イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ベンゾーン・フォースコロ館、ピザーニ館、スッチ館、カジーナ・デッレ・ローゼ他

バルバロ・クルティス館の右へ更に遡上すると、ベンゾーン・フォースコロ館、ピザーニ館等と続きます。Elsa & Wanda Eleodori『大運河』(1993)は次のような事を述べています。
ベンゾーン・フォースコロ館、ピザーニ館、スッチ館「ベンゾーン・フォースコロ館――ゴシック・ビザンティン様式で建てられた古い工場があった場所に17世紀に建造された小さな館。ノービレ階には長方形の枠で囲まれた、アーチの上部を持つ一連の窓が際立っており、それは中央部に集められて、三連窓の張り出したバルコニーが迫ってくる。」
……
「ピザーニ館――1614~34年間に、バルトロメーオ・モノーポラに帰属する設計で建てられた。この大きな館は隣がサント・ステーファノ広場の隣のピザーニ小広場に主たる玄関が向いている。

1728年、ジローラモ・フリジメーリカによって拡張された。しかしピザーニの目的は、建物が大運河に直接面するということであった。1751年更なる購入で実現出来たことは、サンティッシモ運河との角に狭いファサードの建物を建てられたことである。

上層階の二つ並んだ二連窓に特徴がある。メインの階の二連窓には露台が付いている。」
……
「スッチ館――17世紀の建物。ファサードは大変単純であり、張り出した露台の付いた三連窓は、アーチ式の一面窓を両脇に従えた、セルリアーナ式の主要階に特徴がある。」
ステッキーニ館、19世紀住宅、カジーナ・デッレ・ローゼ「ステッキーニ館――1600年代の簡素な建物。各階の高さが同じであり、また内部の部屋の配置からいって、アパートとして建てられたと思われる。」

「キオード館――1700年代の建物。ファサードに窓を集めるという伝統的なやり方を止め、開口部(窓)――2、3階は新ルネサンス様式のアーチ型の窓――は壁面の広い空間に間隔を置いて配置されている。」

「カジーナ・デッレ・ローゼ(薔薇の館あるいは赤い小館)――ドメーニコ・ルーポロによりホーヘンローヘ公のために18世紀に建てられた素朴な建物で、ここに住んだ人々は知名度のある人々であった。

アントーニオ・カノーヴァはここにアトリエを設け、彼の最初の傑作『ダイダロスとイーカロス』を彫った(現在コッレール美術館蔵。ローマに発つ前にピザーニ家のためにこの群像を造形した、と言われている)。

ガブリエーレ・ダンヌンツィオは1915~19年ここに住んだ[『ヴェネツィアとその入江』(G.Lorenzetti 著)は戦争中1915~18年に住んだ、としています]。彼はエレオノーラ・ドゥーゼと共にヴェネツィアに在り、意気軒昂だった。そしてここで美しい『Notturno』を書いた。 ……」
ガブリエーレ・ダンヌンツィオヴィットリアーレ博物館チラシチラシ裏面ヴィットリアーレ博物館チラシ 2ヴィットリアーレ博物館チラシ 2裏面ガルダ湖畔ガルドーネ・リヴィエーラのダンヌンツィオのヴィットリアーレ博物館チラシより
追記(2013.11.04日): 現在、井の頭線の駒場東大の駒場博物館で『ダンヌンツィオに夢中だった頃――ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863-1938)生誕150周年記念展』が開催(~12月1日まで)されているそうです。上田敏、夏目漱石、有島生馬、三島由紀夫等、日本の錚々たる文学者達に読まれた、この作家の初の展覧会だそうです。ヴィットリアーレから愛用の遺品等も来日しているとか。興味のある方は次のサイトダンヌンツィオに夢中だった頃でお出かけ下さい。
  1. 2013/10/26(土) 00:02:07|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ポール・シニャック(Paul Signac)

2012.11.24日のフェリックス・ジアンでも触れましたように、ヴェネツィアで知り合った、F.ジアンが描いたヴェネツィアの絵の存在を教えてくれた仏人女性ベアトリスが、今度はポール・シニャックが描いたヴェネツィア絵画のことを教えてくれました。

