イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ロレダーン・ヴェンドラミーン・カレルジ館(P.Loredan Vendramin Calergi)

前々回ヴェネツィアでの賭博について触れました。1946年ヴェンドラミーン・カレルジ館が市所有となって以後、1959年から冬季は市営のカジノ[casino`(賭博場)――テッセラ空港近くの Ca` Noghera も Casino` だそうです]となっていましたが、昨年12月13日のLa Nuova紙によれば、市は公営賭博を止め、民営に移行することにしたそうです。

建物はそのまま市の所有で、内務省相 Angelino Alfano の認可を得て、この建物とノゲーラ館での賭博経営権を民間に委譲する競争入札に入るというニュースでした。その上がりから一部を寺銭として頂戴するという方式に市は転換したようです。

大運河右岸、サンタ・ルチーア駅舎からサン・マルクオーラ教会を過ぎて直ぐの大きな建物で、右に位置する庭園も大運河に面しています。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を書いています。
ロレダーン・ヴェンドラミーン・カレルジ館「ヴェネツィア初期ルネサンス時代の最も美しい建造物の一つに、15世紀終り頃、ロレダーンが著名な建築家マーウロ・コドゥッシに注文したものがある。それは1509年マーウロ没後5年にして漸くロンバルド工房が完成に漕ぎ付けたものであった。

それはルネサンス芸術の最も壮麗な物の一つであり、躍動的、且つレース飾りのように、上に伸びる空間の中でバランスの取れた諧調を持ち、偏にそのヴェネツィア的光り輝く明るさはトスカーナの影響である貴族的な簡潔さを目立たないように抑えている。3階までの大きな窓は、一つのアーチの下の大きな二連窓に表れるラグーナ・スタイルの優雅な美を強調し、盛期ゴシック的なるものを、1400年代の手法による装飾的な色大理石の使用により、古典的な描線へ調和的に回帰させている。

ロレダーン家の館は、その後ヴェンドラミーン家以外にも色々の所有者の手を経ることになった。即ち、ブラウンシュヴァイク(Brunswick)公、マントヴァ公、クレタ島の裕福な一家カレルジ家、最後のこの一家は館を夫のグリマーニ家に渡した。

この家は17世紀初頭、大運河に面した庭を包み込んでしまうような大きな翼をヴィンチェンツォ・スカモッツィに注文した。しかしそれは1658年3人の息子が犯した犯罪故に、シニョリーア政庁により取り壊しが命じられた。しかし直ぐに簡素な物が再建されたが、それは名も知れない没個性的な物である。

1844年ナーポリのフェルナンド(Ferdinando)2世の異母姉妹であり、フランスのシャルル(Carlo)10世の息子の妃であるデュ・ベリー公爵夫人の物となった。彼女が臣下達に謁見したのは、正統派の亡命王朝人に取り囲まれてのことだった。

庭の上の翼の左側部分の中2階で、1883年リヒャルト・ヴァーグナーが亡くなった。記念の碑が壁に埋め込まれている。現在は、市のカジノが冬季に開かれている。

ヴェンドラミーン家は1300年代後半のキオッジャ戦争時代に貴族になった。それ故“最新の”貴族である。最大の代表者としてアンドレーア(1401~78)があり、魅力的で、富裕、且つ寛容な人物だった。彼の最大の商売はエジプトのアレクサンドリア(Alessandria)で商われたが、ジュデッカ島にも石鹸工場を所有し、その商標は東方の物ということで、半月と星のマークだった。

その財産は莫大なものだったので、彼が《品物を手に入れるには自分のやり方で、金に糸目を付けない》と言っていたように、娘の婿選びにも細心の注意を払い、6人の娘それぞれに4万ドゥカートの持参金を持たせたほどのものであった。その細心さのお陰で、自分が総督に選ばれることになる。彼があまりにも近年に貴族となった新参者と考えられたがため、その選挙には莫大な努力を要した。
……
1467年選挙の年、息子が殺人犯として追放になるという心労が発生した。追放中その若者はロードス(Rodi)島騎士団に入団した。そして騎士団の制服は自分の刑を免責する価値ありと確信して、ヴェネツィアに帰還した。

委員の一人アルヴィーゼ・ランドは、即刻刑地に戻らないなら、逮捕させると警告した。その時総督は、深い怒りと悲しみに包まれて、追放刑にある全ての犯罪人がもしヴェネツィアに帰国すれば、即5年間の入獄と多額の科料を申し付けると通達を出した。

