イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: フランジーニ(Flangini)館

E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は、ホテル・プリンチペの右下(しも)に位置する建物、フランジーニ館について次のように語っています。
20世紀住宅など「この館は17世紀後半の、基礎はロンゲーナの物であることは明白であるが、多分ジュゼッペ・サルディの設計により、3分の2が未完成である。基部の浮き出し飾りのある切り石積みの上に、イオニア式とコンポジット式の2層の半円柱がファサードを際立ったものにしている。玄関門及び窓のアーチは力強い彫刻で飾られている。

この建物を遺産で遺された兄弟の片方が、もう一方への嫌がらせで建物を真っ二つにして自分側の翼を壊させてしまったがために、館としては未完成状態だと言われている。事実、非常に単純で平凡であり、古い持ち主は資金不足で、完成形に必要な隣の敷地を獲得出来なかったのである。

1310年以来フランジーニ家はキプロスの貴族であり、ヴェネツィアでは英雄的海の男、あのルドビーコのような胆力のある男達を輩出してきた。

ルドヴィーコとはダーダネルス(Dardanelli)海峡でオスマントルコの艦隊と勇敢に戦って深手を負いながら、体を船楼に運ばせて味方の指揮を取り、2日間に渡り獅子奮迅の働きをした。勝利の女神がヴェネツィアに微笑んだ時、崩れ落ち、絶命したのである。

皇帝フリードリヒ3世は、一家に伯爵の称号を贈った。1804年ルドヴィーコという人物が亡くなり、血脈が絶えた。」

更に右隣に続くサン・ジェレミーア教会について:
「恐らく11世紀に建立された教会で、1200年代に初めて立て直され、1753~60年僧カルロ・コルベッリーニの案で再度建て替えられた。ファサードは同名の広場に向いており、もう一方のファサードはカンナレージョ運河に向いている。
サンティ・ジェレミーア・エ・ルチーア左翼廊の角に聖女ルキア(サンタ・ルチーア)礼拝堂の後部が位置して、大運河に面している。そこに1860年このシラクーザの殉教者の遺骸が移されてきた。その時まで聖女は、鉄道駅に造り替えるために壊された、パッラーディオ様式のサンタ・ルチーア教会に眠っていた。

煉瓦製の美しい鐘楼は13世紀のもの。教会は元モルティ同信会館、別名死者贖罪の聖処女マリア信心会と1700年代の司祭館に挟まれている。」
 ――E.W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より
[シラクーザで殉教した聖女ルキアの亡骸が、この教会にある理由についてはサンタ・ルチーア鉄道駅をご覧下さい。ゴンドラ上でナーポリ民謡『サンタ・ルチア』が歌われたりするのは、聖ルキアの遺骸が生地ではなくヴェネツィアで眠る、こんな事も関係しているのでしょうか、またシラクーザは遺体の返還を求めていると仄聞しました。]
  1. 2014/05/28(水) 00:05:56|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: ソランツォ・カルボ・クロッタ館(3)

E.&W.エレオドーリ著i『大運河』(1993)の説明は更に続きます。

「……クロッタ家は1700年代の初め、ソランツォ家からこの家を購入したのだが、1649年、10万ドゥカートの政府要求に応じて、“お金”で貴族になった一族であった。ミラーノ出身で、ベッルーノの分家のやり方で巨大な利益を上げていた。

貴族を認められて数年後、ジュゼッペは兄弟のアントーニオ殺害の罪で刑を申し渡されたが、罰に服するつもりはなく、既にして逃亡していた。しかし彼の全財産は、殺人者の家族のために押収されたのだった。

ジョヴァンニはその事に別段驚きもしなかった。ある夜、兄弟の妻が田舎の家に行った時を捕え、配下の者に後を追わせた。そして女の部屋に闖入し、連れてきていた金で雇った公証人の前で、全財産の返却の署名を脅して強要した。しかしヴェネツィアはこの事を認めず、ジュゼッペを永久追放にした。

