イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ティツィアーノ・スカルパ(2)

2011.12.17日《文学に表れたヴェネツィア――ティツィアーノ・スカルパで彼の『スターバト・マーテル』(中山エツコ訳、河出書房新社)について触れました。その時紹介した彼のヴェネツィア話『ヴェネツィアは魚だ(Venezia e` un pesce)』(Universale Economica Feltrinelli、2003.10)の、今回その冒頭部分を少しだけ訳してみます。文学的ヴェネツィア・ガイドです。
Tiziano Scarpa『Venezia e` un pesce』「ヴェネツィアは魚である。どんなのでもいい、地図を御覧じろ。地図の背景を背に泳ぐ巨大な舌鮃に酷似している。この驚くべき魚は一体全体どのようにしてアドリア海を溯上し、正にこの巣(ラグーナ)に逃げ込んできたのであろうか。

今でも気紛れ次第で泳ぎ回っていき、寸時立ち寄ったりする。いつでも大のお気に入りの如く、あっちこっちへと旅をして回り、それを楽しんでいる。この週末はダルマツィア、明後日はイスタンブール、来夏はキプロス島、と。

その地に投錨するなら、何か然るべき理由があるだろう。鮭は流れに逆らって遡上し、疲労困憊しながらも山奥で交尾を果たすために、湍瀬を攀じ登る。バレーネ(balena 鯨)、シレーネ(sirena サイレン)、ポレーネ(polena 船首像)はサルガッソー海(海藻の多い海域として知られる大西洋西インド諸島北東部)で永遠の眠りに就くために赴く。

他の書は私が語っていることを笑いのめすに違いない。人々は語っている、町は無から立ち上がってきた、と。商業的にも軍事的にも、驚くべき、囂々たる僥倖、そしてその失墜の物語、正にお伽噺である。

私を信じて欲しい、実はこうではなかったのではないか。ヴェネツィアはご覧のように、概ねそのようなものとして存在し続けてきた。航行するということは、その時代の夜から始まる。全ての港に寄港した。全ての海岸、全ての波止場、全ての上陸地点に近付いた。

鱗には小アジアの真珠貝やフェニキアの透明な砂、ギリシアの貝類、ビザンティンの海藻が付着していた。しかしある日、これらの鱗や小さな物体や破片の重さのような物が体表に少しずつ堆積していくのを感じた。じっと身の上に積み重なっていく沈殿物だと分かった。

その鰭は水の流れの中では、手を振り切って逃げるにはあまりにも重過ぎるものと化していた。そう、地中海の最北地の入江に溯上していくことは一度だけと決めたのだ。そこは大変穏やかで、周辺の地形に守られ、休息するに適地だったのだから。

地図をご覧じろ。本土と結ばれている橋は、釣り糸そっくりである。ヴェネツィアは釣り糸に喰らい付いたように見える。2本の釣り糸で繋がれている、鋼鉄の線路とアスファルトの直線道路である。しかしこれはほんの百年ほど前に起きたことだ。

我々はある日、ヴェネツィアが変身してどこかへ再出発するかもしれないと恐れた。突如豹変して、再び抜錨してどこか遠くへ行ってしまわないように、今度ばかりはヴェネツィアをラグーナに括り付けた。

何年もの係留のお陰で、ヴェネツィアは泳ぎも不慣れになったが、この町を守るためにそうしたんだと人にも話している。だから直ぐにでも捕まえて、日本の捕鯨船の上にしっかりと繋ぎ止めて、ディズニーランドの水族館で展示が可能となるだろう。

実際には我々はヴェネツィアなしでは何も出来ないということである。自己愛の激しい人の扱いが問題だというならば、我々は嫉妬深いし、その上サディスティック且つ暴力的でさえある。

我々はこの町を本土と結び付けるという誤りを冒した。文字通り深い所まで杭を打ち込んでしまったのである。……」
  1. 2014/04/30(水) 00:26:45|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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聖マルコの祝日 4月25日

本日のPC上のLa Nuova紙を読みますと、昨4月25日、例年通り聖マルコの祝日が祝われたことが報道されています。それをご紹介します。
サン・マルコ広場の薔薇「 数千人のエキストラ達が形作ったサン・マルコの“Bocolo(蕾[ボーコロ]=伊語bocciuolo)”
――4月25日聖マルコの祝日、活気ある町を誇らんがための“示現されたヴェネツィア”行事への大参集者達――

数千の人々が、大きな《蕾》を作ろうとサン・マルコ広場に集まった。その蕾とは、市と Vera の協力の下、作家アルベルト・トーゾ・フェーイと芸術家エーレナ・ターリャピエートラによって呼び掛けられた“示現されたヴェネツィア”行事一環としての、4月25日の象徴である薔薇のことである。

サン・マルコ鐘楼の上から、この日のシンボルである大きな赤と緑に花開く薔薇を写真に収めた。 」

4月25日の聖マルコの祝日の薔薇の花については、かつてヴェネツィア年中行事(4)でも書きました。尚、作家アルベルト・トーゾ・フェーイ(Alberto Toso Fei)については印刷・出版(3)サンタ・マルゲリータ広場でも触れています。赤い薔薇の花は全ての女性に贈られるものです。ヴェネツィア市(citta` Venezia)は文法上《女性》です。

更にこの日は、先日日本の新聞でも報道されましたように正式なものではなかったのですが、ヴェーネト地方独立選挙で圧倒的優勢を示した分離主義者やヴェネツィア主義者達の意向である、そのマニフェストとしてのデモもあったようです。大きな旗が翩翻と翻りました。次のLa Nuova 2紙もご覧下さい。
  1. 2014/04/26(土) 16:00:23|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの建物: スカルツィ教会

鉄道駅から下ると、右はスカルツィ(洗足派修道士)教会です。この教会は Santa Maria di Nazareth o degli Scalzi 教会とも呼ばれ、バルダッサーレ・ロンゲーナの設計により、1654年から建造が始まったバロック様式の、身廊が一つの教会です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を述べています。
スカルツィ教会他「……ファサードは Giuseppe Sardi により1672~78年完成されたが、彼は上下2層に渡る対の2本柱とベルナルド・ファルコーネ作による壁龕に収めた彫刻による華やかな装飾でファサードに活気を与えた。

穹窿にはジャンバッティスタ・ティエーポロ画のフレスコ画があったが、1915年10月28日のオーストリア軍の砲撃で破壊されてしまった。

洗足派修道僧はヴェネツィアには1633年到来し、カルメリターニ(Carmelitani)修道僧と呼称された。ファサードはジローラモ・ガヴァッツァの寄進による。ヴェネツィア共和国最後の総督ロドヴィーコ・マニーンはここに葬られ、その墓石の平坦な表面に簡単に Cineres Manini(マニーンの遺灰)と書かれている。」

スカルツィ教会の右に登場するのはスカルツィ橋です。この橋については2010.04.17日のアッカデーミア橋や2011.08.20日ヴェネツィアの橋に書きましたように、1934年にエウジェーニオ・ミオッツィにより、大運河にヴァポレットが就航することになりオーストリア人が1858年に架けた鉄の橋では橋桁が低過ぎ、通行不能のためアーチの橋に造り替えられたものです。
新しいスカルツィ橋オーストリア人は、占領しているヴェネツィア内での軍隊の移動の便のために鉄製の橋を架設したのですが、この橋は見苦しい橋としてイタリア人には悪評だったそうです。今でも残る小運河等に架かるオーストリア・デザインによる鉄製の橋など、ヴェネツィア人は良く言いません。日本人にはどれがどれやら分かりませんが。
  1. 2014/04/23(水) 00:02:36|
  2. ヴェネツィアの教会
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文学に表れたヴェネツィア――ディエーゴ・ヴァレーリ

ディエーゴ・ヴァレーリ(Diego Valeri――1887.01.25ピオーヴェ・ディ・サッコ(パードヴァ)~1976.11.27ローマ)という作家の『ヴェネツィア・センティメンタル・ガイド(Guida sentimentale di Venezia)』(Passigli Editori、1997、古い版の新版) という本をヴェネツィアのファッブリ(Fabbri)通りの本屋さんで見付け、購入しました。
ディエーゴ・ヴァレーリ『ヴェネツィア・センティメンタル・ジャーニー』中身は《Invito》《Rialto》《San Marco》《Il Palazzo》《Piazza, Piazzetta, Molo e Riva》《Canal Grande》《L'altra Venezia》《Pittura》《Laguna》《Congedo》の章に分かれ、ローレンス・スターンの紀行文『センチメンタル・ジャーニー(A Sentimental Journey through France and Italy)』のヴェネツィア版ではないかと読み始めましたが、文章が難しく、著者が描くヴェネツィアのイメージを日本語にすることがなかなか叶いません。《Rialto》の章の冒頭を無理やり和文へと置き換えてみました。

「リアルトとは世界史の中で一つの大事件であり、今日でも世界に鳴り響く一つの名称であるが、要するに目に見えるような形の気高さといったものが染み込んでそれが表出したといった場所ではない。町が一つの市場であり、生き生きとして絵になる演劇的空間であるが、巨大で、威厳のあるといった態のものでは決してない。

(確かに橋という大きな建造物がある。モニュメントのように独りそこに存在し、二つの河岸と運河を背景にして一つの景色を成している。1500年代末になって漸くにして、今日見るような完成を見た。とは言えその時点では、リアルトの繁栄は既にして陰りを見せ始めていたのである。)

鶏肉屋、八百屋、穀物商(biavaroli)、ソーセージ屋(luganegheri)等がこの市場の旦那衆であり、メインのアーケード内外の木製の屋台に商品を並べ揃え、一方広場のテント下は散らかし放題である。

そしてラグーナの青物商は、カメルレンギの建物脇の長い河岸に商品満載の籐で編んだ大籠をペアータ舟から陸揚げしている。更に魚屋は開廊の建物下もっとその奥で、大理石の台に鯛を並べ揃え、鰻を捌いて血塗れの籠に放り込む。

彼らこそ、そうした事とともに生まれてその特質を備え、その仕事に合ったようにこうした場面に登場して溶け込んでいる主人公達である。

その他大勢の庶民が道一杯に右往左往して、祝祭日でもあるかのようにお喋りし、姦しい音を立てている。主婦やおさんどん達は買い物に大わらわ、お年寄りは物の値段を尋ね、仲買人達は小さなバールの入口で大声で喚き合い、少年達は口笛を吹きながら走り回っている。

時に荷物の運び屋が箱の重みに耐えかねて、くぐもった呻き声を上げながら群集を掻き分けて進む。その声は当(まさ)に哲学的瞑想に耽っているかのようである。これこそ正しく人生!
荷物運び[サイトから借用(サン・モイゼ教会前のサン・モイゼ橋を渡る現代の運び屋さん)]  このリアルトの世界は良く知られているように、今日的な、飾らぬ一つの小さなヴェネツィアである。最も愛されている教会は、縮小辞を使う名称――サン・ジャコメット(San Giacometto)――という小さな教会であり、家庭的な愛らしさを持っている。
……
サン・マルコ広場は王宮であり、その海岸はラグーナに向いた素晴らしい大バルコニーである。大運河は絵画と鏡のギャラリーであり、リアルトは町の食料品室といった趣である。ある秋のひと時、野菜市場に黄金色と暗褐色の葡萄、肉色の桃、紫色の茄子、青白色の隠元豆、赤く燃えるようなトマトが溢れ返った。げに輝くような、芳香馥郁たる菜園である。 ……」
 
ディエーゴは長い間ヴェネツィアに住んだそうです。ドルソドゥーロ区 Fondamenta dei Cereri の2448D に住んだので、建物に次の碑があります[Diego Valeri/ Poeta/ 1887-1976/ Qui c'è sempre un poco di vento/ a tutte l'ore di ogni stagione/ un soffio almeno un respiro/ qui da tanti anni sto io ci vivo/ e giorno dopo giorno scrivo/ il mio nome sul vento/ 1975/ Comune di Venezia 1979]
ディエーゴ・ヴァレーリディエーゴ・ヴァレーリの家 『ヴェネツィア・センティメンタル・ガイド』中面「ここにはいつも風がある/ どの季節のどの時間にも/ 一吹きでさえ、それは安らぎ/ 幾とせここで居、住している/ そして、日に日を継いで書いている/ 風の流れに自分の名前を/(1975) 1979年ヴェネツィア市」[《風通り(Calle del Vento)》という名前の通りについて、アンリ・ド・レニエが歌っています。次をご覧下さい。《アンリ・ド・レニエ》――ザッテレ運河通りの最左端から北のサン・バゼージョ(S.Basegio=伊語Basilioという古い一家で同名の教会を建立)広場へ抜ける通りです。上の本には右のような頁があり、Youtube に次のようなビデオがあります。次をご覧下さい。 サン・マルコ鐘楼崩壊と再建。]
  1. 2014/04/16(水) 00:01:36|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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カ・フォースカリ大学卒業式

昨日の新聞La Nuova紙は、天気も悪くなかったらしく、サン・マルコ広場での行事を次のように述べています。

アレッサンドロ・バリッコ氏が卒業生達に「君達は勇気とともに優しさを兼ね備えた人達である」と。
――サン・マルコ広場での伝統的卒業式に新ドクター600人が参加、そして家族や友人達の参列者3000人。――
卒業式《君達は勇気とともに優しさを兼ね備えた人達である》。作家アレッサンドロ・バリッコ氏は昨日サン・マルコ広場に組まれた演台から、カ・フォースカリ大学新卒者に向けた挨拶で、彼らへの期待を語った。3年間の学業の卒業証書を受け取る儀式は、今やここサン・マルコ広場での恒例の卒業行事となっている。

バリッコ氏と学長カルロ・カッラーロ氏の開会の辞を聞かんものと、家族と友人達など約3000人が参集した。」

作家アレッサンドロ・バリッコ氏とは、日本では映画『海の上のピアニスト』の原作者として知られています(この作品は《草皆伸子訳、白水社、1999.11.》として出版)。この作品の前、『絹(Sete)』(鈴木昭裕訳、白水社、1997年5月)を読みました。その他『シティ』(草皆伸子訳、白水社、2002.01.)や『イリアス――トロイア戦争で戦った英雄たちの物語』(草皆伸子訳、白水社、2006.01.)等翻訳されています。

新聞のキャプションをクリックすると動画を見ることが出来ます。2008.01.09日のカ・フォースカリ大学で卒業のことについて触れました。
  1. 2014/04/13(日) 14:15:00|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの建物: サンタ・ルチーア鉄道駅

大運河の左岸(De Citra=こちら側)をサンタ・ルチーア駅舎から下って行きます。鉄道駅とそれが立つ、以前のサンタ・ルチーア教会等についてイタリアの本やPCサイト等を読んでみました。
サンタ・ルチーア駅眼病や視覚障害者らの守護聖人とされる、シラクーザで生まれ、304年殉教した聖女ルキア(羅典語式、伊語式ルチア)の亡骸は、800年代シラクーザがイスラム教徒の手に落ちた時、難を逃れむとビザンティンのある将軍によって秘かにコンスタンティノープルに運ばれました。

1203年の第4次十字軍遠征により、総督エンリーコ・ダンドロの率いるヴェネツィア軍は芸術品等の財宝や聖遺物、また十字軍の略奪品の半分までも獲得しましたが、それらの略奪品の中に聖女ルキアの亡骸も含まれていました。

1204年ヴェネツィアに持ち帰られた聖女の亡骸は、最初サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の修道院に収められました。当時既に、聖女ルキアへの信仰は確定していたと言います。そして毎年12月13日、彼女に祈りを捧げるために沢山の信者がジュデッカ運河を渡りました。
グァルディ画『サンタ・ルチーア教会』[フランチェスコ・グァルディ画『Il Canal Grande con le chiese di Santa Lucia e di Santa Teresa degli Scalzi』(c.1780)]  1280年信者が参詣し易いように、遺体はより便利なヴェネツィア本島に移され、1313年最終的に聖女ルキアに捧げた新教会が献堂され、遺体も安置されました。そしてそれが鉄道駅建設の時代まで続いたのです。

1846年、ヴェネツィアを支配していたハプスブルクのオーストリア・ハンガリー帝国は、軍隊の移動を考慮して鉄道用のリベルタ橋を完成させます。鉄道の建設は1860年に始まりました。1861年には駅舎が、現在の駅前広場に建っていたサンタ・ルチーア教会と修道院を取り壊して建てられました。駅名はその教会名に因みます。

教会に安置されていた聖女ルキアの遺体は、近くのサン・ジェレミーア教会に移されたことは、大運河側の教会後陣の壁面に記されています。このため教会名もサンティ・ジェレミーア・エ・ルチーア教会と変わり、聖女の遺体は北袖廊の礼拝堂に展示されているそうです[この事がナーポリ民謡『サンタ・ルチーア』がゴンドリエーレ達によって歌われる所以でしょうか]。
新しいスカルツィ橋駅舎右隣のスカルツィ教会前に、Neville とかいう人の案によりオーストリア軍はやはり軍隊の移動の便のために、鉄製の旧スカルツィ橋を架橋します(1858年――ヴェネツィア人の評判は最悪)が、イタリア王国になってからヴァポレットが就航することになり、橋桁が低過ぎ、イタリア人技師エウジェーニオ・ミオッツィ案でアーチの橋に架橋し直されました(1932~34)。

現在の駅舎は、建築家アンジェロ・マッツォーニの1924年のプロジェクトに始まります。彼は最終案に至るまでに10年以上の歳月を要したと言います。

1934年には貨物駅建設等のためのコンペが発表され、建築家ヴィルジーリオ・ヴァロットの案が採用され、1936年まで工事は保留されていましたが、その年マッツォーニとヴァロットの二人の協力で、旅客舎を建設することが決められました。

そして1943年まで建設が続きます。建物の改築は一部マッツォーニの手に寄ります。改築が最終的に終わるのは第2次世界大戦後のことで、建築家パーオロ・ペリッリのプロジェクトによるものでした(~1952年まで)。結果的に1861年の最初の物より大分幅の拡がった建物に改築されたことになったようです。
サンタ・ルチーア駅の店サンタ・ルチーア駅に出来た店2009年11月から、有機的な人や物の流れやより有効な空間利用を期して、建築上の補修や修復を含めて改築が始まり、現在では駅構内に新しく商業施設が導入されました(商店の写真は2014年のもの)。
  1. 2014/04/09(水) 00:04:19|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: マルチャーナ図書館

ゼッカ(造幣所)の右隣は、サン・マルコ(マルチャーナ)図書館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は、次のような事を教えてくれます。
王の庭園、右旧造幣局とサン・マルコ図書館「サンソヴィーノの設計により、1536~37年に建築が始まったが、その荘厳さにおいてはヴェネツィア的というよりはよりローマ的な趣味が強いが、議論の余地なく素晴らしい物である。モーロ桟橋側の翼は、1583~88年にスカモッツィが完成させた。

彫刻的な華麗さに満ちた21の拱廊を備えた長い建築物である。上の階の二つの様式の長い開廊――内側はドーリア式、上の層はイオニア式――は色々の彫像をあしらった欄干で取り囲まれている。

一度興味深い事があった。建築は殆ど完了していたが、1545年建物が崩れたことがあった。失敗を容赦しないヴェネツィアの慣行通り、サンソヴィーノは獄門に下った。ティツィアーノとアレティーノの情熱的弁護が彼を救った。

ポルティコの下のアレッサンドロ・ヴィットーリアによる2本の大きな女身像柱(カリアティード)の間の玄関門は、やはりヴィットーリアの化粧漆喰とジャンバッティスタ・フランコとバッティスタ・デル・モーロによる円形画(トンド)で飾られた2列の華麗な大階段に通じている。

玄関ホール、大階段上の天井にティツィアーノの後期作品『La Sapienza(英知)』がある。一方大階段は崇高と寓意の一連の円形画で飾られたが、それは1556~57年に最高の画家達、パーオロ・ヴェロネーゼ、ヤーコポ・ティントレット、アンドレーア・スキアヴォーネ等によって描かれた。

図書館を建てるという発想はある点ペトラルカに始まる。彼はセレニッシマの素晴らしき、熱き礼遇に感謝して、1362年自分の蔵書を贈物とした。

しかし真の実現の機会となったのは、コンスタンティノープル総大司教であったニケアのヨハンネス・ベッサリオン枢機卿(Giovanni Bessarione Niceno、希臘式バシレイオス、羅典式ヨハンネス)に蔵書の提供を受けた時であった。彼は貴重な極彩色のインキュナブラ[印刷術が揺籃期の15世紀後半に印刷された扉のない初期刊行本]を含むルネサンス期の重要な書物を豊富に所持していた。

コンスタンティノープル陥落後、ヴェネツィアから手厚いもてなしを受け、感謝の印に1468年その蔵書をセレニッシマに贈ったのだった。正しくこの寄贈により元老院は1536年図書館の建設を決定したのだった。

マルチャーナ図書館は現在でも、最も重要な図書館の一つである。所有する75万冊以上の蔵書の中には沢山の金泥写本、珍しいビザンティンやアラブ、中世の写本、アルド・マヌーツィオの稀覯本、最も有名な物に、フランドルの芸術家による『グリマーニの聖務日課書(Breviario Grimani)』がある。これは832葉の大判型の書で、頁余白部は唐草模様が占め、110のミニアチュアが頁一杯に描かれている。それらは一年を通しての生活、労働の模様であり、旧約・新約聖書のシーンである。」
箱に納められた『グリマーニの聖務日課』『グリマーニの聖務日課』の装丁『グリマーニの聖務日課』10月の仕事『グリマーニの聖務日課』12月の様子[『グリマーニの聖務日課書』イタリアのサイトから借用。中央右、10月の農作業。右、2月の雪景色。]
大運河右岸、税関岬から始まって大運河を遡上し、リアルト橋で河岸を変え、左岸をサン・マルコ小広場まで建物を見ながら下って来ました。次回からはサンタ・ルチーア駅舎から大運河を下ります。
  1. 2014/04/02(水) 00:03:57|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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