イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ヴェニエール・コンタリーニ館、ミキエール・アルヴィージ館他

コンタリーニ・ファザーン館から更に右へ進むと、右隣はヴェニエール・コンタリーニ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館について次のように述べています。
コンタリーニ館ほか「15世紀後半のゴシック様式建築で、四連窓を中心に完全に左右対称のファサードである。3階の窓は下の階の物より窓丈が高く、オジーブ式等装飾豊富で、より後期の物と思われる。そして玄関門は、その後の時代に改装された。」

更に右隣のミキエール・アルヴィージ館についての、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)の記述は:
「1600年代の建築で、中央大広間を強調するために2階はセルリアーナ式窓である。ファサードは窓と窓を結ぶ石製のコーニスが水平方向に走っている。」

その右隣ガッジャ館、更に右隣には17世紀の建物である華麗なホテル・エウローパ・エ・レジーナがあります。この二つの建物の間にトラゲット通りがあり、G.ロレンツェッティ著『ヴェネツィアと入江』(1926)はこの通りについて次のような事を書いています。
「元々はジュスティニアーン家の物だったが、アルヴィーゼ家の第二の館となり、現在はガッジャ館となっている建物に由来し、対岸のサン・グレゴーリオ修道院との間に海賊の進入を防御するための封鎖装置である鉄の鎖が張られていた。9世紀の終りに設置され、その城壁は当時、サンタ・マリーア・ゾベニーゴ広場まで続いていた。」

ホテル・エウローパ・エ・レジーナの大運河を直接望める1階テラスの空間を過ると、ホテルの一部でもあるバドエール・ティエーポロ館へと続きます。この建物について『大運河』(1993)は:
「17世紀に建てられたこの建物は、左側の部分が未完成のまま残されたのだが、その後改装された。右に一面窓を2面従えたアーチの三連窓は露台が張り出している。……」 
バロッツィ・コルネール・エーモ・トレヴェス・ボンフィーリ館更に進むとその右は、エーモ・トレヴェス・デイ・ボンフィーリ館となります。『大運河』(1993)の記述を見てみます。
「この館もまた17世紀初頭、バロッツィ家の商館としての居宅があった場所にバルトロメーオ・マノーポラに帰属するとされる設計で建てられた。右半分は当時の姿を留める。玄関門のセルリアーナ式、軒のコーニスを支える大きな腕木に特徴がある。

1827年トレヴェス家の獲得するところとなり、内部の改装を完璧なまでに成し遂げようとし、ネオ・クラッシック様式の居宅としては最も華麗なものの一つとなった。望楼、新しい大階段、ジュゼッペ・ボルサートが装飾を施した、後陣を持つ形の美しいサロンが出来、そこに収めるためにアントーニオ・カノーヴァの二つの大彫刻『(トロイアの)ヘクトール』と『(ギリシアの)アイアース』を入手した。他の部分はジョヴァンニ・デミーンとセバスティアーノ・サンティの協力の元、ボルサートによって装飾された。

トレヴェス家はオーストリアから到来した一家で、その大なる功績と皇帝に貸し付けた莫大な融資のために男爵に叙位された。この館にはメッテルニヒ公、また同じように皇帝ヨーゼフ2世が鑑賞に訪れた貴重な芸術作品が収集されていた。」
  1. 2014/01/29(水) 00:02:24|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文芸評論に表れたヴェネツィア――鳥越輝昭(3)