これは対抗措置であることは明白である。何故かならば、同じようにランドの兄弟に詐欺罪で流罪を宣告された高位聖職者が、家に秘かに隠れていたからである。それ故この男は遑急として町を去り、ローマ教皇庁に隠棲せざるを得なかった。

しかし2年間の総督職にある間(1476~78)、アンドレーアは度々フリウーリに攻め込んだトルコ軍への応戦によって、彼の持てる莫大な資力を証明したのである。

彼はサン・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会に葬られた。その棺はトゥッリオ・ロンバルド作で、大祭壇左に置かれている。」
 ――E.&W.Eleodori『大運河』(1993)より
  1. 2014/02/26(水) 00:04:19|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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カーニヴァル(5)

本日のLa Nuovaによりますと、先日書きましたようにカーニヴァルでは、昨日第一回目のサン・マルコ鐘楼からの《天使の飛翔》があったようです。いよいよカーニヴァルは酣となったようです。天使の飛翔今年の天使は、昨年の12人のマリーアから“Maria del Carnevale(カーニヴァルのマリーア)”に選ばれた、ヴェネツィア大学で中国語を学ぶユーリア・ナージ嬢で、今年のカーニヴァルのテーマである《自然》に対するオマージュとして行われました。ヴェネツィアには10万以上の観光客が押し寄せ、サン・マルコやリアルト近辺等を埋め尽くし、ローマ広場では駐車空間はゼロだと新聞は報じています。
  1. 2014/02/24(月) 21:42:34|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの建物: ホテル・バウアー・グリュンバルト他

バロッツィ・コルネール・エーモ・トレヴェス・ボンフィーリ館を過ぎると、右にサン・モイゼ(S.Moise`)運河があり、その右には一角に女人像のある庭が大運河に面しています。女人像は《イタリア》という名で1900年代初頭にカルロ・ロレンツェッティにより彫られた物。この庭を含めて19世紀建築のホテル・バウアー・グリュンバルトです。G.Lorenzetti 著『ヴェネツィアとその入江』(1926)は簡単に次のように紹介しています。
ホテル・バウアー他 ホテル・バウアー[ホテル・バウアーの庭園から見たサルーテ教会] 「1400年代の建物があった敷地に19世紀ジョヴァンニ・サルディ[上掲の写真はGiuseppe Sardi としています]によって、建物内外の増改築を含めて、ヴェネツィアのネオ・ゴシック様式で建て替えられた近代建築物。」

その右には十三殉教者通り(CL.dei Tredici Martiri)を挟んでジュスティニアーン館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。

「ホテル・バウアー・グリュンバルトの建設に先立って、ジョヴァンニ・サルディによって1800年代のネオ・ゴシック様式で建てられた物。館は内部が繋がっていることを明示するような、小路をふさいだ壁で分かたれた二つの建物から成っている建物である。

1474年頃の建築であるが、建物の中心は一面窓を両側に配置した尖頭式アーチの四連窓が中央を占める。17世紀にはモロジーニの手に渡り、内部が荘重に改装された。

更に1820年頃ホテルになり、ジュゼッペ・ヴェルディ、マルセル・プルースト・テオフィール・ゴ-ティエら有名人が宿泊した。市の所有するところとなり、現在はヴェネツィア・ビエンナーレの事務所となっている。」

アルベルト・トーゾ・フェーイ著『大運河の秘密』(2010)の語るところによれば、19世紀この建物がホテル・エウローパになった時、宿泊客にはジュゼッペ・ヴェルディがあり、彼は自分のオペラがフェニーチェ劇場で上演中は必ずここを宿としていたそうですし、テオフィール・ゴーティエ、マルセル・プルースト、スタンダール、フランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアン等もここに宿泊したそうです。

また第二次世界大戦中、ここはファシスト政権に接収され、秘密警察のアジトとなり多くの政治犯が激しい拷問を受けたのだそうです。

更にリドット通り(Cl.del Ridotto)の右にヴァラレッソ・エーリッツォ館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は簡単に次のように記述しています。
ホテル・モナコ他
「装飾もない簡素な建物。現在はホテル・モーナコである。リドット・グランデの庭があった敷地に19世紀に建てられた。Ridotto Grande とは、1638~1774年間続いた公共の賭博場のことである。」

アルベルト・トーゾ・フェーイは『大運河の秘密』(2010)の中でヴェネツィア人の賭博熱について書いています。
「古くは、賭博が許容されていたのは、サン・マルコ小広場の2本の円柱の間でだけであった。いずれにしても何世紀もの間に色々の禁令が発せられた。