現在は、ヴェネツィア、サン・ラッザロ・デリ・アルメーニ島のアルメニア教会付属図書館での本の修復の仕事を終えて自国に帰国し、マルセイユに住んでいます。この度マルセイユ近くのモンペリエで『ポール・シニャック展』があり、先日見に行ったところ、展観された作品の中に Venise を描いた物があった、あなたがその事を知れば喜ぶ筈だ、とメールを呉れました。彼女は帰国以来、言葉が仏語に里帰りしてしまい、仏語での対応が思うようにいきません。
ファブリ世界名画集 91 シニャックシニャックの生涯直ぐにフランス Wikipedia を検索してみました。私の所持するイタリア・ファッブリ社版の『ファブリ世界名画集 91 シニャック』にはヴェネツィア風景は見当たりませんでしたが、フランス Wikipedia には『Le Grand Canal a` Venise』という作品が掲載されていました。
Le Grand Canal a` Venise[ポール・シニャック画『ヴェネツィアの大運河』(1905年)。Wikipedia より借用] Paul Victor Jules Signac(1863.11.11パリ~1935.08.15パリ)は、初めモネの影響下に絵を描き始め、新印象派としてジョルジュ・ピエール・スーラと共に点描主義を追究したそうです。地中海に面したサン・トロペにアトリエを構え、動きのある晴朗な海景画を得意とし、1904年にはヴェネツィアを訪れ、ヴェネツィアの海景画も残しました。

シニャックの銅像が東松山市の彫刻通りにあるそうです。次の blog でどうぞ。ポール・シニャック
なおポール・シニャックの絵画については次のサイトでご覧になれます。Paul Signac。実物を見る旅をしたいものです。
  1. 2013/10/19(土) 00:01:56|
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文学に表れたヴェネツィア――大島真寿美

2011.12.17日に文学に表れたヴェネツィア――ティツィアーノ・スカルパを書きました。スカルパの作品『スターバト・マーテル』(河出書房新社)は、ピエタ養育院の前任者が止め、新たにアントーニオ・ヴィヴァルディが教師として赴任して来ることで物語は佳境に入る設定になっていましたが、本作品『ピエタ』(ポプラ社)は、ヴィヴァルディの訃報がピエタ慈善院に届いたところから、ヴィヴァルディの教え子エミーリアの思い出の形で物語は始まります。
『ピエタ』「わたしたちは孤児よ、とアンナ・マリーアが微笑んだ。もしかしたら、運河に捨てられたかもしれない命よ。運河に捨てられていたら、わたしはヴァイオリンを弾けなかった。うつくしい音楽に出逢えなかった。わたしはどんな人に生んでもらったのか知らない。どんな人から生まれたのか知らない。だからわたしを生んだのは、そう、そして、わたしを育んだのは、ピエタの音楽なの。わたしはピエタの音楽から生まれたの。ピエタはいつも音楽でいっぱい。……」
……
「ほんとうに、ほんとに、わたしたちは幸せな捨て子だった。わたしたちが、どんなに幸せな捨て子だったのか、ヴィヴァルディ先生が、あの頃作ってくださった、わたしたちのための協奏曲を聴けば、きっと何百年先の人たちにだってわかってもらえることだろう。」
……
「《知ってる? そういう職業があるのよ。新聞にね、記事を書く人のこと。近頃、いろいろ出てるでしょう、新聞。》
《そんな人がどうしてここへ?》
《十人委員会に処分された貧乏貴族(バルナボッティ)について調べてるんですって。国家に楯突(たてつ)いたと糾問(きゅうもん)されて、どうやら秘密裏に消されてしまった男がいるらしいの。追放されたのか、幽閉されたのか。もしかしたら殺されたのかもしれないわね。そのことを調べて告発しようとしているみたい。

あの男たちの中には学生もいるわ。それから運動家も。他にはイギリスで自由主義の思想を学んできた、学者の端くれ。市民にわかりやすく、国家権力の横暴を解説するつもりなんでしょう。

ヴェネツィア市民はね、権力に縛り付けられているということがまるでわかっていないの。自分たちは自由に生活を謳歌していると思いこんでいる。そういう意味では、うまくできているのよ、この国は。楽しいことがいっぱい、美しいものがいっぱい。そこそこ楽しいなら、まあいいじゃないか。……》」
……
「最終日の街は大賑わいだった。
長い冬のカーニバルを楽しめるのもこの日まで、ということになると、人々は競い合うように街へ繰り出してくる。
広場ではこんなにたくさんの人がどこから現れたのだろうというくらい、仮面をつけた老若男女が、自由気ままに祭りを愉しんでいた。道化や、即席の楽隊、物売り、大道芸人。籠にはいった極彩色の鳥だの、紐(ひも)にくくられた猿だの、犬だの。笛吹きの少年。朗々と声を張り上げる吟遊詩人。

おかしな恰好。派手な衣装。面白い鬘(かつら)。奇抜な仮面。外国の言葉も聞こえてくる。狭い路地ではすれ違うのもやっと。けれどもすれ違う人、すれ違う人、みな、うきうきと心が弾んでいるのがわかる。」
ピエタ養育院[故ピエタ養育院] 「……沖から見るヴェネツィアは息を呑むほど美しかった。傾き始めた日の光が黄味を帯びて、ヴェネツィア全体が黄金に光って見える。サン・マルコ大聖堂やドージェ宮。つくつくと高い鐘楼があちらこちらの天に伸びて。道をそぞろ歩く、小さなたくさんの人影。それからピエタ。あれはピエタ。」
 ――大島真寿美『ピエタ』(ポプラ社、2011年2月18日)より 
  1. 2013/10/12(土) 00:05:29|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィア室内合奏団(Interpreti veneziani)(3)