カルボ家は891年にヴェネツィアに到来した。そして共和国に著名な軍人を提供したのである。ジョヴァンニ・マルコとかいう人物は1727年に亡くなったのだが、ルクレーツィア・クロッタと結婚し、母方の伯父の遺言書の規定によりこの館を遺され、自分の姓にクロッタ姓を付け加えることになった。

この館のために、ティエーポロが大キャンバス画を描いた。それは、現在フランクフルト美術館に収蔵されている。カルボ・クロッタ家の者を聖人達に描いた物である。」
ホテル・プリンチペ等20世紀住宅など更に右へ行くと、ホテル・プリンチペの建物群があり、更にその右に rio tera` Sabbioni の小広場がありますが、この辺りにモロジーニ・デッラ・トレッサという館があり、19世紀に崩れ落ちたそうです。その館跡にホテル・プリンチペの建物が出来たのでしょうか。
幾つかの建物は端折って、次回はフランジーニ館です。
  1. 2014/05/21(水) 00:06:13|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ソランツォ・カルボ・クロッタ館(2)

ジョヴァンニ・ソランツォ(1240.ヴェネツィア~1328.ヴェネツィア)は、Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton editori、2006.11.)によれば、次のような人生を歩んだそうです。
『ヴェネツィア人物事典』「エチオピア南西のカッファ攻略で名を馳せ、キオッジャ、そしてフェッラーラの司法長官として政治行政の役割を担った後、財務官となったアントーニオ・ソランツォの息子で、51代目の総督となった。

1312年72歳の時、総督マリーン・ゾルズィの後を襲った彼は、その行動が堂々として冷徹だったことで知られる。人としても偉大であり、交渉能力に長けており、フェッラーラとの不幸な戦争のために悪化した教皇との関係改善のために専念し、ライバルのジェーノヴァが脅かすオリエント海域の完全な掌握に邁進した。

アルセナーレを拡張して、全ての船舶を増強させ、ダルマツィア沿岸の安全性を更に高めた。エジプトのスルタン、タブリーズ(現イラン――イル・ハーン国)のハーン、トレビゾンド帝国の皇帝と重要な商業条約を取り決め、ビザンティン帝国との新しい友好関係の構築にも努めた。

国内の重要な改革としての、サン・マルコ財務官の再組織、大評議会の“セッラータ”の完成、十人委員会を5年任期として確定、等も手掛けた。

総督在職時、1321年8月、ラヴェンナ公である Guido Novello da Polenta の使節として、ダンテ・アリギエーリがヴェネツィアに赴いたことが記録に残っている。

1328年12月31日88歳で亡くなり、サン・マルコ寺院の洗礼堂に置かれた石棺で彼は眠っている。

フランチェスカ・モリーンと結婚し、3人の息子、マリーノ、ニコロ、Belello と通称されたアントーニオ、そして3人の娘、フォンターナ、エーレナ、ソランザ、最後の娘はバイアモンテ・ティエーポロの国家に対する謀反の主要メンバーの一人であった、不運なニコロ・クェリーニの妻であった。

一家はサンタンジェロ広場の館に住んだ。彼の総督としての仕事は穏やかなものではあったが、非常に建設的に活動したのだった。彼について言われること、それは彼が偉大なるヴェネツィアの principe の一人であったということである。」
 ――M.ブルゼガーン『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006.11)
ヴァン・アクセル館《ソランツォ》という名前を耳にすると、ミラーコリ教会近くの、運河沿いに建つ美しい《ソランツォ・ヴァン・アクセル》館が目に浮かびます。
  1. 2014/05/14(水) 00:05:57|
  2. | コメント:0

東京富士美術館

先日、八王子の東京富士美術館で大好きな伊藤若冲を展示しているというので行ってきました。最初に入室した常設展の方で私にとって予想外の絵を見ました。それは Alessandro Allori画『ビアンカ・カッペッロの肖像』(1572~87)です。ビアンカの肖像画が日本にあるというのは大変な驚きでした。
富士美術館チラシ表富士美術館チラシ裏  ビアンカ・カッペッロの肖像[東京富士美術館所蔵『ビアンカ・カッペッロの肖像』(アレッサンドロ・アッローリ画)]
ビアンカについては blog 天正のローマ使節 ヴェネツィアと日本との関係 バルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館 メーディチ家のミステリー 天正遣欧使節(9)等で触れてきました。資料によって筆者の彼女に対する評価が微妙に異なるのが分かります。今回は Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006)で、彼女の短かった生涯についてのご紹介です。

