イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Su e zo per i ponti(3)

La Nuova紙に寄りますと、昨日曜日、例年のように《橋を上ったり下ったり(Su e zo per i ponti)》のヴェネツィア街歩きの行事が行われたようです。キャプションをクリックするとヴィデオや写真が見られますが、天気に恵まれ、快適だった様子が窺えます。
参加者達《橋を上ったり下ったり(Su e zo per i ponti)》とはどういう行事でしょうか。2008.05.16日にSu e zo per i ponti(2)として触れました。参考までにどうぞ。

尚、本日夜10時25分から始まる、NHK・TV第2チャンネルでのイタリア語講座は、『ベネチアのゴンドラ』としてヴェネツィアが舞台に選ばれたようです。半年間、毎週月曜日、ヴェネツィア(?)が楽しめそうです。
  1. 2014/03/31(月) 12:47:46|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの建物: ハリーズ・バー、小麦倉庫、王の庭園、造幣所

Hotel Monaco を通り過ぎると、Vallaresso 通りを挟んで角にジュゼッペ・チプリアーノが開いた《ハリーズ・バー》があります。作家ヘミングウェイ等に愛された、所謂この《バール》については、息子のアッリーゴ・チプリアーノ氏が書いた『ハリーズ・バー』(安西水丸訳、にじゅうに社、1999年2月22日)によってよく知ることが出来ます。一読すればカルパッチョ料理誕生の秘密等も分明になります。
ハリーズ・バー他《ハリ-ズ・バー》は、ヴァポレット停留所の真裏の角です。その右に《港湾監督事務所》が一部見えています。その右隣には旧《小麦粉倉庫(Fondaco/Fontegheto della Farina)》――現《港湾監督事務所(Capitaneria di porto)》があります。E.&W.エレオドーリ『大運河』(1993)は次のような事を語っています。

「15世紀末のロンバルディーア風の建物で、1階に広々とした開廊を持っているが、現在は鎖されてしまっている。古い食糧行政官の所在地だった。現在は港湾監督事務所が置かれている。

“Signori della farina(食糧役人)”には非常に重要な責務があった。彼らはどんな事をしてでも基本的な糧食確保を貫徹する義務があった。飢饉のような時には度々本土側に赴いての、それは大変厳しい仕事を迫られた。

行政官事務所にはリボンで吊り下げられた羊皮紙の書付が目立つようにぶら下げられて、次のように読むことが出来た。《神かけて私は誓う。……我が職務には友も敵もない。ヴェネツィアに小麦・穀類を運び込む手段は必ずや見出す、必要としているヴェネツィアに送付させるために文書や報酬で選ばれた代理人達に無理強いもする。》

そして、そうした誓いに忠実であることを示し、幾度となくきっちりと実行されたのである。全ヨーロッパの飢饉が猖獗を極め、飢えに喘いでいた時、ヴェネツィアでは小麦不足という事態になることは皆無だった。施政官達は食糧調達のためには、海賊行為にまで及んだのである!

ここに隣接してあった古い食糧倉庫[現在の王の庭園の敷地に穀物倉庫が4棟建っていた]は、ナポレオン支配時代に庭園にするために破壊された[ナポレオンはヴェネツィア支配の執務室を新プロクラティーア館に設け、その窓からのサン・マルコ湾への展望を得るために、邪魔な4棟の倉庫を壊させた]。1756年からアッカデーミア美術研究所[校長G.B.Tiepolo]が置かれたが、1807年カリタ教会・大同信会館・修道院跡に移された[現在はザッテレのインクラービリ養育院跡に移動]。……」

《小麦粉倉庫》の右はジャルディネッティ運河(rio dei Giardinetti)を挟んで、運河脇に一階建の小さな、観光局のインフォーメイション(Coffee House)があります。そして広い《王の庭園(Giardini Reali)》となります。この庭園の歴史については2013.02.23日の飢饉(2)をご覧下さい。

《王の庭園》を過ぎるとサンソヴィーノ建築によるヴェネツィア共和国の《造幣局(Zecca)》です。E.&W.エレオドーリ『大運河』(1993)は次のように述べています。
王の庭園、右「ヤーコポ・サンソヴィーノにより1537年から建設が始まった。浮き出し飾りのある切り石の広い開廊を持つこの端正な建物は、元々は1階建ての予定だった。窓のアーキトレーヴとドーリア風の半柱身には大きな切り石風のコブ飾りを付けて各セクションを際立たせている。

しかし1558~66年にはイオニア様式の3階が追加された。内部の大きな中庭側には現在は明り取りの天窓以外はなく、隣り合う国立マルチャーナ図書館の読書室の明り取りの役である。

