イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: メンモ・マルティネンゴ・マンデッリ館(2)

前回メンモ・マルティネンゴ館について書きましたが、再度 R.Russo『ヴェネツィアの館』(1998)によって、この館についての違った話を述べてみます。
サン・マルクオーラ教会他「1775年アンドレーア・メンモがサン・マルコ財務官に選出された時、このメンモ館で行われた豪勢なお祝いの会について、ヴェネツィアでは永らく語り草になった。アンドレーアはパードヴァの施政官、そしてコンスタンティノープル、その後ローマに派遣された大使であった。

カーニヴァルの最中、総督レニエールが亡くなった時、総督候補に選ばれた。彼の研究書、瞑想録は著名である――彼の師カルロ・ロダーリの書の目録を作り、出版した――が、この時代特有の軽薄で放蕩的な生活態度でも知られている。青春時代、この時代の“ボッカッチョ的”生活の最も代表的な人物ジャーコモ・カザノーヴァの友人であった。彼とあらゆる種類の、現世的、軽薄な乱痴気騒ぎを共有した。

その他、この時代ヴェネツィア社会で非常に有名だった少女ジュスティニアーナ・ウィン――彼女とは外交使節のロレダーンの館で出会っていた――との事がある。彼女はアンドレーアを熱烈に恋い慕ったのだった。

彼女の愛は大変なものであったが、アンドレーアの方は楽しい思い出が残っただけであった。彼とのシックなアヴァンチュール、そしてオーストリア帝国大使フィリップ・ヨーゼフ・ローゼンブルク=オルシーニ伯爵との結婚後も、彼女はその愛を貫いた。

二人の間に育まれた友情については、今日未刊の夥しい書簡が残されている。1793年大運河に面したこの館で彼は亡くなった。建物は19世紀までメンモ家の所有であったが、その後マルティネンゴ家が獲得した。」
[アンドレーアについては、2010.05.22日のロレンツォ・ダ・ポンテ(4)(5)、ジュスティニアーナについては、2011.04.30日のアンドレーア・ディ・ロビラントで触れています。大変興味深い本です。]

この右隣は通称サン・マルクオーラ、サンティ・エルマーコラ(男性名)・エ・フォルトゥナート教会広場となります。地図本『Calli, Campielli e Canali』はこの教会を次のように説明しています。

「大変古い教会で、ファサードが未完のままの現在の物は、1728~36年にジョルジョ・マッサーリに建造された。聖エルマゴラス(伊語エルマーゴラまたはエルマーコラ)と聖フォルトゥナトゥス(伊語フォルトゥナート)の教会は、ヴェネツィア語で vulgo S.Marcuola と呼ばれ、内部には1547年のヤーコポ・ティントレット作品『最後の晩餐(l'Ultima Cena)』が保存されている。」

サン・マルクオーラ教会の右隣は、前回書きましたようにガッティ・カザッツァ館です。 次回はサン・マルクオーラ運河の右隣、Casa Volpi です。
  1. 2014/07/31(木) 00:01:30|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: コッレール・コンタリーニ(・ゾルズィ)館他

クェリーニ・パポッツェ館を過ぎ、レメール小広場とソランツォ通りを越すと、コッレール・コンタリーニ(・ゾルズィ)館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの建物について次のように述べています。
コッレール・コンタリーニ館「この16世紀の大きな建物は、多分2家族用と思われる、独立した玄関門二つを備える。主軸線左側は2階、3階に三連窓があり、窓は全てアーチ形且つ楣(まぐさ)式のものである。

その高いアーチ形の窓は際立った窓枠組みで水平方向に繋げられている。一家の紋章のため、“心の館(Ca' dei Cuori)”とも称された。」

更に右へ行くと Spinazzi 館、ルカテッロ館と続き、グリッティ(・ダンドロ)館となります。同じく『大運河』(1993)は後者を簡単に次のように記しています。
グリッティ・ダンドロ館「土地柄の古い場所に建てられた17世紀の華麗な建物である。ファサードは露台の付いた大きな五連窓が両脇に片開き窓を従えて、2階、3階の中央に設けられている。」

グリッティ館の右にはメンモ・マルティネンゴ・マンデッリ館が続きます。『大運河』(1993)の説明をどうぞ。

「この地域には、10世紀からある建物が建っていたが、その後1700年代メンモ家によって建造された。それは浮き出し飾りのある高い基礎の切り石で、主軸線が左に寄って建てられ、2階の窓の両側を飾る彫刻、2階ファサードをリズミックに占めるアーチ形のペディメントに特徴がある。現在は、直接税地方局の事務所となっている。」