1254年: サン・マルコ寺院入口柱廊やファサード下のアーケイドでの賭博禁止。その後には、総督宮殿中庭や大評議会議場周辺での禁止。
1266年: 総督宮殿内では、総督従者全員の賭博の禁止。
1292年: 唯一許された遊びはチェスと二人でする西洋双六(バックギャモン)であった。全ての非合法の行為には25リラという罰金が科せられた。
1506~39年: 十人委員会は、excepto schachi, arco, balestra et ballo(チェス、弓、石弓、舞踊以外)あらゆる遊びを禁ずる。
1600年代初頭: 政府は賭け事の蔓延を黙過出来ず、カーニヴァル中に限り[10月からMartedi` grasso(カーニヴァル最終日)まで]許すことにした。
1638年: 貴族マルコ・ダンドロがヴァラレッソ通り(Cl.Valaresso)に公共の賭場 Ridotto Grande を開くことの認可を得た。《Ridotto(休憩場)》という言葉はこの種の建物の内部のしっくい装飾と共に在り、何年か前まで劇場で使用されていた。
『ヴェネツィアのリドット』[ピエートロ・ロンギ画『ヴェネツィアのリドット』(ca.1750)。ウィキペディアから借用] ここ Ridotto Grande にはジャーコモ・カザノーヴァが居たことがある。デンマーク王フレデリク(Federico)4世は、1708年当地滞在中――他の賭博者同様にマスクを被って――ある貴族から莫大な額の賭金を勝ったと言われている。正に大物のような態度で、しかし無様な振りで立ち上がろうとして王は、記録紙や賭け金などの載ったテーブルをぶちまけてしまった。そんな事をすれば全ては banco(胴親)の手に帰すことになる。」――『大運河の秘密』(2010)より             
  1. 2014/02/19(水) 00:03:03|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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2014年のカーニヴァル(4)

本日の新聞La Nuova紙によりますと、ヴェネツィアのカーニヴァルは明15日に幕開けし、3月4日の martedi` grasso まで続くそうです。
2014カーニヴァル今年の主なカーニヴァル行事は、①サン・マルコ鐘楼からの天使の飛翔は、2月23日、3月2日・4日の3度あること。②アルセナーレがディスコとして解放されること。③フェニーチェ劇場で Cavalchina の舞踏会とピザーニ・モレッタ館でドージェの舞踏会があること。④女性操舵選手達と最高の仮面への授賞のためのカンナレージョ区でのパーティ。⑤ビエンナーレ委員会による青少年のカーニヴァルとゾンビ達のデモンストレイション等、と新聞は述べています。

2009.03.07日からカーニヴァル(1)カーニヴァル(3)とカーニヴァルの歴史等について触れました。
ゾンビの行進追記1=02.16日のLa Nuova2紙は、左掲のような《ゾンビの行進》の写真を掲載しています。
パンテガーナを先頭に追記2=02.17日のLa Nuova3紙は、「300人の操舵手による100艘の船は税関岬を出発し、大運河を経てカンナレージョ運河まで進んだ。船列の頭には、2014年カーニヴァルのシンボルであるヴェネツィアの溝等に棲む、昔ながらのどぶ鼠《パンテガーナ》。女性操舵手達の船列を見ようと大運河沿いには人の山。」と。
  1. 2014/02/14(金) 20:55:44|
  2. ヴェネツィアの行事
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哲学に表れたヴェネツィア――ゲオルク・ジンメル

『ローマ帝国衰亡史』を書いた英人エドワード・ギボン(1737~95)は、「……運河という大仰な名前をつけられている悪臭ふんぷんの溝……わたしがこれまで見たなかでも最悪の建物でかざられ、水よりも陸地の多い点だけがみごとな大きな広場……」(鳥越輝昭著『ヴェネツィアの光と影』大修館書店、1994年8月1日より)等ヴェネツィアを腐した言説を残しているそうです。余程印象が悪かったのでしょう。

独人哲学者ゲオルク・ジンメル(1858.09.26ベルリン~1918.09.26シュトラスブルク)に、『ジンメル・コレクション』(北川東子編訳、鈴木直訳、筑摩書房、1999年1月12日)があり、その中に《ヴェネツィア(1907年)》と題したエッセイがあり、読んでみました。
『ジンメル・コレクション』「フィレンツェの、いやトスカーナ全域の館では、外見はその内的意味のありのままの表現のように感じられる。反抗的で、城のような外観をそなえ、石のひとつひとつにまで感じ取られる権力の厳粛な、あるいは華麗な展開、それらすべてが自信と自己責任を背負う人格の表現なのだ。