ここで1284年からヴェネツィアで最も著名な貨幣、金のドゥカート貨とゼッキーノ貨が鋳造され、全商業世界で受け入れられた。」
  1. 2014/03/26(水) 00:01:35|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアのリヒャルト・ヴァーグナー(2)

ヴェネツィアの音楽● コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館(Palazzo Contarini dalle(delleとも) Figure): 1880年10月、ヴァーグナーはここに滞在した。豪華な調度品類に囲まれて『パルジファル(Parsifal)』の作曲を続けた。夜、偶には Joseph Rubinstein(露人、リストの弟子)のピアノ伴奏で、アリアを幾つか友人を前に歌ったものである(コージマは書いている。「彼の声は驚くほど澄んでいた。《トリスタンはどこへ行くのか(Wohin Tristan geht)》を歌った時には、私の心は千々に引き裂かれるほどであった。」)。あるいはまた、彼自身がベートーヴェンの曲を幾つか弾いた。
 
● ジュスティニアーン=ブランドリーン館(P.Giustinian-Brandolin――ドルソドゥーロ区ジュスティニアーン通り): 1858年8月30日~1859年3月24日までヴァーグナーは滞在した。「広い寝室に隣接する素晴らしいサロンを私は借りた。そこに鞄を持って来させて、8月30日のその夜、私は自分に言った、今やヴェネツィアに住んでいる。」

一冬まるまる過ごしたが、「そのアパルトマンは薄暗く、寒々としたものだった。」(2階の下の中2階を彼は借りたのだった)。そこでしょっちゅうストーブと悪戦苦闘しながら、『トリスタンとイゾルデ(Tristan e Isotta)』の第2幕を作曲した。そして『パルジファル』の作曲に取り掛かった。夜にはしばしば、音楽家の友人達に作曲したばかりの箇所を聞かせたものである。

● マリピエーロ館(P.Malipiero――サン・マルコ区マリピエーロ大通り): 1882年ヴァーグナーは家族同伴で、友人のシュライニツ一家に会いに来たものである。時にはピアノを演奏したり、自分の作品のアリアを歌ったりした。

● 造船所(Arsenale): 1882年4月24日ヴァーグナーは、門前に置かれた4匹のライオン像の一つに魅了された[それはギリシアの古代都市ピレウス(Pireo)から持って来られた一番大きな物]。コージマに言った。「このライオンは僕のヴォータン(Wotan――『ニーベルングの指環』の神々の支配者)だ。」

● パパドーポリ公園(Giardini Papadopoli): ヴァーグナーはヴェネツィア滞在時、ここに家族と共によく散歩に来たものだった。《鸚鵡と花壇》が好きだった。

● サン・ミケーレ島(Isola di S.Michele): 1883年の灰の水曜日[カーニヴァル最終日の翌日、四旬節の最初の日。この日は司祭が信者の額に改悛の印として灰を付ける習慣があるという]に、ヴァーグナーは自分のゴンドリエーレにこの墓の島に連れて行ってくれるように頼んだ。そしてここに来て気分が悪くなった。直ぐに彼はサン・ミケーレの小さな教会に連れて行かれ、僧侶達に介抱された。

● リアルト橋(Ponte di Rialto): ヴァーグナーはリアルト橋を渡る時は、脇の階段を通ることにしていた。というのは肉屋の店頭にぶら下げられた肉が不気味だったからだった。[階段が3筋あり、真ん中の階段を挟んで商店が2列向き合っていますが、現在は土産物屋しか開いていないこの橋に、当時はそうした肉屋さんもあったようです。]

● サン・マルコ大同信会館(Scuola Grande di S.Marco): 1876年9月25日ヴァーグナー一家はこの病院を訪れた。そしてこんなにも美しいホールに病人達が診察にやって来ることに心を打たれた。[メンディカンティ養育院の音楽活動は、既に1世紀も前に終了しており、当時は本当の病院(現在、市立病院)となっていました。]

● サンタ・ルチーア鉄道駅(Stazione-Ferroviaria S.Lucia): 1883年2月16日、ジュゼッペ・コンティーン・ディ・カステルセプーリオはヴァーグナーの眠る棺にドイツ語によるスピーチで弔辞を述べた。その棺は特別列車でドイツに送られるのである。透明なガラスの蓋を被せられた棺の中に収められた遺体は、月桂冠と棕櫚の葉で飾られたヴァポレットで運ばれて来た。黒い喪装で飾られたゴンドラが沢山付き従った。 ――A.ボーヴァ『Venezia―I Luoghi della Musica』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)より
葬儀用ゴンドラ[H.C.R.Landon e J.J.Norwich 著『VENEZIA――Cinque secoli di musica』(Rizzoli)やアリス・ソコロフ著『コージマ・ワーグナー』(猿田悳・森住衛訳、音楽之友社)はヴァーグナーの遺体は写真のようなゴンドラで鉄道駅まで運ばれた、としています。]
  1. 2014/03/19(水) 00:01:15|
  2. 音楽
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ヴェネツィアのリヒャルト・ヴァーグナー(1)

