イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

12月31日

日本では一年の最終日に、例えばベートーベンの第九を歌う習慣が出来ているように、色々コンサートがあるのが普通です。シルベスター・コンサートとか独語式にジルヴェスター・コンツェルトとか言うそうです。イタリアでは大晦日のことを“notte di san Silvestro(サン・スィルヴェストゥロ〔聖シルウェステル〕の夜)”と言うそうです。Silvestro を Giuseppe Pittano 著『名前辞典』(Manuali Sonzogno,1990.03)で調べてみました。
名前辞典「Silvestro という名はローマ起源の名で、ラテン語の形容詞形 silvester が元々の形で、silvestre(森林の)、boscoso(森に包まれた)、selvoso(樹木の生い茂った)の意である。森、田舎、平原で生きるということで、selvaggio(森に生育する)、selvatico(野生の)の意でもある。

だからそれは、Silvio、Silvano、Silvana 等の名前の狭い意味での生みの親であり、全てはラテン語の silva から来ている。silva=bosco(森)、selva(森林)。

この名を持つ人に、3人の教皇と対立教皇、そしてシルヴェストロ同盟の画家がある。文学では、アナトール・フランスの『Le Crime de Sylvestre Bonnard(スィルヴェストゥル・ボナールの犯罪)』の主人公。現代では、映画『ランボー』シリーズ等の俳優 Sylvester Stallone があり、漫画の主人公“Silvestro”も親しまれている。
聖シルヴェストロ[聖シルウェステル像。サイトより借用] 教会にとって教皇 SilvestroⅠ(聖シルウェステル1世――在位314~335)の名は忘れられないものである。彼は335年12月31日に亡くなったために、この日がシルウェステルの祝日である。この名の人はこの聖名祝日で一年を終える。
[事典によりますと、癩病に罹ったコンスタンティヌス1世(最初のキリスト教徒となったローマ皇帝)に洗礼を施し全快させ、財産を寄進されたという伝説があり、またローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂を建立。美術作品で共に描かれるのは牡牛(彼が蘇生させたという伝説)、竜(毒を吐く口を封じた)等。石工、左官等の守護聖人である、等々。]

Silvestro の変化形: Silvestre、Silvestri、Silvestra、Silvestrina。仏語Sylvestre。英語Sylvester、Silvester、Vester、Vessie。西語Silvestre。露語Silviestr。」
サン・シルヴェストロ教会ヴェネツィアのサン・スィルヴェストゥロ教会はリアルト停船場次の対岸の駅《サン・スィルヴェストゥロ》で下船して直ぐ右へ軒下通りを抜け、広場の先にあります。『Calli,Campielli e Canali』(Edizioni Helvetia)はこの教会について次のように述べています。

「9世紀の建造。最初の改築は1400年代のこと。何世紀にも渡って色々手が加えられたが、最後の大改築は1840年代のことだった。ファサードの改装は1909年のことで、17世紀のものである聖シルウェステルの大理石像が付け加えられた。」

シルウェステルを名乗る教皇は4世まであり、1世(314~335)、2世(999~1003)、3世(1045-45)、4世(1105~11)と在位しています。

この日には、クリスマス・イヴの食事のように色々の食材を使って“新年の夕食”と称して豪華な食事をするのが伝統だそうですが、特に欠かせないのはレンズ豆(lenticchia――これを食べると金運に恵まれる)とツァンポーネ(zampone――豚の足の皮に詰め物をしたソーセージ)か コテキーノ(cotechino――豚の肉、脂身、皮で作る腸詰)で作った料理を食べて、新年を迎えるのだそうです。また veglione di S.Silvestro というのは、その年最後の大舞踏会です。

[長い間、教皇の名は事典等にあるように、古典羅典語式に呼称するものと思い込んでいました。偶々カトリック中央協議会の教皇一覧を見ると伊人は伊語式の発音で書かれています。聖シルウェステルは聖シルヴェストロがカトリック式と分かりました。この機会にベネディクト16世(ベネディクトゥスと勘違いしていました)の辞任の弁もPC上で聞きました。教会ラテン語らしく聞こえました。古典羅典語式発音をしていると現実に話されるラテン語は理解出来ないということでしょう。今後はカトリック中央協議会式も参考にします。]

一年間、勝手なヴェネツィア的よし無し事を書き連ねてきました。読んで下さっていることに大変に感謝しています。
読んで下さっている皆様のご健康を、また来年が良き年でありますよう祈念致します。
  1. 2013/12/31(火) 00:02:44|
  2. 固有名詞
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ヴェネツィアの建物: フランジーニ・フィーニ館とマノレッソ館