『表象のヴェネツィア――詩と美と悪魔』(春風社、2012年11月21日)は、神奈川大学の公開講座で話されたこと等を土台に執筆されたようです。中身は《カナレットと逃げ出す芸術家たち》《バイロンと「ためいきの橋」の出現》《『マリーノ・フェリエーロ』と『ヴェネツィアの一夜』の貴族政批判》《『夏の嵐』と『ヴェニスに死す』のなかの魔界》《『ホフマン物語』――悪魔と鏡》《レニエ『顔合わせ』と鏡の照応》《L・P・ハートレー――異文化と罰》《『旅情』のなかの異文化》《ホイッスラーと裏町の詩情》《<死の町>ヴェネツィア――「死の潟」と<ゴンドラ=棺>》《ヴェネツィア表象史とディエーゴ・ヴァレーリ》と目次にあります。
『表象のヴェネツィア』中でも第一章《バイロンと「ためいきの橋」の出現》は興味深いものでしたので、この章から抜書をしてみます。
「……この十七世紀初めに架けられた石造りの橋は、その後の百数十年間はおそらくは名所ではなく、《ためいきの橋》という呼び名もなかった建造物だったようで、ヴェネツィア共和国の消滅前後からにわかに名所化したものらしい。《ためいきの橋》のそういう劇的変化は、大局的にはヨーロッパの思想風土の変化に起因するものだが、直接的には英国の詩人バイロンによる表象の仕方が大きく作用した。」
……
「……カナレットの絵のなかでは、重要なモニュメントがひとつ欠けている。この絵は、その名所を見せることをまったく意図しない画角から描かれているのである。その名所とは《ためいきの橋》である。だが、およそ百年後にターナーがほぼ同じ場所を描いた絵のなかでは、《ためいきの橋》は主題となり、実際より高い位置に置かれて強調されている。
カナレット『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ潟岸』溜息の橋[左、カナレット画『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ湾岸』部分(1740 ca.)。右、2013年の《ターナー展》で来日したターナー画『溜息の橋』(1840)。] ツーリング・クラブ・イアリアーノ刊の都市ガイドブック『ヴェネツィア案内』は充実した内容で知られる書だが、《ためいきの橋》を扱う箇所に、「この名は、おそらく、ロマン主義時代に、思いつきで作り出された名だろう」という興味深い一文がある。この指摘は表面的にはかならずしも正確ではない。

カサノヴァの『回想録』を見ると、1750年代、ヴェネツィアの牢獄からの脱出を記す有名なくだりに、「いわゆる《ためいき》という名の橋 le pont qu'on nomme des Soupirs」という表現が見られるからである。[カザノーヴァの『回想録』執筆時は1780年代]
……
「……ゲーテとおなじころヴェネツィアを訪れた人物のなかに英国の文学者ウィリアム・ベックフォードがいるが、ベックフォードは《ためいきの橋》に強く惹きつけられている。……ベックフォードの頃には、統領宮殿と国家監獄とを結んでいたこの橋は、橋を渡らされる囚人たちの《ためいき》を連想させる建造物になっていたらしい。……

カサノヴァ『回想録』に見られる「『ためいきsoupirs』という名の橋を越えて牢獄に入れられた」という表現や、ベックフォードの「この建造物が《ためいきの橋 Ponte Dei Sospiri]』と名づけられているのも無理からぬことだと思う」という表現に注目すると、1780年代ごろまでには、現地ヴェネツィアでこの橋が《ためいきの橋》と呼ばれるようになっていたことが推測できる。……」
……
「当時のヴェネツィアでは地元の人達の間で、この橋が《ためいきの橋》と呼ばれていたと見てよいだろう。いいかえれば、それはローカルな呼び名であり、この橋はローカルな存在だったわけである。そういうローカルな存在だった《ためいきの橋》を、一躍ヨーロッパ全土に知らしめ、有名にしたのが、バイロンの詩のつぎの二行である。

I stood in Venice, on the Bridge of Sighs;(ぼくはヴェネツィアの《ためいきの橋》のうえに立っていた。)
A palace and a prison on each hand:(宮殿があり 橋の両側が監獄だった)」  [現地名 Ponte dei Sospiri → 各自国語(Bridge of Sighs 等)へ呼称の移行]

《溜息の橋》について、2012.07.21日のジョン・ラスキンの中で触れました。
  1. 2014/01/22(水) 00:03:51|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ブチントーロについて

昨日のLa Nuova紙は次のようなニュースを流しています。

「 フランスから、ブチントーロ船再建用オーク材600ヶ
――総督の伝統的な豪華船を1798年破壊したナポレオンの犯した罪を償うための木材――

ブチントーロ船はキール(竜骨)を作るため、フランスのアキテーヌ(Aquitania)の森からやって来る600ヶのオーク材で再出発する。それはフランスというよりもボルドー市とその周辺地域から提供され、1798年ナポレオン軍がその船を破壊した、その汚名を濯ぐためである。

このニュースは総督がキリスト昇天祭の日、その船に乗船して海との結婚式を毎年祝っていた、その最新の金箔で飾られた、その豪華船を再建するというものである。その船について毎年ラグーナでは話し合われていたのだが、具体的に実際の形にするとは語られてこなかった。しかしブチントーロ協会会長ジョルジョ・パテルノ、そして現在はジョルジョ・オルソーニ市長が議長を務めているが、その責務は決まった。