先日土曜日、昨年に続き、インテルプレティ・ヴェネツィアーニが来日しましたので、イタリア文化会館のアニェッリ・ホールでのコンサートに行ってきました。
ヴェネツィア室内合奏団ヴェネツィア室内合奏団パンフレット今年は私がファンであるチェロ奏者のダーヴィデさんが登場しませんでした。コントラバス奏者の父君のジャンニさんもヴィオラ奏者の姉上ソーニアさんの姿もありませんでした。今回は銃後の守りで、ヴェネツィアのサント・ステーファノ広場のサン・ヴィダール教会の定期演奏は、彼ら達がしょって立っているのでしょうか。

今回の演奏で、ヴィヴァルディの『四季』の《夏》のヴァイオリンを弾いたセバスティアーノ・マリーア・ヴィアネッロさんの演奏には感動しました。とりわけアントーニオ・バッズィーニの曲を弾いたニコーラ・グラニッロさんの bravura e virtuosita` には驚嘆しました。またヴェネツィアに行った時、ニコーラさんの演奏が聴けるとなると大変な楽しみです。
  1. 2013/10/07(月) 00:15:38|
  2. 音楽
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文学に表れたヴェネツィア――ヘンリー・ジェイムズ(3)

ヘンリー・ジェイムズと言えば、日本では世界文学全集などで『デイジー・ミラー』や『ねじの回転』等が紹介されています。『ねじの回転』はマイファンウィー・パイパー台本で、ベンジャミン・ブリテンがオペラに作曲し、1954年9月14日ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されました(ロンドン初演は同年10月6日)。

兄にアメリカ、プラグマティズム哲学の祖ウィリアム・ジェイムズを持つ小説家は、マルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスの心理小説の祖とも言われ、またイタリア好きの作家として『鳩の翼』同様に『アスパンの恋文』の舞台をヴェネツィアに選んでいます。この小説は前回書きました《バルバロ・クルティス館》で執筆されたようです。

《わたし》は、アメリカの大詩人ジェフリー・アスパンの研究をしており、大詩人が恋人だったミス・ボルドローに送った恋文を見たいと思い、何とか彼女が住むヴェネツィアの館の下宿人になることが出来たのですが……。
『アスパンの恋文』.「……ゴンドラが止まったと思うと眼前には古い邸があった。ひどくおちぶれていたが、ヴェニスでは威厳のある名を保っている種類の邸であった。《何てみごとなんでしょう! くすんだローズ色で》と夫人は叫んだ。これはこの邸にぴったりの描写だった。

とくに古いというのではなくせいぜい二、三百年ぐらいのものであった。落魄(らくはく)という感じよりも、むしろ花を咲かせることなしに終わってしまったというようなうらぶれた様子であった。

しかし広い前面は二階(ピアノ・ノビレ)の端から端まで石のバルコニーが張り出し、その他種々の壁柱やアーチがあって建築として立派なものであった。大部以前に何度か上塗りした漆喰(しっくい)が四月の午後の日差しの中でバラ色に輝いていた。

邸のそばを流れる運河は澄んでいるが、陰気な感じで、船の通ることはめったにない。運河の両岸には狭いリヴァ、つまり、便利な歩道がついていた。……」

「……彼女はわたしのゴンドラに乗り込んだ。祝意を表してわたしは船頭を一人ふやした。
 五分ほど進むと大運河に出た。ミス・ティータはまるでヴェニスに到着したばかりの旅行者のように感嘆のため息をもらした。よく晴れた夏の夕暮の大運河のすばらしさや、きらきら輝く水面上を大理石の宮殿の間を通って進んで行く爽快(そうかい)さを彼女はすっかり忘れてしまっていた。

ゴンドラは遠くまで進んで行った。派手な声をあげて感嘆するわけではないけれど、彼女が夢中になっていることはよくわかった。ただ喜んでいるどころではない。文字通り恍惚として解放感にひたりきっていた。落着いて景色を楽しめるようにゴンドラはゆっくりと進んで行った。

彼女は水を切る櫓の音に一心に聞き入っていたが、その音は船が小運河に入って行くとヴェニスの秘密を告げるかのように高くリズミカルになっていった。……」
 ――ヘンリー・ジェイムズ『アスパンの恋文』(行方昭夫訳、岩波文庫、1998年5月18日)より
  1. 2013/10/05(土) 00:02:39|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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