これに比べるとヴェネツィアの館は、気取った遊び、その一様さからしてすでに人間の個性的性格を仮面で包み隠すひとつのヴェールだ。そのヴェールの襞(ひだ)は自分自身の美の法則にしか服従せず、その背後にある人生の存在は、それを包み隠すという手段をつうじてしかあらわにされない。

内的に真実な芸術作品ならば、どんな空想的で主観的なものであっても、人生を可能ならしめる何らかの様式をかならず表明しているものだ。しかしヴェネツィアの大運河(カナル・グランデ)を船で行く人は、人生がいかなるものであろうとも、すくなくともこのようなものでだけはありえない、と思うのだ。」
……
「フィレンツェが芸術作品のような印象を人々に与えるのは、この町の絵画的な性格が、歴史的には消え失せても理念のうえではそこに忠実に生き続けている人生と、なおも結びつきをたもっているからだ。

ヴェネツィアはしかし作為的な都市だ。……だからこそこうした人生が没落したあと、そこには魂の抜けた舞台映像、歎きのための仮面の美だけが残されたのだ。」
……
「ここでは橋さえも、活力を失っている。普通の都市ならば橋は比類ない効果を発揮する。空間の地点間にたちどころに緊張感と宥和を作り出し、その間の往来を可能にすることによって分離と結合が同じひとつのことであるかのように感じさせてくれる。この二重の機能は橋にそなわったたんなる絵画的な外見に意義深い生命力を与える。

ところがここヴェネツィアではこの橋の二重機能もまた色あせてみえる。街路は無数の橋のうえをとぎれることなく、あたかもすべるように超えていく。橋のアーチがどんなに高くせりあがっていても、街路はそこでほんの一息つくだけで、その連続した歩みを中断することがない。
まったく同じように季節もまたこの都市のあいだをすべりぬけていく。……」
……
「……真の生命の実体や活動から切り離されたこれらの内容は、にもかかわらず私たちの生を作り上げ、それによって私たちの生は内側からヴェネツィアの虚偽に加担することになる。

なぜといって、土台に見すてられた表層、実在がもはや住みついていない仮象が、にもかかわらず自分を完全で実体的なものに見せかけ、あるいは真に体験しうる生の内実のように見せかけるということ、これこそヴェネツィアのもつ悲劇性だからだ。そしてこの悲劇性によって、ヴェネツィアは私たちの世界観の諸形態の比類なき秩序のシンボルとなる。……」
 ――ゲオルク・ジンメル著『ジンメル・コレクション』(北川東子編訳、鈴木直訳、筑摩文庫、1999年1月12日)より

哲学者は何を言わんとしているのでしょう。理解力の脆弱な者は見当はずれの理解に向かうのは必然です。このエッセイは《ヴェネツィア》を比較の対象にした《フィレンツェ》という題で語られた方がベターではないかと思われました。例えば《橋》、(ポンテ・ヴェッキオ)は《橋にそなわったたんなる絵画的な外見に意義深い生命力を与える》が、(リアルト橋)は《活力を失っている。……橋の二重機能もまた色あせてみえる》という比較などよく分かりません。

ヴァポレットで大運河に並ぶ華麗なゴシックやルネサンス様式の館を見やりながら、例えばフィレンツェの街歩きではメーディチの邸宅のごつごつした粗面壁を目の当たりにする度に何故かこの町に拒否されたような思いに捉われたことを思い出します。私には街中の粗面壁が simpatico に感じられず、ジンメルの言う「石のひとつひとつにまで感じ取られる権力」は、「厳粛な、あるいは華麗な展開」ではなく、庶民を寄せ付けない、睥睨する権力の横暴さと思われたのです(メーディチ家は絶対権力者となりますが、ヴェネツィアでは権力は分散されました)。

ヴェネツィアが、他のイタリア諸都市と異なって、傭兵に頼ることなく庶民皆兵で対外的に事に当たった昔があったことが思い出されます。当時はガレー船の漕ぎ手でありかつ兵士であったのはヴェネツィア市民であり、囚人等を使うようになったのはヴェネツィアが落ち目になり始めてからのことだったようです。元々農地を持たなかったヴェネツィア共和国は、飢饉に備えて市民の食糧確保のためには海賊行為にまで及んだというお国柄だったと歴史書にあります。

このエッセイは、平凡社ライブラリー文庫『ジンメル・エッセイ集』(川村二郎訳、1999年9月)にも収載されています。
  1. 2014/02/12(水) 00:02:02|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ヘルマン・ヘッセ(1)