ピザーニ・グリッティ館を更に右へ進みますと、右のオストレゲ運河(r.delle Ostreghe[=ostrica牡蠣]の右に、フランジーニ・フィーニ館[掲載した写真は Ferro Fini 館としています]が現れます。R.ルッソ 著『ヴェネツィアの建物』(1998)は、この館について次のように述べています。
フランジーニ・フィーニ館ほか「1638年弁護士トンマーゾ・フランジーニは、ジャンバッティスタ・コンタリーニからサン・モイゼ地区の2棟の建物を手に入れ、今日見るような館を建てた。あらゆる可能性を考慮すると、この建築案はピエートロ・ベッティネッリに委ねられたと思われる。この名前はフランジーニの1628~45年の帳簿にしばしば登場する。

トンマーゾの娘マリエティーナはその後フィーニ家に建物を売却した。時あたかも、夫ベネデット・ソランツォと共にサン・ジェレミーア地区の新居に移り住むと決定した時のことのようである。

フィーニ家はキプロス(Cipro)島出身で、商売で莫大な富を築いていた。相当以前からヴェネツィアに移住してきており、1649年にはヴェネツィア貴族の一員となっていた。その世紀後半、建物を刷新しようと大運河沿いの館の大半を改築した。信頼出来る説によれば、建築はアレッサンドロ・トレミニョンが手掛けた、と。この一家は既に彼に、近くのサン・モイゼ教会の豊饒なファサードを注文していたのである。

[「サン・モイゼ教会は、8世紀に創建され、聖ウィクトル(S.Vittore)に献堂された。10世紀モイゼ・ヴェニエールとかいう人物により再建され、教会は彼の名に因むことになる。現在の形は1632年のもので、1668年のファサードはアレッサンドロ・トレミニョンの手になる華麗なバロック建築である。鐘楼はヴェネツィアの典型的な1300年代形式のものである」
と、『Calli, Campielli e Canali』は述べています。]

続いて所有権の移動とそのホテルに適合させる工事のお陰で、内部の1700年代の豪華な装飾群は姿を消した。スタッコ細工の額縁に収められた絵画群、金箔やポリクロミーで装飾された梁や桁等のトラス類、大量の調度備品類は失われてしまった。

1800年代グランド・ホテルと称するホテルだったが、ヴェネツィア長期滞在が何度かある、そのある時期、ジョン・ラスキンが宿泊した。建物は杉の大木の土台の上に立ち上がっていると言われている。現在、ヴェーネト州の所有で州議会の所在地である。」

フランジーニ・フィーニ館を更に進みますと、右にマノレッソ館[『ヴェネツィアとその入江』(1926)はマノレッソ・フェッロ館としています]が現れます。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館を次のように書いています。

「15世紀後半の建築によるこの館は、ファサードに見られることから分かるように、色々の改築を経ている、即ち、3階の尖頭式窓は2階や4階のルネサンス様式の窓と対比される。この館は1800年代にも増築された。隣のフランジーニ・フィーニ館と共に州議会の所在地である。

古い年代記は記している、ステーファノ・マノレッソとか名乗る人物は、元老院の会議に遅れてしまい、馬に拍車をかけて疾走し、サン・マルコ鐘楼傍で若者を跳ね飛ばし、死に至らしめたことがあった。こうした出来事は少なからずあり得たことのようで、1400年代に出た通達は、サン・マルコ広場で馬をギャロップで走らすことを禁じている。

この事がヴェネツィア人を揶揄するような伊語の言い方の元となり、チンタラしたのろい歩調で馬を走らすことを、《ヴェネツィア式に乗馬する(cavalcare alla veneziana)》と言うようになった。
[これは現在、修道女運転の車や、あるいはヴェネツィア・ナンバーの車を見たら気を付けろ、近付くな、というドライヴァー仲間の言い方に繋がっているのでしょう。]

1500年代の証言が教えてくれること: ある理知的な貴族が馬がどうしても進まないので、空中にハンカチを広げ、それを見て〝理に適った″言葉を吐いた、《この哀れな動物は動こうともしない、向かい風なのだ》と。」

マノレッソ館右隣は、シェイクスピアの『オセロ』で有名な〝デズデーモナ″の館コンタリーニ・ファザーン館です。この館については、2010.07.03日にコンタリーニ・ファザーン館で触れました。
  1. 2013/12/25(水) 00:10:08|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ピザーニ・グリッティ館