またこの建物について G. ロレンツェッティ著『ヴェネツィアとその入江』(1926)は次のように述べています。

「Dona' dalle Rose 館とも呼ばれる。10世紀からメンモ家のものであり、1700年代でも然りであった。改築に取り掛かったが、アンドレーア・メンモがサン・マルコ財務官に選ばれた機会に夥しい芸術品で館を飾り、豪華な設えを施した。

ルイージ・マルティネンゴ・ダッレ・パッレ伯爵の手に渡り、屋上にテラス、更に時計塔を設けた。――1886年L. マンデッリの所有するところとなり、下手な改造の手が入った。」

更に進むと通称サン・マルクオーラ、サンティ・エルマーコラ(男性名)・エ・フォルトゥナート教会広場となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの教会を次のように説明しています。
サン・マルクオーラ教会他「大変古い教会(恐らく9~10世紀に遡る)で、12世紀にはメンモ家によって初めて立て直された。現在の建物はちゃんとした設計図によるバロック様式のものであるが、1600年代末、アントーニオ・ガースパリにより更なる改築が進められ、1728~36年右脇の部分のファサードを除いて(一部見えている)、ジョルジョ・マッサーリによる建築が終了してしまい、中心のファサードは未完のまま残され、大運河に開けた狭い広場に向いて煉瓦のざらざらした生地そのままの、仕上げのない無味乾燥な顔を晒している。

内部にはヤーコポ・ティントレットの若き日の貴重な作品『最後の晩餐』(1547年)が保存されている。」

サン・マルクオーラ教会の右隣はガッティ・カザッツァ館です。『大運河』(1993)は簡単に次のように述べています。

「元来ゴシック様式の楽しい建物であったが、その後手が入り17世紀には上の階を増築した。4階の緑の草木をあしらったテラス、最上階に設置されたヴェネツィア独特のアルターナが人目を引く。収集家で建築家のジュゼッペ・ガッティ・カザッツァが20世紀の所有者となった。」
  1. 2014/07/24(木) 00:05:32|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの祝祭: レデントーレの祭

昨夜はヴェネツィアの人達が最も待ち望んでいると言われるレデントーレ祭の夜宮で、深夜近く恒例の花火大会があったそうです。このお祭りがどんなものかは、2011.03.05日に書いたヴェネツィア年中行事(8)を参照して下さい。私も3度見ました。
レデントーレへの渡橋レデントーレの花火大会本日のLa Nuova紙を見ると、昨夜の花火大会の模様が分かります。新聞のキャプション等をクリックしたり他の操作をすると、動画や写真がご覧になれます。

今回は新聞の訳はありません。 Viva, il Redentore!
  1. 2014/07/20(日) 13:15:25|
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文学に表れたヴェネツィア――テオフィール・ゴーティエ(2)

テオフィール・ゴーティエ詩集『七宝と螺鈿(E'maux et came'es)』。下掲図はフランス・ウィキペディアより借用
Émaux_et_camées「 ヴェネチアの謝肉祭  変奏曲
  Ⅲ 謝肉祭
ヴェネチア、舞踏の衣裳をまとふ。
身にパイエットをきららに飾り、
きらめき、ひしめき、さんざめく、
(あや)なす色の謝肉祭。

仮面で黒ん坊、多彩な服で
蛇そっくりな、アルルカン、
いじめ相手のカッサンドルを
奇妙な音符でポカリと殴る。

(いはほ)の上のペンギン鳥か、
袖を振りふり羽搏(はばた)いて、
白いピエロが、二分音符から
顔さし出して片目をぱちくり。

ボロニア博士はくどくどと
物憂い音色の低音(バス)で繰言(くりごと)
ポリシネールは御機嫌斜め、
八分音符を鼻と勘(かん)ぐる。

滅茶(めちゃ)な顫音(トリル)で洟(はな)をかむ
トリーヴランと突きあたり、
スカラムッシュはコロンビーヌに
扇をかへし、手袋わたす。

拍子につれて抜き足差し足
ドミノの女、露(あらは)なものは
黒い繻子(サテン)の眼瞼(まぶた)のかげの
意地悪さうな流眄(ながしめ)ばかり。

ああ、清らかな息吹(いぶき)を受けて
ひらひらと舞ふ薄紗(レース)の垂れ紐
あのアルペジオが『彼女だ!』といふ、
網こそかぶれ、まさしく然り。

張子(はりこ)の醜い横顔のかげ、
忘れもしない、薔薇いろ清(さや)かな、
桃のうぶ毛の、あの脣(くちびる)と、
あごにタフタのつけぼくろ。

  Ⅳ 感傷的な月の光
サン・マルコからリドーにかけて
どよめきわたる哄笑(わらひ)をつらぬき、
快速調に昂(たか)まる音階、
月光(つきかげ)あびる噴水(ふきあげ)のやう。

