イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

天正遣欧少年使節(9)と支倉常長

「(続き)――彼らがイタリアの最初の地リヴォルノに上陸するや直ぐにピーザのお城での歓迎の祝宴に招いたのは、フィレンツェ公国大公フランチェスコ1世だった。その夜の舞踏会で伊東マンショと踊ったのは、この大公妃ビアンカ・カッペッロその人。日本人男子とダンスをした最初のイタリア人はヴェネツィア女性だったということになる。

というのは彼女はヴェネツィア貴族バルトロメーオ・カッペッロの娘だったからである。フィレンツェの青年と駆け落ちしたため、共和国からは貴族の資格を剥奪されたが、フランチェスコ大公に見初められ、身体脆弱だった大公妃没後、正式に結婚。その時前夫は既にその浮気相手だったある貴夫人の兄弟達に殺されていた。大公妃になるや共和国は彼女を《ヴェネツィアの娘》と称えた。

四使節歓迎会2年後、1587年トスカーナ大公と大公妃が疫病(?)で同時に死亡。近年、メーディチの墓を暴いてその49人の体格、死因その他を調査するプロジェクトが生まれ、病理学者、薬物史家、法廷毒物学者等が組織されたとヴェネツィアの友人がメールを呉れた。友人はビアンカの砒素による毒殺を主張していた。

その後友人は、2006年12月24日付 Il Giornale 紙の切抜きを送ってくれた。新聞はポッジョ・ア・カイアーノのメーディチ荘でビアンカが夫と共に亡くなったのは、当時囁かれていた噂通り、大公弟フェルディナンド枢機卿[毒殺後大公にのし上がる]に大量の砒素を盛られたがためと結論付けていた[2010年の他チームによる再調査は疫病説を取っている]。

天正使節の後1613年(慶長18年)、伊達政宗が支倉常長をスペインに派遣した。日本人の作った船(サン・ファン・バウティスタ号)で太平洋を横断し、メキシコを越え、大西洋を渡って慶長遣欧使節の一行はマドリードに到着した。マドリードでの交渉は難航し、資金の尽きた彼らをスペイン貴族がここまで来たならローマまで行って来るように、と資金を提供してくれたそうである。

ローマへの途次、地中海をイタリアに向かって航海中、嵐のためにサン・トロペ港に避難した。日本人としてフランスに最初の足跡を標したのは彼らであった。そのことを初めて明らかにしたのは仏文学者高橋邦太郎氏である。仏国のアルフレッド・タンによりカルパントラのアンギャンベルティーヌ図書館からサン・トロペ侯爵の書簡が発見され、氏によりその訳が『朝日新聞』1971年7月29日に紹介されたという。サン・トロペ侯爵は珍しい日本人の様子を事細かく書いているそうである。
Da Sendai a Romaパウルス5世支倉常長の像支倉常長支倉常長展[中央の左右は、「教皇庁から支倉に送られた物。パウルス5世(ボルゲーゼ家出身)と支倉の受洗を知らしめるもの。数珠を持ち、十字架に向かい合掌する姿はバロック期前の作品と思われる。日本に持ち帰られ、仙台藩の手酷い扱いながら、現在に生き延びた」(図版伊語キャプション)。右2点は、ボルゲーゼ家に残ると言われる Archita Ricci 画の肖像画。2014年の支倉常長展で来日しました。]

私がローマで購入した、上掲の『Da Sendai a Roma――Un'ambasceria a Paolo Ⅴ(仙台からローマへ)』(Edizione: Office Move)というA4版の支倉常長に関する本では、ボルゲーゼ家に残されている武士の正装をした彼の肖像画は、Archita Ricci の手になると書かれているが、『支倉常長――武士、ローマを行進す』(ミネルヴァ書房、2007年5月10日)の著者、田中英道教授は、当時ボルゲーゼ宮に滞在していた、伊名クラウディオと通称されていた仏人画家クロード・ドゥルエ(Deruet)の絵と主張されている[伊Claudio(クラウディオ)=仏Claude(クロード)。仏語式にはドゥリュエDeruet?]。