『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)を通読すると、ヴァーグナーがヴェネツィアの場所や施設に残した痕跡をあちこちに見ることが出来ます。それらを拾い集めてみることにしました。何しろ彼は、イタリアを9度旅し、その内6度はこの地を訪れ(9度という数え方もあるようです)、最後はこの地で客死したのですから。
ヴェネツィアの音楽● 総督宮殿(Palazzo Ducale): 1858~83年の間のヴェネツィア滞在中、この建物のポルティコ下(broglio)にある石のベンチ、それも一番布告門(Porta della Carta)寄りのベンチに来て座るのが好きだった。彼はそこに座っているところを肖像画に描いて欲しいと思っていた。「私はヴォージュ山(Vosgi)上のハーゲン(Hagen――『神々の黄昏』、ギービヒ族グンターとグートルーネの異父弟)であった。」

● サン・マルコ広場(Piazza S.Marco): オーストリア帝国の支配下にあった時代、オーストリア海軍とハンガリー連隊の軍楽隊が毎晩のようにサン・マルコ広場で演奏していた。1858年のある夕べ、カッフェ・ラヴェーナ(caffe` Lavena)に腰を下ろしていたヴァーグナーに敬意を表して、二つの楽隊は彼の『序曲』を幾つか演奏した。

ヴェネツィア人はそれに対して拍手を全然しなかった(ヴァーグナーはそのことに驚き、失望したのだった)。しかしそれはヴァーグナーの音楽を評価しなかったからではなく、支配者オーストリア人に拍手したくなかったからだった。

彼はサン・マルコ広場にしょっちゅう来ていた。カッフェ・ラヴェーナの主人と友達だった(1階にヴァーグナー一家がいつも座っていた場所を示す掲示板が掛けられている)。彼はよくビヤホール“Dreher”に行ったものだった。

● サンタ・マリーア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会(chiesa di S.Maria Gloriosa dei Frari[=伊語Frati/Fratelli]): 1861年11月、ティツィアーノの『Assunta(被昇天の聖母マリア)』(当時はアッカデーミア美術館に置かれていた)に大変感動したヴァーグナーは「とても崇高な、美学的感動を覚えた……『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を作曲することを決めた。」と。

1862年4月、その絵を再度見たいと思った。「音楽の中には、これほど完成したものは存在しない。“微細極まりなく描いた”としても《蝙蝠》を思い出させるだけだった。」

● フェニーチェ劇場(Teatro La Fenice): 1874年ヴァーグナー・オペラの初演は『リエンツィ』だった。
1882年12月24日、アポッリネーア・ホールで妻コージマの誕生日お祝いの私的コンサートを開いた。彼自身が若かりし時のシンフォニー作品を指揮した(オーケストラの団員に言った。「古い作品なんだ……この中には新しい要素は何もないよ。斬新なものを希望するなら、ベートーヴェンかハイドンのシンフォニーを取り上げた方がいい。」)。それから友人のジュゼッペ・コンティーン・ディ・カステルセルピオの『序曲』も指揮した。

ティー・タイムの後、招待客に別れを告げる時には、ロッスィーニの『セビリアの理髪師(Barbiere di Siviglia)』の《さようなら、みなさん(Buona Sera, miei signori)》をピアノ弾奏した。コンサートには、ヴァーグナーのざっくばらんな要求に応えてフランツ・リストも参加した。「あなたには可愛い娘でしょ、ですからピアノに向って、何か弾いてやって下さい。」

● バドエール=ティエーポロ館(Palazzo Badoer-Tiepolo): この館は1800年代ホテル・エウローパに変ったが、ヴァーグナーは1876年9月、また1882年4月と9月滞在した。

● ベルナルド=ダンドロ館(Palazzo Bernardo-Dandolo): 1822年この館はホテル(現ホテル・ダニエーリ)に変わった。ヴァーグナーは1858年8月、1861年11月、1880年10月宿泊した。

● コンタリーニ・ファザーン館(Palazzo Contarini Fasan): この館は昔からデズデーモナの家とされている。ヴァーグナーは1882年4月18日ここを訪れた。館の所有者がユダヤ人であることに驚いて、彼は不寛容な反ユダヤ主義者だったので斯く言った。「本当の生活などとというものなんてある筈がない、幻想だ。金欲しさと見せ掛けの喜びでしかない!」と。 ―→(2)に続く
  1. 2014/03/12(水) 00:02:38|
  2. 音楽
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ヴェネツィアの建物: ヴェンドラミーン・カレルジ館(2)

この館についてAldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)は、次のような事を述べています。
ヴェネツィアの音楽「1652年アンナ・デ・メーディチとオーストリア皇太子に敬意を表した大舞踏会が催された。1800年代半ばにはカロリーヌ・ド・ブルボン(Carolina di Borbone)王女が、貴族のディレッタント・グループが王家の人のために演ずる舞台の設営をさせた。

1882年秋、リヒャルト・ヴァーグナーが庭に面した中二階の部屋を借りた。毎夕のように、バッハ、特にベートーヴェンのピアノ曲のどれかを弾くか、あるいは何かアリアを歌ったものだった。毎日、毎夜コージマと芸術について、哲学的主題について議論した。コージマ曰く《ルターはテーブルでスピーチをしましたが、私達はベッドに潜ってからも論争したものです。》

その年の11月19日、フランツ・リストがやって来て、上の階を借りることにし、1883年1月13日まで淹留することになった。このアパートにはピアノは1台あるきりだった。2人の音楽家は度々友人達や家族の前で演奏した。

クリスマス・コンサートのためにヴァーグナーは、音楽高校の校長とここで会った。その時彼は《いつもあなた方イタリア人の、芸術的理解に賛辞を送ってきましたが、多分南部気質の所為なのでしょう、しばしば音楽から色々なものを余りにも取り込み過ぎてしまい、必要以上にアップテンポになってしまう傾向がありますね。それが残念です。》と。更に付け加えて《正確にテンポを刻めるようにするということは、音楽教育のイロハだと思いますが。》

ヴァーグナーは1883年2月13日午後3時、ここの部屋で息を引き取った。2月8日コージマは彼が声を張り上げて《Don Giovanni, m'invitasti》を歌うのを聞いている。事実の裏付けは丸でないが、今でもヴェネツィアで語られていることがある、それはその時ヴェネツィアに居たジュゼッペ・ヴェルディが、正にその日彼に会いに向かっていて、彼の名声の真実であることを証言しようとしていたというのである。

その年の4月19日、追悼の音楽記念式典が催された。オーケストラは館前のパレード用の大きな船に設置され、ヴェネツィア貴族のゴンドラや他のあらゆるタイプの船が沢山取り巻いていた。『神々の黄昏(Crepuscolo degli Dei―独語Goetterdaemmerung)』の葬送行進曲が演奏された。

その時以来、館の所有者達、グラーツィア公爵らは毎年市の楽団のコンサートを催し、庭園でシンフォニックな曲やヴァーグナーのオペラからの編曲を演奏した。

彼が亡くなった部屋は現在でも、元々あった家具調度類が保存されており、ヴァーグナー博物館の体裁が整い次第、観覧可能となるだろう。 ……」
 A.ボーヴァ著『Venezia――I luoghi della musica』(1995)より
『コージマ・ワーグナー』『コージマ・ワーグナー――リストの非凡な娘、そしてワーグナーの最良の妻』(アリス・ソコロフ著、猿田悳・森住衛共訳、音楽之友社、昭和51年6月10日)は、ヴァーグナーがこの館で亡くなった時の模様を次のように描写しています。

「……二月十二日の晩、コージマは日記にワーグナーがどんなふうに『ラインゴルト』の一節を演奏したかを記している。翌朝、彼はまた具合が悪くなり、《今日は気をつけよう》と召使いに言ったりした。ジークフリートにとっては初めてきく母親のピアノだったが、十三日の朝、コージマはシューベルトの『涙の賛美』を軽やかに弾いていた。

召使いがワーグナーの気分がすぐれないので昼食はいらないと言っていると伝えに来た。コージマは彼の部屋に行ったが、発作のある時の常で、ワーグナーは一人でいたいと言った。召使いが部屋のドアのところに立っていることにした。しばらくして、突然ベルが二度鳴って、召使いが急いでかけ寄ると、彼は妻と医者をすぐ連れてくるように言った。

コージマがワーグナーのもとにとんでいくと、彼は長椅子にうずくまっていた。腕に抱きかかえるとまるで眠っているようであり、彼女はそのまま医者がくるまでじっとしていた。一時間近くもたってから医者が来たが、すでにこと切れていた。

この瞬間がくることを彼女は何度想像しただろうか。死においてでさえも彼女の愛するものと別れないように何度祈っただろうか。二十五時間たった後でも彼女は彼の傍らにひざまずいたままで、食事もとらなかったし、休むことも、慰めの言葉も、すべて拒否した。

まわりの者がやっと説得して彼のそばを離れさせた時も、まだ彼女は茫然としていた。遺体を棺桶の中に入れると、彼女は生前彼が愛した長く美しいブロンドの髪を切って入れた。友人や娘たちがすべて事をはこび、彼らはバイロイトへの悲しい旅立ちをした。 ……」
  1. 2014/03/05(水) 00:02:11|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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