道化(おどけ)た調子でさんざめいては
風に鈴ふる曲(しらべ)にまじり、
頸絞められる山鳩に似て、
折ふし、未練の、啜り泣くこゑ。

遠くの、ざわめく靄のなかに、
殆んど消えた夢のやう、
色はうすれてまだ悲しげに、
古いむかしの恋が、浮んだ。

涙さしぐみ想ひ出すのは、
森のすみれの初花を
探しもとめて、草の葉かげに
ふたりが指を混えた、四月。……

アルモニカのやう顫へをののく
あのヴィオロンのE線の音、
あれは細音(ほそね)の、稚(いとけな)いこゑ、
わたしを射抜いた白銀(しろがね)の矢だ。

音色がいたく調子外れで、
優しく、皮肉、甘くて、残酷、
冷たく、しかも、熱烈なので、
聴けば、死ぬほど快く、

円天井から水盤に
雫が落ちて泣くやうに、
心の臓から血潮の涙が
滴、一滴と、胸にしたたる。

陽気でしかもメランコリックで、
笑ひが涙と呼び交す
ああ、謝肉祭の古い主題(テーマ)よ、
その魅力から、深創(ふかで)を受けた。 ……  」
 ――テオフィル・ゴーチエ『七宝とカメオ』(齋藤磯雄訳、『世界名詩集 12巻』平凡社、昭和四十三年五月二十五日)より
  1. 2014/07/17(木) 00:04:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィア大学: カ・フォースカリ大学の卒業式

昨日の新聞La Nuova紙は、7月12日にサン・マルコ広場で行われた大学の卒業式の模様を伝えています。

「 ヴェネツィアに雷雨、雨中での卒業式
サン・マルコ広場卒業式ヴェネツィアに襲来した雷雨が、学生、両親、友人達等の沢山の人々が参集したサン・マルコ広場での卒業式をスリップさせてしまった。皆、新・旧の行政館下に避難そして続行。卒業証書の授受は、レインコートを着、傘を指して。」

La Nuova 紙のキャプションをクリックすると動画をご覧になれます。
  1. 2014/07/14(月) 00:03:44|
  2. ヴェネツィアの大学
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文学に表れたヴェネツィア――テオフィール・ゴーティエ(1)

テオフィール・ゴーティエ(1811.08.30タルブ~1872.10.23ヌイイ=シュール=セーヌ)は、1845年スペインを旅し、その記録を出版しています。その後イタリア、ギリシア、アルジェリア、エジプト等と足を伸ばし、1852年『E'maux et Came'es(七宝と螺鈿)』という詩集を上梓しました。『世界名詩集 12巻』中の『七宝とカメオ』(齋藤磯雄訳)にヴェネツィアを歌った詩がありました[ヴェネツィア滞在時はホテル・バウアー・グリュンバルトだったそうです]。
世界名詩集12巻「  ヴェネツィアの謝肉祭 変奏曲
  Ⅰ 街にて
古い小唄のひとふしがあり、
あらゆるヴィオロンがキイキイやつて、
怒つた犬めが吠えたてようと、
あらゆる風琴(オルグ)が鼻鳴らす。