サンタ・マリーア・デル・ジーリオ広場のトラゲット乗り場の右隣にはピザーニ・グリッティ館が現れます。R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)はこの館について次のように述べています。
ピザーニ・グリッティ館「今日においてもかの有名なグリッティ・パレス・ホテルであるピザーニ・グリッティ館には、アーネスト・ヘミングウェイが数ある長期のヴェネツィア滞在中、この豪華なホテルを愛した客として、その名を冠したスイートルーム(続き部屋)が存在する。

この米人作家以外にも、ピザーニ・グリッティ館の部屋は重要な作家を招いている、時いまだスザンナ・ヴェツラー男爵[オーストリア貴族]夫人の持ち物であった時代のことである。1851年5月男爵夫人は、ジョン・ラスキンとその若き妻エフィー・グレイを迎えた。ラスキン夫妻にとっては2度目のヴェネツィア滞在であり、ジョンは著書『ヴェニスの石』の執筆中のことであった。

エフィーはヴェツラー男爵夫人その人や《very curious old Lady》のエッセンスの詰まったような馥郁たる部屋に感動し、大変心地よい思いにさせられた。ピザーニ・グリッティ館で男爵夫人はヴェネツィアの貴族階級の集まるパーティや舞踏会を催し、その有名な邸宅に古き良き華やかさを蘇生させたのだった。

このゴシック様式の建物は14世紀に遡り、最初はピザーニ・ダル・バンコ(banco=銀行)というピザーニ一族の最も富裕な一家の所有であったが、その建物のファサードは《プット(子供)達が気儘に戯れる姿や、中央にはバッコスとウェヌス、マルス、メルクリウスの4人の平凡な図像》を表示するジョルジョーネの絵画やフレスコ画で飾られていた。残念ながら外部に描かれたその絵は、今日跡形なく消滅してしまった。

1814年、館はカミッロ・グリッティが購入し、グリッティ家の手に渡った。カミッロの祖母コルネーリア・バルバロ・グリッティはアウリスベ・タルセンセという名の18世紀アルカディア派の閨秀詩人であった。非常なる佳人であり、ユーモアに対する才鋒覆い難く、精彩を放つ精神生活を送った。また詩人アンジェロ・マリーア・バルバロの姉妹であり、カルロ・ゴルドーニ(彼はコメディ『Cavalier Giocondo(騎士ジョコンド)』を彼女に献呈した)の友人であったが、当時の文学者達のお気に入りのサロンを開いていた。

コルネーリアの息子であり、この館を入手したカミッロの父、カミッロ・ベルナルディーノ・グリッティもまた詩を愛し、彼に敬意を表して頌歌を書いたジュゼッペ・パリーニのような文学者とも友人だった。

グリッティ一族のオリジンは大変に古い。1104年ジョヴァンニ・グリッティとかいう人物はアークリ(カラーブリア州コゼンツァ県の町)での戦の時、最初のキャプテンとなった人物であり、もう一人のジョヴァンニは、1360年コルフ(現ケルキラ)島の大司教に選ばれた。

アンドレーア・グリッティ(肖像画が今日ワシントンのナショナル・ギャラリーに収蔵)は、1500年代の総督中、最も傑出した人物だったが、一族の中でも最も著名である。若かりし頃はコンスタンティノープルの商人、カンブレー同盟戦争中の指揮官、続いて共和国外交官(大使)となった。
ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』[ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』。サイトから借用] 1800年代、グリッテイ家はヴェツラー男爵夫人に大運河に面したこの館を売却した。続いて館はホテルに模様替えされた。」

PCを見ると次のような記事もあります。
「《グリッティのテラスで腰を下ろして寛いでいる時ほど快い時は、人生の中ではさほどない……》と作家ウィリアム・サマーセット・モームは、ホテルの最初の顧客として書いた。米人映画監督ウッディ・アレンは妻スーン=イーとハネムーン初夜を偶々ここで過ごした。数ある著名な顧客の中には、特にフランシス・スコット・フィッツジェラルドとヘミングウェイがいる。」

[このホテルは15ヶ月の工事を経て、全面的に改築され(建物外部は基本的に変更不可)、今年1月31日再オープンしたとLa Nuovaの記事にありました。]
  1. 2013/12/18(水) 00:01:09|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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フェニーチェ劇場10周年

本日のLa Nuova紙を読むと、1996年1月29日フェニーチェ劇場が放火で焼失し、2003年12月14日に曲りなりにも再開場して、今日で10周年記念となると伝えています。