1946年ノーベル賞を与えられたヘルマン・ヘッセ(1877.07.02バーデン=ヴュルテンベルク州カルフ~1962.08.09ティチーノ州モンタニョーラ)は、1901年(24歳)と1903年(26歳)、二度イタリア旅行をしたと年表にあります。
ヘルマン・ヘッセ[ウィキペディアから借用] そのためか『ヘルマン・ヘッセ全集 全詩集』第16巻(日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究室編訳、臨川書店、2007年4月30日発行)を見ると、イタリアを歌った詩がかなりあり、取り分けヴェネツィアを歌った詩が幾つか見受けられます。

それらの題を列挙してみます。1899~1902年の詩からは、『ヴェニスのサン・ステファノ教会の回廊』(1901)、『ヴェニスのゴンドラの語らい』(1901――Ⅵ節からなる長編詩)、『ピアツェッタ』(1901)、『ある仲間に』(1902)。1903~10年の詩から『ゴンドラ』(1907)、『ヴェニスへの到着』(1903)、『ゴンドラの舟歌』(1903頃)、『しずしずと、ゴンドラのゆくように』(1901)、『ヴェニス』(1902)。

また遺稿からは『ラグーン』(1901)、『ヴェニス』(1901)、『ヴェニスのサン・マルコ広場の鐘楼』(サン・マルコ広場の鐘楼が突如崩壊した1902年に書かれた)、『憂鬱――ヴェニスの墓の島で』(1903~04頃)、『ヴェニス』(1907頃)、『ヴェニスのゴンドラ』(1911)等があります。1903~10年の詩から2編の詩を引用してみます。

「 ゴンドラの舟歌

水に映える光がきらきらとまたたき
僕の小舟はラグーンにたゆたいながら
上に下に大きく重々しく揺れる
砂州に寄せる海が叫ぶように声高く歌い
僕の帆は暖かい真昼の日ざしを浴びて
うらうらと眠りに沈み
僕の望みは港にくつろぎ
僕の櫂はやすらっている 

力みなぎる不思議な命よ
おまえは僕の額を焦がし
数の嵐をさし向けて
定められた航路から僕を押し出した
吹きすさぶ嵐の中で僕は抵抗し
(あざけ)りをこめておまえの魅力には
おまえの愛撫する歌には、僕はさからえない

夢みるように僕のまなざしは大空をただよい
一筋の雲が弧を描いて海へと伸びている
夢みるように僕は波の歌に耳を傾け
響きわたる調べが僕の心に平和を呼びさます――
僕の帆は暖かい真昼の日ざしを浴びて
うらうらと眠りに沈み
僕の望みは港にくつろぎ
僕の櫂はやすらっている

ヴェニス

穏やかにリズムを刻みながら軽い雨粒が落ち
かすかにきしみをたてる物音が運河に響き
その他には音もなく、急ぎゆくゴンドラもなく
足音も、人声も、夜ごとのリュートの調べもなく
呼び声も、遠い音も、鳥のさえずりもない――
僕は冷たいベッドの中にやすらいながら
まるでおとぎ話のようにはるかな島の岸辺に
人々の住むあらゆる国からひとり遠ざかり
人々のあらゆる賑わいから離れているようだ
そしてこの闇の何と暗く深いことだろう
星も見えず、月の光もなく
屋根の輪郭すら失せた世界が黒々と広がり
窓の外で無言の見張りをしている
いったい僕はどこにいるのだろう――
葉の落ちる音すら苔の中に消えてゆく森の中だろうか
あるいはおとぎの城に魔法で呪縛されているのだろうか
かつては命と光と青春が芽生えたところ
今は人々が闇と伝説と永遠とに浸(ひた)されて
喜びも苦しみもなく眠り続ける城にいるのだろうか
それとも狭苦しい墓の穴の中で
孤独と忘却と夜に包まれているのだろうか――
どうして僕は慣れ親しんだ世界からこの沈黙の国へと
かくも秘密に満ち、夜に包まれて重々しく広がる国へと
どんなに小さな音もない国へとやってきたのだろう
もう何もわからない、だが僕は知っている
まもなく狭い門が開き
美しい人が雨に濡れて重い外套に身を包んで
恥じらいつつ、熱く、僕の横に立ち
僕にキスするだろう
――寝ぼけた音を立ててドアがきしんでいる
王女よ、君はもう来ているのか 」
 ――『ヘルマン・ヘッセ全集 全詩集』第16巻(日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究室編訳、臨川書店、2007年4月30日)より(2へ続く)
  1. 2014/02/05(水) 00:01:23|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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