1615年パウルス5世に謁見後、彼らにヴェネツィアにも来て欲しいと要請があったのだが、支倉が体の調子を崩したので、日本から随行していた、ヴェネツィア出身のグレゴーリオ・マティーアスに挨拶状と贈呈品の書物机を託してヴェネツィアに送り、彼はジェーノヴァでグレゴーリオの帰りを待っていた。

明治初期、米欧を回覧した岩倉具視の一行が、イタリア最後の町ヴェネツィアに辿り着いたのは1873年、その地の東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内により、国立フラーリ古文書館で慶長使節と天正使節のヴェネツィア共和国への挨拶状を発見し、両使節の研究が日本でも始まることになった。――(終り)」

伊達政宗が慶長使節を派遣した(今年は1613年石巻港出港から400周年記念年)のは、2011年の東北大津波と同じような津波(1611)で破壊された仙台藩を復興すべく、スペインとの交易を目論んだためとされています。彼らが初上陸した(1615.10.18日)イタリアのチヴィタヴェッキアには記念の常長の銅像が建てられ、石巻市はこの町と姉妹都市となっています。またこの町には日本人画家、長谷川路可が修復し、26殉教者等のフレスコ画を描いた教会《日本聖殉教者教会》があります。
支倉常長像 日本聖殉教者教会裏面左、チヴィタヴェッキアの Luigi Calamatta 広場の支倉常長像(ウィキペディアから借用)。右、日本聖殉教者教会パンフレット日本語版。
また聖イグナティウス・デ・ロヨラやフランシスコ・シャビエル(旧ザビエル)等を祀る、ローマにあるイエズス会のジェズ教会には日本の26聖殉教者や5殉教者の磔刑の様を描く当時の絵画が教会奥に保存されています。旅行のついでにお願いし見せて頂いたことがあります。[追記: 26殉教者ではなく、元和の55殉教者の絵でした]
  1. 2013/11/27(水) 00:05:39|
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天正遣欧少年使節(8)

「(続き)――『カトリック大辞典』で四使節のことは概略読んでいた。ヴァリニャーノの『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』やルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳、東洋堂)を読んだ上で、撮って来た写真を伸ばしてカリタ同信会館の碑文を読んでみた。それは伊語に似ているが、16世紀のヴェネツィア語ではないかと思われた。ボエーリオの『ヴェネツィア語辞典』で調べても分からない言葉もあったが、その意味は概ね以下のようではなかろうか。
四少年遣欧使節伊東マンショ左、京都大学図書館蔵から、上右、赤い冠を手にする伊東マンショ。上中、メスキータ神父。上左、千々石ミゲル。下左、原マルチノ。下右、中浦ジュリアン[上左の白い手袋を印として手にする少年がジュリアンで、正使のミゲルを下右とする説明もあります]。
《日向藩主の甥で豊後藩主の教皇使節の伊東マンショ殿、有馬藩主そして大村純忠(バルトロメオ)氏の従兄弟の千々石ミゲル殿、肥前藩の重臣中浦ジュリアン殿と原マルチノ殿は1585年7月5日裏半球の極地日本から来訪し、ヨハネス・ベッサリオン枢機卿の遺贈されたこの同信会館の聖遺物を拝観した。藩主と彼らの名においてカリタ同信会館の名を高からしめるために、同じ名の同信会館を彼らの地にも建てることを誓約した。そのため大修道院長から下されたマントと付属品一式が、彼らに同信会館の名の下に贈呈された。我らが守護聖人の栄光がありますように。アーメン。1585年。》

文面のカリタ大同信会館は、現在アッカデーミア美術館となっている場所である。カリタの教会や大同信会館が廃止され、アッカデーミア美術館に衣替えされた1800年代初頭、この碑は近くの総大司教神学校の中庭に移された。それは当時神学校の司祭であったモスキーニがヴェネツィアの記念となる芸術品や歴史的遺物等を収集保存し始めていた時期でもあったからだそうである。