La Nuova の記事によれば、フェニーチェ劇場は明日はロリン・マゼール指揮のベートーヴェンの第九の演奏でお祝いをするようです。

私が2度目のヴェネツィア行をした1996年、劇場焼失直後で、劇場前の階段に山のような弔意の花束が捧げられていました。1836年の焼失の時には、1年足らずで再建なり公演が行われたそうですが、今回は放火であることが明らかになった上、その後の再建業者の勝手な遅延策が判明し、市により駄目な悪徳業者を排除して7年越しに再建に漕ぎ付けました。
フェニーチェ劇場図録 1792年のフェニーチェジョヴァンニ・ピヴィドール1977年のフェニーチェ劇場左端、焼失前のフェニーチェ劇場図録。左、1792年 Giseppe Sardi 作品。中、1837年 Giovanni Pividor 作品。右、焼失前の舞台写真。

また下掲の本はフェニーチェ劇場焼失の真相を我々に知らしめてくれます。
ヴェネツィアが燃えた日『ヴェネツィアが燃えた日』(ジョン・ベレント著、高見浩訳、光文社、2010年4月25日)

追記=12月15日のフェニーチェ劇場の模様は、次のLa Nuova 2をどうぞ。キャプションをクリックすると写真が見られます。
  1. 2013/12/14(土) 20:16:01|
  2. ヴェネツィアの劇場
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(4)

2009.05.23~05.30日に書いたアンリ・ド・レニエ(1)~(2)で触れた、『世界名詩集大成 3巻 フランスⅡ』(平凡社、昭和37年4月1日)中の『水都幻談』は、1994年5月に同出版社から平凡社ライブラリー版『水都幻談――詩のコレクション』として再版されています。2011.08.27日のアンリ・ド・レニエ(3)でもレニエについて触れました。

そのド・レニエがイタリアに赴き、ヴェネツィアに到着したのは1899年だそうで、彼は一目でヴェネツィアの虜になってしまったようです。以後彼の作品には、しばしばイタリア、とりわけヴェネツィアが舞台として登場するのだそうです。

下掲の作品『生きている過去』(窪田般彌訳、岩波文庫、1989年11月16日)は、チェスキーニ伯爵の舞踏会でワトソン嬢との結婚話が最終的に終りとなったジャン・ド・フラノワに、主人公ロオヴローが費用は自分が持つからイタリアを旅行しようと持ち掛け、ナーポリ、ローマ……ヴェネツィアと旅をします。
『生きている過去』『ロオヴローはジャン・ド・フラノワにいったとおり、ヴェネツィアで《カザノヴァ風》に暮した。
大好きな英雄のあとを追って、彼は熱心にこの町を歩きまわった。そこはカザノヴァが執政官官邸の廻廊を気どって散策した時代から、ほとんど変っていなかった。サン・ジョヴァンニとサン・パオロ両聖人の広場には、コレオーニの像があいかわらず立っており、その足もとで、ムラーノの修道院からゴンドラでやってきた美人修道尼が、恋人のカザノヴァと落ちあったのである。

カザノヴァがコルフやフジーナに向かって舟に乗ったサン・マルコ小広場は、依然としてその大理石の階段を潟の海水にひたしていた。この運河のそばの小さな橋は、まさしく、ある夜彼がラツェッタを棒でたたいたところである。サン・タンジェロ広場の彫刻があるこの井戸は、彼がある晩、石卓を取りのけてしまった井戸である。

その頃の彼は、ブラガディーノ氏と出あってカバラをやってみせる前のことであり、サン・サムエーレ座のしがないヴァイオリン弾きとして良からぬ生活をおくり、深夜に悪ふざけをして町じゅうを恐れおののかせていた。彼がひそかにゴンドラの纜(ともづな)をといたのは、ここの《渡船場(トラゲット)》においてである。

総督宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)のなかでは、プロン[piombo(鉛監獄)の仏語式表記]脱走の道順をねりなおすことができた。あの名高い書物に描かれていることは、それが演じられた同じ場所に今も一つ一つ甦っていた。

もちろん、衣裳の色とか布地のきらめき、あらゆる流行の衣裳やお仕着せや制服、あるいはまた、赤い服の元老院議員、トルコ風の身なりをしたスラボニア人、鐘の揺れと音楽の響きに合わせて行進や行列を楽しみ、六カ月もつづく謝肉祭の狂乱に酔いながら陽気にはしゃぎまわる群集、といったものには欠けている! 