トスカーナ大公妃(1548ヴェネツィア~1587.10.20ポッジョ・ア・カイアーノ[Storia di Firenzeのデータ])

ビアンカ・カッペッロはイタリア後期ルネサンス期の最も興味深い女性の一人であるが、娼婦のような女、あるいは民間伝承的には魔女のような女として描かれるという、歴史上でもセンセーショナルに捏造された犠牲者である。

古いヴェネツィア貴族バルトロメーオ・カッペッロとペッレグリーナ・モロジーニ夫妻に生まれた。1563年、文字通り才色兼備の少女だったのだが、その階級にあるまじきことに、無一文で、彼女に釣り合う血筋もないフィレンツェの若者ピエートロ・ボナヴェントゥーリに恋をしてしまった。家族や町の反対があったにも拘わらず、その年の12月12日に結婚してしまい、子供を孕み、フィレンツェに駆け落ちしてしまった。

フィレンツェでもあまりに美人であったので、称賛者が絶えなかった。そうした男達の中にメーディチのフランチェスコ大公もあり、彼は見境もなく彼女にゾッコンとなり、彼女を身近に置きたいがため、ボナヴェントゥーリを自分の衣装係に任命し、彼女を王宮に招き入れた。

大公妃ジョヴァンナは若きライバルの出現に心痛のあまり、亡くなってしまい、フランチェスコとビアンカの幸せのための最後の障害がなくなった。またボナヴェントゥーリは殺された。二人はこうして婚礼を祝うことが出来、イタリアの全宮廷にその旨が知らされた。

ヴェネツィアはこのスキャンダルの初め、ビアンカと若者に死の宣告をしたが、その後大公との結婚が告げられるや、満腔の喜びを表明した。彼女の両親は最初は、かの貧しい商人との結婚を激しく拒絶したが、大公とのそれは心から祝った。

ヴェネツィアの元老院はビアンカ・カッペッロこそ《その幸運で自らを作り上げ、称賛に値するというよりは類稀なる性格でもって、真の、そして際立った共和国の娘となった》と宣言し、彼女の父と兄弟に“騎士”の位を授与した。そして祝鐘を鳴らし、イルミネーションで飾り、新大公妃の戴冠式が更に厳かであるようにと、素晴らしい使節団をフィレンツェに派遣した。

しかし悲しい歴史が彼女の頭上に色濃く渦巻いていて、娼婦的女だとする夥しい噂から逃れることは出来ないし、魔女だとする、悪意のある、いかがわしい評判の原因となっている。

1587年10月19日疫病に罹り、数日後ポッジョ・ア・カイアーノのヴィッラでフランチェスコが亡くなり、翌日若いヴェネツィアーナも夫の墓へと後を追った。大公夫妻の同時の死は、一般には大公弟のフェルディナンド枢機卿が、ビアンカのために調合した毒薬を夫婦が飲んだものと考えられている。フェルディナンドの意志でビアンカはサン・ロレンツォ教会の公共墓穴に葬られ、彼女の宮廷生活の痕跡は全て抹消された。
ビアンカ・カッペッロの肖像[『ビアンカ・カッペッロの肖像』アッローリ画別ヴァージョン。イタリアのサイトから借用。]
彼女の美しい肖像画の一つは、1572年頃アレッサンドロ・アッローリによって描かれ、フィレンツェのウッフィーツィ美術館に収蔵されている。」

この展覧会では、江戸末期来日したイタリア人写真家フェリーチェ・ベアート(1832年ヴェネツィア生、後英国籍獲得、1909.1.29フィレンツェ没)の写真工房で着色写真の修行をした写真家、日下部金兵衛の手彩色写真の数々も展示されています。
  1. 2014/05/10(土) 13:05:35|
  2. 絵画
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: ソランツォ・カルボ・クロッタ館(1)