それを決めるに当たって、1400万ユーロという巨大費用とそれを必ずや成就させるという意志の欠如があった。しかしこの意志表明は何時であったか、正にフランス人のお陰である。

最初アルプスの向こうのアラン・ドパルデュー[俳優ジェラール・ドパルデューの兄弟で映画製作者]とパトリック・ブルニーのチームと意見の一致があり、彼らはこの企画が気に入り、ヴェネツィアで撮影する“3000年のブチントーロ”というドキュメントの準備を始めた。既にヴェネツィア映画祭で一部、発表された(建造に当たって、色々の物の市への所有権移動があった)。

そして現今のニュースとは、ドパルデューとブルニーの仲介のお陰によるアキテーヌ地方とボルドー市というフランスの協力態勢で、造船の木材を送り込むということである。正にアキテーヌのオーク材は5月のセンサの祝日に、大きな chiatta 平底船に積まれてラグーナに届くのである。

その建造に関してブチントーロ船と古い棟梁達(船体専門の船大工)については、今や無休財産さえ保護するユネスコにとっては興味津々である。明日ドパルデューとユネスコの高官は、アルセナーレで現場検証をする、既にスタートしており、ヴェネツィアの海の歴史・伝統に遡るこのプロジェクトを評価するために。
……」

ブチントーロ船については今まで何度となく触れていますが、それについては次を参考にして下さい。2011.01.29日ヴェネツィアの行事(5)、2013.04.27~2013.05.13日海との結婚式(1)~(4)、2013.11.13日ブチントーロ船
  1. 2014/01/16(木) 19:30:04|
  2. ヴェネツィアの船
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文芸評論に表れたヴェネツィア――鳥越輝昭(2)

ヴェネツィアで語学校に通うため借りた、アパート生活を始めた頃、ヴェネツィアの人に言われた事があります。ヴェネツィア人はヴァポレットにあまり乗らない、だからサン・マルコ広場からサンタ・ルチーア電車駅まで行くとすれば歩くのだ、と。

その道順は: S.Marco広場→ Orseoloゴンドラ溜り→ Frezzeria通り→ S.Fantin小広場→ Ferretta通り→ Malvasia Vecchia橋→ Cafetier通り→ S.Anzolo広場→ Frati橋→ Novo o dei Morti小広場→ S.Samuele大通り(piscina)→ Tragheto o Garzoni通り→ サン・トマの大運河の渡し舟(traghetto) → Tragheto運河通り→ S.Toma`小広場→ Frari広場→ S.Stin広場→ l'Ogio o del Cafetier通り→ Cristo小広場 → Garzoti運河通り→ Bergama橋→ Longa Bergama通り。

後は目前のスカルツィ橋を渡れば、駅舎は見えています。ヴァポレットだと1時間弱のところを、30分強で到着するそうです。ヴェネツィア人の早足には理由があるようです。
『ヴェネツィア 詩文繚乱』鳥越輝昭先生の『ヴェネツィア 詩文繚乱――文学者を魅了した都市』(三和書籍、2003年6月30日)では、先生は実際にヴェネツィアで部屋を借りてこの本を書かれています。第4章の中に《路地歩き》という楽しそうな節がありましたので若干引用させて頂きます。

「ヴェネツィアは小さな町である。観光スポットも互いに近接している。たとえば聖マルコ広場からリアルト橋へは十分で歩いてゆける(ちなみの水上バスに乗ると、倍の時間が掛かる)。しかし、町に慣れないうちは、心理的には、もっと遠い感じがするだろう。その理由は、右へ左へ折れ曲がる路地を、ためらいながら辿ってゆかざるをえないからである。

ヴェネツィアの町並みは、基本的に、路の両側に建物を建てたのではなく、建物と建物のあいだが路になった、という感じが強い。路は、幅が一定せず、十歩も歩けば湾曲したり、折れ曲がったりする。しかも、路地そのものの突き当たりは袋小路になっていて、路地の途中から、次の路地に繋がることも多い。ヴェネツィアは迷路の町なのである。この町のなかにも、わりあい長くて、折れ曲がりの少ない路が稀にあるのだが、そういう道らしい道は、たいてい十九世紀に町の近代化の一環として造られた新しい道である。

