を煮やした大家に追い出された。途方に暮れたアレティーノは、少し離れたカルボン岸の家に引っ越したが、その前に家主であるレオナルド・ダンドロ公爵(フィレンツェ公)と交渉して、年間60スクードを提供してくれるよう取り決めている。

カナル・グランデに臨む同じ地区には、数年前までもうひとりの有名なピエトロ、すなわちベンボが住んでいた(1547年にローマで死去)。」
 ――アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著『そのとき、本が生まれた』(清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日)から
  1. 2013/09/07(土) 00:09:00|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたイタリア――ニッコロ・アンマニーティ

先日8月30日の新聞に第70回の《ベネチア映画祭開幕》の記事が出ました。それによりますと、日本からは宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』が出品されるそうです。審査員には坂本龍一氏が招聘され、その審査員長にはベルナルド・ベルトルッチ監督が選ばれ「私が求めるのは驚きのある作品だ。金獅子賞は非常に重く大切な賞。私の希望を超えるものが受賞すればいい」と期待を寄せているそうです。

遅蒔きながらこの8月末ベルトルッチ監督が10年振りに手掛けた映画『孤独な天使たち(Io e te)』を見ました。私が今まで見たベルトルッチ監督作品と言えば、『殺し』(1962)に始まって、『革命前夜』(1964)、『暗殺の森』(1970)、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1972)、『1900年』(1976)で、『ルナ』(1979)、『ラストエンペラー』(1987)、『シェルタリング・スカイ』(1990)、『リトル・ブッダ』(1993)等は見ていません。
『孤独な天使たち』『孤独な天使たち』裏この映画(2013)は、友達もいない、自閉症気味の少年ロレンツォが母親に嘘を言って閉じ籠った地下室に、偶々異母姉のオリヴィアが闖入し、あまり良く知らなかった、薬中毒のその姉と地下室という密室で容赦ない関わりを持ち、次第に外の世界への目線が拓けていくという過程が描かれていますが、私にとって『1900年』のイメージが強過ぎるのか、今回の『孤独な天使たち』はベルトルッチ監督のまた一つ違った側面を見たように感じました。
『孤独な天使たち』本この映画の原作『Io e te』。原作者のニッコロ・アンマニーティ(Niccolo' Ammaniti――1966.09.25ローマ~  )について、訳者である、ヴェネツィア大学日本語科で日本語教師をされている中山エツコさんは『孤独な天使たち』(河出書房新社)の《訳者あとがき》の中で、60年代生まれの作家達、カニバリズムの若者達の一人で、暴力と血に塗れたスプラッター作品を書くカンニーバレ(食人族)の一人だと紹介されています。
『Io non ho paura』アンマニーティ・インタビュー 1アンマニーティ・インタビュー2また彼には映画『ぼくは怖くない(Io non ho paura)』(2004年日本公開)の同名の原作[『ぼくは怖くない』(荒瀬ゆみこ訳、早川書房、2002年12月、ヴィアレッジョ賞受賞)]や本書があるように、「実際、《アンマニーティはふたりいる》などとも言われるほどに、著者は主にふたつの対照的な傾向の作品を発表してきている」のだそうです。以下にこの小説から若干の引用をしてみます。

「ぼくは不安で息もできなかった。ぼくは落書きの字や絵でいっぱいの塀に身をもたせかけた。どうして学校へなど行かなければならないのだろう。どうして世界はそういうふうになっているのだろう。生まれて、学校へ行き、仕事をして、死ぬ。そういうのが正しいなんて、いったい誰が決めたのだろう。違うふうに生きることはできないのだろうか。原始時代の人間みたいに。ラウラおばあちゃんのように。

おばあちゃんが子どものころは、家で学校をやった。教師が家まで通ってきたのだ。どうしてぼくも、そういうふうにできないのだろう。どうして、ぼくのことを放っておいてくれないのだろう。どうして、ほかのみんなと同じでなければならないのだろう。どうして、カナダの森のなかでひとりで暮らすことができないのだろう。
……
ぼくは言葉を返せず、頭を低くして黙っていた。いったいぼくにどうしろって言うんだ? 姉貴ですらないんだ。ぼくは彼女のことなど知りもしない。ぼくは誰にもやっかいをかけたりしないのに、どうしてこいつは僕を煩わせるんだ? ぼくの巣のなかにウソの約束をして入りこみ、そして今は出ていかないと言いはる。
……
ぼくはうんざりした仕草をし、恥ずかしがりながらも踊りだした。ああ、これだ。ぼくのいちばん嫌いなこと。踊ることだ。
でも、その夜はぼくも踊った。そして踊りながら、なにか新しい感じが、生きている感じがしてきて、ぼくは息の詰まる思いだった、何時間かしたら、ぼくはこの地下室から出るだろう。そしてまた、すべてが前と同じに戻るだろう。

それでも、ぼくにはわかっていた。あのドアの向こうに世界が待っていることが。ぼくもみんなのひとりのように人と話ができることが。なにかをしようと決め、そしてそれをする。ぼくは出発できるはずだ。寄宿学校に行くことだってできる。部屋の家具を替えることだってできる。……」
 ――ニッコロ・アンマニーティ著『孤独な天使たち』(中山エツコ訳、河出書房新社、2013年2月28日)より
  1. 2013/09/03(火) 12:05:42|
  2. 文学
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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