オルゴール式たばこ入れにも
演奏種目に刻み込まれて、
カナリヤたちには古典音楽、
祖母も、幼い頃に覚えた。

このふし奏でて、金管、木管、
(ほこり)舞いたつダンスホールで、
店員、女工を、跳ね上らせる、
さては小鳥を巣から追ひ出す。

忍冬(にんどう)、ホップの、青葉棚かげ、
郊外酒場はこの繰歌(くりうた)
わめいて祝う、陽気な日曜、
アルジャントゥイユの酸つぱい地酒。

空泣(そらな)きバスーンを鳴らす乞食が
指まちがへてこのふし吃(ども)れば、
お椀を咥(くは)へたむく犬もまた
そばで小声でこのふし唸る。

痩せた少女のギター弾きたち
派手な格好の細い肩掛、
音楽カフェのテーブルめぐり
哀れな声で流すのもこれ。

或る夜、幻想家パガニニが、
屑屋が鉤(かぎ)でやるやうに、
その神々しい楽弓(ゆみ)の先で
この古めかしい主題(テーマ)を拾ひ、

まだ安ぴかの飾りもとれぬ
(あ)せた薄紗(はくしゃ)に刺繍をほどこし、
軽蔑されたこの楽句(ふし)に、
金糸の唐草模様を描いた。

  Ⅱ 入海にて
トララ、トララ、ラ、ラ、ラレール、
この曲、知らぬ人があらうか。
優しく陽気、皮肉で哀しく、
われらが母親(ママン)のお気に入り。

このヴェネチアの謝肉祭の唄、
むかし運河で歌われてゐたが、
気まぐれ風のため息が
バレーの中に運んで来た。

この曲聴いて眼に浮ぶのは、
ヴィオロンの棹(さお)さながらに
(へさき)渦巻くゴンドラの
水脈(みを)青々とすべりゆくさま。

半音階の旋律(しらべ)に乗って、
胸に真珠の雫(しづく)を散らし、
アドリア海のヴェニュスが、水から、
薔薇色、白の、裸身(らしん)をあらはす。

円屋根(ドーム)が、波の紺碧の上、
輪郭さやかな楽句につれて、
ふくらむさまは、まるい乳房(ちぶさ)
恋の吐息でもちあがるやう。

淡紅色(たんこうしょく)の大玄関の
大理石(なめいし)づくりの階段(きざはし)に、
舟は近づき、舫(もや)ひの索(つな)
杭に投げかけ、わたしを降ろす。

その宮殿と、そのゴンドラと、
またその海上仮装隊、
甘い哀しみ、底抜け騒ぎ、
ヴェネチアは挙げて、この曲にある。

ふるへをののくかぼそい絃が、
ピッチカートに載せて、ふたたび、
昔のやうに楽しく自由な
カナレットーの都をつくる。  」  (続く)
 ――『世界名詩集 12巻』(平凡社、昭和四十三年五月二十五日)中、テオフィル・ゴーチエ『七宝とカメオ』(齋藤磯雄訳)より
  1. 2014/07/10(木) 00:05:40|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの今: 鳥と人

昨日のヴェネツィア・ニュース紙La Nuovaは、次のような事を語っています。

「 サン・マルコ広場で鷗への注意勧告。鷗、旅行者を襲う

サン・マルコ広場では鷗は容易く餌を見付けられる、それは何か食べようと食料を広げている人に向かって飛んでくる鳥に対する警戒警報である。地元の新聞はサン・マルコのカッフェやサン・マルコ広場協会に出されている警告についてルポしている。

ヴェネツィア語で“cocai'(鷗―単数cocal)”の問題について触れているが、その"cocai"は以前から捨てられたゴミから餌を探したり、リアルトの魚市場で清掃員がその後始末、ゴミの排除をする前に、魚のワタを漁るのに慣れっこになっている。皆よく知った事だが、今や益々鳥の危険性が問題になってきている。

彼らの嘴は、考慮の域をはみ出して、鋭利な大鋏といった物になってしまった。商店主達は言っている、食料を大量に手にし、15世紀の新プロクラティーエ館の階段に腰を下ろし食事する旅行者の増加によって、危険度が増した、と。全ては、嘴にとって手ごろな大きさの食糧を大量に目の前に広げる真似などしない品位に、意を致す気色もないことにある。 」

ヴェネツィアのラグーナ(潟)は、鳥の楽園です。その事について2008.10.19日に潟の自然を書きました。鳥と人との共存共営は何かが過剰になると難しいということなのでしょうか。

サン・マルコ広場では、鳩の蝟集に市が音を上げたのか、広場で鳩の餌の販売を禁じました。また私が出席した市庁舎での結婚式では、式場となったコルネール・マルティネンゴ・ラヴァ館から新郎新婦が大運河前に登場すると、皆が一斉に白い米を頭から振り掛けます。突如その時、頭上から鳩の大群が米に向かって突撃してきたのです。彼らの間にはこの人間の習慣は知れ渡ったことのようで、彼らは屋上の屋根で待機していたのです。これほどまでの鳩の群れが米に集中的に突進してくれば、新郎新婦ならずとも驚愕です。