その上、松田毅一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫、1999年1月10日)によれば、彼らが宿泊したイエズス会の修道院宿舎は、現在の総大司教神学校の裏庭となっている場所辺りだったそうである。その老朽化した建物は1589年に大修理されたが、1606年には放棄されたと書かれている。

このセミナリオの歴史を読んでみると、かつてセミナリオ一帯には至聖トリニタ教会とその修道院があったが、ペスト鎮静化に感謝してサルーテ教会が建設されることになり(1630年)、そのためにこの老朽化していた教会と修道院は壊されたという。この狭い土地(島)の状況から察するに、使節が淹泊したイエズス会修道院とはこの至聖トリニタ修道院だったのではないかと推察される。

彼らが1585年3月1日にリヴォルノに碇を下ろしてからイタリアの旅が始まる。彼らがローマまでに通過した都市は、ピーザ、フィレンツェ、シエーナ、ヴィテルボ、バニャーイア、カプラローラ、そして3月22日ローマ着。ローマでは待ち倦んでいたグレゴリウス13世に拝謁。直後教皇が亡くなり、コンクラーベ後シクトゥス5世が選出され、新教皇にも拝謁した。2ヶ月のローマ滞在後、イタリアを巡りながらの帰国の途に就いた。

チヴィタ・カステッラーナ、ナルニ、スポレート、モンテファルコ、フォリーニョ、アッシージ、ペルージャ、カメリーノ、トレンティーノ、マチェラータ、レカナーティ、ロレート、アンコーナ、セニガッリア、ファーノ、ペーザロ、リーミニ、チェゼーナ、フォルリ、イーモラ、ボローニャ、フェッラーラ、キオッジャそしてヴェネツィアに到着(6月26日)。

ヴェネツィアではローマ以外では一番長期の10日間逗留した。その後はパードヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、マントヴァ、クレモーナ、ローディ、ミラーノ、パヴィーア、ヴォゲーラ、トルトーナ、ノーヴィ、ガーヴィを経てジェーノヴァに到達。ここから船でスペインに向かった(1585年8月8日)。」
 ――《天正遣欧少年使節》(9)に続く。
  1. 2013/11/23(土) 00:03:27|
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天正遣欧少年使節(7)

仲間との集まりの会報に天正遣欧少年使節の事を書いたことがありました。これはその文章の転載ですが、読んで頂ければと思います。

「二度目にイタリアに行った時、ミラーノ発ヴェネツィア行の列車をヴィチェンツァで途中下車した。この町はルネサンスの大建築家アンドレーア・パッラーディオの手になる建造物が潤沢であり、中でもテアートロ・オリンピコは必見であった。それは屋内劇場として現存する世界初の建造物であり、日本人にとって取り分け、この劇場完成直後の祝賀公演中(1585.07)に、四少年ローマ使節が訪れ、その記念フレスコ画が劇場内に残されていると仄聞してのことだった。
天遣歐使節その劇場前室の壁面に飾られた、そのフレスコ画を初めて見た時、胸の底から熱いものが込み上げてきた。少年達は当時の交通事情の中で、3年も掛けて、ローマを経てこんな田舎町までやって来たのだという感慨だった。そのフレスコ画は、劇場での歓迎会に出席した彼らを描いたものだった。

ヴィチェンツァの後、ヴェネツィアに行った時、四使節のヴェネツィア訪問を記念した碑があると聞いていたので、色々のインフォーメイションでその在り処を尋ね回ったが、その碑のことを知っている案内所はなかった。そんな中で偶々日本人が駐在する旅行社を見付けて入った。ブレンタ河をブルキエッロ号という船で遡上しながら、その両岸に立つ、ヴェネツィア貴族達の避寒避暑用の瀟洒な建物を鑑賞するツアーへの参加予約のためだった。

その序に天正使節の事を聞いてみた。その日本人の職員は知らないとのことだったが、知り合いの司祭に訊いてみましょうと電話して下さり、渡された受話器から日本語を話すイタリア人司祭の声で直接碑の所在地を教えて頂いた。