歩き慣れた幹線ルートを外して、すこし冒険してみると、かならず道にまよう。そういうときは、コンパスでおよその方角を確認しながら、大きな目標を目指す。急ぎの用事のないときは、路地で迷い続けるのも、おもしろい。迷い続けるのに飽いたら、建物の壁に「聖マルコ」とか「リアルト」と矢印の着いた黄色いプレートが貼ってあるから、その指示にしたがって、路地から路地へ歩いてゆくと、見慣れた場所へ出る。この町は、治安がたいへん良いから、こんな風にひとりでうろうろしていても、暴力を被ることもない。……

イタリアの詩人ディエゴ・ヴァレーリは長年ヴェネツィアに暮らし、路地歩きを愛した人である。ヴァレーリの随想集『感傷のヴェネツィア案内』(1942)に、こういう一節がある。

《道順をあらかじめ定めないで、路地(カッリ)や小広場(カンポ)を歩き回るのが、おそらくヴェネツィアで体験できる最大の喜びだろう。幸いなるかな、地理をよく知らぬ者。幸いなるかな、何を為すのか、いずこへ行くかを知らぬ者。あらゆる驚きの国、あらゆる異常な発見の国は彼らのものである。細い路地を通り抜け、軒下路(ソットポルティコ)の黒い喉のなかにはいり込む、中庭(コルテ)に出る。袋小路かと見えた中庭に、別の細い路地へ抜ける隙間が見つかる。

窒息しそうなそんな迷路から、風通しが良くて、光が溢れ、人で一杯の小広場か、さもなくば大貴族の広壮な館の戸口か、さもなくば、陽光と風とに開かれた土手路(フォンダメンタ)か、さもなくば大小の船の走る広い小運河(リオ)に出る。それは、予期せぬもの、意外なものほとんど有りえぬもののなかへ歩いてゆくことである。それは、たちまち、子供の頃、驚き、恍惚となったあの空想の国への小旅行を思い出させるのだ。》」
  1. 2014/01/15(水) 00:05:17|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文芸評論に表れたヴェネツィア――鳥越輝昭(1)

数年前神奈川大学の市民講座で、鳥越輝昭先生のヴェネツィア話のシリーズを聴講したことがあります。映画『旅情』をまくらに、話の展開は多岐に渡りました。先生の著書にはヴェネツィアに関するものが3冊あります。
鳥越輝昭『ヴェネツィアの光と陰』先ずは『ヴェネツィアの光と影』(大修館書店、1994年8月1日)。ヴェネツィアについて記述した作家らが色々に取り上げられています。バイロンを皮切りに、オトウェイ、ラッドクリフ、シラー、シェイクスピア、スタンダール、コーリャット、モリソン、ラセルズ、アディソン、ギボン、ド・ブロス、モンテスキュー、ゲーテ、ベックフォードと多彩です[著書中作家達から引用されている箇所は相当部分、本邦初訳と思われます]。

その内、先ず最初に述べられているバイロンについては、章を改めて何度となく取り上げられ、日本では彼の訳された書は比較的目にすることが出来ますので、比較しやすいという意味で彼のことを中心にこの著者から引用してみます。

「十九世紀以後の文人がヴェネツィアの美を語ったものには、およそ三種類ある。ひとつはヴェネツィアの絵画的な美しさをいうもの。たとえば、一八三四年にヴェネツィアをおとずれたフランスの女流作家ジョルジュ・サンドが《世界中でヴェネツィアほど美しいものはない》と、この町の美しさを讃えているが、その美しさとは、《まっ青な空の下で、澄みきった水のなかに据えられている、白大理石づくりのイスラム風の建物》が生み出す効果である(書簡、一八三四年)。

もうひとつは、ヴェネツィアの非現実的な美しさをいうもので、たとえば旅行記作家のフランシス・トロロップは、それを《白昼夢のような美しさ》と表現している(『イタリア訪問記』一八四二年)。そしてもうひとつが、拙文の冒頭に引用した[バイロンを指す]ように、ヴェネツィアの<滅びの美>をいうもの。三種類の美はいずれも、ヴェネツィア史にひとつの大事件がおこらなければ、一般には感じられることのなかったものである。大事件とは、いうまでもなく、ヴェネツィアという独立国が消滅したことである。」
……
「バイロンは手紙のなかで、荒れはてた町のようすをみても《がっかりしていない》という。《ぼくは、これまでずいぶん長いあいだ荒廃したものになじんできたから、荒れはてたものを見てもいやだとは思わない》というのである。あたらしい感受性の持ちぬしの来訪。荒廃の都ヴェネツィアは、その<滅びの美>を歌うのにふさわしい詩人をえたのである。