スカルツィ橋の次に大運河に顔を覗かせているのは、ソランツォ・カルボ・クロッタ(Soranzo Calbo Crotta)館です。E.&W.エレオドーリ著 『大運河』(1993)の説明に耳を傾けます。
ソランツォ・カルボ・クロッタ館など「ビザンティンからもたらされたコンポジット(イオニア式とコリント式の混合様式)・スタイルの大きな建物で、14世紀後半から15世紀初めにかけて改築の手が加えられ、その後にも拡張された。ゴシック、ルネサンス、バロックの要素も保有する。

この建物はソランツォ家が建てたものだが、今日この家族の男の系統は消滅してしまった。747年から大評議会に顔を出す古い家系に属していた。彼らも大商人貴族であり、1338年には既に、他の貴族達と支那に到達し、そこからインドのデリーに向かったことが知られている。

ジョヴァンニは1312年総督に選ばれ、共和国で最も著名な人物の一人であり、1328年には88歳で人々に悲しまれつつ世を去った。その人生は生易しいものではなく、政治的・軍事的問題に直面した時に示した手腕とヴァイタリティとはなまじっかなものではなかった。

総督職に就いた時、教会に関わる確執という重大な局面を受け継いだ。それは1308年、教皇庁に嫌われたフェッラーラのエステ家のある一人に味方したためにヴェネツィアは破門されていたのだった。
『ヴェネツィア』本文[当時の状況を語るクリストファー・ヒバート著『ヴェネツィア』(横山徳爾訳、原書房)より] この当時の破門はヴェネツィアにとって、カトリックの世界で得ていたもの、建造物、財産、人材といった全てを失うことを意味した。例えばジェーノヴァでは、多くのヴェネツィア人が殺され、奴隷にされた。それは元老院が脱出口を探せど見つからない袋小路だった。1324年ジョヴァンニ・ソランツォは教皇庁との深刻で容易ならぬ関係を解決することが出来たのだが、それは金貨を積んで和解を勝ち取るという手段だった。

更にジェーノヴァとの商業上の争いにも直面していた。またダルマツィアの平定と1327年カンディア(クレタ島のイラクリオン)で起きた謀反(この島に越したヴェニエール家の分家の者達も加わっていた)の鎮圧に向かわねばならなかった。

家庭でも厳しい生活を迫られた。即ち娘のソランツァは、Zoppo(びっこ)と呼ばれたニコロ・クェリーニに婚し、彼が1310年のバイアモンテ・ティエーポロの失敗に帰した謀反に荷担したために、一緒に追放刑に処されていたが、父親が総督に選出されたと知るや、刑の免除を期待して、共和国政府の許可を得ずしてヴェネツィアに戻った。

しかし十人委員会の審判は、彼女の夫の死まで修道院に彼女を閉じ込めるというものであった。その瞬時の間だけ、彼女は先祖伝来の館で、母親との水入らずの生活を共にすることが出来た。総督と言えども、刑の軽減のためにその判決に介入することは出来なかったのである。

歴史家ヴィッラーニは、一つのエピソードについて語っている。1321年ダンテ・アリギエーリは死の少し前、外交官としてヴェネツィアを訪れ、《漁の季節に総督から正餐に招かれた》。その会の前、魚を重要な食料として口に上していた使節達がおり、彼らの皿には大きな魚が載っていたが、ダンテのところには小さな魚しか来なかった。
中世イタリア商人の世界[このジョヴァンニ・ヴィッラーニの年代記について、清水廣一郎著『中世イタリア商人の世界』(平凡社)が詳しく記述しています。フィレンツェに行く人の参考書です。]
彼は一尾の魚を摑み、耳の所へ持っていった。その時総督がそれはどんな意味なのか、と問うた。ダンテ答えて曰く。「私の父は海で死んだので、父についての情報を魚達に訊いたんです」。《総督が尋ねた。「それはまた……!、で何と言ってました?」。詩人応えて曰く。「父と父の仲間達は若過ぎて、何も分かっちゃいなかったのです。でもここにお出でのお歴々、輝かしきお偉方や古老がお出でですが、その方々は素晴らしい情報を私に下さることが出来るぞ、と言ってました」。