場所はサルーテ教会に向かって左隣の総大司教神学校(セミナリオ)だと教わり、電話番号も教えて頂いた。ホテルに帰り、4度めの電話で見学を許可出来る人に通じ、翌朝11時に門の前に来るようにと指示された。

翌朝11時門前で待ったが誰も現れない。暫くして中へ入ろうとする人がいたので事情を話すと、電話で話した人に取り次いで貰えた。ここの先生と思しき人が現れ案内され、門を入ると直ぐにキオーストロ(中庭)がありその一番奥の壁面にそれはあった。後でゆっくり読めるように大写しで写真を数枚撮った。深謝して直ぐに神学校を後にした。
天正遣欧使節の碑神学校訪問の数日後、《ブレンタ河ツアー》のブルキエッロ号にサン・ザッカリーア桟橋から乗船して、ブレンタ河口フジーナに向かった。ブレンタ運河はかつては本流であった。水流が潟に土砂を流し込み、潟が陸地化することを恐れたヴェネツィア共和国政府は、潟の外のアドリア海に本流が流れるように掘削して放水路を設け、ブレンタ河は運河化したのである。

このブレンタ運河にはレオナルド・ダ・ヴィンチ考案の閘門が3基あり、河の運河化はその頃のことだろうか。帰国して読んだアレッサンドロ・ヴァリニャーノの『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』新異国叢書5(泉井久之助・長沢信寿・三谷昇二・角南一郎訳、雄松堂書店、1955刊)の中に、この閘門の詳細が書かれており、少年使節はこの運河を通ってヴェネツィアからパードヴァへ向かったことが分かった。」
 ――《天正遣欧少年使節》(8)に続く。

キエーティ生まれのA.ヴァリニャーノはパードヴァ大学で学んだ人ですから、直ぐ近くのブレンタ運河のレオナルドの閘門のことは熟知していたに違いないと思われます、そんな『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』の詳しい記述です。
  1. 2013/11/20(水) 00:05:43|
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天正遣欧少年使節(6)

今日、九段のイタリア文化会館アニェッリ・ホールで『天正遣欧使節の偉業が今、蘇る』――伊東マンショ没後400年顕彰記念祭という催しがあり、参加しました。かつてこのブログで2008.03.21日の天正のローマ使節(1)~2008.04.18日の天正のローマ使節(5)で、彼らとヴェネツィアの関係について触れました。伊東マンショ達がローマで2人の教皇に謁見した後、帰国途次ヴェネツィアにも立ち寄っていたからでした。
伊東マンショ没後400年顕彰記念祭今回のイヴェントでは、鹿児島県立図書館館長原口泉氏の講演『伊東マンショら4人の少年たちが歴史を変えた』やテレビ宮崎制作『MANCIO(天正遣欧使節伊東マンショの生涯)』というDVDの上映。またマンショ所縁の音楽会としてマンショが体験したと思われる聖歌(マンショはエヴォラの教会でオルガン演奏を披露した)の合唱や、ソプラノの川越塔子さんら宮崎県出身者による演奏がありました。

彼らのヨーロッパでの行動は三宅坂の国会図書館に何度か通い、ルイス・フロイスの『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1949年)で知りました。四少年使節の事を三浦哲郎さんが『少年讃歌』(文春文庫、1986.11.10)として小説化されています(陣内秀信先生がヴェネツィア留学中、三浦さんが取材でヴェネツィアに来られた時、教皇庁神学校の中庭にある、彼ら記念の碑に案内されたと聞きました)。そして何よりも故若桑みどりさんの『クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国』(集英社、2003年10月30日)という550ページにも及ぶ大作があります。
クアトロ・ラガッツィクアトロ・ラガッツィ裏 巡察師ヴァリニャーノと日本四使節をローマに送る企画を立て、実行した伊人ヴァリニャーノについては、上掲のヴィットリオ・ヴォルピ『巡察師ヴァリニャーノと日本』(原田和夫訳、一藝社、2008年7月10日)が詳しいのですが、東洋への布教活動を最初に始めたポルトガル人やスペイン人ではなく、若いイタリア人が上に立つ巡察師に抜擢されたことでの苦労は色々あったようです。

「……最初、イエズス会総長と変らぬ大きな権限が彼に与えられていることが理解されなかった。ポルトガル人でなかったことと年齢が若すぎたことで、彼に対する抗議行動が持ち上がる可能性があった。だが、巡察師に与えられた権限は、東インド・イエズス会の全責任を彼に付託するもので、ポルトガル管区長に相談する義務もなかった。ましてや、一五九六年まで司教が置かれることのなかった日本では教会の全活動を指揮することができた。

しかし、この事実は、自国の発見した領土内の教会の商取引で独占権を与えられていたポルトガル人イエズス会士の指導部には、歓迎されるはずもなかった。特に、イエズス会の創設者を個人的に知り、現在の王のかつての後見人でもあったルイス・ゴンサルヴェス・ダ・カマラにとって、政治経験の少ない若造に意見されるのは我慢できることではなかった。

ポルトガル・イエズス会幹部は、自分たちの助言を聞かずにインド管区を指揮しようとするのは、無礼きわまる行為だと考えた。ヴァリニャーノ自身が言っているように、《彼らは、自分たちの手からインドにおける権限を取り上げたという事実を、黙って見過ごすことができなかった》のである。……」
 ――ヴィットリオ・ヴォルピ『巡察師ヴァリニャーノと日本』(原田和夫訳、一藝社、2008年7月10日)より

私がリンクさせて頂いている shinkai さんがブログヴァティカン訪問 天正四少年使節のご縁によりテアトロ・オリンピコサン・ベネデット・ポーで、四使節の事に触れられています。そちらもご上覧ありますように。また私が4人の中で最も関心の高い中浦ジュリアンについては、次のブログ中浦ジュリアン…天正遣欧使節団もご覧下さい[日本、ポルトガル合作のジュリアンを主人公にした映画が以前ありました。ミゲルが幕府の尋問役人に転向したという設定でした。題名は『アジアの瞳』だったでしょうか。映画館上映ではありませんでした]。
  1. 2013/11/16(土) 21:30:46|
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ブチントーロ船

ヴェネツィア共和国時代、センサの祝日の海との結婚式に活躍したブチントーロ船(Bucintoro, Bucentoro, Bucentorio, Bucentauro 等)は、共和国を滅亡させたナポレオンによって破壊され、現在に残っていません。Marcello Brusegan 著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton Editore、2007.10.)は、この船について次のような話を語ってくれます。
Bucentoroフランチェスコ・グァルディ画『リードのサン・ニコロを出港するブチントーロ船』カナレット画『センサの日、サン・マルコ広場に帰還するブチントーロ船』[左、『センサの日、海との結婚式のためリード島に向かうブチェントーロ船』。中、フランチェスコ・グァルディ画『リード島のサン・ニコロを出港するブチントーロ船』。右、カナレット画『センサの日、サン・マルコ小広場に帰還したブチントーロ船』]
「これは総督用の船である。金箔や彫刻その他の装飾品で豊饒に飾られた豪華船で、アルセナロッティと呼ばれる造船所の職人衆によって漕櫂(櫂舟)され、総督のお出まし用とか公式の行事の時に使用された。特にキリスト昇天祭の日の海との結婚式で、ヴェネツィアと海との固い絆を、アドリア海の波間に投げる高価な指輪をその確認の印として誓うために総督が波浪を切って進むのは、正しくこのブチントーロに乗船してのことだった。

セレニッシマ共和国は国の力と富を誇示せんがために、一つの船に出来る限りの権威を与えようと、国家の威信を掛けて1177年迄には製作していた。船はアルセナーレで保管され、屋根付きのドックに大切に収蔵されて、重要な式典の時だけ、艤装され、手際よく装飾が施されて進水した。

当然何世紀もの間にはブチントーロ以外の船も使用され、時にはそれに範を取って、それ以上に大きく、派手になった物もあった。法令と町の歴史を語る年代記によって色々の後続する船を再構成することが出来る。

最初のブチントーロは1177年であり、1250年頃の物がその次である。1312年の物、特に1526年のキリスト昇天祭の祝日の物がある。後者二つについては非常に正確な事が伝えられている。

1600年代初頭、使用中の船の状態が極度に悪くなったので、元老院は新造するための予算を計上した。手作りするには7万ドゥカートという巨額が必要とのことながら、将来の1606年5月10日に総督レオナルド・ドナをリード島のサン・ニコロの外海への入口に運ぶことになる船の建造が始まった。

それまでの船は最も熟練した大工達(maragoni)とアルセナーレの船大工衆によって手掛けられたが、舷側は木彫のセイレン像と竜の落とし子像が彫り込まれ、開廊を支えるのは渦巻き状の黄金の円柱と海豚を象った柱、また舳(みよし)は海の怪物達で飾られた。

それを取り壊すことが決められた1719年迄、1世紀以上に渡って使用された。しかしとても美しい物だったので、新造船の装飾用に彫刻等の多くを保存することが望まれた。

最後のブチントーロ船の建造は、職人頭だったステーファノ・コンティの指導の下で1722年に始まった。それは先輩の船よりはるかに大きく(全長35m、船幅7.30m)、ゼッキーノ金貨の金箔で完全に覆われ、新しい、夥しい木彫で飾られた。約40人の船員、1櫂に4人の漕ぎ手で168人の漕櫂手が漕ぎ、アルセナーレの艦隊司令長官が司令を下した。

1796年の総督ロドヴィーコ・マニーンの時が最後の使用で、その時正にナポレオン・ボナパルトがイタリアに侵攻し始めたのであった。1797年5月16日ヴェネツィアを占領した仏軍はアルセナーレに侵入し、ブチントーロ船に襲い掛かった。そして甲板上の物を切り刻んで船を破壊し、サン・ジョルジョ島で燃える物全てを焼尽した。

Prama Hydra と名付けられた船体は、リード港守護の大砲の台座として浮かぶ架台に姿を変えた。これは最終的に1824年壊された。最後のブチントーロ船の現在に残存する物としては、コッレール美術館に保管されているサン・マルコのシンボルとしての黄金の帆である。」
 ――Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton Editore、2007.10.)より
  1. 2013/11/13(水) 00:03:22|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの建物: コルネール・デッラ・カ・グランダ館

カジーナ・デッレ・ローゼ館から更に右に進むと右に巨大なコルネール・デッラ・カ・グランダ館が大運河を睥睨しています。R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)の表現は次の如くです。
Corner della Ca' Granda「1532年8月16日の大火で、サン・マウリーツィオのマロンブラ館が灰燼に帰した。キプロス女王の兄弟であったジョルジョ・コルネールがバルトロメーオ・マロンブラから2万ドゥカートで買っていた館だった。日記作家マリン・サヌードは記している。《トロイの街の大火と言えるなら、全て倒壊、岸辺の円柱を残して。もろもろが焼失し、崩壊した》。

この大惨事を引き起こしたのは、キプロス島から届いた大量の砂糖の山を乾燥させるために、最上階で燃やしていた石炭の火だった。誰も気付かぬ内に、屋根裏部屋の乾いた梁の下で燃えるコークスの熱が柱に火を点けたのだった。

《コルネール家が火事だ!》 と大運河で叫び声が上がった。瞬く間にメイン階に火が移った。更に火事は下の階の基礎部分に燃え広がった。砂糖以外に、70の寝台、礼拝堂、廊下に飾られた絵画作品、400スタイオ(約1万5千リットル)の小麦等。

ヤーコポ・サンソヴィーノの建築案による再建は、1533年に始まった。完成は1556年の後、スカモッツィの手によると思われる。コルネール・デッラ・カ・グランダ館を構想するにあたって、サンソヴィーノはヴェネツィアにトスカーナやローマのルネサンスのモチーフを取り入れた。