全ヨーロッパの人気詩人だったバイロンの歌うヴェネツィア挽歌によって、荒廃の都ヴェネツィアは詩人たちのあこがれる<夢の都>に変身する。シェレーもここをおとずれ、キーツもこの町の名を口にして死に、ミュッセもこの町をおとずれて詩にうたう。

……バイロンは《その文学をとおして、ヴェネツィアを新しいかたちに変えてヨーロッパに贈ったのだ》といわれるとおりである。観光の都ヴェネツィアは、バイロンの詩行から生まれた。」
……
「バイロンが作品のなかに表現したヴェネツィアの四つの要素にかんして、<不気味さ>についてはオトウェイとラッドクリフとシラーとのなかに、<美しさ>と<陽気さ>とについてはラッドクリフとシラーとのなかに、また<圧政>についてはオトウェイのなかにみられる、というぐあいである。

バイロンの独創はおそらく、ラッドクリフとシラーとのなかにすでにあったヴェネツィアの<美しさ>についての感覚に、<滅びの美>の感覚をつけくわえたという一点だけである。

だがここで忘れてならないのは、バイロンが活躍していた時代のなかでバイロンの占めていた位置である。その位置については、《シェイクスピアをべつにすれば、バイロンはイギリスの外で、おそらくほかのどのイギリス詩人よりも大きな影響をあたえただろう》といわれ、また、《ナポレオンをぬきにして、十九世紀のヨーロッパ史を考えることがおそらく不可能であるように、バイロンをぬきにして十九世紀のヨーロッパ文化を考えることは不可能だ》ともいわれるほどである。

バイロンは、なによりもイギリスの国境と文化とを越えて、ヨーロッパ人として高く評価され、スペイン・ロシア・フランス・ドイツ・イタリア・ギリシアのいずれにおいても、ロマン主義運動を形づくる大きな力となったし、またロマン主義運動に連動したナショナリズムの希望をかきたてる大きな力でもあった。

たとえばイタリアの統一をめざして活動した革命家ジュゼッペ・マッツィーニは《どれほど多くのものをバイロンに負っているかを、<民主主義>はいつの日かかならず思いだすだろう》と書いた。……」
  1. 2014/01/11(土) 00:02:45|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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御公現の祝日

本日のLa Nuova紙に寄りますと、昨日36回目の、マランテガ(maranteghe=伊語befane(複):老婆の魔女)達のゴンドラ漕ぎレースが、晴天下、エピファニーア(御公現の祝日Epifania=Befana(ベファーナ)――東方の3博士がキリスト礼拝にやって来たことを記念する1月6日の祭)に行事の一環として行われたそうです。
ベファーナのゴンドラ競争[舟首をよく見るとゴンドラではないようです。船種は何でしょうか。軽いサンドロか何か?(新聞はキャプションをクリックすると写真が見れます)] 老人達のレースですので、コースはカ・フォースカリ運河出口のバルビ館(大運河屈曲部)からリアルト橋まで(約700m)、15分ほどの競技だそうです。この御公現の祝日には、他にもコンサートや“パンと葡萄酒”の催し等も行われたようです。イタリアでは伝統的にベファーナ魔女がこの日、子供達に贈り物をするのだそうです(イタリアのサンタさん)が、今年も良い子には1000のお菓子入り靴下を町では用意した(悪い子用には炭入りもある)そうです。

この伝統行事の歴史については、2011.01.01日のヴェネツィアの年間行事(1)で触れました。

このベファーナのイタリアの童謡が Youtube で見付かりました。次です。Befana vien di notte
  1. 2014/01/07(火) 15:15:51|
  2. ヴェネツィアの行事
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寒中水泳

新年明けましておめでとうございます。

本日のLa Nuova紙を見ますと、2011.01.01日のヴェネツィアの年間行事(1)で触れた、元旦の恒例行事、リード島の浜で行われるリードの ibernisti 達の寒中水泳が今年も無事に行われたと報じていました。
寒中水泳《La Nuova》紙より
今年もヴェネツィアは例年の如く、年中行事をこなしていくことでしょう。目出度い事です。来月にはカーニヴァルも始まります。
  1. 2014/01/02(木) 18:00:00|
  2. ヴェネツィアの行事
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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