総督は笑って、もっと大きな魚を彼の所に持って来させた。 ……」(続く)
  1. 2014/05/07(水) 00:06:53|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ジョー・バルビエリ・トリオのコンサートと山上渡展

昨5月2日、伊文化会館でのジョー・バルビエリ・トリオのジャズ・コンサートに行ってきました。ナーポリ出身のシンガー・ソングライター、ジョーらによる、何故か私が大好きだったトランぺッター、チェット・ベイカー没後25周年記念と謳ったものだったので、逃す訳にはいきません(You tubeでChet Bakerをどうぞ)。ジョーの歌とギターを中心にしてチェットのナンバーが演奏されました。
Chet lives!Chet lives!チラシジョーの甘い声でチェットの唄を思い出させてもらい、久し振りに心からジャズに堪能しました。アントニオ・フレーザのピアノも素晴らしかったし(絶妙のアドリブがありました)、ルカ・アクィノのトランペットは最初チェットのパツラの再来と思わせ、後半、息を吸いながらの長時間息継ぎなしの演奏などで聴衆を沸かせました。そのため今年もまた青山のブルーノートにやって来るらしいラッパの名手ファブリッツィオ・ボッソを聞きに行かねばと思ったことでした。

帰宅前、新宿のヴェネツィアン・レストラン“イル・バーカロ”でワインの立ち飲みをしていると、隣で飲む3人の青年とお喋りが始まり、そのうちのお一人が現在ゴールデン街(街は外国の人で溢れ返っています)のバーで絵の展示をしているということで案内して頂きました。山上渡さんという絵描きさん(アーティスト)で、3階までの狭いバーの壁面一杯に小さな絵が大量に展覧されていました。細密な表現の世界は素晴らしいものでした。
WATARU YAMAKAMIYAMAKAMI チラシ絵の鑑賞後そのバーに腰を下ろして酒を飲みながら、もう一人の絵描きさんとイタリアの事などお喋りをしました。ヴェネツィアは面白い町ですね、という話から、彼の作品がジェーノヴァのエドアルド・キヨッソーネ美術館[お雇い外国人キヨッソーネが日本で収集した日本の美術工芸品が中心の美術館]に展示されているとかで、半田真規(はんだまさのり)さん(アーティスト)と名前を教えて頂き、今度イタリアに行った時には必ずキヨッソーネ美術館に寄りますと約束しました。

そんな事から、次回のイタリア行の旅程が浮かんできました。好きな作家チェーザレ・パヴェーゼの町トリーノから、日本美術のキヨッソーネ美術館の町ジェーノヴァ(エドアルドは東京で亡くなり、青山霊園に墓があるそうです)、美しい景観のチンクェ・テッレから更に南下し、友人の仏人ベアトリスが今度働く町と言っているチヴィタヴェッキアへ。彼女は“サムライ”の銅像があったと言って、メールで支倉常長の写真を送ってくれました。常長が1613年10月28日に石巻の月浦港を出帆して400年が経っています。2013.11.27日支倉常長について触れました。
太平洋横断地中海渡航ベアトリスが送ってくれた銅像の説明用、太平洋の航跡(左)と地中海世界での旅の軌跡の地図の写真[追記: スペイン到着前、キューバのハバナにも立ち寄ったそうで、ここに常長の銅像があるそうです]
そして私が日伊協会で初めて伊語会話を教わったレナータ・フィカーラさんは南端のレッジョ・ディ・カラーブリア出身で、イタリアで伊語を勉強するならレッジョに来なさいとこの町を勧められました。以前イタリア国内での日本対決と言われたパルマの中田英寿選手、また中村俊輔選手が属していたレッジーナはここレッジョのチームでした。対決の試合の時はパルマに見に行ったことがあります。トリーノからレッジョまで色々の町を訪ねながらイタリア縦断の旅を実現させたいものです。
[山上渡さんや半田真規さんの活動のご様子は、PCで検索すれば知ることが出来ます。]
  1. 2014/05/03(土) 19:34:05|
  2. 音楽
  3. | コメント:0

カウンタ

カレンダー

04 | 2014/05 | 06
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア