リアルト橋の傍のドイツ人商館を少しばかり左に下った所にある、ボッラーニ・エーリッツォ館について、E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように言っています。
「サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ運河の、大運河への流出口左角に建つ、古い建物の再改装建物である。柱で区切られた主要階の2、3階の三連窓のファサード、また入口大玄関は左側に片寄っており、近年最上階が増築された。
[中央の rio di San Giovanni(サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ運河)の、大運河出口左角の三連窓のある、花で飾られた小さな建物がそれです。Palazzetto Dolfin とある建物です]。
この建物は、総督アンドレーア・グリッティにより創案され、1492~1556年ピエートロ・アレティーノが住んだことで知られる。彼はダンドロ館に越す前に、既に辛辣で、刺すような、という評で批評家達に一目置かれていた。」
また『そのとき、本が生まれた』は、「(アレティーノが)ヴェネツィアにやってきたのは1527年、ハプスブルク家のカール5世率いるドイツ人傭兵がローマを略奪した2ヶ月後のことだった。アレティーノはこの略奪を予見して、教皇庁に対する敵意からその劫掠を歓迎した。ヴェネツィア政府は最後までこれを傍観し、総督アンドレア・グリッティは賛同の意を示す。
アレティーノ曰く《ヴェネツィアの女性はとても美しく、彼女たちに身を捧げるために同性愛をやめた》というほどだという。35歳にして、ラグーナの街は彼がみずから選んだ故郷となり、リアルトのサン・ジョヴァンニ運河の角にドメニコ・ボラーニから家を借りた。
カナル・グランデのある側の高級な地区で、家はほどなく《デッラレティーノ(アレティーノの家)》と呼ばれ、運河と家の前の通りにも彼の名がつけられる。彼の家の窓から見える光景は、フランチェスコ・グアルディの『カナル・グランデとリアルト橋』と題された絵に残されている。おそらく2階の三連窓からスケッチしたものだろう。
[右、グァルディのサイトから借用した『リアルト橋とカメルレンギ館』。『カナル・グランデとリアルト橋』の絵のアングルと殆ど同じと思われます]。
この建物――カ・ボッラーニ・エーリッツォ――は13世紀に建てられ、いももなお運河を見下ろしている。アレティーノの時代の形はとどめていないものの、2階と3階のアーチ型の三連窓は当時のままで、彼はそこから顔を出して、行き交うヴェネツィアの人々の生活を思い描いていた(リアルト橋に集まった彼のファンはその姿を見ることができた)。
1944年には、未来派の祖、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティがしばらくここに住んで、《カンナレージョ5662同盟》を結成している。
アレティーノは22年間ここに住み続け、家賃の代わりにソネットを書いて大家に渡していたが、1551年、ついに業を煮やした大家に追い出された。途方に暮れたアレティーノは、少し離れたカルボン岸の家に引っ越したが、その前に家主であるレオナルド・ダンドロ公爵(フィレンツェ公)と交渉して、年間60スクードを提供してくれるよう取り決めている。[アレティーノについては、次のブログ
《ダンドロ館》もご参照下さい。]
カナル・グランデに臨む同じ地区には、数年前までもうひとりの有名なピエトロ、すなわちベンボが住んでいた(1547年にローマで死去)。 ……」
――アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著『そのとき、本が生まれた』(清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日)から
- 2013/09/07(土) 00:09:00|
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暫くの擱筆ですっかり感覚がずれて終っています。取り敢えずは前の続きで、
楽しそうな事を考えて、再度ヴェネツィア行する気が起こりそうな事Pescecrudoサン・マルコ寺院と総督宮殿退院おめでとうございます。
引き続きのシリーズ、楽しみにしております。むさしの想坊市内での乗馬についてこちらこそ、宜しくお願い致します。むさしの想坊様市内での乗馬についてペッシェクルード
来年もどうぞよろしくお願いいたします。むさしの想坊久米邦武Minaさん、コメント、有難う御座います。
私もボッカッチョの生まれたチェルタルドと群馬県甘楽町とが姉妹都市だそうで、
一ノ瀬先生がその間の労を取られ、尽力されているpescecrudo