私の妻が友人とヴェネツィアを二人旅した時のこと、とあるレストランの外テーブルで食事中、鷗の群れが料理に向かって飛んできたそうです。外のカメリエーレが直ぐ様、白いナプキンを手に、取って返すと傍に立て掛けてある棒にナプキンを挟んで振り回し、追い払ったそうです。そういう道具はヴェネツィアには必需品のようです。

こんな事情からラグーナ傍のマルコ・ポーロ空港では、鳥によるエンジン・トラブル、バードストライクを避けるために、次のような手法を取り入れているそうです。イタリアの鷹匠の活躍はLa Nuova 2をご覧下さい。鷹が小鳥たちを追い散らします。

またラグーナ・ヴェーネタにはフラミンゴが飛来します。そんな記事もどうぞ。《フラミンゴ
  1. 2014/07/07(月) 18:01:32|
  2. ヴェネツィアの自然
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ヴェネツィアの建物: クェリーニ・パポッツェ館

サンティ・ジェレミーア・エ・ルチーア教会、ラービア館の右にはカンナレージョ運河があり、その対岸の運河出口にはエーモ館があり、クェリーニ・パポッツェ館と続きます。後者の館について『大運河』(1993)は次のような事を語っています。
クェリーニ・パポッツェ館ほか「無名の人の手になるものではあるが、機能的な大建築物であり、クェリーニ家が建てたものである。長いファサードは四角形の単純な開口部である窓が続くところに特徴がある。ローマ起源の古い家柄で、クェリーニ家は24家の“古い”家柄の一つであり、現在でも幾つにも分かれた分家の一つとして存続している。

1000年代から重職に就いたこの家の人々の名前が残っている。著名で、信頼に足る一家であったので、代々騎士の称号が与えられてきた。

その後第4次十字軍の時、一家のジョヴァンニはスタンパーリ島の支配者となり、1537年のトルコ軍の占領まで一家の子孫はその地に存続していた。1310年のバイアモンテ・ティエーポロの謀反の時、一家の政治的危機は最高になった。クェリーニ家の男が夫であるその一家はティエーポロに支えられていたのだった。

しかしティエーポロ家のように、クェリーニ家はヴェネツィアに栄えある艦長や勇敢な船員、法律家、文学者を送り込んだ。1431年フランドルに向かっていた時、仲間とともにノルウェー北西部のルーフテン諸島(Lofoten)の無人島に行き付いてしまった、そのピエートロが有名である。

近くの島の漁師によって安全な島に救助され、彼らと暫く生活し、陸路ヴェネツィアまで戻ることが出来た。これらの未知の土地について素晴らしい報告書を書き、北極圏探査の先駆者の一人として自称することになる。

クェリーニ家は大変裕福で、リアルト地区にも邸館を構えていた。しかしその相続人は3人の兄弟で、その兄弟の内の2人はお互いに陰謀合戦をした。政庁はその館の3分の2を壊すことを命じ、政庁が獲得することになった。見せしめのために、公営屠殺場に充当された。

デンマークのフレデリク(Federico)4世が1709年にヴェネツィアを訪れた時、王のホスト役となったセバスティアーノ・フォスカリーニは王に敬意を表して大舞踏会を催した。その会の参加者の中にカテリーナ・コンタリーニとその夫、貴族のクェリーニの姿もあった。

彼女は素晴らしい真珠で着飾っていたのだが、それが床に撒き散らされる事態となった。というのは、彼女と踊っていた王の締め金が首飾りの紐に引っ掛かり、糸を切ってしまったのだった。

混乱した王は、真珠を拾い集めようと屈み込んだ。しかしソファーに腰を下ろしていたクェリーニは素早く立ち上がり、笑みを浮かべて王を押しやるとその真珠を踏み潰してしまった。それから妻は何事もなかったかのように、この周章狼狽した王と踊り続けたのであった。」

また『道、広場、運河』(Edizioni Helvetia、1989)という地図本はこの館について次のような事を記しています。

「ローマ出身の古い一家クェリーニから十字軍に参加したマルコという人物があり、また1255年にはパポッツェの敷地を手に入れ、子孫はクェリーニ・デッレ・パポッツェと呼ばれるようになった。

邸館は19世紀に改築され(その後にも修復の手が加わり)、クェリーニの紋章がファサードに取り付けられた。内部には初期からあったビザンティン様式とゴシック様式の要素が保存されており、素晴らしい庭園を見ることが出来る。」
  1. 2014/07/03(木) 00:04:24|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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