しかし過去の、ロオヴローが当時の絵やデッサンに見出した人物たちのいる過去の、その幻影をみるのに好都合なヴェネツィアの景観は、いまも変らず残っていた。グァルディ、カナレット、ロンギ、ロザルバといった画家たちはロオヴローのために、華やかな各自の衣裳を身につけ、板についたしぐさをする人物たちを描いてくれていたのだ。

カザノヴァと同時代の彼らは、化粧や仮面やかつらの下から、今なお、ロオヴローにほほえみかけていた。

アヴァンテュロスという名前にしてリーニュ公はカザノヴァの肖像画を描いているが、そのカザノヴァはわれわれに、ヘラクレスばりの頑丈な体軀と、いきいきとした目と、《アフリカ人の顔色》をみせている。」
……
「《お好きな町はどちらでした?》
彼は一瞬ためらった。
《ヴェネツィアです。》
そしてさらにいった。
《とても美しく、悲しいところです。あすこでは人は誰も、自分を待っている誰かと会うのじゃないかと、つねにそんな気持を抱くんです。人気のない小さな広場がいくつもあって、まるでそれらが、神秘的なめぐり会いのためにつくられているようなのです……。》 ……」
 
最後の引用部は、レニエのヴェネツィアに対する思いが作品の中に素直に表現されたのだという思いを抱かせます。
  1. 2013/12/11(水) 00:03:11|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: ミノット館、バルバリーゴ館、マニーン・コンタリーニ館、ヴェニエール・コンタリーニ館

グランダ館を更に右へ進むと、サン・マウリーツィオ(S.Maurizio)運河の隣にミノット(Minotto)館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は簡単に次のように触れています。
ミノット館ほか「12~13世紀のヴェーネト・ビザンティン様式だった建物が、15世紀半ば頃ゴシック様式で建て替えられた物。そのオリジナルの幾つかの要素、天地逆のアカンサスの葉模様の美しいコーニスのような物は残された。ノービレ階では尖頭式三連窓の脇に一面窓が置かれている。

ジェローラモとかいう人物は護民官だった古い家系出身でコンスタンティノープル(Costantinopoli)のバイロ(bailo――コンスタンティノープルの外交官)であり、1453年トルコ軍がこの都市を征服した時、英雄的な戦死を遂げた。」

更にその先のバルバリーゴ(Barbarigo)館については以下のようです。

「1600年代の簡素な建物。左側のセルリアーナ式窓は、玄関大門が軸線となって右側の一面窓に囲まれた広い空間との対比を成している。ここで1655年、尊者グレゴーリオ・バルバリーゴが生まれたことがファサードに嵌め込まれたプレートに書かれている。」

更に『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』(Tipografia del Centro Grafico di Noale)は、この館について次のような事を述べています。

「……この館でかの有名な、ベルガモとパードヴァの枢機卿であり司教であったグレゴーリオ・バルバリーゴが誕生したと考えられている。特に有名なのは、彼によって創設されたと言われているパードヴァ神学校の印刷所である。この有名な印刷所から宗教本のみならず、文学、科学、言語学等の書物が出版された。

これらの書物は、扱われたその内身に拘泥することなく自由に編集され、取り分け18世紀のヴェーネトの最も優れた出版物と考えられている。現在も生存するパードヴァのこのグレゴリアーナ出版の書物の出版傾向等は変わってしまったのだが。」

更にサンタ・マリーア・デル・ジーリオ(S.Maria del Giglio)運河を挟んで、右隣のヴェニエール・コンタリーニ(Venier Contarini)館とマリーン・コンタリーニ(Marin Contarini)館について『大運河』(1993)の記述は:
「ヴェニエール・コンタリーニ館は、美しいゴシック様式の建物で、ヴェニエール家によって15世紀半ば頃建てられた。3階の尖頭アーチ式窓の作りは右に寄った四連窓であり、一方2階は古典様式で作られたものである。最上階の中央の四連窓は三葉飾りで、ファサードのバランスを壊している。」

「マリーン・コンタリーニ館は、張り出した露台で強調された、中央の三連窓が特徴の1500年代の建物である。」

[掲載の写真や Alberto Toso Fei 著『I Segreti del Canal Grande』(Edito da Studio LT2)等は『大運河』(1993)の表記法と異なって、前者をマニーン・コンタリーニ(Manin Contarini)館、後者をヴェニエール・コンタリーニ(Venier C.)館としています。表記法の決まりはないということでしょうか?]
  1. 2013/12/04(水) 00:02:58|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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