即ち、広い中庭、渦巻き模様のコーニスの付いた大きな円形窓、渦型装飾を施した大きな桁。またサンソヴィーノ作と思われる井桁があり、それは1824年からサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ広場に置かれてる。
[ジョルジョ・コルネールの息子ジャーコモは大火の翌年には礎石を据えさせ、個人住宅としては最大級の物とすることを目論んだということです。]

館は1812年までコルネール家の手にあったが、フランス式民主主義の支持者で最後の末裔ニコロは、デマーニオに売り渡した。内部には調度一式、書籍、絵画その中にはティントレット、ラッファエッロ、ティツィアーノの物が含まれていた。本来の装飾は天井の幾つかに残されている。

オーストリア支配下では建物にはオーストリア帝国支庁が置かれていた。イタリア統一後は県庁所在地となっている。」
 ――R.ルッソ『ヴェネツィアの館』(1998)より
  1. 2013/11/06(水) 00:04:24|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――フーゴー・フォン・ホーフマンスタール

オーストリア人文学者ホーフマンスタール(1874.02.01ウィーン~1929.07.15ロダウン)といえば、人名事典によれば「詩人・劇作家、台本作者。早熟な天才で、夢と現実との交錯の中に繊細な世紀末風の詩を書いて、10代でオーストリア唯美主義を代表する詩人となった。……」とあります。

日本では多分リヒャルト・シュトラウスのオペラ台本を書いたことがよく知られ、『エーレクトラー』(1909)を皮切りに、『薔薇の騎士』(1911)、『ナクソス島のアリアドネー』(初版1911-12、第2版1915-16)、『影のない女』(1914~17)、『エジプトのヘレナ』(1924~27、改作1933)、『アラベラ』(1924~29)の6作のコラボレイションがあるようです。

その彼とヴェネツィアとの繋がりを探索してみますと、岩波文庫版のホーフマンスタール著『チャンドス卿の手紙 他十篇』(檜山哲彦訳、1991年1月16日)に『美しき日々の思いで』という一篇があります。
『チャンドス卿の手紙』「到着したときは太陽はまだかなり高いところにあったが、ぼくはそのまま狭く暗い水路にはいっていかせた。……大広場をとりかこむ豪壮な館のうえには、その大気から沈殿したかのような夕映えの光の息が漂っていた。この光景をはじめて目にした姉弟は、まるで夢のなかだった。カタリーナが右手に目をやると、サンソヴィーノの館があり、あの列柱、あのバルコニー、あの歩廊があり、夕方の光と影がそれらから現実のものとは思えない情景――……」
と、ヴェネツィアに到達したことが分かります。

「……そうすれば、老魚の腹から手づかみで光をとりだせるのだ。呑み込まれてしまった光、それはあの美しい人の声。話をする声ではなく、身をゆだねるときのあのひそやかな笑い声。三叉の杈(やす)を探さなくては! さらに川上の杜松(ねず)の茂みのあいだに。丈は低いが、密生するとしっかりして強いのだ。心変わりしないことこそ杜松の力なのだから。

その茂みのしたにはいりこんでしまうと、ぼくはもはや姿を変えることはなくなるだろう。手だけをつっこんで、三叉の杈をつかもうとする。と、何かぴくりと動く。まだ口づけしたことのないカタリーナの唇だ。ぼくは身を起こし、もはや手をさしこもうとはしなかった。じっさい、そこで探しているものはもはや必要ではなくなっていた。

すでに夜明けが近かった。鐘の音やオルガンの響きが聞こえてくる。きっとカティはもう、そっと階段を降りて、サン・マルコ聖堂でお祈りをしているだろう。子供のように唇を動かして祈ったあとは、金色の礼拝堂のなかで黙ったままうっとり夢見心地になっていることだろう。……」
 ――ホーフマンスタール著『チャンドス卿の手紙 他十篇』(檜山哲彦訳、岩波文庫、1991年1月16日)より
  1. 2013/11/02(土) 00:04:04|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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